長谷川千雨の約束   作:Una

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第十五話 長谷川千雨の約束ver.2

 長谷川千雨が人工物であることは、彼女の言葉の端々と、栞が彼女を読心して得た情報から推測していた。それがネギ・スプリングフィールドとの会話によって確信に変わり、それとほぼ同時にフェイトは自身の従者である栞を仮契約カードを用いて召喚した。

 会話の流れから、ことによっては長谷川千雨の精神が危険域に達する可能性を見たためだ。

 自分のような人工の存在は、自身の存在意義を明確にしていないと精神が揺らぐ。フェイト自身、己の存在について悩み、それを主へと打ち明けた際に精神が機能不全に陥ったことがある。その時は栞とその姉の共感能力によって精神の再構成に成功した。精神を再構築する際、フェイトは無意識のうちに姉妹の精神を尺にしていたのだ。

 もし今回、自身と同じ人工であると判明した彼女がかつての自分と同じ状況に陥った場合に備え、フェイトは栞を呼んでおいた。

 

 その栞と、彼女のガード役として暦を脇に、フェイトが千雨の隣に立つ。

 突然の登場にネギたちは警戒も露わに構えるが、フェイトはそれに見向きもしない。千雨だけを見つめて、右手を伸ばす。ノイズがフェイトの指を侵食する。彼女の情報操作能力が、魔法世界だけでなく現実にまで干渉しているようだ。フェイトの存在を自壊させる光景にその背後に立つ栞と暦は息を飲むが、当の本人は全く意に介さず、歪む右手でそのまま千雨の目を覆った。

 奇怪な音を吐き続ける千雨の耳元に躊躇いなく口を近づけ、何事かを囁く。

 

「──、…………──」

 

 いくつもの言葉を重ねていくことで徐々に、千雨の崩壊は止まっていく。絶叫は収まり、撒き散らされていたノイズも鳴りを潜めていく。

 もちろん、他人の声を聞いただけで人工知能である千雨の精神が安定するはずはない。しかしフェイトの手には鵬法璽があった。千雨の精神を縛る、契約系の魔法具における最高峰のそれ。この魔法具を介して言葉を紡ぐことで、千雨の精神と魂に外圧をかけることで、人の形を強引に維持させる。

 

「栞さん」

「は、はい」

 

 呼ばれた栞が、指の欠けた千雨の右手を握りしめる。千雨の精神を精査し、欠落部分をマッピングしていく。栞はそれらを念話でイメージにしてフェイトへと伝え、フェイトがさらに言葉を耳から千雨の精神に流し込んでいく。次第に千雨の体に生じていた欠落も表面上は補完されていく。

 フェイトの腕に抱かれ、囁きを聴きながら落ち着きを取り戻していく千雨の様子を、ネギはずっと見つめていた。

 見ていることしかできなかった。

 

「何を、したの?」

「別に。ただ」

 

 ネギの問いに、フェイトが視線を千雨に向けたまま、静かな声で応えた。

 

「彼女に必要な言葉をかけただけさ」

 

 千雨が失った自身の存在意義を新たに設定し直した、という実に事務的な理由であるのだが、それはネギにはまるで異なる意味に捉えられた。

 

「…………っ」

 

 拳を握る。ネギの脳裏に数日前の光景が蘇る。崩壊するゲートポート、その瓦礫の向こうで、嬉しそうにフェイトの手を取る千雨の姿。

 何か言葉を返さなければ。そう思うも、何も思いつかない。自分は千雨に拒絶されたばかりで。フェイトと違って苦しむ千雨を前に何もできず、こうして立ち竦むことしかできなかった。

 そんな自分が、千雨を返せ、なんて恥知らずな言葉を吐くなんて、できるはずがなかった。

 

 ──君に何ができる? 

 

 そんな言葉が聞こえてくる気さえする。懊悩するネギに向けられるフェイトの瞳に見覚えがある。京都で、リョウメンスクナを前になんの手立ても持てずにいた自分に向けられた、何もできないネギへの失望が見て取れる雄弁な瞳。

 劣等感がそう思わせているのか、目の前に広がるフェイトと千雨の間に入ることに忌避を覚えるような空気を感じてしまう。

 そんな空気を全て無視して、黒い影がフェイトに背後から飛びかかった。

 二振りの白刃がきらめく。フェイトは自身の背後に砂の壁を一瞬で構築した。魔力で圧縮された砂塊は鉄を上回る剛性を持つ。しかもそれはフェイトの意思で硬さをそのままに自在に形を変え、下手人を捉えようと食虫植物のように展開する。砂の触手に刀を一本取られ、しかしそれと引き換えに砂の罠から距離をとり喫茶店の屋根に飛び乗った彼女は、実にいい笑顔でフェイトを見下ろした。

 

「月詠さんか」

「お久しぶりどす〜」

 

 黒いゴスロリ服に身を包んだ人斬りが、太陽を背に笑っている。眩しそうに目を細め、暦に栞を庇わせてフェイトが見上げる。

 

「何をしに来たのかな?」

「聞く意味あります〜?」

 

