その瞳はまるで深淵のような黒だった。
その黒は、どこまでも深く澄んでいて、暗い暗い海の底を覗きこんでいるようで、引き摺り込まれるような錯覚に陥りそうになる。
雪ノ下陽乃は問い続ける。
真実、あるいは信実。本物なんてあるのだろうかと。
きっと、彼女は誰よりも本物を信じていない。
だけどきっと、彼女は誰よりも本物を欲している。
だから彼女は枠組みを壊し、柵を壊し、全ての在り方を壊そうとするのだ。
そうして全てが壊れてなくなった跡に降り立ち、それでも残るものはあったのかと問うのだ。
その瓦礫の中でも壊れていないものがあったのならば、それもまた本物と呼ぶべきものではないだろうか。
嘘や欺瞞に塗れた世界でずっと生きてきて、自分の嘘を嘘で塗りつぶし、虚構に虚構を重ねて、彼女は本当の自分なんて分からなくなってしまったのだろう。
親の期待に応え、周囲の理想の体現者として君臨し、彼女がたどりついたの答えは『完璧』であり続けることだったのではないだろうか。
完全であるものは変化しない。
完全であるからこそ、成長も後退も存在しない。
たくさん嘘を見て、たくさん嘘をついて、たくさん笑って、たくさん繕って、何が本当なのか分からなくなって、変わることに疲れて、変えられることに怯えて、それならいっそ変わらない方がいいと願った。
故に、彼女はそれ以外の在り方を自身に肯定できないでいるのだろう。
俺が自分を肯定し続けるように、彼女もまた大嫌いな彼女の在り方を肯定し続けているのだろう。
きっと、それが彼女が雪ノ下陽乃であるための存在証明なのだ。
彼女の在り方を歪んでいると思った。
底の見えない彼女に恐怖すら感じたこともある。
だけど、それと同時に綺麗だと思ったんだ。
そんな彼女の瞳が揺れているのを見た。
何か救いを求めるようでいて、触れてしまえば消えてしまいそうな程に儚い姿がそこにはあった。
けれど、それは一瞬のことで、次の瞬間にはいつもの雪ノ下陽乃がいた。
いつだったか、平塚先生が言っていた。
歩いている最中は、進んだ距離を振り返らないものだと。
歩みを止めてしまった者からすると、進んだ分だけ裏切られたようにも感じるものなのだと。
きっとそうなのだろう。
刻一刻と変わっていく辺りを見渡して、歩いていないのは自分一人だけ。
それが自分の決めた在り方だったとしても、取り残されていくような感覚を拭うことはできない。
それでも、彼女は変わることを止めてしまった。
諦めてしまったのだから。
諦めることは簡単だと言う。
それは本当だろうか。
どうしても欲しいものがあって、どうしてもなりたい自分がいて、果たして、本当に簡単に諦められるだろうか。
答えは、否だ。
簡単に諦めがつくものなんて、きっと自分にとって大して重要なものではないのだ。
だから、人は可能性の枷に縋る。
縋って、縋って、手が擦り切れてしまうぐらい縋って、それでも諦めきれないことなんていくらでもある。
俺が彼女に出来ることなんてたかが知れている。
それに、彼女も俺なんかに救いなんて求めていない。
第一に、雪ノ下陽乃はそれを許さない。
誰かは、彼女の在り方をあれ程完璧な存在もいないだろうと言った。
誰かは、彼女は好きなものをかまいすぎて殺すか、嫌いなものを徹底的に潰すしかしないと言った。
誰かは、彼女を格好良くて憧れの先輩だと言った。
誰かは、彼女は歪んでいたりもするが、見る者が見れば、美しく思うものだと言った。
きっと、どれも彼女の在り方だ。
なら、自分にできる事はなんだ。
彼女のことを理解することなんて不可能だ。
なんでも理解できるなんて傲慢だ、憎むべき悪だ。
だけど、理解しようとすることはきっと悪い事ではない。
だから、時間が許す限り彼女を見続けよう。
先輩風を吹かせながら振る舞う彼女も、邪智暴虐の王として振る舞う彼女も、誰かの憧れであり続ける彼女も、あの寂しいそうに揺れる彼女も、全部。
