世界が終わりつつある。
空を走る何束もの魔力流が互いに干渉しあって渦を為す。
魔法世界各地で発生し始めた魔力流の渦は、周囲の魔力流を束ね、取り込み、その半径を拡大していく。
それを抑えようと各国の軍が出動し障壁を展開するも、竜巻の規模を大きく逸脱したそれは障壁を軍艦ごと飲み込み、ついにはスーパーセルもかくやといった様相を見せる。
パニックを起こし逃げ惑う群衆。転びまろびつ駆ける彼らの中でそこかしこに将棋倒しが発生し、踏み潰され圧迫されたりといった事故が多発する。
世界が、終わりつつある。
各地に発生する魔力の竜巻を超える濃度の魔力乱流が吹き荒れる、墓守人の宮殿上空。
ネギと月詠が乗る偵察艇は数体の悪魔によって吹き荒れる瓦礫から守られながら、小型艇に備えられている精霊による自動制御の力によって魔力乱流を巧みに乗り越えながら、上空に広がる麻帆良へと向かっていく。
そうしていざ地球へ、という段階で、大振りな岩塊が船に迫る。悪魔の膂力ではそれを弾き飛ばすことはできない。彼らのうち二体が協力して岩塊の軌道を逸らそうと試み、結果その背後にへばりつくようにしていた、光学迷彩を施された超包子印の肉まん型飛行艇の接近を許してしまった。
空飛ぶ肉まんからアンカーが飛んでくる。
甲板や整備用の手摺を捉え、巻き取られていくアンカーによって、二隻の船はその距離を縮めていく。この段になってようやく事態を認識したネギが操縦席から甲板へと飛び出てきた。
まずネギは甲板に鎮座するどでかい肉まんに目を見開き、その壁面の一部がプシュッと空気の抜ける音とともに四角く下向きに開くのを見て、うわっと声をあげた。
開いた縦長の長方形の穴をくぐり、階段となったそれを降りてくる二人組。彼らを見て、ネギは、一時呆然とした。
正直意味がわからない。
「…………長谷川さん」
一瞬の間を置いてネギは目の前の少女が、本来麻帆良にいるはずの『本物の』長谷川千雨であることに気づいた。
なぜあなたがここにいる。衰弱と混乱で霞む頭でネギは思う。
「おう、ネギ先生か? なんか顔色すげーわりーけど大丈夫かそれ」
「は、はい。体に問題はありません」
「な、ならいいんだけどよ。なんかやべーことに巻き込まれてんだって? 超から聞いたよ」
千雨は方頬を釣り上げるような笑みで、ネギに告げる。
「助けに来たぜ、ネギ先生」
千雨の手にはアーティファクトカードが握られていた。長谷川千雨が描かれた、自分の持つ仮契約カードと同じデザインのそれ。
ネギはひどく混乱していることを自覚しながら、千雨に問いかけた。
「そちらは、僕の式神ですよね?」
「ああ。先生が作ったんだって? すげえな魔法って」
「…………仮契約を?」
「まあ成り行きで。図書館島にドラゴンに出くわしたりとか、おっさん悪魔を追い返したりとかいろいろあって」
赤面している。成り行きだけの関係でないことは明らかすぎて、恋愛ごとに疎いネギにすらその思いが理解できた。
しかし、しかしだ。
その相手は、自分が作った、自分を模した式神である。つまり目の前にいる長谷川千雨は、人工物と仮契約をしたということ。
そんなことは本来不可能なはずだ。
あるとするなら、仮契約が成立するほど式神の精神が人間に近づいたということか。
未来で作られたという、あの長谷川千雨と同じように。
「でも、その、そちらは、式神なんですよ?」
「そうだな」
「僕が作った、人工物で、人形で、僕の、偽物です」
偽物だ。偽物なのだ。自分が作った式神で、代替に過ぎない。
自分にはできなかった。長谷川千雨が偽物であると告げられて、近づくことを躊躇した。
偽物に、人形に愛情を抱くことは悍ましいことなのだと、千雨本人から見せられて、こうして地球へと逃げ帰ることになった。
自分はこのざまだ。