 全くもって。刀を抜いた人斬りに聞くことではない。

 瞬動を三連。残像を残しながら虚実を織り交ぜ月詠はフェイトに迫る。砂の防壁の隙間を縫って放たれた神速の突きを魔術防壁で受け…………フェイトの左肩に穴が開いた。

 

「これは」

「斬魔剣弐の太刀」

 

 技後硬直を狙う砂の触手をひょいひょいと軽い身のこなしで避けながら月詠は言う。

 

「神鳴流の前には、壁や盾など意味ありませんえ」

 

 斬りたいものを斬る。本来は無辜の民を傷つけずに魔を調伏するために生まれた技術であるが、人斬りの手にかかれば悍ましい殺戮技巧に堕ちる。

 フェイトは一瞬顔を蹙めた。左肩を抉られたために左腕が動かない。あと10センチズレていれば心臓を砕かれ霊格を破壊されていただろうことを考えれば幸運とも言えるが。

 それはともかく、現在左腕が動かず、右腕は千雨を抱えている。千雨を置いてその場を離れようにも、

 

「逃しませ〜ん」

 

 月詠は常にフェイトの右へ右へと回りながら攻撃を仕掛けてくる。抱えている千雨で死角を作るように。千雨を手放す暇を与えてもらえない。実際の刀身と弐の太刀によって放たれる千雨を素通りする気の斬撃、両方を躱し続けることはさすがのフェイトにも難しい。

 

「千雨さんに当たらんよう気を使わないといけないのが面倒です〜」

「月詠さん」

「なんです?」

「君は、ネギ君の仲間なのかな」

 

 月詠はいかにも心外だという顔をした。

 

「いいえ。何度も斬り合った仲どす。いつかあの首をはねたいと思っとります」

 

 それがなにか? と問い返す月詠に対する返答は、フェイトの槍のような前蹴りだった。

 気を通した妖刀で受け、ブロックで舗装された地面にレールのような跡を残しながら後方に飛んでいく月詠は、刀を持たない左腕を使って音速越えの肘打ちを背後の虚空に放つ。虚空瞬動と同様の現象を肘で生じさせ、フェイトの蹴りから貰った運動量を帳消しにした。

 7歩の距離で対峙する。

 二人の戦闘の余波ですでにネギと千雨が紅茶を頼んだ喫茶店は見るも無残に崩れ落ち、周囲の観光客は悲鳴をあげながら逃げ惑っている。

 

「あはっ」

 

 そんな光景を一顧だにせず、月詠はフェイトだけを見つめて、歪な笑みを浮かべた。

 月詠の狂気を前にフェイトは思考する。千雨を手放すことはできない。この空間で、戦闘行為以外の行動は全て致命的な隙になる。元よりここで千雨を手放せばネギに奪還され、計画に大きな遅延が生じることになる。

 とはいえ、月詠本人から『ネギの仲間ではない』と言質をとれたのは僥倖だった。お陰で後手に回らなくて済む。これで「はい」と答えられていたら、契約に縛られているフェイトは詰んでいた可能性があった。

 フェイトは千雨を抱えながら後方に瞬動。街路を後ろ向きに駆けるフェイトに追随する月詠。その進路上に黒い鉄刀『千刃黒曜剣』がばら撒かれる。

 その全てを月詠は神鳴流が奥義『百花繚乱』で斬り払う。ダメージはないがフェイトとの距離が開いた。月詠は内心舌打ちしながら虚空瞬動で遅れを取り戻そうと力を込めるが、その一瞬の隙を捉えフェイトは宙で停止した。

 月詠は多少減速していたとはいえ客観的には目にも止まらぬ速度でフェイトを追跡していたため、フェイトの急停止によってその相対距離は一瞬でゼロになった。結果フェイトの右膝がカウンターの形で脇腹に入り、月詠の肋骨を二本砕きその矮躯を独楽のように弾き飛ばした。

 錐揉みしながら月詠が叩き込まれた、大通りに沿って並ぶ青果売りの店舗が三つまとめて倒壊する。

 死んだか、と思う間も無く、材木と果実の汁を全身に浴びた月詠が、邪魔になる周囲の瓦礫と人を刀で吹き飛ばしつつ立ち上がる。

 

「やっぱり、刀一本じゃ太刀打ちできまへんな〜」

「…………僕は両腕をふさがれているんだけれどね」

「しかたありません、奥の手といきますわ」

 

 月詠は、左手の中指に付けていた指輪を右手で回す。これはエヴァンジェリンから、魔法球の中でネギの相手を10日、体感時間で240日もの間相手にし続けた礼として受け取った、空間圧縮効果を持つ魔道具である。

 そこから取り出したのは、一本の黒刀。

 かつて京都が日本の首都であった時代、多くの術者と剣士を殺害し京を恐怖のどん底に陥れた、日本史上最悪の妖刀。

 その銘を『ひな』。本来は京都神鳴流の本部にて封印されているはずのものである。

 

「…………それが君の奥の手?」

 

 確かに、見るも禍々しい念をばら撒く刀である。魔法世界全土を見渡してもここまでの物はそう多くない。

 

「いいえ?」

 

 しかし、月詠は首を振った。妖刀ひなを抜き、その身に宿る怨念を解放し、

 

