『千雨さん千雨さん』
「あれ、ハカセか? 珍しいな」
だいたい3か月ぶりの通信である。相変わらず後ろ姿しかこちらに見せてくれない。今日はその長い髪を一本の太い三つ網にして背中に垂らしている。
「触覚の構築プログラムはまだ締め切り遠いよな? あれ、勘違いしてたか私?」
『いえいえ、今回はそれとは別件なんです』
ハカセは流れる動きでキーボードを操作して、こちらに画像ファイルを転送してきた。展開すると、それはどこかの建物の見取り図らしい。
「なんだこれ?」
『実は千雨さんの電賊としての能力を見込んでお願いがありまして』
「……法律を犯すような行為は慎みたいんだが」
『いえいえ、特に誰かに迷惑をかける話でもないんですよ、多分』
はあ、と千雨はため息を吐いた。
戦争が始まるより前は論文の投稿や学会参加など研究成果の公開という場は当然のように設けられていたのだが、戦争が始まってからはあらゆる技術や研究成果が軍事機密としてプロテクトされるようになった。なので他国の技術情報を手に入れるために、ハカセは時々こうして千雨に『お願い』することがあるのだった。
「いやいいけどよ。なんでそれで見取り図? つうかどこだよこれ」
『MITの情報系の研究棟ですね』
「……MITかー」
かつて千雨はMITの研究室に探りを入れたことがある。特に何が目的だったと言うわけではなく、ハカセに依頼されていた新しい電子防壁のプログラミングが行き詰っていて、なにかヒントになるものはないかという、あえて言葉にするなら刺激を求めての探りだった。なにもそのテクノロジーの深い部分まで調べ尽くすつもりはなく、今何を研究していて何ができるようになっているのか、それを知るだけで十分閃きが得られるのだ。
だがそこで思わぬ反撃を受けた。ある情報系の研究室を保護していたアンチウィルスプログラム。旧世界の電子精霊を用いない技術では千雨の『力の王笏』に敵うファイヤ・ウォールなどあるはずがない。ペンタゴンのセキュリティすらほぼ素通りに近い感覚で突破できるのだから。なのにその研究室のアンチウィルスプログラムは領域に入った千雨を即座に発見し、電脳戦で千雨と互角の戦闘を繰り広げ、退却に徹した千雨を猟犬のごときしつこさと正確さで追い回した。このとき千雨は世界中に展開されていた軍事衛星のセキュリテイをバリケードにしながら逃走し、世界を8周したあげくに一番避けたかった最後の手段、マホネットへの退避をすることでようやくその追跡を巻くことができた。
あのプログラムは何だったのだろう、と千雨は今でも恐怖とともに思い出す。こちらのばらまくチャフやデコイをことごとく看破し、臨機応変にこちらの逃走経路を割り出し、時には先回りまでしてのけた。
あの動きはプログラムというより、まるで生きているかのような──
『実は、この研究室には妙な噂がありまして』
「……噂?」
『1995年に起きた大規模サーバーテロ、覚えていますか? 覚えていなければちょっと調べてください』
「ああ、いや、覚えてるよ」
かつて、あらゆる映像メディアやネットにつながったパソコンで放映された、怪物と少女の戦闘シーン。それを前後して行われた金融機関など情報をメインに扱う施設への破壊活動。千雨は当時の社会の混乱を断片的にだが思い出せる。父親が勤めていた証券会社が危うく倒産というギリギリのところまでいったらしく、そのころの千雨家は非常にピリピリしていた。
『そのとき流れた少女と同じ姿をした女性が目撃されていましてね』
「……ああ? 他人の空似じゃねえの?」
『MITにて、女性が入ったはずの部屋から消えたという目撃情報もあります』
む、と千雨は押し黙った。
あの事件の直前、世界中で同じ外見をした少年が現れて破壊活動を行った。監視カメラの映像もあり、国際警察はその少年を国際指名手配していて、いまだ捕まっていないどころか目撃情報も手に入っていないらしい。