それなのになぜこの少女は、こんなことができる。
なぜ、この長谷川千雨からは、あっちの千雨が醸し出していた悍ましさ、気味の悪さがないのか。
いくつものなぜがネギの脳裏を駆け巡る。
それなのに、目の前の少女は。
「知ってる」
「なのに、どうして? そんな、当たり前のように」
「いや、当たり前ってこたねーよ。いろんな葛藤はあったよ。式神って、ようはプログラムじゃねえか。そんな存在にマジになるなんてあれだろ、アニメとかゲームのキャラにマジになってんのと変わんねーんじゃねえかって」
同じ長谷川千雨だけあり、似たような例え方をするなあとネギは思った。
「そりゃいろいろ考えるさ。他人からみたら恥ずかしいんじゃねーかとか、正気を疑われんじゃねーかとか、本物は別にいるのにとか。オカルトに踏み込んじまって、平穏なんか遠ざかることになるし、正直冗談じゃねーよって思うわ。
でも、さ。仮契約できるってことは、人間らしい魂とか精神があるってことで…………いや、それも結局言い訳でさ」
耳まで赤くして、ガリガリと頭をかいて、言い澱み、逡巡に逡巡を重ねて、
「好きになっちまったんだからしょうがねーだろ」
ぼそり、と。ともすれば聞き逃してしまいそうな声で口にした。
「好きになったというのは、『式神のネギ・スプリングフィールド』を、ですか」
「そーだよ繰り返すんじゃねーよ」
あーくそ、と視線を逸らしながら、
「自分の気持ちに正直に、なんてすぐ割り切れるなら苦労しねーよ。それができねーから悩んでんだって話で、割り切るにはいろんなこと考えすぎちまうんだよ。私みたいな性格は。我ながらめんどくせー性格してんなとは思うけどさ。そんなのどうしようもねーし、変えられるもんでもねーし。
だから、私は思うんだよ」
頬に朱が走ったまま、それを誤魔化すように笑みを作って、彼女は言った。
「でかい悩みなら抱えて進めって」
「…………っ」
「無理に割り切ったって良いことねーし、だからって答えが見つかるまで立ち止まるわけにもいかねー。なら進むしかねーだろ。めっちゃ苦しい思いをするだろうし、理解を得られないかもしれないし、辛くて立ち止まることもあるだろうけど、それでも」
千雨が、傍に寄り添って立つ式神のネギの頭に手を置いた。
「こいつを選んだことに後悔はしねーから」
この時。
ネギの胸に沸いた感情は、一言で言えば嫉妬であった。
なぜ、そこにいるネギが自分ではないのか。
なぜ、そこにいる千雨が彼女ではないのか。
嫉妬であり、羨望であり、そして希望であった。
「長谷川、さん」
「うん?」
唾液を飲んで、乾いた喉を湿らせた。
「僕は、前に進めるでしょうか」
問いかけるネギの目を見据え、千雨は笑った。
「進む気満々のくせにヒトに訊くなよ」
千雨の言葉に、ネギも笑った。
「…………はい」
久々に、笑えた気がする。
『ああ、そいつは人間ではない』
態度のデカい金髪ロリの言葉を、初めは理解できなかった。
理解することを脳が拒否していた。
『人間じゃねーってんなら、こいつはなんなんだよ』
ベッドに寝かされたネギを指して千雨は問う。ネギは、微動だにしない。呼吸すらないのだ。
まるで、部屋中に並べられている人形たちのように。
手首をとる。温もりがある。人と変わらない体温。それがなによりも違和感を覚えさせる。
なぜなら、ネギに呼吸がないことに気づき、エヴァンジェリンの自宅であるという森中のログハウスに運び込んでから、すでに1時間は経過しているのだから。
『ふむ、さすが良くできているな。学校の連中の誰も気づいていない。魂魄構造もまるで人間そのものだ』
『なんだよ、わかるように言えよ!』
『ま、まあまあ姐さん落ち着いて、闇の福音にキレるとかちょっと非常識っスよ』
『うるせえなオコジョが人間様に常識語んじゃねーよ! つうかオコジョが喋んなよ!』