「これを、こうするんです」

 

 月詠は、妖刀ひなの千年を越えて積み重ねられた怨念の全てを『掌握した』。

 妖刀ひなの真に恐ろしいところは、己を握った者の精神を犯し、傀儡として操り殺意を振りまく、刀身に宿る『人格』にある。

 一千年の時でもって築き上げられた殺意と怨念。月詠は怨念をエネルギー、殺意で構成される人格を術式と見立てて掌握し、自身に装填したのだ。

 

「ああああああああああああ!」

 

 ただ妖刀ひなの怨念に身を任せるだけでは得られない力が月詠の身を満たす。月詠の艶やかな茶髪も、その白い肌も、今はヘドロのように汚れた黒へと変貌し、額から生えた角や口からはみ出す牙はまさに悪鬼のそれとなんら違いはない。目は赤く光り、それと同じ輝きが全身を地割れのように走り呼吸とともに明滅している。

 土砂の洪水のごとく溢れる月詠の黒い気の本流が周囲を侵す。その黒い気に触れた物が端から腐り、溶けていく。

 

「ネギはんもめんどくさいお人です」

 

 破壊と腐敗を撒き散らす怪物へと成り下がった月詠は、その外見からは予想外なほど理性的な声で語る。

 

「色んなこと悩んで、その度に立ち止まって。何でもかんでも考えすぎです。もっと単純に、

 受け入れてしまえば楽しいのに」

「君も、それを習得していたんだね」

「習得したのはネギはんよりむしろ早かったですよ〜。エヴァンジェリンはんにも褒められました、お前には誰よりも堕落する才能があるって」

「褒めてないねそれ」

 

 ふう、とフェイトはため息を漏らす。

 

「それにしても、どうして月詠さんは僕を斬ろうとするのかな」

「え?」

「君は人斬りだろう? 僕みたいな人形は興味の対象外のはずじゃないのかな」

 

 月詠は一瞬きょとんとした顔をして、すぐに笑い出した。体に纏う赤い線が殊更に輝きを増した。

 

「知らぬは本人ばかり、というやつですかね〜?」

「…………?」

「気づいてません? 今のフェイトはん、とってもとっても、人間らしいですえ?」

 

 興奮がとまらない。

 ずっと、月詠は退屈していたのだ。

 人を斬りたくて斬りたくてたまらないのに、斬るために傭兵稼業に身を窶していたのに、満足のいく斬り合いなんて全く望めなくて。だからわざわざ魔法世界なる珍妙な場所まで来たのに、そこは幻想と人形が闊歩する無価値な世界で。

 目を付けていた少年もどんどん腑抜けるばかりで。

 そんな中でやっと、初めて斬りたい相手ができた。

 今の彼は京都の時とは比べものにならない。生きている、様々な感情が渦巻いている。怒りと失望と、願望が破れた喪失感。右腕に抱く少女への形容しがたい思い。それは同胞意識かあるいは同族嫌悪か。共感か同情か、はたまた嫉妬か。あらゆる感情が混在しているのに、そうと認識できずに漠然とした不安を自身に感じている様はまるで物心のついたばかりの幼子のようで。

 なるほど、と月詠は思う。

 あの超という少女は色々と理屈をこねていたけれど、結局は本能の話だ。

 匂いでわかる。

 あれは人間だ。

 とてもとても、斬り甲斐がある。

 フェイトの前であの少女を刻んだ時、彼はどんな顔をするだろう? 

 

「行きますえ、フェイトはん」

 

 簡単に死なんでおくれやす。

 右手にひな、左手に銘も無き妖刀をだらりと下げて、月詠はフェイトに向かって飛びかかった。

 

 

 

 

 

 辺りの建物を無差別に巻き込みながら、月詠はフェイトを追跡していく。邪魔になる建物を刻み、蹴り倒し、時にはフェイトに投げつける。その力と速度はアーウェルンクスシリーズと十分にタメを張るレベルに至っており、両腕を封じられ、千雨の体を慮って瞬動を加減しなければならないフェイトははっきり言って不利である。

 屋根の上を駆けながらフェイトは冷静に思考する。

 近接戦闘では圧倒的に不利。長谷川千雨を無傷で回収するには、月詠を撒き、転移を使うための時間を稼がなくてはならない。水属性は不得手であるため、それを用いた転移には5秒の時間が必要。

 フェイトに有利な点は、魔法を使えること。

 

「『小さき王 八つ足の蜥蜴 邪眼の王よ 時を奪う毒の息吹を 石の息吹』!」

 

 触れた部位から石化を進める魔の霧を、自分の後ろに向かって広げる。しかしそれは月詠が体表から漏れ出している腐敗の闇で防がれた。溢れる闇の濃度が濃すぎて、石化の霧が月詠の体表まで届かないまま彼女は霧を抜けた。

 しかしその一瞬でフェイトは物陰に隠れることに成功する。5秒でいい。5秒あれば水を用いた転移が使える。

 

 ──滅殺斬空斬魔閃

 

