小町にはお兄ちゃんがいる。
お兄ちゃんは、捻くれてて警戒心が強くて簡単に他人に心を開かない。
けど、お兄ちゃんの内側に入った人には何処までも優しい人。
昔からお兄ちゃんは小町に優しかった。
自分のことは二の次で小町の相手をしてくれた。
小町が熱を出したとき、仕事で面倒を見れない親の代わりに小町の世話をしてくれた。
自分も同じように熱で辛いのをおくびにも出さないで…。
お母さんがお兄ちゃんによく言っていた。
「八幡は小町のお兄ちゃんなの。」って。
お父さんもお兄ちゃんによく言っていた。
「お兄ちゃんは妹を守るものなんだ。」って。
この言葉通りにお兄ちゃんは小町を守ってくれた。
時に親のみたいに小町の面倒を見て、
時に友達みたいに一緒にイタズラを働いて、その証拠を隠すために頑張って…けど、結局お母さんにバレて怒られたり、
時に召使いみたいにワガママなお姫様な小町の無茶な命令を聞いてくれたり、
小町が寂しくてしょうがなくて家出した時、小町を見つけてくれたお兄ちゃんはまるで王子様みたいだった。
一度だけ、「どうしてお兄ちゃんは小町の事をこんなに大切にしてくれの?」って聞いたことがある。
そしたらお兄ちゃんは不器用に笑いながら「小町のお兄ちゃんだから。」って言ってた。
本人は否定するだろうけど、お兄ちゃんは考えてることが顔に出やすい。
だから、その言葉が嘘じゃないこともすぐに分かった。
小町はお兄ちゃんのことなら何でも分かるって思ってた。
お兄ちゃんが表情に出やすい事を抜きにしても、世界で一番お兄ちゃんのことを理解してるって思ってた。
だけどそれは大きな思い込みだった。
ある日、お兄ちゃんが倒れた。
小町はどうしていいか分からなくて泣きながらお母さんに電話したのを覚えている。
暗くなった待ち合い室でお母さんたちが泣いているのを見た。
お父さんの肩に顔を押し付けてずっと「ごめんなさい。ごめんなさい。」って謝っていた。
その光景を見つめるお医者さんの顔は、哀れんでいるような、軽蔑するような表情だった。
4日ぐらい過ぎてようやくお兄ちゃんに会えた。
お兄ちゃんはまず最初に「心配かけてごめんな?」って言って小町の頭を撫でくれた。
久しぶりのお兄ちゃんの手に思わず泣きそうになった。
お母さんはお兄ちゃんを抱きしめて、ごめんなさいって泣いていた。
しばらくして落ち着いたお母さんが
「どうしてこんなになるまで我慢してたの?」って聞いたら
お兄ちゃんは当たり前のことを答えるみたいに、「だって、お兄ちゃんだから。」って。
あの日から、お母さんたちは何かに取り憑かれたように会社に入り浸るようになっていった。
実際、手術のお金や入院の費用は高い。そのお金を稼ぐためなのは分かる。
だけど、小町にはお母さんたちが、お兄ちゃんから逃げているように見えた。
だから小町は絶対に逃げない。
「お兄ちゃん」を否定することはお兄ちゃんの今までを否定することになるから。
小町はお兄ちゃんの妹であり続けよう。
そして、ずっとお兄ちゃんを見続けよう、隣に居続けよう。
あと何回、お兄ちゃんと一緒に朝を迎えられるのかな?
あと何回、お兄ちゃんを起こしてあげられるのかな?
あと何回、お兄ちゃんと一緒ご飯を食べられるのかな?
あと何回…あと、何回……こんな日常を過ごせるのかな?