『ひでぇ』
横たわるネギの枕元からオコジョが言う。まあまあなんてジェスチャーを見せるところが実に腹立たしい。
『そいつはただのオコジョではない。オコジョ妖精といってな。そのからだは肉体よりむしろ精神に寄っている魔法生命体だ』
『妖精だぁ?』
何言ってんだこのロリは、と千雨は小馬鹿にした表情を見せた。
『ムカつく顔だな。ヤツを思い出す』
『いや誰だよ、八つ当たりとかやめろよ』
エヴァンジェリンが指を鳴らした。なんだ、と思う間も無く千雨は自身に起きた異常に気づく。
『体が…………!』
『言っておくが催眠術だとか、そんなチャチなものと一緒にするなよ? 魔法はこの世に厳然として存在する技術だ。一般には秘匿されているがな』
『いや、別に魔法については…………じゃあ、先生がこうなっているのも魔法のせいってことか?』
『まずコレは本物のネギ・スプリングフィールドではない。魔法で作られたぼーやの模造品だ』
千雨はこの時、夜の病院で交わした学園長との会話を思い出した。
違和感はあったのだ。いきなり目の前でパームトリックを見せてきた。
あれはおそらくカマをかけてきたのだろう…………待て。
あの時、ネギは学園長に向かってなんと言っていた。細かくは覚えていない。しかし、自分が記憶を失ったとされるあの夜、千雨がネギを助けたと、そう言ったのだ。しかし千雨にその記憶は無く、その痕跡とされる制服は自分のクローゼットの中に揃っていた。
『もう一人の、私』
『ん?』
『もう一人私が、いるのか? そいつがネギ先生を何かから助けた、とか』
心の片隅で思っていたことだ。誰かが自分のフリをしていたのではないかと。そんなことは不可能だと考えて切り捨てていたが、現にネギそっくりの偽物が目の前にいるのだ。
エヴァンジェリンは千雨の拘束を解いて、
『察しがいいな。そうとも、ぼーやはもう一人の貴様に命を救われた。もう一人の長谷川千雨がその後姿を消したため、それを探すためぼーやは麻帆良を離れた』
『じゃあ、こいつは、その身代わりってことか?』
うむ、とエヴァンジェリンは頷いた。
『それにしても、改めて見てもすごいなこれは。たかが身代わり程度のことにここまで緻密な人造霊魂を拵えるなど、ずいぶんと凝り性というかなんというか』
『…………いつからだ』
ネギの式神を観察していたエヴァンジェリンが、千雨のつぶやきに振り向いた。
『何か言ったか?』
『いつからだよ。その、身代わりと本物が入れ替わったのは』
『修学旅行の直前からだな』
ひでぇ、と千雨は思った。
『エヴァンジェリン、あんたこいつを魔法でできた偽物って言ったよな』
『言ったな』
『それは、ロボットのようなものか? つまり、感情もなく、プログラムってものが魔法にあるのか知らねーけど、そういうもので動いてるのか?』
だとしたらあんまりだと千雨は拳を握った。
あの修学旅行からいろんなことがあったのだ。本屋が告白したことはクラスメイトから聞いていたし、ネギの言葉の1つ1つに多くの生徒が笑い、感じ入り、委員長に至っては涙を流したりすることもあったのだ。自分とてネギと言葉を交わし、オカルトなあれこれに巻き込まれながらも絆を深めてきた自覚があったのだ。正直に言えば、未熟ながらもひたむきに頑張り続けるネギ先生に惹かれていたと言えなくもなかったりするのだ。
それも全て嘘か。
偽りの感情とでも言うのか。
千雨の葛藤が込められた問いかけに、エヴァンジェリンはただ一言、
『さあな』
『さあ、て』
『私が知るわけないだろう、他人がどんな気持ちでいるのかなど』
エスパーじゃあるまいし、と彼女は鼻で笑う。
『いやそうじゃなくて、こいつに心があるかって話を』
『じゃあ貴様に心はあるのか?』
『…………あるだろ、そりゃあ』
