夢を見た。
孤独で甘えることも出来ず、だんだん磨り減っていく少年の夢を。
『……ねえ、お母さん。今日、ね…』
少年の顔は黒く塗り潰されたようにはっきりとは見ることが出来ない。けれど、何か懇願するような顔をしているのだと直感的に分かった。
『ごめんね、──。今は手が離せないの。我慢出来る?』
『………うん。分かった。』
見ると、少年の母親は妹の相手で手一杯だった。
少年は弱々しくそう言うと、諦めたようにその場を後にして自室に籠った。
そうして、しばらくして膝を抱えて座り込んだ。
すんすんと鼻を鳴らす音が聞こえる。
きっと、泣いているのだろう。少年は悲しいのだ、寂しいのだ。苦しくて、どうしようもなくて、胸が張り裂けそうになっているのだろう。
不意に少年が顔を上げた。
涙でくしゃくしゃになった顔を気にすることもなく、何か大きい本を取り出してきた。
少年が持ち出したのは自身のアルバムだった。
そうして、少年は手に持ったマジックペンで写真の一枚一枚にある顔を塗りつぶし始めた。
乱暴に、感情に任せるように、写真にうつる自分の顔だけを塗りつぶしていく。
塗りつぶせば、塗りつぶしただけ、少年の顔を覆っていた黒が濃くなっていく。
それなのに、どんな顔をしていて何を思っているかがその分だけ強く伝わってくるようだった。
すすり泣く音とペンを走らせる音だけが部屋に響く。
どうしようもなく悲しい光景から目を逸らすことが出来ない。
誰かも分からない、実在するかも分からない少年のことなのにも関わらず、これは脳が勝手に見せているただの虚像だと一蹴することが出来なかった。
出来ることなら抱きしめてあげたいとすら思ってしまう始末だ。
まったく…天下の雪ノ下陽乃が情けない。
同情なんて本人に対する侮蔑だ。そんなものは善意の押し売りでしかない。
私が同情なんてされた日には、本気で相手を潰してしまうだろう。
ならば、この胸の内から溢れ出そうな感情は何なのだろうか。
部屋の外からトタトタと足音が聞こえてきた。
その音を聞くなり、少年は慌ててアルバムを閉じて涙を雑に拭いた。
さっきまでひどい顔をしていたのに、あまりの変わり身の速さに感心してしまう。
相変わらず顔は見えないけど、きっと涙のあとだって残っている。
それでも、なんでもないように振る舞えるように、弱さを見せないようにしている。
一体、何が彼をそこまでさせているのだろう。
『おにいちゃーん!ご飯だよ。』
『おう、今行くよ。先に下で待ってろ。』
そう言うと、今度は涙の跡を残さないように丁寧に繕っていく。
ああ…この子は「お兄ちゃん」なのだ。
どこまでも純粋な子だったのだろう。
純粋、と言えば聞こえは良いが、それは案外当てはまらない事の方が多い。
純粋とは何色にでも染まってしまうと言うことだ。白にも、黒にも、もっと酷い色にも。
きっと、妹が出来たことで染められてしまったのだ。
何かに染まる、それは別に珍しいことじゃない。むしろ、誰もが通る道だ。
だけど、この子は頼ることを知らずに染まってしまった。
小さい時の私もこうだったのだろうか。
だとしたら彼は救われない。傷付いて、諦めて、そうして大人になっていくのだろう。
視界が揺れる。
まるで世界が生まれ変わるみたいに、場面が変わる。
『……ひっ…ぁ…ぉ、おえっ!…げえ…っ!』
耳を塞ぎたくなるような嗚咽が聞こえた。
見ると、さっきの少年が便器に向かって吐瀉物を撒き散らしていた。
一通り出し終えたのか、少年が顔を上げた。
はっきりとは分からないが、ひどい顔をしている。息も荒い。誰がどう見てもこの子をこのままにしておくのは不味いことなのは明白だろう。
少年は口をすすいで手を洗ってマスクをすると氷枕と濡れタオルをつくる。
自分で使うのだろうか。
『──、入るぞ。大丈夫か?』
『お兄ちゃん…。』
『大丈夫。お兄ちゃんがついてるからな。』
同じように熱を出して寝込んでいる妹を甲斐甲斐しく世話をしていく。
氷枕を取り替え、妹の汗を濡れタオルで拭き取り、自分はなんでもないように振る舞う。
なるほど、妹から菌をもらわないためではなく、顔を見られないようにするためにマスクをしたのかと納得する。
いったい、この子達の親は何をしているのだろう。
『ただいま、──、大丈夫?いい子で寝てた?──も世話してくれてありがとね。』
『ううん。大丈夫。少し疲れたから寝るね。』
そう言うと、少年は自分の部屋に戻って行った。
帰ってきた母親が少年の代わりに世話を始める。
その目には感謝の色こそ浮かんでいても、少年のことなんて全く写っていなかった。
救われない。
…………………さん。
誰もこの少年のことを見ていない。
…………え……ん。
辛いと言えず、助けてと言えず。
……さい…ねえ…ん。
孤独で、磨り減って壊れていってしまう少年。
…きなさい、姉さん。
きっとこの子は、これからも独りだ。
「姉さん、いい加減に起きなさい。」
「んぅ…あれ、雪…乃ちゃん?…雪乃ちゃん!」
起こしてくれた妹を思わず抱きしめてしまった。
雪乃ちゃんから伝わる温度が凍えた心を溶かすようで、無性に心地いい。
「きゃっ!?……姉さん、泣いているの?」
「………え?」
泣いている?誰が?私が?