『ただ世界中に流れた映像に映る女性と似ている、というだけなのでその方が指名手配されているわけではないのですが。その「映像の女性」が、指名手配された少年と同じようにある場所から出たり消えたりする、というのは何かある気がしませんか?』
まさか、『転移』の技術がMITでは開発されている? 千雨はそう思った。その技術を使って少年が大規模なテロを犯し、同じ技術を持つMITの女性がその少年を止めた。あの怪物と少女の戦闘シーンがなんの意味を持つのかは分からないが。
そして、転移についての考察はハカセも同じだったらしい。
『ちょっと千雨さん見てきてくれますか。その転移の噂の正否の確認だけでもいいんですが、できればそのシステムを調べてきてください。あと本当にできればその転移技術をコピーしてきて、あと高望みをすればMITのその転移技術に関するデータは削除してきてください』
「無茶言うなバカ」
本当は侵入するだけでもごめんなのだ。
が、千雨は心の中にわくわくしている自分がいることも自覚していた。かつて油断と準備不足があったとはいえ、『電子の王』を名乗る自分を敗北一歩手前まで追い込んだプログラム。否、一歩手前どころかあれは敗北と言っていい。マホネットに逃げ込むなど、格闘技の試合に戦車を持ち出すことに等しい。この私が敗北したままであっていいのか。そう自問すれば即座に否の声が胸に響く。
やってやろうじゃねーか、と千雨は頬を釣り上げた。
──────────────────────ー
未練があったのだろう。
エヴァンジェリンは自分の中にある感情を悟った。
いつかきっと、と思い続けて。諦めるなんて死んでもできない。心の底に沈殿したナギへの思いは、未だ溶解しないまま残っていた。
登校地獄の呪いは、そんな男が唯一自分に残してくれたもの。こんな考え方はやはり未練がましいのだろう。まるで闇の福音らしくない。呪いにくくられていることも、未練をいつまでも残していることも。
その呪いを断つためにナギの姿を破壊しなくてはならないとは、本当にいい趣向だ、とエヴァンジェリンは廊下を歩きながら苦笑を浮かべた。
信じたくなかった。
ナギが死んだなどと言われても、いつか会いに来てくれると信じていた。
孤独に飽いた自分の傍にいてくれる誰かを求めていた。だが隣人を求めるには自分はあまりにも有名すぎた。
近づいてくる者は敵だけ。
なのに強制的に学園にくくられ、意図せずして平穏を得てしまった。
ぬるま湯のごとき日常と、その中で与えられる出会いと別れ。世界樹が自身を守るために放つ認識阻害の結界が、エヴァンジェリンへの認識を一般人から誤らせる。『自分と一緒に卒業したエヴァンジェリン』は、目の前にいる『中学一年生の少女』とは別人だと認識させた。三年ごとに繰り返される世界樹による認識の阻害。そんなこと闇の福音には何の意味もない。出会い、裏切られ、別れる。それを何百年と繰り返した自分にはむしろ当たり前のことだと、そう自分に言い聞かせた。
むしろ孤独であってこその闇の福音。
にもかかわらず学園長は、メガロ出身の魔法使いとの間に立って緩衝材となってくれていた。サウザンドマスターに倒されたからと本国に懸賞金を取り下げるよう走り回ってくれたのも奴だ。
麻帆良中学のOB・OGである魔法先生を自分の担任にしてくれていた。皆自分の特殊な事情に理解がある。魔法関係者や魔法生徒は自分への認識阻害が効かないことを知った。
侵入者の位置の報告という、力が封じられていてもできる仕事を割り振ることで、『エヴァンジェリンは学園の警備に協力している』と、周囲への印象を良くしようと骨を折っていることも知っている。
それらのことに、感謝している自分がいることも気づいている。
