だから私は今もあなたに恋している   作:しこりん45

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─────四月。

 

桜の花びらも散り、葉桜に変わり始める季節。

学生なら、春休みだと当たり前のように訪れる日々を謳歌するのだろう。

かく言う私の娘達も羽を伸ばしに少しばかり遠出をしている。

あんなにもいがみ合っていた姉妹の距離が少しずつではあるが縮み始めている。

そのことに喜びを覚えてしまうのは、やはり親心と言うものなのだろう。

彼には感謝しないといけませんね。

 

昼間であったら白く閑散としているであろう廊下が、夕陽によって朱く染め上げられる中、私は一人歩いていた。

息を吸い込めば、否応にも消毒液の匂いが鼻について、ここは病院なのだと嫌でも理解させられてしまう。

 

彼のいる病室の前にたどり着き、深呼吸をする。

面会許可が出ているのだから、安心して入ればいいのだろうけど、やはり少し緊張してしまう。

この扉の向こうにはもう彼はいないかもしれない。そんな縁起でもないことが頭を過ぎってしまう。

まだ彼にいなくなられては困る。感謝を伝えきれていないのだから。

私としても、あの子達の母親としても。

お礼なんて、受け取って貰えないのでしょうけど。

 

─────コンコンコン…。

 

静かに扉を三回ノックしてから返事を待つが、いっこうに返事はこない。

はてさて、どうしたものかと思案した結果、彼の気分転換になればと持ってきた花だけでも生けていくことにした。

 

ゆっくりと個室の扉を開けて中に入ると、静かに眠る比企谷さんがいた。

簡単な手術ではあるが、一先ず無事に手術が成功したことに安堵する。

陽乃や雪乃たちが今の私の顔を見たら、なんと思うだろうか。きっと、私にも人の心はあったのかと目を丸くして驚くことは避けられないのだろう。

…全く、失礼してしまうわ。

私をなんだと思っているのでしょうか?

 

私が来る前に小町さんが来ていたのだろう。少しばかり不格好ではあるが、もう一つの花瓶に丁寧に花が生けられていた。

 

比企谷さんを起こさないように、静かに花を生けていく。

今更になって、比企谷さんの好みに合わせて華美な色のものを選ばなかったのは、失敗だったと少し反省する。

淡い色の花々は、まるで命の儚さを表しているようで、夕陽で朱く染まるこの部屋に呑み込まれてしまうように思えた。

小町さんの持ってきた花は、どれもあざといぐらいに色を主張しているものがほとんどで、夕陽の朱にも呑まれずに、凛としてそこに佇んでいた。

 

「また来てたんですか、雪ノ下さん。」

 

花を一通り生け終わったとき、不意に後ろから声が聞こえた。

振り向けば、相も変わらず筆舌しがたいほど濁った瞳をした比企谷さんがいた。

顔色も幾分良いようですね。

 

「あら、起こしてしまいましたか?」

 

「いえ…普通に目が覚めただけですから、気にしないでください。」

 

「そうですか。それにしても…『また来てたんですか。』とは、随分なご挨拶ですね。」

 

少しからかうように言うと、比企谷さんは困ったような表情を浮かべながら、ポリポリと人差し指で頬を搔いた。

私が持ってきた花に気が付いたのか、少し目を丸くした後、逃げ道を見つけたように話を変えてしまう。

 

「……それ、綺麗ですね。」

 

「あら、お上手ですね。こんなおばさんを煽てたって何も出ませんよ?」

 

「ちょっと?分かってて言ってますよね?」

 

「ええ、分かってますよ。私、美人ですから。」

 

「全然分かってねぇじゃねーか。」

 

私がそう易々と逃がすはずないことを理解しているのにも関わらず、無駄に抵抗するのだから、もう堪らない。もっとお話をしていたくなってしまう。

陽乃も雪乃もこの少年のこういった一面を気に入っているのだろう。

 

私の攻勢が弱まって来た頃、比企谷さんが徐に質問をしてきた。

 

「………あの、良かったんですか?」

 

「何がです?」

 

とぼけたように聞いては見るものの、それは流石にお見通しなのだろう。

恐らく、比企谷さんが聞いていることは、陽乃たちのことだ。

春休みを利用して羽を伸ばしに外に出ていると言うのは表面上の理由。

本当の理由は比企谷さんの状態を知られない為に、あの子達を遠ざけておくというもの。

 

勘のいい娘たちの事だ。あと何個かヒントを与えてしまえば、本来の理由に気がついてしまうだろう。

雪乃の方も人と接することに陽乃よりも少し慣れていないだけで、二人の間に基本スペックの差はほとんど存在しない。

そう意味では今回の行動はかなり気を使うものだった。

優秀すぎるのも考えものですね。

 

「…はあ。その、ありがとうございます。俺としてもこの状態を知られるのは都合が悪いですから。」

 

「何のことかは分かりませんが、受け取れるものは受け取っておきましょうか。捻くれ屋さんからの珍しく素直なお礼ですもの。」

 

あくまで白を切り続ける私に恨めしそうな、諦観したような視線を送りながら、目の前の少年は再度ため息をついた。

…相変わらず学生がするような表情ではないですこと。

 

おおよそ、自分ごときが私に通用する筈がないのだと再確認しているのだろう。

だが、それでは私が気に入らない。

これでも私は比企谷さんの事を高く買っているのだから。

まあ、彼のことを高く買っているのは陽乃も雪乃も同じことでしょうけど。

 

決して、比企谷さんは私や陽乃たちのような強者ではない。むしろ、弱者と言っても差し支えはないだろう。

だからこそ、彼には私たちには見えないものが見えている。

それは自身を弱者と認めているからこそのもの。持たざる者故の強さ。

こう言ってしまえば、皮肉に聞こえてしまうかもしれないが、その強さは私たちのような者には無いものだ。

油断していたら足元をすくわれてしまう。

 

「……それで、身体の方はどうだったのでしょうか?」

 

私が一番気になっていた事だ。

この春休み、彼から『また来てたんですか。』と言われるぐらいにはお見舞いに来ているのだが、どうにもタイミングが合わなかったりと上手くはぐらかされて聞けていなかったのだ。

だけど、今回は違う。先程のこともあるので、誤魔化しは出来ませんよと、視線で告げる。

 

「………ズルい人ですね。」

 

「あら、失敬な。打算的と言ってもらいたい所ですね。」

 

だけど、今のが答えなのだろう。

思わず顔を顰めそうになる。

 

「…これから、どうするつもりですか?」

 

なるべく平静を装いながら問う。

大丈夫、声は震えていない。表情も普段通りの筈。

 

「そうですね…これからの事なんて分かりませんからね、普通に過ごしますよ。」

 

「……嘘ばっかりですね。」

 

「いや、嘘って……。」

 

「いいえ、比企谷さんは嘘を吐くのがお上手ですから。」

 