残された時間は、できるだけ普通に過ごして生きていたかったと、昔の俺だったら言うのだろうか。
普通に生きていく、それがどれだけ尊いものか、なんて十全に理解している。
あの人と関わるってことは、天災を相手にするのと同義だ。
それでも、俺は、あなたを知りたいと思ってしまった。
知ってもらいたいと思ってしまった。
ああ…今日も、あなたに溺れていく。
───────────────────
「それで?なんで雪ノ下さんが俺の家にいるんです?」
小町ちゃんへの義理を果たすために比企谷くんの家に来たのだが、当の比企谷くんは、さっきからずっとこれである。
いや、同じ立場だったら私もこうなるかもしれない。
まあ、そんな状況に陥ることなんて万が一もないけどね。
「さっきから小町ちゃんからのお願いだって言ってるじゃない。お姉さん、物分りの悪い子は嫌いだぞ。」
「はぁ…まあ、分かりました…けど、その調子だと泊まる気なんですよね?着替えとかどうするんですか?」
「そこは大丈夫だよ。都築に頼んで簡易お泊まりセット持って来てもらうことになってるから。」
「準備よすぎて色々とドン引きなんですけど…。」
比企谷くんがやれやれと言った様子で冷蔵庫を物色していくのを横から覗くと、それなりに食材が揃っているのが見て取れた。
それに、栄養ドリンクにゼリーやプリンとかも入っている。
比企谷くんは両親のことをエリート社畜だと言っていたし、簡単に栄養を取れるものが充実していてもおかしな話ではないか。
「比企谷くんは何が食べたい?」
「……そっすね。月見うどんとかいいんじゃないですか?」
比企谷くんが少しからかうような笑みを浮かべてくる。
いや、ちょっとらしくない事をした自覚はあるよ。
しかし、このままこの子を調子に乗らせるのは癪だ。少しは反撃しなきゃね。
暴力反対?ノンノン、正当防衛よ。私は悪くない。
「……比企谷くん、勉強机の上から二番目の引き出しの中。」
そう言うと、心当たりがあったのか、比企谷くんの顔がみるみると引き攣っていく。
うんうん、いい顔だね。お姉さんをからかった罰だぞ。
「…小町ぃ、お兄ちゃんの弱点を売り渡すのはポイント低いぞ。」
おお、この前のドライブの時に聞いたことは本当だったみたいだね。
何か恥ずかしいものが入ってるのを知ってるってだけで、何が入ってるかは知らないんだけどね。
「それじゃあ、比企谷くん、月見うどんとかどうかな?」
「………いいんじゃないですかね。なんか納得行かない感じが凄いですけど。」
今度は私がしたり顔で提案してみると、案の定、比企谷くんはゲンナリした様子で返事をしてくる。
別に比企谷くんのチョイスが気に食わない訳じゃなかったからね。
いいじゃない、月見うどん。
比企谷くんが手際よく食材を取り出して行くのを横から見ていて思ったけど、やっぱりこの家の冷蔵庫には、風邪をひいた人が食べるような食材がやけに多い気がする。
さっきの栄養ドリンクとかもそうだし。
「比企谷くん、体調が悪い人でもいたの?」
「………これ、ほとんど俺用なんすよ。昔からちょっと身体が弱くてですね、割とすぐに体調崩すんですよ。」
「それ、初耳なんだけど。」
「言ってませんからね。」
なるほど、小町ちゃんが比企谷くんを見てくれって言ってきた理由はこういった意味もあるのだろう。
比企谷くんって結構、無理しがちなところあるし、家族としては心配よね。
一人納得しようとしたとき、不意に本物なんてないと言った小町ちゃんの表情が過ぎった。
優しく微笑みながらも、どこか寂しさを感じさせたあの表情。
小町ちゃんの語った比企谷くんへの感情は限りなく本物と呼べるものに近かったと思う。
それを否定したのだ。
もう少し、何かあるはずではないか。
まあ、その辺りはおいおい聞いていきますかね。まだまだ時間はあるんだし。
「それじゃ、私も適当にもう一品作るね。」
そう言うと、お互いが手早く作業に取り掛かる。
私が作るのは野菜の天ぷらでいいかな。