手を自分の頬に当ててみると、確かに濡れていた。
夢を見たんだ。酷く悲しい夢を。
どんな夢だったかは思い出せないけれど、胸に残るこの寂しさや悲しさがそう告げている。
「……姉さんの泣き顔なんてそうそう見れるものじゃないものね。カメラでも持ってこれば良かったかしら。」
「なによー、雪乃ちゃんのくせに生意気だぞ。」
見なかったことにしてあげる、なんて妹に言われてしまうなんて不覚だ。
だけど、私は雪ノ下陽乃なの。弱さなんて見せてはいけない。これ以上の不覚なんてもってのほかだ。
この寂しさも胸に残るような不安も虚勢を張って隠すのだ。
偽って、繕って、そうして私は今日も雪ノ下陽乃であり続ける。
「私はこれから学校に行くけれど、姉さんは何か予定はあるかしら?」
「あれ、今日は休日だよ?何かあるの?」
「文化祭のことで少し顔を出さなければならないのよ。」
「ふーん。あ、ちなみに私は午後から比企谷くんとデートだよ。」
調子を戻して少しからかってみる。
「デートではなく家庭教師のようなものでしょう?本人から聞いているわよ。」
「知ってたんだ…なーんだ、つまんないの。」
随分と余裕ぶっちゃって…可愛いのにかわいくないなあ。
それでも、比企谷くんの前だとボロをすぐに出しちゃうあたりまだまだよね。
かわいいやつめ!
「それじゃあ私はそろそろ出るわ。」
「うん、分かった。いってらっしゃい。」
雪乃ちゃんを見送ってから、気持ちを切り替えるために紅茶を入れる。
さて、今日は比企谷くんをどうからかってやろうか。今日の君は私をどう楽しませてくれるのかな。
期待に胸を膨らませながら紅茶を口に運ぶ。
窓を開けると風が気持ちいい。
窓ガラスを鏡代わりに使って、笑顔を作ってみる。
うん、いつも通りだ。
今日、君はどんな私を見て、どんな君を私に見せてくれるのかな。なんてね。
───────────────────
静かな喫茶店の中、腐った目をした高校生が唐突に口を開いた。
「仕事ってティッシュみたいにそれ自体はコンパクトに見えても中身はひとつひとつ繋がってるじゃないですか。ひとつ終わったらまた次の作業が出てきますし。つまり逆説的に考えて仕事はティッシュと言っても差し支えないでしょ。鼻をかんでくしゃくしゃに丸めて捨てても許されなきゃおかしくないですかね。」
今日何度目かも分からない比企谷くんの捻くれ論法に思わず笑みが零れる。
毎度毎度、まあよくもここまで屁理屈をこねられるものだと感心してしまう。
「それでも何だかんだ言って、君は仕事を投げ出したことないよね。えらいえらい。」
アホ毛を潰すようにようにグシグシと撫でてやると、若干、頬を染めながらうっとおしそうに手を退けてくる。愛いやつめ。
そう。比企谷くんは決して仕事を投げ出さない。
些細なことも、大きなことも。与えられた仕事は最後までこなしてしまう。
それが彼のいいところでもあるんだけど、悪いところでもあるのよね。
「……社畜と社畜のハイブリッドですからね。もはや英才教育を受けてるまである。」
「あっははは!!だから、自分は真面目なんですって?社畜はそんなに真面目じゃないよ。」
「えっ、嘘…。もうやだ。何も信じられない。」
文句を言いながらも手は止めないで作業してるあたり、これもまた比企谷くんが捻デレと言われる所以なのだろう。
…ホント、かわいいんだから。
「て言うか、なんでそんな書類やってるの?」
「今年の文実は去年の反省もあって生徒会の主導で動くんですよ。流石に初めての試みを生徒会だけで取りまとめるのはキツいだろうって事でお鉢が回ってきた訳です。俺も雪ノ下も文実メンバーでしたからね。俺は雑務担当で雪ノ下と由比ヶ浜は生徒会と有志の手伝いをやるみたいですよ。」
「えっ!?なんでそれを早く言ってくれなかったのさ!私もOGとして参加すればよかったなあ。」
「いや、聞かれませんでしたし…。」
「でも何で比企谷くんだけ雑務なの?」