『それが定説です、か? 便利な言葉だよなあれは。一切の反論を封じたつもりになれる詭弁だ』
エヴァンジェリンは腕を組んだ。仁王立ちであるが、タッパが足りなくて威厳は感じられない。
『心の存在を客観的に証明することなどできない。主観でしか観測できない、どころではない、本人の主観を構成するものだからな。さらに言ってしまえば、自他問わず、自我が存在すると感じるのは貴様の気のせいだ』
『自他って、自分のもかよ? ああつまり、脳神経が見せる幻ってことか』
『自他共にな』
エヴァンジェリンはベッドの脇にある、えらく気味の悪い人形を1つ持ち上げて言葉を続ける。テディベア程度の大きさながら、今にも笑いながら人に斬りかかってきそうに禍々しさがある。
『人形に自我はない、と人は当たり前のように言うだろう。だが愛着が湧けば扱いも丁寧になる。傷をつけてしまって悲しくもなれば、特に意味もなく修繕し、満足感を得ることもあるだろう。貴様にはそういった経験はないか?』
言いながらエヴァンジェリンから人形を手渡される。触れてみてようやく、人形の両手に握られているククリナイフが本物であることに千雨は気づいた。
『まあ、なくはねーけどよ』
『この世で最も愛着のあるのは『自分自身』だ。だから脳が分泌する神経伝達物質に反応して感情なるものを誘発させる。『心』と呼ぶ何かしらの存在を錯覚しながらな。結局心の有無などその者の考え次第、愛着の差に過ぎないということだ』
少なくともこの人形に愛着を持つことは一生ねーな、と千雨は思った。
『逆に愛着を持たず、人間だろうとマネキンを砕くように殺せる人間は大して珍しくもない。なあチャチャゼロ』
『ケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケ!!』
『ぎゃああっ!?』
突然口をカタカタカタカタと震わせながら奇声をあげた人形を、千雨は悲鳴をあげてぶん投げた。人形は天井にぶつかってからあらぬ方向にバウンドしてベッドに落ち、手に握る二刀のナイフがカモを挟むように両脇数ミリの位置に突き刺さった。カモは声も出せずに全身の毛を逆立たせた。
『な、なんだそれ! なんだそれ! なんだそれ!』
『オイオイ、モウ少シ丁寧ニ扱エヨ、イテージャネーカ殺スゾ』
『それなどと言うな、私の600年来の戦友だぞ?』
『何が600年だ中二病かクソロリが!』
そこでカモが恐る恐る口を挟んだ。
『千雨の姐さん、このお方はですね、本当に600歳を超える真祖の吸血鬼でしてね?』
『…………吸血鬼?』
『しかも元は600万ドルの賞金首で、今でこそ深い事情があって中学生やってますけど、本来は泣く子も黙る、魔法世界のナマハゲとして寝物語に語られる、知らない者はいない常識レベルの危険人物で』
『だから人間様に常識語んなって…………』
千雨に悲鳴をあげさせたことがよほど嬉しいのか、エヴァンジェリンはニヤニヤと笑みを浮かべながら人形を拾い上げた。
『さて、一泡吹かせたところで本題に入るか』
『結局八つ当たりじゃねーかロリババア』
『次ババアと呼んだら殺すぞ。今、こいつにはまず魔力が足りていない』
エヴァンジェリンはベッドに眠るネギを顎で指して言う。
『魔力、か』
『そうだ』
『で、それが足りねーとどうなんだよ、イオナズンが使えねーとかか?』
『消滅する』
千雨が口を噤んだ。
『な、んだよいきなり。消滅?』
『魔力で作られたと言ったろう? 込められた魔力が尽きればそりゃ消えるさ。ああいや、貴様に言うならもっと適した言い方があるな』
エヴァンジェリンはズイ、と顔を千雨に近づけた。身長差から見上げる形になっているのに、先程と違って妙な圧力を感じる。
『あと二時間ほどで、このぼーやは死ぬ』
千雨の額に汗が滲んだ。