誰かとこうやって並んで料理することなんていつ以来だろうか。
少なくとも家族とはしばらくの間、そういったことはしていない。
それが寂しいことだと言われてしまえば、そうなのだろう。
だけど、今更になって両親とこんな距離感で接することなんて出来ない気がする。
比企谷くんは、どうなのだろうか。
話を聞いている感じだと、この家族におけるカースト最上位は小町ちゃんだ。
そして、比企谷くんのカーストはおそらく最下位に近い。
兄妹の間での扱いの差はどうしたって生まれてしまう。それでもあの二人はあそこまで仲がいいのだ。少しばかり妬いてしまう。
作業をしながら、私が口を開いた。
「………比企谷くんはさ、これからどうしていきたいの?」
比企谷くんはあまりに唐突なそれに少しばかり面食らった顔をしている。
「………どうしたんすか、急に?」
これが素直な感想なのだろう。
私が比企谷くんにこういった投げかけをすることは別に珍しいことではない。
私も、ただ気になった。それだけの理由でこの問いかけをしたのだ。
奉仕部の関係性は確かに前に進んでいる。
だけど、君の本質は何ひとつ変わっていない。
だから、君の在り方は矛盾しているように感じるのだ。
私が質問を取り下げるつもりがないことを察したのだろう。
比企谷くんは諦めたように話し始めた。
「…今を生きるので精一杯ですからね。これから先の事なんて怖くて見れませんよ。」
「今日がこれだけ素晴らしいんだからさ、明日はもっと輝いてるかもしれないよ?」
我ながら、心にもないことを言うものだと笑ってしまう。
過去を振り返れば、自分が捨ててきたものばっかりで、未来を見つめても不確定ですぐに壊れてしまうものばっかり。
結局、私も今を生きることしかできない。
「…そうかもしれませんね。」
でも、と比企谷くんは言葉を紡ぐ。
「やっぱり、怖いですよ。未来なんて…明日なんて…俺には一秒先だって怖いものかもしれませんから。」
静かに紡がれたその言葉は、あまりにも弱々しくて、見てはいけないものを見ているようで。
儚くて、今にも消えてしまいそうなその姿から、寂しそうに笑うその顔から、
私は、目を逸らした。
「……聞かなかったことにしてあげる。」
「………優しいんすね。」
そんなことはない。
ただ、こんなつまらないことで彼に失望したくなかっただけなのだと思う。
「そうよ。知らなかった?それとも、比企谷くんは優しい女の子は嫌い?」
「……嫌い、かもしれませんね。」
少しからかうように優しく微笑む比企谷くんを見て、ちょっとばかりドキリとする。
君はそんな顔も出来るんだね。
「ふふっ、生意気なやつめ!!」
笑顔を作って頬をぐりぐりと人差し指でつつくと、ギョッとした様子で慌てながら抵抗してくる。
「ちょっ!?雪ノ下さん、危ないですから!」
こういうしんみりとした雰囲気を吹き飛ばすのは私の役目だ。
全く、世話の焼ける子なんだから。
下準備が終わって、揚げるだけになった食材達を油に潜らせていく。
油がパチパチと子気味良い音をたて、食欲がそそられはじめる。
比企谷くんの方を見ると、後は麺を茹でるだけとなっている。
なるほど、確かに手際がいい。
誰かと並んで料理する。
一人でいることの方が好きな私がこんなことをしているなんて、少し前の私が知ったらどう思うだろうか。
それに、この時間に心地良さを感じてしまっているなんて。
私も少しは変わってしまったのだろうか。
…まさか、人はそんなに簡単には変われない。まして自分から変わることを拒んだ私が変わることを簡単に容認する筈がないのだ。
だから、私は変わってなんかいない。
でも…まあ、たまにはこういうのもアリかな。
───────────────────
比企谷くんとの食事を終え、お風呂をすませた私はリビングでくつろいでいた。
今は比企谷くんがお風呂に入っているから暇なだけとも言う。