つまり自分は、今の生活が好きなのだろう。だからそれを守ってくれる学園長やタカミチなど魔法先生に感謝の念が浮かぶのだ。魔法先生などどいつもこいつも甘々なお人よしで、ナギが呪いを解きに来なかったのも、きっとそれが正しいことだと思っていたからか。
麻帆良でなら、私が光の中で生きることができているとわかっていたから。
──だがな、ナギ。
悲しみを覆うような、曰くしがたい笑みを浮かべる。
──私はプライドが高いんだ。ただ与えられた平穏など性に合わん。
施しなどいらない。ただ与えられる者は飼われる豚と変わらない。
弱者に与えることがマギステルマギの役目なら、それを拒絶することは悪の魔法使いの義務だろう。
呪いを勝手に解いて、自分は完全に信頼を失うだろう。メガロメセンブリアへの懸賞金撤回の口実もなくなる。学園の人間たちは落胆するだろうか。信じてたのに、と。
──まあ、それも一時のことだ。
それらの信頼は学園長、あるいはタカミチが取り計らうことで得られたものだ。それを今エヴァンジェリンはゼロにした。あるいはマイナスか。だが、
──信頼だって、勝ち取るものだろうさ。
笑みは深まり、声が漏れ、ついには高笑いとなる。
──そうさ、欲しい物は自分の力で手に入れるのさ。なぜなら。
「なぜなら我が名は闇の福音、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル!」
「なにしちょるのお主」
「のわあっ!」
後ろには、いつのまにか学園長、近衛近右衛門がいた。呪いが解けてテンションがアッパーはいったエヴァンジェリンに訝しげな視線を向けている。
「どうしたのかねこんな時間に。わし今ちょっと忙しいんじゃけど」
よく見れば、普段は整えられているひげやらちょんまげやらが幾分か乱れて見える。書類を抱えて向かう先は学園長室だろう。この廊下の先にはそれしかない。近右衛門の先導に従い、学園長室に通される。
椅子についた近右衛門の前に立ち、エヴァンジェリンは頬の熱さを自覚しながら、取り繕うため一度咳を挟み、
「報告をな。あれだ、呪いが解けたんだ」
「おお、今日は停電の日じゃからの」
「え?」
「え?」
そろって首を傾げる。どうも情報伝達がうまくいっていない。
「呪い? 魔力封印ではなく呪いの方が解けたのかの?」
「ああそうだ……というかちょっと待てじじい。貴様なんで私が『停電の日に魔力が復活することを知っている』という前提で話す?」
「え、だって知っとるじゃろ」
「いや、というか私の魔力を封じている結界があると知ったのがつい最近だ」
学園長は、えー、となんか逆立ちして歩く猫をみたような顔をした。
麻帆良結界に電力を使用するようになったのはおよそ三十年前。それはIBMPCが開発された時代であり、魔法使い側からすれば電子精霊が観測された頃でもある。この頃から魔法と工学の融合に向けての研究が魔法世界でも始まり、その研究成果の一つに電力から魔力を、魔力から電力を生み出す機構があり、学園都市を守る麻帆良結界にはそれが使われている。
「そんなわけないじゃろ、今までだって停電になってたわけじゃし。お主が麻帆良に来てからも毎年、年に二回、お主の魔力は復活していたはずじゃが」
「え、いやだって、停電の時は魔法球の中で寝てたし」
「毎回?」
「毎回」
沈黙。
「伝え忘れていたわい、すまんの」
「いや、いい。気づいていなかった私が悪い……ん? 停電中でも予備電力が結界に使われているんじゃないのか?」
「それは病院とか、命に関わるものを賄うのでギリギリじゃな。魔法関係者で結界の代わりが務まるのじゃからそちらには回さん。というか停電中に結界のメンテナンスをしとるわけで」
近右衛門は今の会話に違和感を覚えた。思い出し、記憶を三回ほど反芻して確認して、今自分の耳が捉えた違和感の正体に気付いた。
エヴァンジェリンが、謝った?