『…………死ぬ、て。そいつは、偽物なんだろ? 人間じゃないって』
『お前が偽物だと思うのならそうなのだろう。お前の中ではな』
『んだよ、それ』
『私はこのチャチャゼロを戦友だと思っている。600年に渡り背中を預けていくつもの戦場を渡ってきた。こいつは人形であり、魔法仕掛けのカラクリだがな、そんなことはどうでもいいのだ。私の中ではな』
ほれ、とエヴァンジェリンが布団をめくれば、ネギの指先が薄く透けていた。
『透けて…………』
『どれだけ精巧に作られていても、こうなることは当然の理だったな』
『長持チシタ方ジャネーノ?』
ケケケケケ、と殺人人形が笑う。エヴァンジェリンも、千雨を眺めながら口を三日月のように裂けさせる。何がそんなにおもしれーんだ、と千雨はエヴァンジェリンに聞こえるように舌打ちした。
思うところはある。いろんな葛藤や悩みが胸に渦巻いて、正直感情の整理が全くついていない。何が正解か見当もつかない。
でも、だ。
『どうすりゃいいんだよ』
『何がだ? 女子中学生の漠然とした人生相談なぞ私は知ったことではないぞ』
『こいつを! 助けるにはどうすりゃいいんだって訊いてんだよ! それともそんな方法わかんねーか? 600年ものの吸血鬼ってのはやっぱフカシか』
『やはりムカつくな貴様ら』
ふん、と鼻で息を大きく吐いて、エヴァンジェリンは一言で解決策を述べた。
『仮契約だ』
『パ、なんて?』
『オコジョ、説明しろ』
へい! とカモは命じられて背筋をピンと立てた。
『仮契約というのはですね、魔法使いとパートナーの間にパスを繋いで、二者間で魔力供給や念話ができるようになるって術式でして』
『魔力供給…………つまり魔力を先生に分けるってことか、アニメチックだなぁ』
『ですがね、姐さん。見たところ姐さんには魔力がえらい少ないみたいで、正直仮契約したところで』
『あ? いや別に私が仮契約だかをする必要はねーだろ?』
『貴様がしなけりゃ誰もしないがな』
え、と千雨が目を見開く。
『何を驚く? そいつはネギ・スプリングフィールドの模倣品にすぎん。目の前で消滅したところで心を痛める者もおるまいよ』
『そ、そんなことはないだろ。うちのクラスの連中なら』
『ぼーや本人を慕っている生徒は多いだろうさ。だがその偽物で、ずっと自分たちを騙していた、とあってはどうかな』
『そんなことまで説明する必要はねーだろ! 適当に騙くらかして、魔力だかなんだかを持ってる奴を、つうかエヴァンジェリン、あんたがやりゃいいじゃねーか』
『そんな義理も愛着もないな。加えて、これには魔力の枯渇だけでなく、術式の綻びが見える』
つ、とエヴァンジェリンがネギの表面に指を走らせる。ネギの皮膚が一部解け、内側から緑色に淡く光る、ローマ字に似た文字が浮かび上がった。
『もともとこいつを構成する術式はここまで長期に渡って式神を顕現させられるようなものではない。ぼーやがアレンジを加えたお陰で今までその形を保持できていたのだろうがな、それもついに限界というわけだ』
エヴァンジェリンの細い指が円を描くと、綻んでいたネギの皮膚が元の形に戻った。緑の文字列もその中へと埋もれていった。
『魔力の不足も崩壊した術式から漏れたせいだな。というか、周囲のオドや放散余剰魔力を取り込む術式が加えられているな。なんだこれは。この術式だけで歴史に名前が残る偉業なのだが』
『…………』
『だがまあ、突貫工事というか、細部に甘さがあるな。むしろ、この式神は耐久実験のつもりだったのだろう』
『なんだよ、実験て』
『つまり、新しく開発した魔法がどれだけ機能し続けるか、を調べるための観測装置なわけだな、これは』
くそったれ、と千雨は悪態を吐いた。人間をメモ帳か何かと勘違いしてんじゃねーのか。ヒト一人作って試し書きか?