 月詠の小さな呟きをフェイトの人外的な聴覚が聞き取った。

 即座に瞬動で距離を取る。ほぼ勘に頼ったこの選択は功を奏し、一瞬前までフェイトと千雨がいた路地裏は、道を挟んでいた複数の建物ごと、大量の水を叩きつけるかのような音とともに粉微塵になって消滅した。

 見上げれば、ここ一帯で最も高い時計塔の上で片足立ちする月詠がいた。刀を振るい、巻き起こった風が粉塵をさらっていく。

 目が合った。

 

「いたぁ」

「『冥府の石柱』」

 

 目を弧にしてフェイトを見つめる月詠に向かって、フェイトは無詠唱で巨大な石柱を召喚する。地面から月詠を斜め上に打ち上げる角度で生み出されたそれは破城槌さながらだ。

 轟音が響く。

 人一人を殴打して鳴る音ではない。戦場で、城壁を攻め立てる攻城戦で聞いたそれとなんら遜色のない打突音。

 もちろんこれであの人斬りを潰せるとは思っていない。フェイトは立て続けに冥府の石柱を召喚し続け、月詠の斬撃で更地になった周辺に墓標のように突き立てていく。怒れる巨人の足音のごとき音と立つことも困難にする断続的な震えが連なる。

 狙いは死角を増やし、月詠の視界から逃れること。街並みを作る建物は脆弱過ぎて月詠にとってはなんの障害にもならないが、フェイトの魔力と術式で形成された魔法構造体ならそう簡単に破壊されることはない。

 フェイトのそんな目論見は、月詠がばら撒く腐敗と何重にも連なる斬撃によって一瞬でご破算になった。

 斬撃を受け、石柱は根元まで大雑把な乱切りにされ、その断片が四方にばら撒かれる。断片とはいえその一つ一つが家屋ほどの大きさであり、それらが街並みを押しつぶしながら跳ね回る。悲鳴がそこかしこから聞こえ、ところどころで火災まで発生し、まるで爆撃を受けたような有様だ。

 

「神鳴流は退魔の剣」

 

 そんな光景を生み出しておきながら、月詠はそちらには全く目を向けない。意識すらしていない。フェイトしか眼中にないのだ。結局フェイトが月詠の視線から逃れられたのはほんの2秒ほどであった。

 

「魔法でできた物体なんてええカモです。しかもただの石。鉄すら切り裂く神鳴流には通用しません」

 

 おそらく月詠の醸す腐敗の力は、魔法の術式すらも腐らせ崩壊を早めるのだろう。存在自体に綻びが生まれた石柱は、それがどれだけ大きくとももはやハリボテに過ぎない。

 ハリボテとなった石柱を撫で斬りにして視界を確保した月詠が、悠々と距離を詰めてくる。

 両手に刀を下げた人を喰らう鬼が、彼我を五歩の距離まで詰めた。

 面倒なことになった、とフェイトはため息をついた。

 隙の大きくなる弐の太刀だけでなく、通常の斬撃に付加される腐敗属性まであるのでは、自身の障壁が役に立たない。

 そもそも、長谷川千雨が無傷である必要などないのだ。

 世界再編魔法を実行さえしてもらえるなら、それこそ脳髄だけになったって構いやしないし、さらに言えば彼女の体は人工物で、データ生命体とかいう存在らしい。体に穴が開いても平然と再生するような存在を、なぜ自分はむきになって守ろうとしていたのだろう。

 目標の再設定。

 月詠はここで殺害しておく。

 そのために、こちらの枷となっていた長谷川千雨は、首から上が無事なら良しとする。

 

「ふふっ」

「? 何がおかしいのかな」

「だって」

 

 月詠はケタケタと笑いながら、

 

「そんな思いつめた顔されるなんて、なんとも人間らしくてたまりまへんわ〜」

「…………思いつめる?」

「一体、今何を思ったんですか? 何を引き換えに、何を決断したんです?」

 

 まあ、と月詠は刀を構え直す。

 

「斬ってみればわかりますえ」

 

 月詠は左の妖刀を振るう。拡散斬光閃。閃光のように気を走らせる遠距離の牽制技をさらに拡散させて放つそれは、今の月詠の手にかかればガトリングガンの斉射に近い破壊を撒き散らす。フェイトはそれらを全て身に纏わせる砂の防護壁で受け止め、その内側から『千刃黒曜剣』を形成する。

 月詠がひなを上段に構える。そのまま振り下ろせば斬魔剣弐の太刀がフェイトを襲うことになる。

 その振り下ろされる腕の軌道上に黒曜剣を差し込んだ。

 あらゆる障壁を無視して対象を切り捨てる弐の太刀は確かに脅威だが、対処できないわけではない。

 気で形成される刃の軌道は、実際に振るわれた刀が描いた弧の延長のみなのだ。つまり、振るわれる刀の軌道を妨害すれば、弐の太刀はそもそも形成されない。

 

「対処早すぎますえ〜」

「これくらいできなくちゃ悪の組織なんて名乗れないよ」

 

『千刃黒曜剣』を自在に操り、月詠の剣の振りを阻害する。月詠は黒曜剣を一本ずつ腐敗させながら砕いていく。砕き、捌き、受け流しながらフェイトへとにじり寄っていく。

 あと三歩。

 