「それこそ嘘でしょう?あなたたちに俺の嘘なんて通用しませんよ。それに、嘘を吐く事に関してはあなたの所の長女さんの方がよっぽどお上手でしょうに。」

 

「そうですね。でも、陽乃と比企谷さんでは、嘘の種類が違いますから。」

 

そう、陽乃と比企谷さんでは嘘の種類が違う。

陽乃の吐く嘘の本質は自分を隠す所にある。

対して、比企谷さんの吐く嘘の本質は自分を殺してしまう所にある。

本人は効率的だの自己満足だの言っているが、時折見せるあの自己犠牲的な行動にも、その一端は現れている。

 

無論、自分の想いを殺すことは簡単なことではない。

その想いの首に手をかけて、力を入れれば入れた分だけ、耳を劈くような悲鳴をあげる。

想いだって最後まで生き延びようと必死に藻掻く。

見苦しくても、情けなくても、生き延びようとするその慟哭を耳も塞がずに聞き続けなければならない。

 

隠れているのならば、探して見つけることができる。

ただ、その想いが死んでしまっていた場合、見つけてもどうしようもない事がほとんどだ。

その想いを悼んで偲ぶことも、本人にしか出来ないのだから。

 

陽乃から聞いていた話と、これまで比企谷さんと話し合って知った『比企谷八幡』という人物像から、彼のこれからの行動はなんとなくだが予想することが出来る。

 

雪乃は前に進み始めた。

由比ヶ浜結衣という理解者も得た。

雪乃に足りないものは、慢心ではない確かな自信。

なら、今までのように雪乃を救うのではなく、あくまで雪乃が動きやすいように手助けをするという形をとるのだろう。

あとは、自分は後ろでパレードを眺めるように、人に見られないところから寂しそうに、その眩しいステージを見つめるのだろう。

 

「比企谷さんは、あの子たちの背中を押して、だんだんフェードアウトしていくように振る舞うつもりかもしれませんけど…、」

 

比企谷さんの頬に手を添えて、親指で涙を拭くように優しく目尻のあたりを撫でる。

そうして、微笑みかけながら、あの子たちの母親として宣言する。

 

「生憎、うちの娘たちはあなたの思惑通りに動くほど意地のいい性格はしてませんよ。」

 

比企谷さんは、目を丸くした後、ゆっくりと目を閉じて深いため息を吐いた。

 

「親バカさんめ…。娘さんたちにもそうやって接すれば、あんなにも拗れなかったでしょうに…。」

 

「………それを言われると弱りますね。」

 

ただ、それはできない。

私がそうやって育てられてきたという事もあるが、娘たちにそんな態度をとったって今更だろう。

今まで散々押し付けてきて、さあ今日から自由にしなさい、なんて言うことは無責任以外の何ものでもない。

 

「まあ、誤解は解けないと思いますよ。もう解は出ていますから。」

 

「…ええ、その通りなのでしょうね。」

 

「なら、もう一度問い直すしかないですね。」

 

「…………それは、」

 

「って、雪ノ下が言ってましたよ。」

 

全く、この子は…。

人にズルいと言っておきながら、自分も十分ズルいではないですか。

 

「…ふ、ふふっ。」

 

着物の袖で顔を隠しながら笑いを堪える。

これは一本取られてしまいましたね。

自分よりも一回りも二回りも年下の少年にしてやられたのに、不思議と不快感は湧いてこない。

笑いがおさまってきたころ、顔を上げて比企谷さんに向き直る。

 

「自慢の娘の言葉ですものね。私も、頑張ってみることにしましょうか。」

 

気が付くと、夜の帳が降りてきていた。

そろそろ面会時間の終わりが来てしまう。

有意義な時間というものは、いつだって一瞬だ。

 

「そろそろお暇させていただきましょうか。比企谷さん、またお話しましょう。」

 

「…ちなみにそれに対する答えは?」

 

「無論、はいかイエスか喜んでだけです。」

 

「…はあ。」

 

げんなりと露骨に疲れたような態度をとるのだから、失礼してしまう。

そんな所もいじらしく思えてしまうのも、比企谷さんの魅力なのだろう。

比企谷さんがあと十数年早く産まれていたら、私も雪乃のように彼に恋していたのかもしれない。

 

「それと、忘れる所でした。これ、妹さんと食べてくださいな。きっと、お口に合うと思いますよ。」

 

それでは、と扉を開けて病室を出る。

ふう、と一息ついたとき、「あっ!」と、廊下の方から可愛らしい声が聞こえた。

声のした方をみると、ぴょこぴょことお兄さんとお揃いのアホ毛を揺らしながら駆け寄ってくる小町さんがいた。

 

「雪乃さんのお母さん、こんばんは。来てくれてたんですね。」

 

小町さんとは何度か話した事があるが、似ても似つかないとはこの事を言うのだろう。

比企谷さんは以前、小町さんの事を3K揃い踏みと言っていた気がする。

可愛い、綺麗、器量よし。実質1Kでしたが。

 

「ええ、もう帰るところですけどね。」

 

「ありゃ、そうなんですか。」

 

「もし良かったら家まで送りましょうか?」

 

「それは魅力的な提案ですけど、小町はもう少しだけお兄ちゃんとお話していきますから大丈夫です。見せたい物もありますし。」

 

そう言うと、小町さんはその場でくるりと回って可愛らしくポーズをとる。

…なるほど、今年から通う総武高校の制服の初披露をするつもりだったのかと納得する。

 

「そうですか。では、私は何も見ていない事にしておきましょうか。初めてはお兄さんに見せたいでしょう?」

 

「ありがとうございます。ではでは!小町は行ってくるであります!雪乃さんのお母さんもお気をつけて!」

 

ビシッと敬礼をして、まだまだ発展途上な胸を張りながら無邪気な笑顔を向けてくる。

 

「ええ。では。」

 

振り返って歩き出すと、後方から小町さんの元気な声が聞こえてくる。

 

『お兄ちゃーん!じゃじゃーん!どう?どう?』

 

病院なのだから静かにするべきなのだろう。けど、彼には彼女が必要だ。

せめて、注意されるまではあの二人の空間を許してあげたい。

 

病院を出ると、昼間の麗らかな風は欠片もなく、冷たい夜風が吹き付けてくる。

防寒具をつけるほどではないが、やはり少し肌寒さを感じる。

 

ぽつり、呟く。

 

「世の中、上手くいかないものですね…。」

 

彼になら、娘たちを任せてもいいと思った。

それなのに、誰も望んでいない結末を迎えようとしている。

私が奇跡を願ったって意味はないのだろう。

奇跡はいつだって信じる者にのみ起こるものなのだから。

 

人が現実と向き合って、受け入れたくない事実にも必死に耐えてきて、その上に成り立っている結果を、奇跡なんて簡単な言葉で片付けたくない。

それはその人の努力を、苦しみを、そしてその結果すらも侮辱している気がするから。

 