ねぇ、お兄ちゃん。
大好きだよ。
今では冗談めかしてでしか言えない言葉になっちゃったけど。
捻くれたところも、無愛想なところも、不器用な優しさも、全部。大好き。
だから、今日も明日も明後日も…小町はお兄ちゃんの妹でいよう。見守りつづけよう。伝えつづけよう。
「お兄ちゃん、大好きだよ!あっ、今の小町的にポイント高い!」
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小町ちゃんとの買い物から1週間ほど経った。
私は行きつけの喫茶店に向かっていた。
理由は単純。静かな所で思考の海に沈みたかったからだ。
────カランカラン……。
喫茶店の扉を開いて、マスターに軽く会釈をする。
適当な席に座って、適当にコーヒーとケーキを注文してからすぐに思考に耽ける。
真実、あるいは信実。
そんなものが空虚な妄想でないとどうして言い切れるのだろう。
私も比企谷くんもそんなものはないと分かっている。
それでもやっぱり存在するのなら見てみたい。
私たちは、どこか似ているのだ。
それは薄々、比企谷くんも感じているのだろう。
育った環境も、ここに至るまでの経緯もまるで違うのにね。
比企谷くんが3年に上がってから、奉仕部のあの子達は前に進んでいる。
たくさんケンカして元に戻って、友達やそうでない関係を行ったり来たりしている。
私もちょっかいを出したりして雪乃ちゃんの逆鱗に触れて、壮絶な姉妹喧嘩に比企谷くんを巻き込んだりもしている。
あの時の雪乃ちゃんも可愛いかったなぁ…。
久しぶりのケンカでお姉ちゃんワクワクしちゃったよ。
雪乃ちゃんもしっかり自分を持って行動出来るようになってるし、お母さんにも今後の進路の打診をしていたりして昔の雪乃ちゃんからは考えられない。
比企谷くんとガハマちゃんには感謝しないとね。
そして、比企谷くん。
結局、君のお兄ちゃん体質は治っていないんだろうね。
去年ほど他人のゴタゴタに巻き込まれることが減ったからあんまり目立ってないけど、やっぱり君の根底にはいつもそれがある。
少し方向性は変わったけど、やっぱり君は君だね。
君は変わらない。
人間どうやったって変わってしまう生き物だ。いや、変えられてしまう生き物だ。
人の心はどうであれ、その見られ方、捉えられ方、評価のされ方は確実に変わっていく。
万物が流転し世界が変わり続けるなら、周囲が、環境が、評価軸そのものが歪み、変わり、人の在り方は変えられてしまう。
それでも君は変わらない。
ここでも君は私と似ているのだ。
私は『完璧』であることで変わることを拒んだ。
完璧であることは、その上にも、下にも変化しないという事だから。
だからね、私と同じ君ならって、もしかしたらって、どうしても期待しちゃうんだ。
自分でも分からなくなってしまった本当の私を見つけてくれるんじゃないかって。
いつか雪乃ちゃんを助けてくれたみたいに私も……なんて、キャラじゃないか。
そういえば、そろそろ文化祭がある時期か。
去年は雪乃ちゃんも実行委員で参加していたから、ちょっかいをかけたけど今年は受験生だし参加するかどうかも怪しいのよねえ。
そうなると去年みたいにOBとして参加するのはちょっとなしかな。
────カランカラン……。
店の扉を開く音で思考に少しの隙間ができる。
「………げっ。」
聞き覚えのある嫌そうな声が聞こえた。
おや?おやおやおや?
私の母校の制服に、ピンっとたつアホ毛、猫背気味な背中、トレードマークの腐った瞳。
うん、流石は天下の雪ノ下陽乃。ツイてるね。
「やあやあ、少年。美人なお姉さんを見るなり、いきなりご挨拶だね。」
笑顔を貼り付けて手招きをすると、嫌そうな顔をしながらもこちらに来てくれる。
嫌味半分、落胆半分、諦め半分といった表情が浮かんでいる。
ちょっと、総量1.5倍になってるよ。
「こんばんは、雪ノ下さん。それでは。」
「まあまあ。そんなに照れなさんなって。ちょっとお姉さんと話そうぜー。」
「うぜぇ……はぁ。まあ、いいですけど。」
「ありゃ、いつにも増して素直だね。」
「俺ほど素直にものを言う人間はいないと思いますけどね……それに、無駄な抵抗して捕まるより自首した方が罪は軽くなるでしょう?」
「うんうん。殊勝な心掛けでなによりだよ。それと素直なのと正直にものを言うのは別物だぞ、君。」
まあ、君ほど根っこの部分で純粋な子はなかなかいないと思うよ。
捻くれてて、世の中全部諦めてます、みたいな目をしてるくせに心のどこかで諦めきれてない。
私は諦めきってた側の人間だ。だけど、君を見て、君と触れ合っていたら、ほんの少しだけどまた期待してみたくなった。
君は本当に面白いよね。
「それで?最近どう?」
「どうって……いつも通りなんじゃないんですかね?」
「そんなことないでしょー?あれから君たちは前に進めてるよ。お姉さんが保証してあげよう!」
「お褒めに預かり光栄です、とでも言えばいいんですかね。まあ、でも実際あなたの目を引くようなことはありませんでしたよ。」
なるほど?何もなかったのは本当みたいだね。
でもね、君はもう少し表情を隠す練習した方がいいよ。
だって君の顔はあまりにも……
「これから面白いことが起こるって顔してるね。」
「………心読むのやめません?」
「君が読みやすいんだよ。それで?今度は何しようとしてるの?」
「…あの、まず俺が何かをやらかす前提な話の振り方やめません?いつだって巻き込まれる側でしょ。」
「そういうのいいから、はやくはやく。」
ふんふんっと早く話すように催促すると、諦めたように話始める。
もう少し粘るか躱すかすると思ったけど意外と早かったな。
あんまり私の機嫌を損ねない方がいいっていう判断からなんだろうけど、なんか釈然としないわね。
私ってそんなに面倒な女に見えるかしら?