「それなら停電の日くらいは麻帆良結界周辺の警備に参加させてもよかったんじゃないか?」
「……ん、いやそれは無理じゃ」
「無理? 何故だ」
「大停電で麻帆良結界をいったん解除するのはの、魔法生徒の演習をしているからじゃ」
麻帆良には世界樹という強力な魔力を宿す存在がある。それに引きつけられた低級霊や妖の類は麻帆良結界に邪魔されて中に入ることができない。だがそのままでは麻帆良の外側に妖魔が溜まる一方である。なので麻帆良ではそれらの駆除と魔法生徒の演習を兼ねて年に二度結界を解除し、彼らに防衛戦の訓練を施している。
一つの拠点の防衛技術。それは難民キャンプや紛争地帯での医療テントを守る上で最も必要とされる力だ。
「なるほど、じゃあ停電の時間帯が8時から12時という時間なのもそこか」
「丑三つ時を挟むと霊や妖が活性化してしまうからの。魔力に引き寄せられるほど低級であっても万が一はある。ああそれと話は変わるんじゃが」
「なんだ?」
「あの呪いをどうやって、誰が解いたのかが気になっての」
「長谷川千雨」
借りができた、とエヴァンジェリンは思う。
いつか返さなくてはならない大きな借りだ。
借りとは、呪いが解けたことではない。それは奴の作戦のうちで、ネギを襲う理由を自分から無くすためでしかない。奴が悪の魔法使いを利用して、何らかの目的を果たそうとしていること。そしてそれを一部であれ果たさせてしまったことだ。奴の目論見どおりに自分が動いてしまった。
まったくもって気に入らない。
弱いくせにこの闇の福音に歯向かい、最強状態の自分からこうして逃げおおせた。自分を利用するというおまけまでつけて。
ニタリ、とエヴァンジェリンの顔が歪む。その笑みと呼ぶにはあまりに禍々しい表情の裏で心に誓う。
奴が何を企んでいるのかは知らない。だがそれが麻帆良に害を為すものであったなら躊躇しない。麻帆良はこのエヴァンジェリンの領域なのだから。
むしろそうなってほしいとすら思う。そうすればこの借りを、熨斗を付けて返してやれる。
──闇の福音を舐めるとどうなるか、身をもって教えてやる。
とかなんとか考えてるエヴァンジェリンの表情を見て、悪い顔じゃなあ、と近右衛門は思った。
「長谷川千雨、というと今麻帆良病院で治療を受けている生徒じゃな? 報告はあがっとるよ」
学園の魔法先生たちは、警備の面から生徒たちを四つに分けて対応している。
一つ目はもっとも数が多い一般生徒。魔法も気も知らず使えもしない、魔法を秘匿すべき一般社会に生きる学生である。
二つ目は特殊生徒。魔法やその風俗についての知識はないが、一般人からは逸脱しており麻帆良の外では異常者として扱われかねない生徒を指し、3-Aでは相坂さよや葉加瀬聡美がそこに分類される。また、我流あるいは家系として独自の魔法や気、それに準ずる技術を習得している生徒も含まれ、古や長瀬楓などがそれに該当する。
三つ目は魔法生徒。彼らはクラスの警備の為に各クラス二、三人ずつ配属されている。その実力はなるべく均等になるように割り振られていて、3-Aでは神鳴流の桜咲刹那と見習いの春日美空がそこに含まれる。あと龍宮真名がいるが、彼女は神楽坂明日菜と近衛木乃香に何かあった場合に即対応してもらうという契約を学園と結んでいる臨時の傭兵扱いであり、魔法生徒としての仕事をしているわけではない。まあ人手が必要な時はたまに刹那と一緒に警備の仕事を回されたりはするが。
四つ目は要注意生徒。これはさらにVIP扱いと危険人物の二つに分けられ、前者は神楽坂明日菜と近衛木乃香、ザジ・レイニーデイに雪広あやかの四人が、後者はエヴァンジェリンと超鈴音の二人が挙げられる。こういった生徒は毎年数人現れるのだが、警備・監視の都合上学年ごとに一つのクラスに集められる。