以前、彼が私に言った言葉。

彼は奇跡を信じない。

だから、彼に奇跡なんて起こらない。

 

空を見上げると、憎らしいほどに煌々と、星が夜空を照らしはじめていた。

 

───────────────────

 

比企谷くんの家にお泊まりした日からそれなりに日は経つはずだが、あれから驚く程に無味乾燥な日々が続いていた。

比企谷くんの家庭教師を受け持っているため、完全に退屈であったかと言われれば、そうではないのだが、あの夜ほどに揺れていた私を自覚させる出来事はなかったと言える。

 

私自身、あの感情を持て余している所があったため、いいクールダウンになったと言えよう。

一時の感情だけで出した答えなんて紛い物だ。偽物だ。そんなものは必要ない。

それが例え、自分の想いだったとしても安易にそれを受け入れるべきではない。

少なくともあの感情に対して、愛だの恋だの女の腐ったような言葉は付けたくない。

 

そんなことを考えながら、私は一人、我が母校である総武高校の廊下を歩いていた。

本日、文化祭二日目。

一日目はどうしたのかって聞かれたら、大学の方の都合と合わなかったとしか言いようがない。

しばしば暇な女子大生と勘違いされるが、私は私でそれなりに多忙な身なのだ。

 

初日は顔を出せないと伝えた時の比企谷くんの顔は記憶に新しい。

私が来れなくて喜ぶ子なんて彼ぐらいではないだろうか。…雪乃ちゃんも私が来れないと知った時は喜んでいた気がする。

やだ、お姉ちゃん悲しい。

 

時刻は丁度お昼を回ったころ。

教室では若気の至りでお馴染みのメイド喫茶、外ではたこ焼きやチョコバナナの屋台が多いに繁盛している。

そんな中、私は人の気配のしない方へと足を運んでいく。

理由は一つ。

比企谷くんが隼人との一件を片付けるなら、おそらくこのタイミングだからだ。

雪乃ちゃんはいろはちゃん絡みで確実だが、隼人も周りの子たちの意向を汲んで有志をするに違いない。

その事を考慮すれば、やはり昼間に蹴りをつけてしまうのが妥当だろう。

 

私は迷わず屋上に向かって足を運んでいく。

明確な理由なんてものはない。ただ、私の直感がそこで面白いことが起こっていると告げている。

女の勘、第六感、時にそれは根拠のない絵空事のように言われるが、案外そうでもないのだと思う。

 

『みんな』というありもしない集団の意識に囚われ、『雪ノ下雪乃』という過去の罪過への罰を欲し続ける隼人は、私のあったかもしれない姿なのかもしれない。

以前、比企谷くんに対して、隼人のことを『なんでも器用に卒無くこなすなんてつまらない』と評したことがある。

何でも器用に卒無くこなすことが出来るのは私も同じだ。

つまり、隼人に抱くこの感情はある種の自己嫌悪だと言っていい。

 

変われない隼人と変わらない比企谷くん、随分と見物であるのは間違いない。

 

屋上へと続く階段を上っていくと、黄色いビニールテープが手摺りに結び付けられいて、立ち入り禁止だと言うように大きくバッテンを描く柵が作られていた。

 

ふむ…。

 

私が高校時代に文実で委員長をしていた時に、ある程度学校が管理している備品は把握している。

確かこんなちゃちな物ではなく、ちゃんとした立ち入り禁止を示すテープがあった筈だ。それも結構余分に。

 

なるほど、と理解した瞬間、自分でも分かるくらい意地の悪い笑みを浮かべていることを自覚してしまう。

 

多分、これは比企谷くんの仕業だ。

比企谷くんの仕事はあくまで記録雑務の補佐だったはず。だから、会場設営に使用する本物のテープは持ち出せなかったのだろう。

お粗末ながら丁寧な仕事ぶりに感心してしまう。

 

比企谷くん作の立ち入り禁止の柵を越え、屋上の扉の隣にもたれ掛かるように座る。

扉の近くで二人が話しているのだろう。

風のせいで会話の内容は聞き取ることは出来ないが、時折漏れてくる声は確かに比企谷くんと隼人のものだ。

比企谷くんの声色はいつもの調子と同じものだが、対照的に隼人は随分と憑き物が落ちたような調子な気がする。

 

これで隼人も少しは見れる人間になったのかな、なんて偉ぶりながら感傷に浸っていると、階段を駆け上がってくる音が聞こえてきた。

だんだんと近づいてくる音の正体は、金髪ギャル風の女の子だった。

確かこの子が今回の依頼人の三浦ちゃんとか言う子だったはずだ。

当の三浦ちゃんはと言うと、比企谷くんの作った柵と私がいるせいで少し困惑気味な様子だ。

 

「……隼人ならこの扉の向こうだよ。」

 

少しだけ試すような口調で言ってみると、小さくお辞儀をしてから立ち入り禁止を越え、屋上へと入っていった。

比企谷くんから聞いていた話で強い子だという印象はあったが、予想以上に真っ直ぐで強い子だった。

本当に、隼人にはもったいないかもね。

 

─────カチャリ。

 

不意に扉を開く音がした。

 

「……こんなとこで何やってるんすか?雪ノ下さん。一応、ここは立ち入り禁止のはずなんですけど。」

 

私を見るやいなや、いつも通り気だるげな様子を隠そうともしない声が聞こえた。

 

「えー、どこにも立ち入り禁止なんて書いてないから、つい。」

 

語尾にきゃぴるんっと音がつきそうなくらいにわざとらしく言うと、比企谷くんはため息をついた後、そのまま私を素通りして自作の柵の前に立つ。

制服のポケットから鋏を取り出してビニールテープを手際よく片付けていく。

 

「あれ、それ片付けちゃうんだ。」

 

「当たり前でしょう?こんなこと勝手にやってるのバレたら反省文ものですよ。ただでさえ多い仕事をこれ以上無駄に増やしたくないです、と言うか働きたくない。」

 

そう言いながら、比企谷くんは雑にゴミをポケットに入れると、猫背気味の背中を私に向け、そのまま立ち去ろうとする。

あまりにスムーズな一連の動作で見過ごしそうになるが、そこは残念。

私を誰だと思ってるのかな?