『ただ仮契約をするだけでは救えない、ということだ。魔力を供給するだけでは術式のほころびから溢れ続けるだけだ』
『じゃあ、もうどうしようもねーのか…………?』
沈痛な声が千雨の口から漏れた。カモも思わず俯いてしまう。
『可能性があるのは、貴様が仮契約をすることだ』
千雨が胡乱な目をエヴァンジェリンに向けた。
『なんで、私だよ』
『もう一人の貴様がいる、という話が先程出たな。そいつは、紛れもなく『長谷川千雨』そのものだった。クローンか魔法的コピーか、未来からやってきた貴様かは知らんがな』
『おい待てそれ私いろいろやばくないか、知らねーうちに何かに巻き込まれてる気配バリバリなんだが』
『そいつが本物のぼーやと仮契約を交わした。その結果得たアーティファクト、つまり魔法的な特殊能力を持つアイテムを仮契約によって得られるわけだが、それが『術式を自在に操る能力』を担い手に与えるものだったわけだ』
数秒、千雨は思考を巡らす。
『それを使えば、先生を助けられるのか?』
『可能性がある、というだけだ。不安要素として、あと二時間弱で貴様がどこまでそのアーティファクトを使いこなせるようになるかもわからん、というのがまず1つ』
エヴァンジェリンが指を一本ずつ立てていく。
『2つ目に、このぼーやの偽物が仮契約を結べるほどの精神構造を所持しているか。そもそも仮契約自体できない可能性がある。貴様の言うように、単なる機械が仮契約を結ぶことなど不可能だ。
3つ目に、仮にそれだけの精神構造があったとして、貴様とこれとの間の仮契約で望み通りのアーティファクトが発現するか。
4つ目に、貴様にそれだけの覚悟があるか、だ』
『なんだよ、覚悟って』
『仮契約を結べば、こちら側に巻き込まれるぞ? 貴様は自分のテリトリーを脅かす存在を殊の外毛嫌いしていただろう。これ以上これに関われば、貴様のちっぽけな部屋1つ分のテリトリーなど一瞬で吹き飛ぶぞ』
なぜこいつは自分の内面に関してここまで詳しいのか、と千雨は疑問に思うも、それはなんのことはない。麻帆良大橋での一件からエヴァンジェリンは千雨について調べていた、というだけのことだ。
『仮契約という儀式の持つ意味も言っておこう。これはな、魔法世界においては主従の忠誠を表すものであったが、今ではすっかり形を変え、恋人探しの口実になっている』
『は、はあ?』
『こいつと仮契約を結んだ、という事実が知られれば、そういう目で見られるということだ。ああ、あと仮契約の方法はな、専用の魔法陣の上での口づけだ』
『な、な…………』
顔を赤くして戸惑う千雨を、エヴァンジェリンは睨みつけた。
『勘違いするなよ、これはそんな赤面するような話ではない』
エヴァンジェリンが再び指を走らせ、ネギの胸部から術式を露出させる。人間であれば心臓があるべきそこで流動する文字列の様は、まるで歯車のようだと千雨は思う。
『これと、この人工物と、そういった関係であると見られるということだぞ』
『…………いや、お前だって人形のことを戦友だのなんだの言ってたじゃねーか』
などとまぜっ返してみるが、それでも千雨の中にわずかな葛藤が生まれた。葛藤が生まれてしまう自分が、とても汚いものに思えた。嫌悪感すら湧いた。
人工物、たとえば千雨とて馴染み深いアニメや漫画のキャラクターに、本気で恋することなどありえないと自分では思っている。ネットでたまに見受けられる、行き過ぎたファンの発狂具合を見てうわぁ、なんて感じていたりもする。
手のひらにじんわりと汗が滲んだ。
目を閉じたままのネギを見る。
綺麗な寝顔だと思う。
その唇に口づけることで、自分の人生があらゆる面で大きく変わってしまう。
その唇が動いた。
『…………千雨、さん』
『先生!?』
瞼も薄らと開く。焦点の合わない瞳が、千雨へとかろうじて向けられる。