「『万象貫く黒杭の円環』」

「百烈桜花斬」

 

 フェイトは四桁に届こうという数の石化の杭を一度に放つ。本来は八方に向かって無差別にばら撒く弾幕のように使う魔法であるが、それを今回は、逃げ道を塞ぐもの以外の全てを月詠に集中させて放った。その全てが人体など貫通して余りある威力と速度を持ち、しかし月詠は致死の散弾の中を二刀を用いた百烈桜花斬で真っ向から突っ切る。杭の弾幕に対する剣戟の結界。その密度は黒杭が優っていたが、一振りにつき5本の杭を撃ち落とす月詠の技量を持って場は一瞬の拮抗を保ち、喜悦に笑う月詠の執念が競り勝った。

 あと二歩。

 

「『地を裂く爆流』」

 

 地面を爆発させ、その内から溶岩を噴出させる魔法。『万象貫く黒杭の円環』を越えて踏み込んだその足元がいきなり灼熱とともに爆発するのだ、並みの戦士であればそのまま溶岩の波に攫われ骨も残さず蒸発していただろう。しかし月詠は、ひなの怨念を取り込んでいたためか自分に向けられる殺意に敏感になっていた。足元から迫る灼熱の殺意を獣じみた嗅覚で察知し、さらに先、爆発の起きていない、否、起こせないフェイトの至近まで加速することで難を逃れた。

 あと一歩。

 

「解放・『石化の邪眼』」

 

 しかしそれは囮だった。唯一の逃げ道を残すことで敵を誘い込み、カウンターで不可避の攻撃を叩き込む、狩りの常套手段。千雨を抱える右腕から指だけを伸ばし、二重詠唱で完成させ遅延させていた『石化の邪眼』を起動する。それは石化の光線を指より放つ魔法で、発動から命中までのタイムラグはほぼゼロである。見られたら石になる、バジリスクの邪眼の名を冠するに相応しい即死級の魔法だ。それをわずか二歩の距離で、加速しながら放たれたのだ。その絶妙のタイミングはアーウェルンクスシリーズの面目躍如、如何に人間を捨てた月詠といえど決して躱せるものではない。これを回避できる存在などジャック・ラカンくらいのものである。

 だから月詠は避けなかった。

 その光る指先に危機感を覚えただけで、なんの根拠もなくその予感に身を捧げ、月詠は左の刀を手放した。

 空いた左手の平をフェイトの指先へと突き出す。さらに指の間から闇色の気を放出する。

『石化の邪眼』が発動する。

 その光は強い指向性を持ち、腕に纏った程度の闇では完全に遮ることはできなかった。掌を保護する気を貫いて、一瞬で肘までを石に変える。あと1秒も経たずに心臓まで石化は進行するだろう。

 そんな致死の呪いを帯びた左腕を、月詠は笑みのままなんの躊躇いもなく切り飛ばした。

 しかも途中で刀身を捻り、石となった腕を粉々に砕きながら。

 フェイトの目が見開かれる。

 月詠は先からずっと変わらず深い笑みを浮かべていたのだ。笑みのまま、腕を斬る選択をとった。その狂気に、精神に一瞬の空白が生まれた。

 それは人間が驚愕と呼ぶ感情であるが、フェイトはそこまで思い至らない。

 月詠が右の刀を弾き、砕けた腕の破片がフェイトと千雨に向かって飛ばされる。一つ一つが弾丸のごとき速度を持って二人に迫る。この程度フェイトにはなんのダメージも与えられないが、千雨はそうではない。そのことに思い至り、フェイトは千雨に向かう7つの破片を右手で弾き、

 

 ──何を考えている。

 

 フェイトの中に更なる困惑が生まれた。

 

 ──彼女の負傷はやむを得ないと、そう設定し直したはずなのに。

 

「迷いましたなぁ?」

 

 月詠の声に意識を戻す。一瞬のアドバンテージの奪い合いが生死を分ける極限の戦闘において、それは致命的な隙であった。

 フェイトの視界に広がるのは、月詠の左腕から噴出した血液。ひなを装填したことで血液まで汚らしい黒色に染まっており、腐敗の属性を備えている。それを危険と判断したフェイトの物理障壁の展開術式が自動で起動し、フェイトの眼前に展開された障壁全面が黒い血に塗れた。

 月詠が刀を捻ったのは石化した前腕を砕くだけでなく、上腕動脈を広く傷つける為でもあった。

 腕を切りとばす即座の判断。石飛礫による千雨への牽制。血の目潰し。

 片腕の犠牲と、三重に重ねた伏線の末に、ついに月詠はフェイトとの距離を刀が届くまで詰めた。

 しかしフェイトの視界には月詠の握る妖刀は映っていない。血の影に隠しているのか、逆手にして自身の体の背後に回しているのか。距離が近すぎて見失ってしまった。

 フェイトが見たのは、月詠の肩と腰の回転。その動きから推測できる次の攻撃は。

 

 弐の太刀も何もなく、長谷川千雨ごとフェイトを串刺しにする突きであった。

 