私が逃がさないことを知ってるのに、相変わらず無駄な抵抗はやめないんだね。

いいよいいよー。褒めて遣わす。なんちゃって。

 

「どこに行こうとしてるのかな?もう少しお姉さんとお話しようぜー。」

 

「……はあ。たまには逃がしてくれてもいいんじゃないですかね。なんなんですか、前世は肉食獣か何かだったんすか?」

 

「女の子に面と向かって言う台詞じゃないよ、それ。後、知ってる?肉食獣の狩りの成功率って案外低いんだよ?」

 

「じゃあ、前世は大魔王とかどうです?」

 

「そりゃまた失礼な話だ。」

 

比企谷くんは肩を落としながら、こっちに歩いてくると、私の隣に腰をおろした。

 

「ありゃ、意外だね。私の隣を選ぶなんて。」

 

「俺も不本意ですよ。…あっち側だと勢いよく開けられた扉の下敷きになっちゃうじゃないですか。」

 

「……なるほど。」

 

確かに盛り上がってる所に、潰れた蛙のような声が聞こえたら興冷めだもんね。

 

「比企谷くんの潰れた蛙みたいな声…略して」

 

「ヒキガエルじゃないですから…。」

 

びっくりするぐらい早いツッコミだった。

食い気味に反応してくれたのが何だかおかしくて、クスクスと笑いが漏れる。

当の比企谷くんは私に聞こえるぐらいの大きなため息を一つ吐いて、疲れたような顔をしている。

こんな美人なお姉さんが隣にいるのに失礼してしまう。

 

三浦ちゃんが屋上に行ってから、十五分ぐらい経っただろうか。

風が扉をガタガタと鳴らしているせいで外の二人の会話は聞くことは出来ないが、女の子の一世一代の告白を盗み聞くのは流石にマナー違反だろう。

比企谷くんも似たような心境なのだろう。隣をチラリと見ると、空気に徹するような面持ちで遠くを見つめていた。

 

ガチャッ!と、音をたてて扉が勢いよく開かれる。

人間、急に大きな音を聞くと、反射的に身体がビクリと動いてしまうらしく、私も例に違わず肩を揺らしながら、音のした方を見てしまった。

 

ふわり…。

 

ニッと効果音がつきそうな程に晴れ晴れと、そして優しく笑う三浦ちゃんが、戸惑いを隠せないながらも、照れくさそうな表情を浮かべる隼人の手を引きながら階段を駆け下りていった。

 

『雪乃ちゃん!隼人!遊びに行くよ!』

 

私はその光景に昔諦めてしまった三人の面影を見た。

お姉ちゃんな私が、意地っ張りで寂しがり屋な雪乃ちゃんと子犬みたいに素直だったころの隼人、困り顔をした二人の手を引いて遊びに出かける、そんな光景。

でも、今見たそれの隼人の顔はあの時のものとはどこか違っていて、私にはそれが酷く綺麗なものに見えた。

 

私はあの時、上辺だけのものに成り下がってしまった関係を、そして、そこにあったものを偽物だと断じた。

そんなものは『本物』ではないと。

今、過去に重なるさっきの光景を見て、綺麗だと思ってしまった。

 

過程に意味なんてない。

最終的には結果が全てなのだと言う。

私はこの結果に過去の情景を見た。

なら、その過程にも意味はあったのだろう。

 

「……比企谷くん。ここは少し暑いからさ、外で風に当たらない?」

 

「…しょうがないですね。付き合いますよ。」

 

「ふふっ。ありがと。」

 

屋上に出ると、清々しいぐらいの青空が広がっていた。

乾いた秋風が頬を撫で、少しだけ汗ばんだ身体を乾かしていく。

 

「んー、気持ち良いね。」

 

少しだけ凝り固まった身体を解すために、ぐーっと伸びをした後、比企谷くんの方を見ると、顔を真っ赤にしながら視線の置き場に困ったようにあちらこちら忙しなく動かしていた。

 

「……比企谷くんのえっち。」

 

「やっぱりわざとだったんじゃないすか。」

 

私があざといぐらいに恥ずかしがる素振りを見せると、比企谷くんは途端に冷静さを取り戻して返してくる。

…なんだか少し納得がいかない。

 

比企谷くんは扉の隣のちょうど日陰になっている場所に腰を下ろし、私は手すりにお尻を乗せてフェンスにもたれ掛かった。

足をぷらぷらと振り子のようにバタつかせながら、比企谷くんに今日のことを聞いてみる。

 

「それで、今回は何をやらかしたのさ?」

 

「この前も言いましたけど、なんで俺が何かやらかす前提なんですかね。いつだって巻き込まれる側でしょ、俺。」

 

「この前も言ったよ。そう言うのいいから早く早く。」

 

いつかと似たようなやり取りをしながら、催促をすると意外な言葉が飛び出してきた。

 

「………俺は何もしてませんよ。」

 

比企谷くんは青空を見上げながら、少しだけ寂しそうにそう呟いた。

でも、どこかそれは嬉しそうにも見える不思議な表情だった。

 

「今回の面倒事を解決したのは雪ノ下です。ついでに言うと、葉山のやつに踏ん切りを付けさせたのもあいつですよ。」

 

「へえ……雪乃ちゃんがねえ……。」

 

比企谷くんの言った事は嘘ではないと思う。

だけど待って欲しい。私は雪乃ちゃんと二人暮しで毎日顔を合わせている。

だから、私が雪乃ちゃんの変化に気が付かない訳がない。

それなのに私が気付くことが出来なかったと言う事実を簡単に受け入れる事が出来ない。

 

「……意外とすんなり信じるんすね。」

 

「ううん…案外そうでもないよ。これでもびっくりしてるよ。でも、そっか……。」

 

同時に比企谷くんがやけに素直に私の家庭教師を受け入れた事に納得がいった。

比企谷くんの目的は私の目を雪乃ちゃんから少しでもいいから逸らさせることだったのだろう。

その為に、比企谷くんも私に飾らず接してきた。生半可な嘘なんて通用しないと分かっているから。

 

きっと、私はまだ心のどこかで雪乃ちゃんのことを見下していたのだ。

どれだけ雪乃ちゃんが『自分で』前に進むことが出来るようになったと分かっていても、心の奥底では何も変わってなんかいない、人はそんな簡単には変われやしないと蔑んでいたのだ。

だからこそ、比企谷くんは私を雪乃ちゃんになるべく干渉させないようにした。

雪ノ下雪乃は『自分で』決めることが出来るようになったと、『自分で』前に進む事が出来るようになったと証明するために。

 

つまり、私は比企谷くんと雪乃ちゃんの二人にしてやられた訳だ。

 

青空を見上げると、そんな私を揶揄うかのように、さんさんと太陽が輝いている。

悔しい気持ちがないと言えば嘘になる。私は妹の何が見えていたのだろうと問いただしたくもなる。

だけど、雪乃ちゃんの成長をまざまざと見せつけられて、姉として喜ばない訳がない。

だから、私はチラリと垣間見えたその醜い感情や言葉が見えないように瞼を閉じ耳を塞いで、腹を抱えて大きく笑い飛ばした。

 

比企谷くんを見ると、先程と同じように少しだけ遠くを見つめていた。

手持ち無沙汰になったのが気になったのか、文実の仕事で使うであろうカメラを手で遊んでいる。

 

「………ありがとね、比企谷くん。」

 

雪乃ちゃんの成長を見せつけてくれて。

そんな言葉を飲み込んで、お礼だけ伝える。

 

「…なんの事だかよく分かりませんね。」

 

「それでも、だよ。」

 