「はぁ……あいつらに加えて一色までいる中に入ったら妬みと怨念のこもった視線で殺されちゃいますよ。それに、学校のアイドル達に学校一の嫌われ者は入れないでしょ。」
……ん?なんだろう、この違和感。
比企谷くんの言葉に嘘は感じられない。
何より比企谷くん自身が嘘をつける性格じゃない。いや、嘘自体は平気でつける。
でも、比企谷くんはそれ以上に顔に出やすい。
だから、私が彼の思考を測り間違えることはまずないと言える。
だとすると、やっぱりさっきの違和感は気のせいだろうか。
「まあ、生徒会も有志をやるとなると人手不足は避けられませんからね。小町からもお願いされましたし。」
「それにしても、よくこの時期に依頼なんて受けたね。受験生でしょ。」
「それに関しては同感ですね。言い出しっぺが由比ヶ浜なあたりヤバい。何がヤバいってマジやばい。」
「比企谷くん、語彙力とんでもない事になってるよ。数少ない取り柄なんだからもっと大切にしないと。」
「…事実なんで反論できないのがあれですけど、もう少しオブラートに包めません?ブラックなのはコーヒーだけで間に合ってるんですけど。」
「君、ブラックコーヒー飲まないじゃない。」
比企谷くんとのこういう会話は案外好きだったりする。
大学にも頭のいい子はいるけど、表面上の会話しかしないから、こういうウィットに富んだ会話って結構貴重なのよね。
打てば響くって言うのかな、話してて気持ちいいのよねって言ったら、比企谷くんに打ち込みが足りないのではって返されたっけ。
失礼しちゃうわよね。本気で打ち込んだらぺちゃんこに潰れちゃうじゃない。
「それ、あとどのぐらいで終わるの?君、数学に関してはそんなに余裕ないと思うけど。」
「勘弁してくださいよ。あと5分もしないで終わりますから。」
「ま、今回は大目に見てあげる。それでさ、毎回ここで勉強するのは中々効率が悪いじゃない?ってことで、家庭教師らしく比企谷くんの家で勉強を見るってどうかな?」
「……は?何言ってるんですか、あんた。」
「ふむふむ、比企谷くんは私の家がご所望とな。雪乃ちゃんかお母さんが着いてくるけど…いいかな?」
「なんで選択肢がそんなに極端なんですかねえ。まあ、来てもらえるなら確かに楽ですけど。」
あからさまにげんなりしたふうに答える比企谷くんに笑ってしまう。
本人は精一杯の抵抗のつもりなのだろう。
そんなもの私の前では無意味だって本人も分かってるはずだ。だけど、こうやって形だけでも抵抗してくれるのはポイント高いよ。
無反応な物をつついてもつまんないしね。
「よし。じゃあ決まりだね。今日のノルマはここでやっちゃうけど、いいかな?」
「問題ないですよ。むしろ今から家に来るとか言われても困っちゃいますし。」
「…君、私にどんなイメージ持ってるのさ。」
「さあ?でも、それがまかり通りそうなのがあなたの怖いところですよ。」
「生意気なやつめ…ま、否定しないけどね。」
うわぁ…っと声を漏らした後、しばらく静寂が続く。
まるで世界に私たちしかいないんじゃないかと錯覚するほどの静けさが不思議と心地いい。
今まで、この喫茶店は自分一人でしか来たことがなかった。
所謂、隠れ家みたいな感じだ。
だから、ここでの静けさはずっと私一人のものだった。その一人の静けさが好きだった。
誰かとここで過ごすなんて思いもしなかった。
まして、比企谷くんとだなんて。それに、この時間が心地いいときた。
…ホント、グズグズしてると私が貰っちゃうよ。
「……うし、終わりました。」
ありゃ、案外早く終わったみたい。
それとも変にトリップしてたせいかな。
まあ、何にせよ楽しい時間って早くすぎちゃうものね。
「よしよし。じゃあ早速始めようか。はい、早くノートと学校の機関教材だして。使ってるやつちょっと借りるよ。」
そう言うと、言われた通りにノートを出し、問題集を渡してくる。
