エルミタージュ・プレスへようこそ 作:ジェームズ・ディクソン
「ボス・マレンコフ」
樫のドアを3回ノックした。眉間に意識を集中する。
定刻通りだ。最近の実績にも問題はないはず。中の気配を探りつつ、期待した返事を待った。
「ゴルコフか。入れ」
しばしの沈黙を受けて声が轟いた。
手元の真鍮の取っ手をそっと握り直す。そのまま回し、扉を押し開けた。
室内に進み、慣例に従ってかがめていた姿勢をすいと伸ばし、まっすぐ前を見つめた。小さく音を立てて、後ろで扉が閉じた。
「かけたまえ」
手前には大きな木づくりの椅子が置かれている。声の主は机を挟んで、その奥に座っていた。
腰掛けるのを見届けた後、男はおもむろに口を開いた。
「何か飲むかね?」
目が思わず少し開いてしまった。この部屋でそんな台詞を聞いたのは初めてだ。
「いただけるんですか?」
無表情にこちらの眼を見返してくる。
「......では、紅茶をお願いします」
好きな訳ではない。ただ、驚いてしまった。これまで一度も、この部屋で
巨大な男だ。椅子に座った上背だけでも私よりずっと高い。
立ち上がれば、190cmを優に超えるだろう。
木製の椅子に据えた腰と無駄のない上半身、緩慢だが隙のない身振り。男は手元の呼び鈴をとり、軽く振った。
「秘書を呼ぶ。少し待て」
「秘書?」
思わず聞き返した。これも初耳だ。
「やむなくだ。先週から我々のチームに入った」
「先週から?本国の紹介ですか?」
「訝しむな。詳しく知る必要はない」
男は無表情のまま、口元を歪めた。唇の上に伸びかけた髭で隠そうとしているが、引き攣れたような傷跡が見える。笑うと、凄みが滲んだ。
程なく、ドアがノックされた。
「入りたまえ」
応じるように扉は開いた。訪問者が顔を出した。女である。
「ミスタ・マレンコフ。ご用件は?」
背の高い。私と同じ180cmくらいだろうか。
丈の長い黒のジャケットとパンツ。青い目とくっきりした目鼻立ちをしていたが、髪だけは東洋人のように黒かった。
「紅茶を頼む」
男が命じると女はわずかに目を伏せた。踵を返して部屋を出る。
数分後には湯気の立つカップとティーポットを乗せて、再び戻ってきた。
白い手が静かに茶器を置くのを黙って眺める。
女はもう一度男に目礼し、部屋を出ていった。
カップはたった1つ。赤い粘体を乗せた銀のさじが添えられていた。
ロシアン・ティーであった。少量を含みつつ、紅茶を楽しむためのものだ。
思わず唇がわずかに震えてしまった。まさか、これはそういう意味か??
何を言おうか考えつつ、口を開くよりさらに早く、男が機先を制した。
「飲め、ゴルコフ」
命令口調であった。仕様がない。ためらいながらもポットからカップに紅茶を注ぐ。
取手に手を伸ばした私を見て、男はまた口元をゆがめた。
「マナーを忘れるな」
やむなし、といった表情で赤いジャムを茶さじを手に持つ。
諸事に素早く思いをめぐらせながら、一部を軽く口に含んだ。
続いて甘さから逃げたいと言わんばかりに、ぐいと紅茶を煽る。口中燃えるように熱かったが、何とか飲み込んだ。
喉が上下するのを見届けて、ようやく男はにやりと笑った。
「毒じゃない」
「冗談じゃありませんよ」
男は机の書類の束の間から、新聞を引っ張り出した。
「仕事をしてもらいたい」