相変わらず、比企谷くんにお礼は受け取って貰えないらしい。

彼の中では、これも自分の為なのだろう。

自分以外の特定の誰かは全て他人、いつか彼のことを理性の化け物、自意識の化け物と呼んだことがあるが未だ健在らしい。

理性を隠れ蓑にし、自分の感情や他人の気持ちに向き合おうとしない。

それが、自分に問い続けて、自分を律し続けて出来上がったものだというのだから滑稽もいいところだ。

そこが君の面白いところでもあるんだけど。

 

まあ何にせよ、受け取って貰えないなら押し付けるまでだよね。

 

「ねえ、比企谷くん。君の知ってる限りでいいからさ、今回の事の顛末を教えてよ。」

 

「………今回の事は俺もそんなに詳しくは知りませんよ。」

 

「それでもいいよ。聞かせて。」

 

そう言うと、ぽつぽつと今回の事の顛末を話し始めてくれた。

三浦ちゃんの想い、葉山隼人は比企谷八幡では変えることは出来ないという事、雪乃ちゃんがオーバーワークを起こしそうな時はガハマちゃんが上手くフォローしてくれたこと、比企谷くんがやった事は、二人の因縁が噂で広まらないように裏で立ち回ることぐらいだということ。

さっきのビニールテープで作られた立ち入り禁止のダミーもそのためだったらしい。

 

それと、雪乃ちゃんが隼人の頬を思いっきり引っ叩いた話は思わず笑ってしまった。

多分、雪乃ちゃんなりの優しさだったのだろう。

少なからず、隼人はずっと過去の罪過への償いとして、『みんなの葉山隼人』をやっていたところがあったから。

 

「ま、俺が知ってるのはコレだけですよ。」

 

「ううん、充分だよ。……これであの子達の面倒臭い関係も終わりなわけだ、…つまんないの。」

 

何気なしに呟いてみる。

事実、雪乃ちゃんを引っ掻き回すネタが減ってしまったのは面白くない。

 

「つまんなくしてすみませんねって言いたいところですけど、今回は文句があるなら雪ノ下に言ってください。」

 

「えー、優しいお姉ちゃんとしては可愛い妹にそんな意地悪できないなー。」

 

「………どの口が言うんですかね。」

 

「うん?何か言ったかな?」

 

「いえ、何も。」

 

そう言うと、再び無言の時間が流れていく。

乾いた秋風がゆっくりと雲を流しながら、騒がしいはずの学校から音を消していく。

 

私は、これからどうしていきたいのだろう。

雪乃ちゃんみたいに何か目標があって前に進む訳でもない。

諦めて、『完璧』という位置に停滞することを選んだ私に進歩はない。

 

目の前にいるこの子だって同じだ。

静ちゃんが見たら、人を頼ることを覚えただの、人を助けるのに自分を犠牲にしなくなっただのと変化を喜ぶのだろう。

でも、実際はそうじゃない。

比企谷くんの本質はきっと何一つ変わってなんていない。

彼は本当にいざとなったら真っ先に最適解として自分を切るし、本当に大切なことは相談なんてしないのだろう。

 

─────カシャッ。

 

乾いたシャッター音が屋上に響いた。

隣を見れば、手すりに肘を起きながら文化祭の様子を上から撮影する比企谷くんがいた。

 

「……何してるの?」

 

「仕事です。」

 

「働きたくないのに?」

 

「それは、まあそうですけど…働かないと増えるのが仕事なんで。」

 

「……やっぱり君は働き者だね。」

 

比企谷くんは、そんなんじゃないですよ、と言いながらパシャリ、パシャリと次々とシャッターを切っていく。

 

不意に、顔を黒く塗り潰された比企谷くんの写真が頭を過ぎった。

比企谷くんの顔を覗くと、その表情にはなんてこともない、ただ仕事をこなしているだけで、特にこれと言った感情の変化はないように見える。

 

「………どうしたんすか?人の顔なんか覗き込んで。」

 

「ううん。写真、平気なんだなあって思って。」

 

好奇心から比企谷くんの知られたくない部分を見つけてしまったのは事実だ。

それは覆せない。

覆せないのならば、いっその事進んでしまえばいい。

もしかしたら、その先に私のこれからに対するヒントぐらいは落ちているかもしれない。

 

「撮られるのは苦手ですけどね、どんな顔していいか分かんないですし。」

 

「ふーん、嫌いとは言わないんだ…ねっ!」

 

そう言って、比企谷くんの手からひょいとカメラを引ったくっると、そのまま比企谷くんにカメラを向けてシャッターを切っていく。

 

いきなりの事でついていけなくて困惑している顔。

 

突然カメラを向けられたことで顔を赤くしながら恥ずかしがる様子。

 

やめてくださいよと言いながら顔を隠す彼。

 

私からカメラを取り返そうとムキになって、普段からは想像出来ないぐらい子どもっぽい姿。

 

結局、取り返せなくて諦めたように肩を落とし、普段以上に目を腐らせている表情。

 

今まであまり見ることが出来なかったような比企谷くんの様子が次々と記録されていく。

そんな中、少しづつだけど、何かが満たされていくような感覚がした。

 

もう煮るなり焼くなり好きにしてくれと言わんばかりの様子の比企谷くんに近づき、片方の手で比企谷くんの肩を持って抱き寄せる形を作る。

 

「おわっ!?」

 

「はい、笑って笑ってー。」

 

もう片方の手で私たちに向かってシャッターを切る。

スマホと違ってカメラでの自撮りは慣れていないから上手に撮れているか確認しようとしたところ、物の見事に比企谷くんにカメラを奪い返された。

 

「やっと取り返せた…。これ、学校の備品なんでデータ消しますよ。」

 

「えー、勿体ない。こんなに綺麗に撮れてるのに。」

 

「ええそうですね、綺麗に無様な様子がよく撮れてますよ。」

 

ぶーぶー、とわざとらしく抗議してみるが、比企谷くんは容赦なく私の撮った写真を消していってしまう。

本当に消しているかは分からないけど、比企谷くんの事だ、そりゃばっさばっさ削除しているに違いない。

まあ、あの子達も見たこともない比企谷くんを見れた。それだけでお釣りが来るか。

 

一瞬だけ、比企谷くんの手が止まった。

 

「……まあ、しょうがないか。」

 

そう言うと、比企谷くんはまた操作を再開してしまう。

結局、最後に撮った写真に写った比企谷くんの表情を知ることは出来なかった。

全ての写真が消されてしまったのに、あまり落胆を感じないのは多分、私自身が写真を好いていないからだろう。

 

別に写真に思い出を残すことは嫌いではない。

だけど、写真に写された私のその軽薄な笑顔が薄っぺらな一枚の紙切れになっていると思うと、何とも言えない虚無感を感じてしまうのもまた事実だ。

 

もう少しだけ、深淵を覗いてみたくなった。

彼がそう言ってくれたのだ。

だから、レンズ越しの虚像ではなく、この目で君を見て、知っていこう。

 