そして千雨はそのなかの一般生徒に属する、特筆すべき点のない生徒の一人だった。
「彼女がどうかしたのかの?」
「奴が呪いの精霊を実体化させてな。それを私が粉砕してやった」
なんと、と近右衛門は素直な驚きを見せた。しかしすぐ矛盾に気づく。
「じゃが、治療にあたった魔法先生からの報告では、彼女は一般人としても魔力容量が低い方だとあったが。そのため治癒魔法をかけすぎると余剰魔力で身体に異常がでると」
「ああ、奴は魔力容量が低い、まともに魔法が使えんほどに。だが他人の術式に介入するアーティファクトを得た。ぼーやと仮契約することでな」
「ふむ、それを使って呪いをいじり、精霊を実体化させたと」
確かに、精霊の実体化自体は難しいことではないし、術式を多少いじるだけでいいから魔力も必要としない。問題なのはいじる術式の構成の把握だ。だがサウザンドマスターがかけた登校地獄の呪いの術式はもはやオリジナル魔法と言ってもいいほどめちゃくちゃな改変がされていた。エヴァンジェリンを麻帆良の警備員とするために麻帆良に縛る術式がまず加えられていて、さらに呪いを麻帆良結界とリンクさせ、結界を超えた侵入者の存在をエヴァンジェリンに伝える機能を付加させた。
そんな複雑な術式のアレンジをナギはその場の思いつきでやってのけたのだ。その術式構成を正確に把握することからして難しい。なにをどういじれば精霊を実体化できるのか近右衛門は見当もつかなかった。はたして長谷川千雨という生徒が手に入れたアーティファクトはどんなものなのだろう。
「しかし仮契約、か。それも一般生徒と」
これが例えば、出生の理由から魔法組織の庇護を終生必要とする神楽坂明日菜や近衛木乃香であれば問題はなかった。彼女たちなら、ネギから魔法がばれても麻帆良学園あるいは関西呪術協会の中で守ることができる。
しかしネギが選んだのはなんのとりえもない、あったとしても常識の範囲を超えない一般生徒だった。いずれは学校を卒業し、麻帆良から離れていくだろう少女である。
「彼女がもとから魔法を知っていた、という可能性は?」
「ないな。二年間同じクラスだったが、そんな素振りを見せたことはない。それにぼーやとの接点もほとんどないしな」
「それはなんとも、不思議じゃのう」
なぜそんな生徒が自分から首を突っ込みネギと仮契約を結んだのか。魔法を知って間もないはずなのに、エヴァンジェリンの呪いに介入できるほど術式に精通している、という点も矛盾している。
「ああ、これは学園側としても長谷川千雨本人に話を聞く必要があるだろう?」
「まあのう」
「そしてその内容はこれから警備に参加する私にも聞く権利があるよな?」
「む、お主警備員の仕事をするのか?」
「ああ。結界の外に出れば魔力が復活するからな」
ほほう、と近右衛門は驚きの声をあげた。そして同時に困惑する。
「なんだその顔は」
「いや、意外だと思っての。てっきりナギを探しにでも行くのかと」
「ナギは死んだ。現実にも、私の中でも。その知らせを私に伝えたのは貴様だろう」
その声はどこかすっきりしていて、今までのエヴァンジェリンからは考えられない声色だった。ナギの話題をエヴァンジェリンに振るのは電子レンジに生卵を入れるくらい危険なはずなのだが。
「お主がそれを言うとはのう。一番その……なんじゃ、あーほれ、未練? があるっぽかったのに」
「ふん、心境の変化ってのがあったのさ」
「何があったんじゃ? いや何がと言えば今夜何が起きたのかも聞いておきたいのじゃが」
ああそれか、とエヴァンジェリンは大したことはないとでも言うような口調で、
「なに、私とぼーやが決闘したのさ」
「ほ!?」