問題集をパラパラとめくり、適当に基礎レベルの大問を五つ選び、印を付けていく。
「うん。こんなもんかな。じゃあこの印のついた問題を60分で解いてみて。分かんなくてもしっかり60分間解答すること。ひとつ目の方法でダメならふたつ目を考えること。分かった?」
「…っす。」
「随分と素直じゃない。何か変なものでも食べた?」
「まあ、勉強に関しては割と信用してるので…。」
「ふふっ、大船に乗ったつもりでいなさいな。よし、それじゃあ、スタート!」
スマホのタイマーを起動するとペンを走らせる音が響き始める。
さっきはペンの音なんて全然耳に入って来なかったのに、今度ははっきりとした調子で私に届いてくる。
私はその音をBGMに持参した本を読み進める。
気まぐれで買った本だが、これがなかなかどうして面白いのだ。
恋するとは、自分が持っていないものに対する所有欲だと言う。一方、愛するとは、自分が既に持っているものに対する独占欲なのだと言う。
なるほど、そう言う見方もあるかもしれないと一人納得する。
どこかの人が、恋するとは、人の長所を好きになることで、愛するとは、人の短所も好きになることだと言っていた。
つまり、前者で考えても後者で考えても私は雪乃ちゃんを愛していることになる。
ふふっ、愛は強しなのだよ。あれ?その割に雪乃ちゃんからの愛を感じない。辛い。
所有欲…ね。私が持っていたいもの…。
私が欲しかったものはずっと『自由』だった。だから、自由になんでも好きに決めることが出来るのに、選んでいるようで何も選んでいない雪乃ちゃんが好きだったし、大嫌いだった。
それが今では、自分を持って行動して、ある程度だけど将来の形が見えるまでになっている。
お陰で私も少しだけど自分の欲しかったものが手に入りつつある。
諦めて諦めて、色んなものから目を逸らして生きていくことが大人になると言うことならば、今まで目を逸らしてきたものを再び見つめ直すことが子供に戻ると言うことならば、そんな事が許されるのならば、
私は、過去に置き忘れてきたものを取りに行きたい。
そんなこと、出来るわけないのにね。
ふと、読んでいた本から目を切って問題に向かっている捻くれ者に目をやってみる。
こうして見てみると、本人の言う通り顔のパーツは随分と整っていることが分かる。
解答をするために下を向いているせいか、伏し目がちになっていて、腐った目が緩和されている。若干、憂い目にも見えて妙に色気が出ている。
もうずっと下を向いてたらいいんじゃないだろうか。…この言い方は流石に不謹慎か。
初めて彼を見た時に最初に気になったのは、私を見る目だった。
多くの人が私に向けてくるものとは違う、違和感を探すような、私を観察する視線。
そして、すぐさま警戒レベルをあげるもんだからお姉さんビックリしちゃった。
それから私は彼に興味を持って、いろいろちょっかいをかけてきた。
知れば知るほど面白い子で、日を増すごとに彼の事を知りたくなっていった。
会う度に苦虫を噛み潰したような顔されたけども。
だから、あの言葉は予想外だったのだ。
『…もう少しだけ深淵を覗いて見たくなっただけです。』
文学少年な彼のことだ。
この言葉がどういう意味を持つかなんて分かりきっているだろう。
もっと私のことを知りたくなった。
もっと自分のことを知って欲しくなった。
こうして考えてみるとまるで告白紛いな台詞よね。
君はどんな事を思って、あの言葉を言ったのかな。
─────ピピッ、ピピッ。
スマホのアラームが鳴ったことで思考を切り替える。
「はい、終了!そこまでー。」
「はあ、疲れた。もうやだ、数字見たくない。」
「基礎問題でそこまで言うかね…。」
「知ってますか?基礎だから簡単だって言うのは間違いなんですよ。基礎が簡単ならぼっちやってませんからね。」