「…っと、そろそろ戻らないとどこかの部長さんから罵倒の嵐を受ける羽目になるんで、俺は行きますね。」

 

そう言って、比企谷くんはフェンスに預けていた背中を離して、いつものように猫背気味な背中で歩きだした。

正確に言うなら、歩きだそうとした。

 

「─────ぁ…。」

 

「ちょっ、比企谷くん!?」

 

フラリと身体をよろめかせ倒れそうになる比企谷くんに反射的に駆け寄り、何とか受け止める。

今のはどう見たって普通じゃないと思い、比企谷くんの顔を間近で覗き込んでみると、目の下には薄らとだが隈が出来ている。

熱があるか確かめる為に手を額に当ててみるが平熱なようで安心する。

 

「っと、すみません。」

 

「それは良いけど、大丈夫?」

 

「大丈夫ですよ。…日陰者が急に日光に当てられたんで身体がビックリしただけです。」

 

「なるほど、大丈夫じゃないね。どうする?保険室行く?」

 

「……いや、大丈夫です。」

 

口調はいつも通りだし、顔色もそんなに悪くない。

最近の比企谷くんの様子を思い返してみる。

苦手な数学を克服するためのそれなりに密度のある私の授業、当然のことながら受験科目は数学だけではないのだから、それ以外の教科の勉強も疎かにできない。

加えて文実の補佐による書類関係の作業に、今回の隼人たちの一件。

要は寝不足と過労が祟ったのだろう。

 

ただ、いつもだったら喜んで保健室に入り浸りそうなのに、どうして今日に限ってこうまでして頑ななのだろうかと思案して、同時に納得する。

雪乃ちゃんたちに心配を掛けたくないのだろう。今回の一件然り、文化祭然り、これが全て成功すれば、雪乃ちゃんの大きな自信に繋がるのは間違いない。

だからこそ、自分の不手際で水を差したくないのだろう。

 

ほらね。

やっぱり、君の本質は何一つも変わってなんていない。

どうでもいい時だけ言葉を並べて、本当に大切なことは口にしない。

それでいいと思っているのだ、この子は。

 

比企谷くんの事を考えると、保健室に行きたくないと言うよりは保険室に行くまでに人目につきたくないというのが彼の本音だろう。

だけど、ここでこのまま彼に無理をさせるのは良くない。

なにより、こんな所で彼が潰れてしまうのは私としても面白くない。

 

まあ、受け取って貰えなかったお礼を押し付けるいい機会か。

 

さっきまで比企谷くんがいた日陰にペタンと座って壁にもたれかかり、こっちにおいでと言うようにポンポンと膝を叩く。

比企谷くんの方を見ると、キョトンとした表情をしている。

 

「……何してるんすか。」

 

「保健室に行くのが嫌なんでしょ?だから、膝枕してあげようかと思って。」

 

「すごい、論理が飛躍しすぎてK点越えしてますよ。危険なラインです、やめておきましょう。」

 

「今の時代、K点は極限点じゃなくて基準点だよ。越えなきゃ減点されちゃうよ。」

 

「いや、でも……。」

 

泊まりに行った時に、もっと凄いことをしているはずなのに、どうして君はこうも純情なのかな。

…段々こっちが恥ずかしくなってきた。

しょうがないから奥の手を使おうかな。

 

「あーあー、手が滑って小町ちゃんに電話しちゃいそうだなー。」

 

「ぐっ……。」

 

我ながらびっくりするぐらい棒読みだが、そう言うと、比企谷くんが本日何度目かも分からないため息を吐いて、こちらへ歩いてくる。

だけど、やっぱりどうしたものかと悩んでいるらしく、私の前でうんうんと悩んでいる。

 

ああ、もう。焦れったい。

 

「比企谷くん、頭が高い…ぞっ!」

 

「ちょっ!?」

 

痺れを切らした私が比企谷くんの腕を掴んで合気道の要領を用いてこちら側に引き寄せると、比企谷くんがバランスを崩し、私のお腹に顔を埋めるように倒れてくる。

そのまま比企谷くんの頭に腕を回し、逃げられないように比企谷くんをホールドする。

 

「~~~~っ!!」

 

すると段々息が苦しくなってきたのか、比企谷くんが私の腕をぺしぺしと叩いてきた。

ギブアップと言う意味だろう。

 

「逃げない?」

 

そう言うと、比企谷くんは首が取れそうな勢いで首を縦に振った。

比企谷くんが抱えられたまま頷いたせいで、妙に擽ったくて声が漏れそうになる。

 

比企谷くんの拘束を解くと、比企谷くんは酸素を求めて勢いよく顔を上げ、大きく息を吸い込んだ。

そのまま比企谷くんは覚悟を決めるように大きくため息を吐くと、仰向けになって、私の脚の上に頭を乗せた。

 

「どうよ、お姉さんの膝枕の感想は?」

 

「いや、どうって言われても……その、すごい…としか…。」

 

比企谷くんは尻すぼみになっていく言葉を言い終えると、耳まで真っ赤にしながらそっぽを向いてしまった。

可愛げ無くて可愛いなあ、もう。

 

あの日の夜のように比企谷くんの頭を撫でていると、まだ顔に赤みは残っているが、幾分冷静さを取り戻した様子で、私が何かをやらかさないか警戒している。

怪我をした猫の世話をするのはこんな気分なのだろうか。

 

「……後悔、してる?」

 

比企谷くんの頭を撫でたまま、問うてみる。

 

「…そんなの、あなたに家庭教師をお願いした時から後悔してますよ。大体、抵抗してもしなくても同じ結果になる事をどうやって後悔するんですか。」

 

比企谷くんはそっぽを向いたまま、いつものように軽口を叩いてくる。

ただ、体勢が体勢なため、どうにも締まらない感じが否めない。

 

「……どうして、こんな事するんですか?」

 

どうして、か…。

お礼を受け取って貰えなかったからお礼を押し付けることにしました、なんて言っても比企谷くんは納得しないだろう。

でもね?比企谷くん。

私は雪ノ下陽乃なの。君が納得出来ようが出来まいが関係ない。

 

「君はあれこれ色んな人を助けてきたんだから、たまにはね。」

 

「…………買い被りすぎですよ。」

 

「そうでもないよ。ほら、疲れてるんでしょ?少ししたら起こしてあげるから、今は休みなさい。」

 

私がそう言い終えると、比企谷くんが再び仰向けになった。

比企谷くんと目があうと、彼に少し意外なものを見たというような顔をされたので、左手を使って比企谷くんの両目を覆って、彼の視界を塞ぐ。

 

「ほら、今は休まないと。」

 

右手で比企谷くんの肩のあたりをゆっくりと一定のリズムで叩いていると、段々と比企谷くんの呼吸と心音が穏やかになっていく。

 