途中、どちらが先にお風呂に入るかで揉めたりもしたけど、私はお泊まりに来た身分なので大人しく比企谷くんの言うことに従うことにした。
私が先にお風呂をいただくってことで、お姉さんの残り湯を堪能したいのかなって聞いたら、比企谷くんは顔を真っ赤にしながら否定していたっけ。
…これ、全然大人しく言うこと聞いてないわね。
それにしても、
「優しい女の子は嫌い…か。」
あの言葉は、丸っきり嘘って訳でもなかったのだろう。
苦しい時、辛い時、優しさは人を蝕む毒になることを、私は知っている。
誰かに優しくされるほど落ちぶれてなんかいない。誰かに助けて貰わなければならないほど自分は弱くない。
自分の努力が、その生き方が、優しさに触れることで間違いだったと否定されてしまうように感じることは、きっとある。
真実はいつも残酷だと言うならば、優しさは嘘だ。ならば、優しさには裏がある。
だから、比企谷くんは見えない悪意に怯え、目に見える善意を受け入れることが出来ないでいるのだろう。
「………私もだよ。」
ポツリ。
誰もいない部屋で呟くと、足元から可愛らしい鳴き声が聞こえた。
「おっ、君がカマクラくんか。よろしくね。」
カマクラくんを抱き上げて、撫で回していると、スルリと私の拘束から抜け出して、離れていってしまう。
ありゃ、逃げられちゃったか。
あまりに激しくスキンシップを取りすぎたせいか、カマクラくんは、私の方を見て警戒態勢を取っている。
その様子が、なんだかどこかの捻くれ者を思い出させるようで、妙にかまいたくなる。
ゆっくり近づいてみると、ゆっくり逃げられ、素早く近づいてみると、素早く逃げられる。
…なんだか楽しくなってきた。
「おりゃ!」
「とう!」
「おいで。可愛いがってあげる。」
手を替え品を替え、カマクラくんとじゃれ合っていると、いつの間にか二階に来ていた。
半開きになっていたドアからそのまま部屋の中に逃げ込んでしまったカマクラくんを追いかけて、私も部屋に入る。
廊下から入る明かりのお陰で、電気を付けなくてもある程度、部屋の様子が分かった。
勉強机に、大量の本が並べられている本棚。
机の上には受験用の参考書、本棚にはライトノベルに純文学、様々なジャンルの本が揃っている。
ベッドの上には読みかけの漫画が置いてある。
「ここ、比企谷くんの部屋よね。」
そう考えると、途端に探究心が湧いてくる。
男の子の部屋に入ることなんて滅多にないし、ここはお宝探しといきますか。
リスクヘッジの上手い比企谷くんの事だから簡単に見つかる場所にはないだろう。
むしろ、部屋に置いてある可能性すら低い。
まあ、見つかったらからかうネタが増えるぐらいの心積りで丁度いいか。
そうして比企谷くんの部屋探索が始まったのだが、
「……ない。」
意外や意外。見つかる可能性は低いと思っていたが、予想以上に何も見つからない。
小町ちゃんから聞いていたものは見つかったが、それ以外は何もなかったのだ。
仕方なくカマクラくんを抱えて部屋を出ようとすると、まだ私を警戒しているのか私が近づくとベッドの下に逃げ込んでいってしまった。
ベッドの下を覗いてみると、カマクラくんの隣にそれなりに大きな箱があるのが見えた。
ベッドの下なんてベタな場所には隠さないと思ってたけど、なるほど…盲点だった。
少し気になって、手を伸ばしてその箱を取り出そうとすると、奥の方で何かが引っかかっていて、中々取り出す事が出来ない。
これはアタリかもしれない。
心の中で少しほくそ笑みながら、なんとか箱を取り出す事に成功する。
期待に胸を膨らませて、いざ箱を開けてみたはいいものの、中身はほとんど雑紙だった。
少しの落胆を覚えながらも箱の中を見ていると、底の方に何か大きな本のようなものがあるのが見えた。
───トクンッ。
瞬間、心臓の鼓動が大きく跳ねるのを感じた。
これは見てはいけないものだ。
簡単に踏み込んではいけない領域だと本能が告げている。
以前、比企谷くんに踏み込まれそうになった時、私はどうした?