 フェイトは失態を悟った。

 ネギの執着具合から、彼らは長谷川千雨を奪還するために動いているのだと思っていたのだ。愚かな、とフェイトは自分を罵倒した。月詠は最初にネギの味方ではないと口にしていたではないか。そもそもこの人斬りに何を期待していた。長谷川千雨に当たらないよう気を使うなど、ブラフに決まっている。

 この鬼にとって、長谷川千雨の価値など路傍の石にも等しいのに。

 

「月詠さん!」

 

 横から、いきなり人影が躍り出た。

 二人にようやく追いついたネギである。

 ネギは術式兵装『両面宿儺神』を纏い、その四腕と全身を使って、今にも千雨を串刺しにせんと迫る月詠の右腕にしがみついた。

 

「…………ぁあ? あ」

 

 突きが止まり、殺意をフェイトから右腕にへばりつくネギに向けたところで、月詠はフェイトに大きな時間を与えてしまったことに気づくが時すでに遅く、フェイトはすでに瞬動で距離を大きく開け、水を用いた転移の準備に入っていた。

 

「ネギ君」

 

 フェイトが呼びかける。その右腕に肩を抱かれる、意識のない千雨を見て、ネギは歯を食いしばる。

 

「とりあえず、礼を言っておくよ。その刀で刺されれば、僕はともかく長谷川千雨はただでは済まなかっただろうから」

「…………」

「彼女は、僕らの計画の中枢とも言える重要な存在なんだ。それをこうして無傷で回収できたことはとても喜ばしいことだよ」

「喜ばしいのは計画に必要だから、だけですか〜?」

 

 月詠が茶々を入れる。フェイトは無言で眉を顰めた。細い水の柱が三本、フェイトと千雨を取り巻く。

 

「聞いたと思うけど、君たちを地球に送り返すのは僕らの計画の最終段階になる。開くゲートの場所も、時も、すぐにわかるようになっている」

「…………どういうことだ」

「全てが集まる時と場所で、また会おう」

 

 フェイトが姿を消した。ぴちゃり、と小さく水が跳ね、後には水たまりが残るだけである。

 

「…………離してくれます?」

 

 月詠が苛立ちもあらわに腕を振りほどきながらネギに吐き捨てる。術式兵装を解除し、妖刀を地面に荒々しく突き立てた。懐から取り出した符を切断された左腕に貼り付けながら、

 

「というか、ウチの邪魔より先に、仮契約カードで千雨さんとやらを召喚すればよかったん違います?」

「…………それは、できませんでした。カードの機能に向こうからプロテクトがかけられているみたいで、召喚も、通信もできないんです。多分『力の王笏』でカードの術式を弄ったんだと思うんですが」

「ふぅん」

 

 聞いておきながらまるきり興味のなさそうな相槌を返す。フェイトとの戦闘を邪魔されたことが相当頭にきているようだ。

 くふっ、と月詠が笑った。

 

「どうして邪魔をしたんですか〜? あの少女は本人も仰っていた通りのつ・く・り・も・の。地面をのたうち回るあの様も見たでしょう? 人と人形が入り混じった、冒涜的な姿。それに、どれだけ体が傷ついたところでいくらでも再生できるんでしょう?」

「…………」

「それなら、あのままフェイトはんごと貫くべきでした。違います?」

「なぜ、剣で突く必要が? 弐の太刀で良かったのでは」

 

 はん、と月詠は鼻で笑った。

 

「弐の太刀を放つ隙なんてあの濃密な空間にはありはしませんえ。それにあの手の、存在が肉体より精神に依存しているカラクリ型の妖は、体をどれだけ刻んだって大して痛みを与えられません」

 

 月詠は足元に立つ妖刀ひなを引き抜き、ネギにその黒い刀身を突きつけた。禍々しい妖気がその身から湯気のように立ち上っている。

 

「だから、弐の太刀で遠くからちまちま刻むんでなく、この妖刀が宿す狂気を直接叩き込む必要があるんですえ。この刀はかつて術者や剣士を乗っ取り、宿主を変えながら長きに渡り人を斬り続けた呪いの一品。これに触れれば、いくらフェイトはんでも、死にはせんでも動きを止めることはできたはず。それなのに、あーそれなのにそれなのに」

 

 あーあ、とわざとらしいほどにがっかりしましたという態度を見せる月詠は、笑顔を絶やさずに、

 

「こうなったら、ネギはんに責任とってもらいましょか」

「責任、ですか」

「もう、ネギはんでええかもな、なんて?」

 

 言いながら月詠はネギの顔を覗き込む。目の高さに掲げていた妖刀をネギの首筋に当て、ネギの目をじっくりと見定める。

 月詠の顔から笑みが消えた。

 

「あかんわ」

「な、にが」

「こんな腑抜けを相手にしたって面白くもなんともあらへん。そんなザマやから、大事なお姫さんを取られるんとちがいます?」

「…………!」

 

 月詠の言葉の棘を受け、ネギは俯いてしまう。

 先の自分の醜態を思い出す。

 苦しむ千雨の姿に怯えてしまった自分。

 彼女の苦しみを癒す手段を何も持たない自分。

 言葉を尽くせばきっと分かり合えると、人が争うのは言葉が足りないからだと、そんな綺麗事を信じて千雨に対して本音をぶつけた。自分が、他の誰でも無いあなたを求めているのだと、それを伝えたくて。