比企谷くんが完全に眠りに落ちたのを確認すると、静かにポケットからスマホを取り出し無音カメラのアプリを起動する。

今回の一件で雪乃ちゃんを揶揄うネタが減ってしまったのだ。

このぐらいしてもバチは当たらないだろう。

 

無音カメラで比企谷くんのあどけない寝顔を撮影し、雪乃ちゃんに画像を添付してメールを送る。

雪乃ちゃんは真面目だから気付くのは文化祭が終わってからだろう。

 

もう一枚、何気なしに、私たちを撮ってみる。

どんな写真が撮れたのだろうかと写真を確認して、思わず笑いそうになってしまった。

 

そこには、いつもより少しだけ、認めたくないけど、本当に少しだけ、自然に笑えている私がいた。

 

───────────────────

 

あれからしばらくしてから比企谷くんを起こした後、比企谷くんはまだ少し文実のことでやる事があると言うので屋上で少し話をした後に解散していた。

 

お昼ご飯はここに来る前に軽く済ませている為、どうしたものかと手持ち無沙汰に学校内を散策していた。

 

それにしても、今年の文化祭はかなり盛り上がっているように見える。去年よりも盛り上がっているんじゃないだろうか?

下手したら私が委員長を務めた時と同じぐらい盛り上がっている気がする。

 

比企谷くんの話では今年から文実は生徒会を主導にして動くと言う話だった。

つまり、指揮を執るのはいろはちゃんの役目になっているのだろう。

雪乃ちゃんたちの補佐があるしても、去年のバレンタインイベントの合同開催による費用折半の件といい、あの子はあの子で意外と優秀なのよね。

 

時刻を確認すると、もうそろそろ有志の発表が行われる頃だった。

雪乃ちゃんたちの出番が来る前に、ちょっとだけ雪乃ちゃんとお話していこうかな。

 

文実の腕章を付けた子に軽く笑顔を向けながら会釈して、そのまま舞台裏に入っていく。

ちょっとセキュリティ緩すぎじゃないかと心配になるが、そこは私だったからと言う事にしておこう。

 

誰か見知った顔はいないかと、辺りを見回すと休憩中であろう小町ちゃんと目が合った。

 

「ひゃっはろー。小町ちゃん。」

 

「あっ!陽乃さん、ひゃっはろーです。」

 

小町ちゃんが相変わらずの人懐っこい笑顔を浮かべながら挨拶をしてくれる。

うん、可愛い。比企谷くんに頼んだら、譲ってくれるかな?譲ってくれないだろうなあ。

 

小町ちゃんとこうやってちゃんと話すのは、多分あの日、比企谷くんのスマホで話した時以来ではないだろうか。

比企谷くんの家庭教師をしているとはいえ、基本的に彼の部屋で教えているし、小町ちゃんも時期が時期なだけに忙しそうにしていたから、なかなか落ち着いて話す機会がなかったのだ。

 

「この前は小町の無理を聞いてくれてありがとうございました。」

 

「ううん、全然いいよ。私も楽しかったし。それに………、」

 

それに?

今、私は何を言おうとしたのだろうか。

一瞬だけ私の中を過ぎった違和感は、あの夜に自覚した揺れている私に似ていた気がする。

 

「……?」

 

最初は小町ちゃんもよく分からないと言った様子で首を傾げていたが、突然、ハッとしたように目を見開き、だんだんと嬉々とした様子に変わっていく。

いけない、コレは勘違いされている。

目の前に比企谷くんがいるなら悪ノリしてもいいのだが、小町ちゃんしかいないこのタイミングで乗っかってもマイナスにしかならない。

 

「小町ちゃんが考えてるようなことはないから安心して、ね?」

 

とりあえず、諭すような口調で言ってみる。

 

「むむ、これはこれは…この感じだと、雪乃さんも結衣さんも、うかうかしていられない感じですなあ…!これは小町的にポイント高いかも!!」

 

あ、ダメだ。

完全に小町ちゃんがゾーンに入ってる。

お持ち帰りしたいぐらい可愛らしい笑顔で詰め寄られるのは嬉しいんだけど、少し冷静になって貰わないと。

 

「……えいっ!」

 

「あいたっ!」

 

小町ちゃんの額に軽くデコピンをお見舞すると、小町ちゃんは短く可愛らしい悲鳴をあげて、わざとらしく涙目を作っておでこをさすっていた。

そんな演技が私に通用するはずがないと小町ちゃんも分かっているはずなのに、あざとく演技してくるのだから思わず許してしまう。

これも小町ちゃんの策謀だとしたら大したものだと思う。

 

「あんまりお姉さんを揶揄ったらダメなんだぞ。」

 

「うう…すみません。」

 

先程に引き続き、やや芝居がかったような涙声で謝罪してくる。

だけど、ちゃんとやり過ぎて反省している色が見えるあたり、やっぱり比企谷くんと違って世渡り上手なのだろう。

 

「そう言えば、陽乃さんはどうしてここに?」

 

思い出したように、小町ちゃんがあからさまな話題転換をしてくる。

狙い通りなんだけども、その話題転換は少し無理矢理すぎやしないかね。

そういう所は比企谷くんとそっくりだね。

嘘をついてもしょうがないので、ここは正直に言っておくことにした。

 

「んー、雪乃ちゃんが頑張ってるかお姉ちゃん心配になっちゃって。」

 

「あ、そう言うことでしたら…雪乃さんだったら、そこの舞台袖でいろはさんと話してますよ。」

 

小町ちゃんが舞台袖を示して、雪乃ちゃんの居場所を教えてくれる。

 

「一色さん、有志の一組目、もう準備が出来たそうよ。開始時間にはまだ少しだけ余裕があるけれど、どうするのかしら?判断はそちらに任せるわ。」

 

「ありがとうございます。かなり人も集まってきているみたいですし、もう始めちゃいましょう。葉山先輩たちの時にアンコールでスケジュールが遅れても困りますから。」

 

「分かったわ。…もうすっかり生徒会長ね。私たちの手助けはいらないんじゃないかしら。」

 

思わず雪乃ちゃんの仕事ぶりに感心してしまう。

昨年の文化祭でも似たような依頼を受けたと言う話は聞いていたが、最終的には雪乃ちゃんが指揮を執っていた。

けど、今回は違う。

あくまでいろはちゃんに選択肢をいくつか提示するだけで、決断はいろはちゃんに委ねている。

 

捕った魚を与えるのではなく、魚の捕り方を教える。まさに、そんな言葉が良く似合うものだった。

 

「ゆきのーん、こっちも仕事終わったよ。まだ何かやる事あったっけ?」

 

「あっ、結衣先輩、お疲れ様です。」

 

「由比ヶ浜さん、お疲れ様。由比ヶ浜さんは私たちの順番が回ってくるまで待機でよかったはずよ。」

 

そこまで聞いて、聞くのを止めた。

 

「あれ、もう行っちゃうんですか?」

 

「うん。見たいものも見れたし満足だよ。それじゃあ小町ちゃん、残りも頑張ってね。」

 