あの時、私は彼を威嚇し拒絶した。
だとしたら、私が彼に踏み込む資格なんてないのだろう。
だからどうした。
私は誰だ。雪ノ下陽乃だ。
なら答えは一つだ。踏み込め。
表紙を捲る。
そこにあったのは、写真だった。
どことなく比企谷くんに似た男性、小町ちゃんに似た眼鏡の女性、満面の笑みを浮かべる幼い小町ちゃん。
そして、顔を黒く塗り潰された男の子。
───トクンッ。
その男の子を見た瞬間、心臓を直接掴まれるような錯覚に陥る。
ページを捲れど捲れど、男の子の顔はぐしゃぐしゃに塗り潰されている。
幸せそうな写真に混ざった異物。
まるで、そこに男の子なんて最初からいなかったと言うような、はっきりとした自身への否定。
鼓動が早い。
呼吸が上手くできている気がしない。
もしかしたら、呼吸をすることすら忘れてしまっているかもしれない。
私は、この感情を知っている。
夢で感じた感情そのものではないか。
胸に残っていた寂しさや哀しみと同じものだ。
記憶は朧気だが、あの時、夢で見た少年は確かに泣いていた。
誰からも見てもらえない少年は、辛いと言えず、助けてと言えず、ただ独りで見えないところで声を押し殺し、涙を流していた。
憐れんではいけない。同情してはいけない。
たとえ、これが比企谷くんの『お兄ちゃん』の原点だとしても、私だけは、彼のかつての想いに『優しく』してはいけない。
最後のページも、やはり比企谷くんの顔は真っ黒に塗り潰されていた。
比企谷くん、君は誰かに見てもらうことも、誰かに認めてもらうことも諦めてしまったんだね。
だから、必要とされない自分を押し殺して、小町ちゃんの『お兄ちゃん』として生きることを選んだ。
小町ちゃんも、比企谷くんが小町ちゃんの為に、愛されるのを諦めたことを分かっているのだろう。
自分を選んでくれた優越感、自分のせいで比企谷くんが愛されることを諦めてしまった罪悪感。
決して綺麗な感情ばかりではない。それでも、その綺麗とは言い難い感情に向かい合って、それすらも好きだと言ってしまえる。
傷付けて、傷付けられて、その傷すら愛おしいと思えるその関係。
「羨ましいな……。」
自然と零れた、私の本音。
誰もいない部屋に、透明な言葉が溶けていった。
───────────────────
あれから部屋を探し回った証拠を残さないように、丁寧に片付けてから、カマクラくんを連れて部屋を出た。
少し私から出る雰囲気が変わったのか、今度は逃げずに私のそばに来てくれた。
こういうあざとい所は比企谷くんそっくりだね。
リビングに戻ると、広げていた勉強道具を片付けている比企谷くんがいた。
部屋に入ってきた私に気がついた比企谷くんが、少し面倒くさそうな顔をしながら聞いてくる。
「どこ行ってたんすか?」
「うーん、カマクラくんと遊んでたよ!ね、カマクラくん。」
私の腕に抱えられたままになっているカマクラくんに呼びかけると、ニャー、と気だるそうに返事をしてくれる。
そんな無愛想なところに笑みが零れる。
今度来るときは少しいい餌を買ってきてあげようかな。
「はぁ、そうですか。俺はもう寝ますけど、雪ノ下さんはどうします?」
「ありゃ、もうそんな時間か。私はもう少ししたら寝ることにするよ。寝込み襲われたら大変だしね。」
「ばっ、馬鹿な事言わないでくださいよ。」
自分の身体を抱きしめながら、からかう様に言うと、比企谷くんは顔を真っ赤にしながら否定してくる。
相変わらず、満点の反応をしてくれるのだから堪らないね、君は。
───────
────
──
比企谷くんが部屋を出ていった後、私はソファにもたれながら、特に何をするでもなくボーっとしていた。
思考に耽るでもなく、ただひたすらに時間を費やしていく。
あれからどれぐらい時間が経っただろうか?