「麻帆良大橋でぼーやを追い詰めたところで長谷川千雨の妨害にあってな、ぼーやを逃がしてしまい、その隙に二人は仮契約を結んだ。そして長谷川千雨がでしゃばり、自滅し、しかし私に見逃してもらうために登校地獄の精霊を実体化させた。それをぼこぼこにしているうちに、ぼーやと長谷川千雨は私から逃げおおせ、結界が再起動した。と、まあそんな流れだ」
どうしたもんか、と近衛門は額を抑え、呻いた。
「あー、そのなんじゃ、エヴンジェリン。質問していいかの?」
「なんだ」
「長谷川君じゃったかの? その子は全身傷だらけという話じゃが、それはお主が? 自滅、とはどういう意味で使っている言葉なんじゃ?」
「あれは本当に自滅だ。私は一発膝を入れてやったくらいで、それ以外の傷は……なんだ、説明しづらいな。まあ、強い魔力で体を酷使した副作用と言ったところか。闇の魔法と言ったところで話が複雑になるだけだしな」
マギアエレベア。その言葉についての知識を近右衛門は大して持っていない。エヴァンジェリンが数百年前に編み出した固有技法、という程度だ。
「体を酷使、というのはエヴンジェリンと戦うためかの?」
「そうだ。が、それは奴が選んだ道だ。自分から決闘に介入してきて、最もリスクの高い手段を奴は選択したんだ。私はそれに応えただけだ」
「そう、その決闘、というのは?」
「ぼーやが私に果し状を叩きつけ、それを受けてやったんだ」
「ネギ君からなのか」
「いやでもあれだ、その前にかなりぼーやに追い込みかけていたからな私」
「追い込み? ああ、桜通りのことかのひょっとして」
「生徒の一人の血を吸ってな。それでぼーやを誘って戦闘に持ち込み、完封してやった」
「やっぱり吸っておったのか」
エヴァンジェリンはうまくやっていた。『桜通りに吸血鬼が出る』と、ネギが赴任してくるより以前から女子寮内に噂を流しておく。当然その噂を聞いた魔法生徒は自分の担当教官である魔法先生に報告し、桜通りに監視の目を向ける。ナギの息子が来る直前なのだ、彼らはその手の噂に対して過敏とも言える反応を見せた。そしてエヴァンジェリンは魔法関係者の監視があるうちは噂を流すにとどめ、実際に動くことはしなかった。何も起きぬまま、犠牲者がいないにも拘らず『友達の友達から聞いたんだけど』から始まる被害報告が増加していき、そして魔法先生らはいずれ『桜通りの吸血鬼』が麻帆良で生まれては消えていく怪談話のひとつに過ぎないと判断する。彼らは多忙だ。麻帆良は広大で、その割に警備に回せる人材は少ない。ただの噂話をいつまでも気にとめておけるほど彼らは暇でも酔狂でもないのだ。
エヴァンジェリンが動き出したのはそれからだ。
一度何もないとチェックが入れられた場所は、それ以後は監視が逆に薄くなる。
標的とするのは満月の夜、一人で下校する女子生徒。背後から近づき、眠らせ、二の腕辺りに犬歯を一本だけ刺して血をすする。これなら季節外れの虫に食われたようにしか見えないし、一回に吸うのは200ミリリットル、献血と変わらない量だ。吸い終われば生徒の意識を半覚醒のまま女子寮に向かわせ、いつの間にか玄関にたどり着いて首を傾げる生徒を蔭から確認してエヴァンジェリンも帰路に就く。
一晩に血を吸うのは一人まで。一人の獲物にかける時間は1分未満。その二つがエヴァンジェリンが魔力収集を行う間に自分に定めたルールである。
血を吸われた生徒もせいぜい『桜通りを歩いていると一瞬めまいがした』程度にしか感じず、このことを教室で会話のネタにしようとそれを聞いた魔法生徒は『ああ、またか』以上の感想を持てない。
「……なぜネギ君を襲った? 一般人の少女を襲ってまで」
「呪いを解くためさ。奴の血にはスプリングフィールドの魔力が宿っている。それを使って呪いの術式を破壊するつもりだった」
「そんなことができるのか」
「まあ、魔力の質の似てる似てないなんてのは吸血鬼にしかわからん感覚だろうな。魔力を味覚で味わう吸血鬼でしか」