 その結果があれだ。

 あの長谷川千雨の正体を知った今ならわかる。

 自己満足のために吐いた言葉が、自己同一性に悩む彼女を、深く深く傷つけた。

 彼女は言っていたではないか。私は誰だ、と。

 言葉を尽くすべき、と思いながら、自分は彼女の助けを求める声を全く聞いていなかったのだ。

 対して、フェイトはどうか。

 あの少年は千雨を理解しているようだった。突然の事態に怖気づく自分と違い、フェイトはなんの躊躇もなく千雨に近づき、言葉を囁くだけで彼女の容態を落ち着かせた。

 それに、フェイトが千雨を見る目。まるで、自分にはない千雨との絆が、フェイトにはあるように思えて。

 アーウェルンクスシリーズ。始まりの魔法使いによって作られた魔導兵器。

 長谷川千雨。未来で作られた、実体化能力を持つ人工の情報生命体。

 ああ、つまり。そういうこと、なのだろうか。

 

「はぁ、フェイトはんはカッコよかったどすなあ。怪物からお姫さんを守るナイト様って感じで。本当はあんさんがナイト気取りたかったんでしょうけど、残念でした。ナイトどころか、あんさん言うてましたもんね。なんでしたっけ〜、たしか、本物でないと意味がない、でしたっけ? 実はちょっと聞いてたんですけど、千雨はんが発狂したのってもしかしてそれ」

「月詠さん、八つ当たりはやめるネ」

 

 超がようやく追いつき、チクチクとネギを責める月詠を遮った。

 超は茶々丸に肩を借りるようにして空に浮かんでいた。茶々丸の背中から吹き出るスラスターの音のせいで微妙に超の声が聞き取りづらい。

 茶々丸にエスコートされながら超が着地する。

 

「その妖刀に触れたものの精神が汚染されるなら、千雨さんだて例外じゃないネ。というか、精神の均衡を崩していた千雨さんには致命傷になていたはずヨ。ネギ坊主が止めた判断は間違てないネ」

 

 そうフォローを入れても、ネギは俯いた顔をあげようとしない。その鬱々とした雰囲気は今までで1番重症のように見える。ネギの聡明さを考えれば、恐らく、自分の言葉が間接的にでも長谷川千雨の精神にダメージを与えたことを薄々と勘付いているのだろう。

 だとすればこれはもう自分の手には負えないネ、と超は肩を落とした。

 八つ当たりでネギにトドメを刺した人斬りは、おっとうっかり、なんてほざきながら舌を出した。超はそんな月詠を見つめ、

 

「月詠さんはこれからどうするネ?」

「どう、とは? とりあえず病院行こう思いますけど」

「イヤ〜、これだけ暴れて、間違いなく指名手配されるネ」

 

 あたりを見渡せば、まさに死屍累々といった有様である。サイレンが何重にも鳴り響き、救護のためか、魔法使いが空を縦横に走り回っている。

 

「どうでしょ? 見た目化け物でしたし、映像が残っていたところで外見じゃウチとわからないと違います?」

「魔力波長で個人が同定される可能性があるネ。いや、怪我人全員の波長をチェックしてるかはわからないガ」

 

 あー、と月詠が思案げに呻く。スカートの裾を千切り包帯代わりにして上腕を圧迫し、気で傷口を塞いでいるが、このままでは色々と不便が出る。

 

「総督さんに頼んで闇医でも紹介してもらうといいヨ」

「んー、あのお兄さんに借りを作るのは気が向きませんけど〜…………それしかないですね〜。そしたらまたフェイトはんと殺り合えますし。地球に帰る行きがけの駄賃に軽くスパーンと」

「…………まあ、好きにすればいいヨ。どうせ私には止められないし、止める時間もないネ」

 

 こんな災害を、余波で引き起こすような規格外に何ができるというのか。超はため息をつく。最近ため息増えたな、なんて思いながら。

 

「時間が無い、というのはどういうことです〜?」

「ん、ああ」

 

 超は目頭を抑え目の疲れを落としながら答えた。

 

「誠に勝手ながら、一身上の都合により、一足先に私は麻帆良に帰らせてもらうネ。宇宙を突っ切って、ネ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 覚醒した千雨が最初に見たのは、青褪めた栞の顔だった。

 栞の白い右手は千雨の額に当てられている。どうやら自分の精神データを精査されているようだ。涙に潤む瞳は、困惑の色を湛えて千雨を見つめている。なにごとか、と千雨は額を抑える栞の手を無視して体を起こした。

 視線を周囲に向けるとそこは見覚えのある部屋であった。廃都オスティア、墓守人の宮殿で千雨にあてがわれた部屋だ。室内はろうそくの淡い光で照らされ、窓からは星空が見えた。薄暗い部屋には栞だけではなく、フェイトとその従者の少女が揃っていた。

 

「どうだい、調子は」

 

 栞の背後に置かれた椅子に座るフェイトが、千雨の意識の覚醒を待って声をかけた。その右手には一冊の本を持っている。パタンと本を閉じ、フェイトは立ち上がって千雨へと歩み寄る。