一秒、一分、一時間、一日。
まるで、時間の感覚が壊れてしまったみたいだ。
刹那のような悠久、悠久のような刹那。どちらも当てはまりそうな感覚。
ただ、ひたすら寂しかった気がする。
「……そろそろ私も寝ようかな。」
比企谷くんは、もう寝てしまっているだろうか。
二階に上がり、用意されていた小町ちゃんの部屋ではなく、比企谷くんの部屋に入ると、少し比企谷くんが布団がピクリと動くのが見えた。
「……失礼しまーす。」
「……」
ひっそりと声を出し、静かに布団の中に入っていく。
私が布団に入ると、比企谷くんは寝返りをうつように私に背中を向けてしまう。
まあ、今はそれでもいいか。
一応、表情は繕っているつもりだが、今はなるべく顔を見られたくない。
それに、私も比企谷くんの顔をみたら感情が溢れ出してしまうかもしれない。
「ねえ、比企谷くん。起きてる?」
「…。」
私が静かに話しかけると、少しだけ息を呑むような反応が返ってくる。
相変わらず返事はしてくれないけど、多分、比企谷くんなりの気遣いなのだろう。
彼は私が話し始めることを待ってくれている。そんな気がした。
私は今日、彼に踏み込んだ。
恐らく、比企谷くんが触れて欲しくない部分まで知ってしまった。
なら、私も少しだけ私を見せてあげるのが道理だろう。
私を知って、どう捉えるかは比企谷くん次第だ。
「比企谷くん、私はさ…嘘吐きなんだ。」
「………。」
比企谷くんは応えない。
ただ、静かに言葉が紡がれるのを待っている。
私も言葉を紡ぎ続ける。
「色んなものに嘘をついてきたよ。他人にも、自分にも。」
「………。」
「私の生きていく世界は、嘘吐きばっかりだから、他人の嘘で自分が変えられてしまわないように、自分の嘘で自分を守ることにした。」
「………。」
「君は過去の出来事とかのせいで、世界がモノクロに見えているんでしょう?目に見えない悪意に怯えて、目に見える善意すら疑ってしまうぐらいに。」
「っ……。」
「私はさ、逆なんだ。嘘に嘘を重ねすぎたせいで、自分がモノクロのように見えるんだ。」
少しだけ多く息を吸い込む。
「だから、私は嘘吐きなの。」
月明かりに照らされた部屋の中、静かに私の言葉が溶けていった。
「……別にいいんじゃないですかね。嘘吐きでも。」
「え?」
思わず声が漏れてしまった。
嘘も欺瞞も嫌いな彼から、そんなことを言われるとは思っていなかった。
尚も比企谷くんは言葉を続ける。
「嘘から出た実って言葉もあります。それに、本物と偽物、どっちが価値があるかなんて案外分からないものだと思うんですよ。」
「……どういうこと?」
「偽物が本物になろうと努力して、本物と遜色のない程の物になったとしたら、その偽物には本物以上の価値があるはずでしょう?」
「それ、誰のセリフ?」
「…貝木泥舟、ラノベのキャラクターですよ。」
私が少し呆れたように質問すると、してやったりと言った様子で言葉を返してくる。
背中を向けているせいで、顔を見ることは出来ないけど、多分意地の悪い顔をしているのだろう。
通りで比企谷くんらしくない言葉な訳だ。
でも…そっか。そういう考え方もあるか。
「だとしたら、それは君の理想に反するんじゃないかな?」
「まさか。それでも、俺は本物が欲しいんです。」
ゆっくりと告げられた言葉には、確かに意志があった。
大人のようで子どもな君の言葉が胸に染み渡っていく。
…やっぱり雪乃ちゃんばっかりズルいよ。
「ねえ、比企谷くん。こっち…向いてくれるかな。」
私がそう言うと、渋々といった様子だがこちらへ身体を向けてくれる。
比企谷くんの顔を見ると、意外そうな顔をしていた。
私の顔を見たのだろう。
認めよう。嘘吐きな私の中で、今確かに揺れているものがある。
変わらない、変われない私の中で、確かに変化しているものがある。
比企谷くんの頭の後ろに手を回し、そのまま私の胸に抱き込む形で、こちらに引き寄せる。
「ちょっ!?ゆ、雪ノ下さん!?」
「こーら、暴れないの。あんまり動かれるとお姉さん変な声でちゃうよ。」
「いや、でも流石にこれは…。」
「ふふ…私を満足させてくれたご褒美だよ。」
そう言うと、抵抗は無駄だと悟ったのか、比企谷くんは大人しくされるがままになってくれた。
本当に、私は嘘吐きだ。
言葉ではご褒美だと言いながら、本心は別のところにある。
ただ、本心に素直に従ってしまえば、比企谷くんに優しくしてはいけないと律した自分を否定したことになってしまう。
だから、こうやって理由をつけて彼を抱き締めている。
今まで比企谷くんの頭を撫でることは、それなりにあったが、こうやって大切なものに触れるみたいに撫でることはなかったと思う。
比企谷くんの頭を、慈愛を込めるように撫でていると、だんだん眠くなってきたのか、瞼がゆっくりと落ちていく。
そんな様子が愛らしくて、自然と笑みが零れる。
トクン、トクンと規則正しく響き合う心音が重なり合い、だんだん私の意識も深い眠りに落ちていく。
「あったかいな……。」
その温もりに身を寄せながら、私も眠りに落ちた。