「ふんふん、社会に適合するのに友達を作るのは基本だもんね。その基礎力がないのは置いといて、その考えには概ね同意かな。それなりのレベルのものは選んだつもりだしね。ま、パパッと丸つけちゃうから少し待っててよ。」
そう言うと、比企谷くんはカフェオレを注文してから英単語帳をパラパラと捲る。
さて、私も始めますかね。
比企谷くんの解答を添削をしていて気付いたことがある。
なんて言うか、私の解答の作り方に似ているのだ。いや、数学の解法なんて効率とか考えたら限られるんだけども…。
比企谷くんが奉仕部にいることを考えたら、別に不思議なことじゃない。
雪乃ちゃんから教えて貰ったことがあるならば、ある種の必然と言える。
昔の雪乃ちゃんは私の真似ばっかりだったし、その名残りがあっても変ではない。
とりあえず、聞いてみるかな。
「比企谷くん、雪乃ちゃんから数学ちょっと見てもらってた?」
「え?えぇ、まあ…。それがどうかしましたか?」
「ううん、解答の作り方が私と似てたから少し気になっただけ。」
「それ、雪ノ下からも言われましたよ。…んんっ!…性根が腐ったもの同士、通づるところがあるのかしらね、ですって。」
「…それ、雪乃ちゃんの真似?3点。」
「それ5点満点ですよね?小テストみたいな点数してますよ。」
「100点満点に決まってるでしょ。ちなみに雪乃ちゃんじゃないことからマイナス90点。」
「ちょっと、減点デカすぎません?一色でもそんなに減点しませんでしたよ。」
ほう、私といる時に他の女の名前を出すとはいい根性してるね。
…めんどくさい彼女みたいな感じになってるわね、やめやめ。いや、めんどくさい女の子なんていないんだけどさ。
それに、性根の腐ったもの同士って何よ。少し言い過ぎじゃない?
それにしても素で解法が似てるとは。
雪乃ちゃんの言うことを肯定するのは癪だけど、否定する要素もないのよね。
でも、この思考の持っていき方が出来るなら比企谷くんの数学の点数かなり伸びるんじゃないかな。彼、地頭は良いし、これは家庭教師の腕が鳴りますなあ。
「よし。こんなもんかな。まあ想像してたよりは良かったかな。それじゃ、一通り解説してくから分からない所はその都度言ってね。」
「…っす。」
───────────────────
勉強を終え、この前と同じように比企谷くんに送ってもらうことになった。
秋のつるべ落としを表すように、喫茶店を出る頃には明るかった空が今ではすっかり真っ暗になっている。
「どうよ。君の家庭教師ちゃんの実力は。」
「……流石、完璧超人。教えることまで完璧だとは…。」
「ふふん、もっと褒めていいよ。お姉さん、気持ちよくなっちゃうかも。」
比企谷くんの腕を胸に押し当てるように抱き込むと顔を真っ赤にしながら、しどろもどろな様子になる。
普段大人びてるくせに、からかうとすぐに童貞丸出しの感じになるところとか可愛いのよね。玩具として合格点あげちゃう。
「ちょっ、雪ノ下さん…その、あたってます。あと腕が苦しいです。」
「あててんのよって言ったらどうする?」
「どうするもなにも離してくださいよ。ほら見てください、あそこの人とかすごい勢いで殺意飛ばしてきてますよ。俺、殺されちゃいますよ。」
「それはそれで一興ですなあ。」
「やめてくださいよ。俺はまだ平穏を味わっていたいんですから。……あれ、電話っすね。ちょっと失礼していいですか?」
「ちぇー。しょうがないなあ。」
腕の拘束を解くと、比企谷くんは煩わしそうにスマホを取り出して電話に出る。
なんて言うか、使い慣れてない感じが凄い。
電話、滅多にかかってこないんだろうなあ。
比企谷くんの対応を見た感じだと、相手は小町ちゃんだろうか。
なんて思っていると比企谷くんがスマホを渡してきた。
「小町がかわってほしいそうです。」
「へっ?小町ちゃんが?なんでまた?」
「さあ?」
やれやれと言った様子で私の手にスマホを置いて、2人の話は聞きませんと言うようなポーズをとる。
この子、こういう地味なところで紳士よね。