 フェイトの無表情を見上げながら、『力の王笏』で自身と『ネギ』のステータスをチェック。

 どちらにも問題はない。

 

「無問題だよ。な? ネギ」

 

 フェイトに応えながら、千雨は隣に座る『ネギ』の顔を見上げた。

 精悍な顔立ちだった。父親であるナギ・スプリングフィールドに知性を掛け合わせればこうなる、という面貌である。

 そんな、すれ違えば誰もが振り向く笑顔で『ネギ』が囁く。

 

「そうですね、千雨さん」

 

 見つめ合い、微笑み合う。自分たちの空間を形成している二人に、五人の少女はそれぞれが表情を変えた。嫌悪を露わに眉間に皺を寄せる者。吐き気を堪えるように口元を抑える者。その中で栞は、青ざめる頬に一筋の涙を流した。

 しかし、フェイトはその無表情を全く崩さないまま、千雨と『ネギ』の空気を無視して話しかけた。

 

「ハセガワチサメ」

「あ? なんだよ」

 

 邪魔すんなと言わんばかりのとんでもない口調である。部屋にいた少女たちは皆度肝を抜かれ、千雨をまじまじと見つめた。

 

「『それ』は、なんだい?」

 

 それ、と言って指を指す先には、千雨を依然として笑顔で見つめ続ける『ネギ』だ。

 もちろん、これはネギ・スプリングフィールド本人ではない。実体化モジュールで顕現させた、ネギ型AIである。

 つまりは偽物。人形に過ぎない。それは見るからに不出来で、表情は笑み以外知らぬとばかりに不動。不気味の谷の深淵を見る者に覗かせる『それ』に対して、しかし千雨は何の疑問も持たずに断言した。

 

「ネギだよ、なんだ今更」

 

 何を当たり前のことを、という呆れが千雨の顔に書いてある。ここで暦の猫耳が完全に折れた。

 

「それより、あれからどうなったんだ?」

「あれ、とは?」

「いや、私倒れただろ。あの後」

 

 問われ、フェイトはポケットから魔法具を取り出した。鷲を模った天秤、鵬法璽だ。

 

「君の精神が崩壊しかけたことは覚えているかい?」

「んー、なんとなく。なんでそうなったのかは知らんけど」

「…………経緯はともかく、その時に君の精神を再構築する必要があってね。これを使って、君の精神を強引に縛り付けて、存在意義なんかも設定し直させてもらったりね」

「あー、そりゃ迷惑かけたな」

 

 千雨はちらりとベッドサイドの椅子に座る栞に横目を向ける。なんだろう、さっきから顔色が悪い。まるで理解不能の化け物を見るかのような視線を千雨に向けてくる。目が合うと大げさなほどに視線を逸らしてくる。

 なんなんだ一体。

 

「とりあえず精神の崩壊は防げたところで帰還して、君を安静にさせていたんだけど、気づいたら『それ』が突然現れてね」

「突然、現れた? ネギが?」

 

 千雨は首を捻る。

 

「何言ってんだ? ネギはずっと私のそばにいただろ」

 

 部屋に沈黙が降りた。

 誰かがたてた息を飲む音が耳につくほどの静寂であった。それ以外皆が、身じろぎ一つしなかった。

 そんな沈黙を破ったのは、やはりフェイトだ。

 

「計画に支障は?」

「計画?」

「千雨さん、あれですよ。世界再編魔法。魔法世界の全てを『完全なる世界』に送る」

 

 ネギの補足に、ああそうだったと千雨はうなづいた。

 この『ネギ』の言動は、基本的に千雨が無意識に組み立てたプログラムに沿っている。それは記憶の中にあるネギ・スプリングフィールドとの会話データを叩き台に、千雨の中にあった願望が練りこまれて作られたものだからだ。

 ネギとの繋がりを拒絶して崩れた基幹部分を、新たに作った『ネギ』で補完した。

 その結果、随分と歪になってしまったが、それでも『長谷川千雨』としての形をかろうじて維持できている。

 しかしこの『ネギ』を作成する時、千雨の精神プログラムは『鵬法璽』の支配下にあった。千雨に意識がなかったこともあり、この時の千雨の行動は全て『鵬法璽』の契約を守るべく動いていた。

 故に、『ネギ』の人工知能の思考アルゴリズムは、『鵬法璽』の契約を遵守するように偏向がかかる仕様となっている。

 

「千雨さん、約束しましたよね? 世界再編魔法を実行するって」

「ああ、した。したけどさ」

 

 千雨はこくりと頷き、ネギに身を寄せ、

 

「お前は、どうだ? 世界再編魔法を起動した方がいいと思うか?」

「もちろんです。約束ですから」

「んー、そっか」

 

 千雨はいつの間にか外れていたメガネを右手の中に再構築し、両目を覆うようにしながらそれをかけた。

 顔の上半分を隠しながら一言、

 

「わかった」

 

 自分は、ネギのために存在している。

 それ以外は何もいらない。

 千雨は、『ネギ』と絡め合う指先から伝わる体温に安らぎを覚えながら、『ネギ』と微笑みを交わした。


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