見えますね。分かっていますとも、ええ。
実際、私の機嫌を損ねるのは得策じゃないし、間違っていないから懸命な判断だよ。
話を要約するとこうだ。
最近、隼人の周りがごだごたし始めているらしい。
三浦ちゃんっていう猿山の大将みたいな女の子が隼人に恋情を抱いていて、いい加減YESでもNOでもいいから前に進みたいのだと。
奉仕部としては修学旅行の一件があるので直接関わることはしないという方針らしいが、そう簡単に終わるような話には見えない。
だから、比企谷くんがあんなに面倒くさそうな顔をしていた訳だ。
それにしてもバレンタインのイベントの時に見たけど、あの子って意外と強い子だったのね。
立場に甘んじて前に進まないつまらない子だと思ってたけど…隼人にはもったいないかもね。
それにしても、隼人も相変わらずだなあ。
周りの子たちが前に進んでる中で『みんなの葉山隼人』をやめられないでいる。
別に私や比企谷くんみたいに望んで停滞しているのなら多少話は変わってくる。
だけど隼人は違う。
『みんな』なんて言う在りもしない意識に怯えて、変わらないことを強制させられているだけだ。
「ふーん。なるほどねえ。」
比企谷くんの方を見るとノートを開いて勉強を始めている。
…こんな美人なお姉さんが近くにいるのに失礼しちゃうよね。
教科は……数学かな。壊滅だって聞いてたけど、ある程度基礎は出来てるみたい。
あ、詰まった。
「比企谷くん。お姉さんが数学教えてあげようか?」
「……別にいいですよ。俺は養われるつもりはあっても施しを受けるつもりはありませんから。それに、あなたに貸しを作るのは怖いですし。」
「うーん…じゃあこうしよう!去年の文化祭でちょっかいをかけたお詫びって事でどう?」
「………は?」
何よ、その間抜けな顔。
私が謝るのがそんなに変かな?かな?
私だってあの件に関しては多少は悪いことしたなって自覚ぐらいあるよ。
比企谷くんの行動が思ったよりも斜め下だったこともあって、あの件は一歩間違えたらイジメに発展していたかもしれなかった。
事実、しばらくの間だけど比企谷くんの悪い噂は絶えなかった。
高校生なんてまだまだ子どもだ。
だから些細なきっかけで簡単に取り返しのつかないことをする。
そういう意味ではかなり危なかった。
「君が私にとても失礼な印象を抱いているのはよーく分かりました。そして、私はとても傷つきました。ヨヨヨ…。」
「いや、あなたそんなことで傷つくタマじゃないでしょうに。」
「私はとても傷つきました。」
「いや、だから…」
「そういうことでお勉強見てあげるよ。どうせ雪乃ちゃんはガハマちゃんに付きっきりなんでしょ?」
「…………はぁ。じゃあ、その…よろしくお願いします。」
「うむ。良きにはからえよ、少年。」
結局、比企谷くんが折れる形で私たちの家庭教師と生徒君の関係が始まった。
これ以上拒むなら私も手を引くつもりだったから、内心ホッとしている。
どうしてホッとしているのかは分からないけど…。
多分、常勝無敗の私がこんな捻くれ者に負けたと思いたくなかったとかそんなとこだろう。
知らないけど。
「うん!もういい時間だし帰ろうかな。比企谷くんはどうする?」
「俺ももう帰りますよ。小町が家で待ってるので。」
「そっか。じゃあ支払いはお姉さんに任せなさい!」
「流石にそこまでして貰うのは悪いですよ。」
「いいのいいの。こういう時は年上の顔を立てなさい。あっ!それとも、ここで君が払って私の事を義姉ちゃんって呼ぶとかどう?私はこっちの選択肢をオススメするよ?」
「ごちそうさまです!!」
「あっははは!!素直なのはいい事だぞ、少年。」
うりうりっと、比企谷くんの頬をツンツンすると顔を赤くしながら手を退けてくる。
君のそう言うところは相変わらずだね。
周りにあんなに女の子がいるのに一向に慣れないってのはどうなのよ。
いや、慣れたら慣れたで面白みは半減しちゃうんだけどさ。
代金を支払い終えて、外に出ると冷たい夜風が吹き付けてくる。
「へっくしゅ!!」
「………君、よくあざといって言われない?待ってるなら中で待ってれば良かったのに。」
「女性に払わせてるのを隣で眺めていられるほど人間できてないんすよ…。」
「気にしなくていいって言ったのに。ホント君って変なところで律儀だよね。それにしても先に帰るものだと思ってたけど、どういう風の吹き回しかな?君、私の事嫌いだと思ってたんだけど?」
「別に嫌いじゃないですよ。苦手なだけです。…もう少しだけ深淵を覗いて見たくなっただけです。」
「ふふっ…そっか。じゃあ、駅まで送ってよ。」
これからやる事はある程度決まった。
比企谷くんの家庭教師として勉強を教えること、雪乃ちゃんたちの最後の文化祭を覗きに行くこと。
それに、私ももう少しだけ君のことを知りたくなった。
まだ私の知らない君がいるなら見てみたくなった。
いつかの帰り道とは違って、打てば響くような会話が続く。
乾いて冷たくなった空気が拍車を掛けているのか、それがすごく心地いい。
空を見上げれば今日は雲一つ見当たらない。
今日は月が綺麗だね。
期待してるよ。比企谷くん。