「ひゃっはろー、小町ちゃん。どうしたの?」
『陽乃さん、こんばんは。実はですね、文実の方で少し生徒会の方がバタバタしててですね、結衣さんの家に雪乃さんといろはさんと一緒に泊まりで作業することになって帰れなくなっちゃったんですよ。それでですね、お兄ちゃんの事を見てて欲しいんですけど、お願いできませんか?』
声の調子だと小町ちゃんの言葉に嘘はないと思う。
比企谷くんも今年は文実の形式が変わったと言っていたし、今メールを確認したら雪乃ちゃんからも帰れないと連絡も入っている。
しかし、小町ちゃんからのお願いがどうして私に来たのかが分からない。
…ここはひとつ仕掛けてみますか。
「お姉さん、そこまで比企谷くんに色々してあげる義理はないんだけどなあ。」
『……じゃあ小町への義理ってことでどうですか?』
「…どういうこと?」
『この前の話、本当はお墓まで持っていくつもりだったんです。ずっと胸の内にしまっておくつもりだったものを話した。これで、小町への義理にできませんか?』
なるほど、そうきたか。
確かにあの話は兄妹が抱えるには少々重いものがあった。
比企谷くんを別の角度から知るためにあの質問を投げかけたとはいえ、明らかに他人が踏み込んではいけない領域まで踏み込んでいたのは事実だ。
ここまで計算尽くだったのなら脱帽せざるを得えない。
まあ、あんなふうに言ったけど断る理由はないからね。
「……はぁ、分かったわよ。」
『ありがとうございます。……本当は小町がお兄ちゃんの近くにいれるのが一番いいんですけどね。』
底抜けに明るい声でお礼を言われると思っていたものだから、その声色に息を呑んだ。
低く、憂いを帯びた声色。
悔しがるような、懇願するような、様々な感情が混じりあい、聞く人の心に溶けてくるような調子の声。
「色々言ったけど、特に断る理由もないからね。雪乃ちゃんも家にいないんじゃつまらないし。」
『そう言って貰えると助かります。大丈夫だとは思いますけど、何かあったらすぐに連絡してください。お願いします。』
今度は明確に懇願する声色だった。
本物なんてないと断言したときの小町ちゃんの表情が脳裏に過ぎる。
きっとあの時と同じ顔をしているのだろう。
そして確信してしまった。
比企谷くんは何か隠している。
比企谷くんと話している時に感じた違和感といい、小町ちゃんの態度といい、これを無関係だと思える私ではない。
何となくだけど、その答えはすぐに分かる気がする。
「ん、分かった。お姉さんに任せなさい!」
『ありがとうございます!あっ、陽乃さんも
小町のお義姉ちゃんリストにちゃんと入ってますから心配してませんよ。おお、これは小町的にポイント高いかも。』
さっきまでとは打って変わって普段のおてんば娘の調子で言ってくるものだから呆れてしまう。
それなのに不思議と嫌な気持ちにならないのは、私がお姉ちゃんだからなのか、それとも小町ちゃんの人柄故なのか。多分、両方だ。
比企谷くん、君が何を隠してるのかは知らないよ。
人に言えないことなんて誰でも持ってるものだし、私だって持ってる。むしろ言えない事の方が多いまである。
だけど、折角のチャンスだ。
もっと私の知らない君を見せてよ。そしたら、私も君の知らない私を見せてあげる。
「と、言うわけでいろいろ期待していいよ、比企谷くん。」
比企谷くんにスマホを返してから、風で少し冷えた身体を温めるように、比企谷くんの指に私の指を絡ませる。
逃げるようにモゾモゾと動く指を捕まえて、抵抗は無駄だぞ、というようにしっかりと手を握り、恋人繋ぎの形をつくる。
頬を染めながらそっぽを向いている比企谷くんを横目に、月に向かって手を伸ばしてみる。届かないと分かっていても、このまま手を伸ばし続けたら、いつかはこの手が届くんじゃないかと思ってしまう。
そんなことあるはずもないのに、私はこの胸の高鳴りを抑えることができなかった。