『すいません、千雨、さんには…………ご迷惑を』
『な、何が迷惑だよ。体調悪いんだろ、寝とけよ』
起き上がろうとするネギを抑えて、千雨は布団をかけ直した。
『すみません。こんなことに、巻き込んでしまって』
『気にすんなよ、私と先生の仲だろ』
『先生として、責任持って、脱出させますので』
脱出? なんのことだ、と千雨は眉を潜めた。エヴァンジェリン邸から脱出させる、という話だとしたら腑に落ちない。ここがエヴァ邸だと認識できるのなら、隣にいるエヴァ本人も認識しているはずではないのか。エヴァンジェリンも怪訝な顔をしている。
『あのドラゴンは…………ワイバーンの亜種で、それほど飛行速度は』
『まて、ドラゴンだと? こいつはなんの話をしている?』
『…………あ』
わかった。
それは、修学旅行から麻帆良へと戻ってきた直後。ネギの変わりように違和感を覚えた千雨がネギを訪ね、そこからなんだか妙に懐かれて。ネギ先生の過去だとか事情を聞いて、なんとなく同情心が湧いて、図書館島の地下に向かうというこいつに着いていって。そこでファンタジーの権化とも言える、ドラゴンと遭遇した。
その時の、こいつの言葉。
必ず守る。身と引き換えにしても、必ずあなたを日常に戻す、と。
『大丈夫、ですから。僕が、必ず…………』
『…………ばか、かよ』
もっと考えるべきことがあるだろう。自分の体が消えかけてんだぞ。この期に及んで、なんで私の心配するんだよ。
『…………エヴァンジェリン』
『なんだ』
『その、仮契約ってやつ。やるよ』
少女は吸血鬼を正面から見据え、宣言した。
その目を見て、エヴァンジェリンは笑った。十年かそこらしか生きていない少女の目に宿る、覚悟が見えたからだ。
『だから、その専用の魔法陣てやつ、用意してくれ。どうすりゃいいんだ?』
『オコジョ』
エヴァンジェリンに言われ、カモがベッドの下に一瞬で魔法陣を描いた。桃色の淡い光がネギを包む。
『ここで、キスすりゃあいいのか?』
『そうだ』
『そうか』
エヴァンジェリンから視線を外し、千雨はネギへと向き直る。
『だが本当にいいのか? 貴様の人生を差し出すほどの価値が、これにあるのか?』
千雨は答えない。
『それに、先にも言ったことだが、これと本当に仮契約できるかどうかは未知数だ。いいのか? もし仮契約が結べなければ、これが単なる物でしかないことの証明になるが』
『…………意地悪いな、さっきと言ってること違うじゃねーか』
『今のこれの寝言、これは過去に実際言った言葉だな? 術式の崩壊が進んで、記憶が削れていっている。おそらく、そのドラゴンと出くわした記憶以外が全て失われて、その時間を壊れたレコードのように繰り返すだけだ』
つまり、今の寝言こそこのネギが人工物としての側面が大きいことの証明だと、エヴァンジェリンは言う。
『そのことを貴様自身の手で明らかにするくらいなら、どちらか不明のまま消滅するに任せた方が、綺麗な記憶として残るのではないか?』
ああつまり完全に他人事なんだな、と千雨は理解した。まぜっ返して楽しんでいるだけだ、と。自分がどんな反応をするのかを楽しんでいるのだ。
『正直、よくわかんねー』
『ふむ?』
『迷いとか、躊躇とか、いろいろあるさ。それでも、立ち止まってるわけにはいかねーだろ』
それにさ、と呟くように言いながら身を屈め。
『自分を構成するものが失われていって、最後に残ったものがあるなら、それはきっと、そいつにとって一番大切なものなんじゃねーかな』
『…………たまたまかもしれないぞ?』
『そう思うならそうなんだろ、あんたの中では』
いまだうわ言を繰り返すネギに顔を近づけて。
『偽物とか関係ない。こいつと、このネギ先生との繋がりが、私にはあるんだよ』
あなたを守る、と。正面から目と目を合わせながら告げられたあの言葉を思い出しながら。
千雨は、ネギと契約を交わした。