元々、最終確認のつもりだったのだ。

でも、この目で見せつけられて確信してしまった。

比企谷くんの事を信用していなかった訳ではないが、百聞は一見にしかずとはよく言ったものだ。

 

あの頃の一人では何も出来なくて、私の後ろをずっと追っていた可愛くて憎らしい妹はもういない。

素直に喜べばいいのに、そこに寂しさを感じてしまうのは、やはり私の愛情が歪んでいるからだろうか。

 

舞台裏を出ようとした時、雪乃ちゃんと目が合った。

怪訝な顔をしながら身構える雪乃ちゃんに軽く手を振りながら舞台裏を後にする。

そんな私の様子を見て雪乃ちゃんが少しだけ目を見開いた。

 

「姉さん。」

 

後方から、凛とした声が聞こえた。

 

「…こんな風に雪乃ちゃんが私を呼び止めるなんて初めてじゃない?それで、どうしたの?」

 

ついこの前まで私が比企谷くんに向けてよく使っていた、彼が苦手そうにしていた笑顔を作って問いかける。

雪乃ちゃんは真っ直ぐと私を見据えて答えてくる。

 

「別に深い意味があった訳じゃないわ。ただ姉さんが来たのに何もしていかないのが不気味だったから、これから何かやらかさないか監視に来ただけよ。」

 

「えー、酷いなあ、雪乃ちゃんは。これでもお姉ちゃん心配してたのに。」

 

軽薄な笑顔にいつもよりほんの少しだけ低く嗜虐的な声で、いつものように雪乃ちゃんを揶揄う。

 

「…………そう。」

 

そんな私の反応を見て、雪乃ちゃんは少し眉を下げて、悔しそうな顔をする。

雪乃ちゃんの顔を見れば、考えていることはおおよそ見当はつく。

まだ、足りないのかしら。

そう雪乃ちゃんの顔に書いてある。

言ったじゃない。『心配してたのに』って。

 

心配してないよ。

大丈夫、雪乃ちゃんはもう弱くない。

 

そんな言葉は口に出来ないから、代わりに雪乃ちゃんの頭をぐしぐしと撫でてやる。

 

「きゃっ!?なに、なんなの!?ちょっ、姉さん、痛い……っ!」

 

言葉とは裏腹に、私から何かを感じ取ったのか大人しく撫でられてくれた。

 

一通り撫で終えると、雪乃ちゃんは髪の毛を整え、少しだけ頬を赤らめながら拗ねたように口を尖らせ、ため息を吐いた。

雪ノ下陽乃、本日お気に入りの男の子と最愛の妹から何回目か分からないため息を貰いました。これってギネス記録になりませんか?

 

まだ頬を紅潮させて照れくさそうな雪乃ちゃんが、にっこりと微笑み、口を開く。

 

「相変わらず、姉さんは人の頭を撫でるのは下手くそね。」

 

開口一番ダメ出しをくらってしまった。

あれ?おかしいな、そこは感動して抱きついてくれるところじゃないのん?

 

でも、雪乃ちゃんの口調からは、もう先程の不安や悔しさは感じられなかった。

 

言葉にしなければ伝わらない。

言葉にしたから伝わる訳じゃない。

それでも確かに言葉にしなくても伝わるものはあった。

 

家族だから、姉妹だから、ずっと後ろ私の後ろを追いかけていたから、理由なんて分からない。

けれど、その想いは確かに伝わっていた。

 

「私はそろそろ戻るわ。それと、私たちの発表、期待していていいわよ。」

 

高らかに宣言する雪乃ちゃんの顔は、誇らしげで、真っ直ぐで、澄み渡っていて、どこまでも綺麗だった。

 

───────────────────

 

「やっぱりここにいた。」

 

まるで取り残されたかのように、体育館の後方で壁に凭れ掛かっている比企谷くんに声を掛ける。

盛り上がる体育館の中、私のその言葉は周囲の歓声に掻き消されながらも、しっかりと届いていたようで、こちらを向いてはもらえないものの、彼の肩がピクリと跳ねた。

 

「……もっと前の方で見なくていいんですか?」

 

「それはお互い様じゃないかな。」

 

「俺はいいんですよ。普段はリア充が教室の後ろを独占してますからね、今日ぐらいは貴賓席を独り占めするのも悪くないでしょ。」

 

「ふふっ、なにそれ。」

 

私が笑いを零すと、比企谷くんがようやくこちらを向いてくれた。

 

「………なんか、機嫌いいですね。」

 

「そうかな?」

 

普段通りを装いながらとぼけてはみるものの、やはりどこか声が軽い気がした。

大学の友人たちであれば気が付かないかもしれないが、静ちゃんや比企谷くんが見たら、普段の私とは違って見えるのだろう。

 

「…雪ノ下と仲直りでもしましたか?」

 

妹を持つ者同士通じるものがあったのか、見事に言い当てられてしまった。

いや、完全に確執がなくなったわけじゃないから正解ってわけでもないか。

……相変わらず変な所で鋭いんだから。

 

本音で向き合ってくれたとはいえ、私が家庭教師をするのを受け入れた理由といい、今回の一件といい、やられっぱなしは癪に障る。

少しだけイジワルしてやれ。

今回は痛み分けよ。

 

「お姉さん、勘のいいガキは嫌いよ。」

 

いつかの焼き直しのように、嗜虐的な笑みを浮かべながら、比企谷くんの顔を下から覗き込んみ低い声で告げると、比企谷くんは少しだけ身を捩らせながら冷や汗を流した。

 

雪乃ちゃんは真っ直ぐ見つめ返してきたのに、君は相変わらずだね。

でも、君はそのままでいいよ。

大人で、子どもで、捻くれ者で、真っ直ぐで、強くて、弱くて、正直者で、嘘つきで、自己愛が強くて、自分を大切にできなくて……たくさんの矛盾を抱えたまま苦悩すればいい。

そして、私はその滑稽な様を嘲笑ってあげよう。

 

「……なーんてね。そんなに怯えなくてもいいじゃない。」

 

だけどね、私はそんな君が欲しくなったの。

 

「ほら、そろそろ雪乃ちゃんの番だよ。私にあれだけ見せつけておいて君が見逃しただなんて許さないんだから。」

 

調子を戻して、前を向く。

やっぱり声が少し軽い気がする。

 

「………そうですね。」

 

舞台の幕が上がり、雪乃ちゃんたちの演奏が始まる。

 

体育館はその日、一番の盛り上がりを見せ、それに応えるように、舞台の上の役者は音を紡いでいく。

 

「……すごい。」

 

私がこの光景を忘れることはないのだろう。

あの鮮やかに彩られたステージを、そして、この輝かしい瞬間を、私は偽物と呼ぶことはできない。

それを『本物』と呼ぶのかどうかは分からない。それがこの子たちの探している物かは分からない。

 

だけど、きっと忘れない。

 

「………ええ、本当に。」

 

 

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