そもそも人間にはそんな発想自体浮かばないだろうが、吸血鬼は魔力の質について非常に鋭敏な五感を持つ。だからネギの魔力は登校地獄の呪いの精霊をごまかせるほどに似ていると気づくことができたし、ナギのコピーが現れた時もそれが呪いの精霊が具現した姿であると見抜くことができた。
「呪いを解くためとはいえ、生徒を巻き込んだのか」
「悪かったよ、罰は受ける」
ちなみに、今回眷族化した生徒四人はすでに治療を施してある。
「……随分と殊勝な態度じゃが、罰と言ってものう」
エヴァンジェリンはすでに登校地獄の呪いが解けており、その力は間違いなく世界でも五指に入る。そんな存在に罰など与えられるはずがない。司法権は力があるからこそ行使できる権利だ。本国の軍隊すら返り討ちにできる存在を誰が裁けるというのか。
というかそもそも、なぜ麻帆良に残るのかわからない。十五年も自分を束縛していた呪いが解けたのだ、自分なら間違いなく今まで貯めた財力をフルに使って世界一周や二周はするだろうと思う。なのにエヴァンジェリンはあろうことか、
「じゃあこうしよう。一定期間、麻帆良の夜の警備を私一人で引き受けよう、もちろん無償でな。魔法先生らには休みでもくれてやれ」
などと言いだした。
「いやしかし、魔法先生になんと言ったものかのう」
「そのまま真相を教えてやればいいさ」
「なに?」
「私が生徒を襲い、ネギ・スプリングフィールドを脅迫し、さらに一般人の生徒を複数人巻き込む戦いをした。その結果登校地獄の呪いを解いた」
「いや、しかしそれは」
「いいんだよ、それで」
そう告げて、エヴァンジェリンは近右衛門に背を向けた。もう用件は済んだということだろう。絹のような金髪を優雅になびかせながら、エヴァンジェリンは学園長室から退出した。
窓の形に切り取られた淡い月明かり。部屋を照らす光はそれしかなく、目の前に眠る少女のぼんやりとした輪郭しか見えない。
ネギはベッドで静かに眠る少女、千雨の傍に置いた椅子に腰かけ微動だにしない。二人の魔法先生に断って、ネギは病室に残ることにした。
彼の心のうちを占めているのは罪悪感と後悔だ。
生徒に、こんな大変な怪我をさせてしまった、と。
魔法を使っても全治4日。もしかしたら傷跡が残ってしまうかもしれず、右足に多少の後遺症が残る可能性があると瀬流彦から説明を受けた。
自分のせいだ、とネギは目を強く閉じた。
自分を守るために戦ってくれた少女。笑顔で励ましてくれた少女。
彼女を思うと胸がバーベルかなにかで潰されているかのように苦しくなる。彼女がこのまま死んでしまったら、二度と眼を開けてくれなかったら。そんな妄想が頭をよぎるたびに不安でたまらなくなる。
自分が素直に血を吸われていたら。
助かりたいと願わなければ。
スタンさんを思い出す。自分を守ろうと盾になり、石になってしまった彼を。何度も考えたことだ。自分がさっさと殺されていれば、少なくともスタンさんは石にされずにすんだ。
父を思う。あの父は本物ではない、それはネギでも一目でわかった。人間よりはるかに無機質で何の感情ももたない、まるで人形のようななにか。なぜ父に似た人形が現れたのかはわからないが、それでもその姿は、身に纏う魔力は、悪魔に襲われた雪の日を強烈にフラッシュバックさせた。
周りの人は大丈夫だ、心配いらないなどと言う。でもそれが嘘だということを幼き日のネギは理解していた。
今もどこかで、村の皆は石のままなのだと。
そして誰も教えてくれないのは自分に気を使っているのだということも。
だからネギは石化を解くための治癒魔法を練習した。でも自分にはその才能はなくて、罠にかかったオコジョの小さな傷を治すのが限界だった。自分に治癒魔法の適性はないと教師にはっきりと言われ、諦めざるを得なかった。だから次に自分は力を求めた。村を襲った悪魔の群れを一人でせん滅する父親の姿。あの力があればスタンさんは石にならずにすんだし、ネカネお姉ちゃんも足を失わずにすんだはずだ。だから必死に勉強して、禁書庫にも忍び込んで寝る暇も惜しんで勉強して、その甲斐あって二年も飛び級して魔法学校を卒業して、
なのに、エヴァンジェリンに手も足もでなかった。
無様に負けた。千雨さんに助けてもらった後も自分はなにもできなかった。今も、自分はこうして見ていることしかできない。
なにがマギステルマギ。
自分の無力さにネギは消えてしまいたくなる。体を小さく縮みこませて、そんなことで消えてしまうはずがなくて、握られた拳の上に涙が落ちた。
否、逃げてはだめなのだ。
長瀬楓に励まされて、逃げてはならないと悟った。わずかな勇気が本当の魔法だと思いだして、一人で頑張ろうと誓ったから。その誓いを破って結局また自分は他人の優しさに甘えて、助けてくれた優しい誰かを傷つけた。
逃げてはならない。
そして二度と頼ってはならない。明日菜にも、千雨にも。
そう決意しなければならないことがあまりにも悲しくて、ネギはまた涙を落した。
そういえば父はどうだったのだろう。そんなことをふとネギは思った。
あんな異常ともいえる魔力を持ち、悪魔の軍勢を蹂躙できる父は、仲間がいたのだろうか。必要ないだろうと思う。あれだけの力があれば何でもできる。守れないものなんて何もないはずだから。
いやそれとも、仲間を守れるくらい強くなって初めて仲間を持つ資格が得られるのだろうか。
「あ、れ……?」
唐突にネギの意識が薄れてくる。いきなり訪れた睡魔にネギは抗うことができなかった。
眠り、何も考えないことが一番の救いだと、きっと無意識にわかっていたのだろう。
ネギの意識が落ちていく。ゆっくりとネギの頭が落ちて、千雨が眠るベッドの淵を枕に小さな寝息を立て始めた。
それを確認してから、ベッドに横たわる少女、長谷川千雨が目を開いた。
連絡を聞いて、近右衛門はすぐさま病院に駆け付けた。その後ろには治療を担当した瀬流彦もいる。本来は副担任である源しずなも連れてくるべきだったが、夜の病院であることを考慮して二人で向かうことにした。
病室に入ると、そこには明らかに困った顔をしている千雨と暗い顔で俯くネギがいた。ベッドで上体を起こしている千雨が二人に気付き、助けを求めるように視線を送っている。よく見ればネギは泣いているらしい、ひくひくと喉を鳴らしながら体を震わせている。
どうしたんじゃ、と近右衛門は首を捻る。目覚めたことが嬉しくて泣いている、というわけではなさそうだ。
「さて、初めましてじゃの長谷川千雨君」
「あ、はい、初めまして」
「大きな怪我を負ったそうじゃが大丈夫かの?」
「そのことなんですが、なんのことだかさっぱりで」
「……ん?」
見れば病院着から露出している腕にはなんの傷跡もない。聞いた話では全身くまなく傷だらけだったとのことだが、まさかもう完治させたのか。いや、それができないという報告を瀬流彦から受けたのだし、その瀬流彦は近右衛門の後ろで目を丸くしている。
「それで、なんで私は病院にいるんでしょうか。ネギ先生に聞いても何も答えてくれなくて」
記憶の処理を? という疑問を込めて瀬流彦を見るが彼は青くなった顔を横に振った。
ならば事故での記憶喪失、頭を強く打ったか。魔力の残り香も感じないし、魔法によるものではないだろう。
なるほど、ネギの姿にも納得がいった。自分を守ってくれた相手が記憶を失えばそれはショックも大きいだろう。
ただ問題は、どこまでの記憶が残っているのかということだ。
「君は魔法というものを知っているかの?」
千雨の顔を近右衛門は閉じかけた瞼の隙間から観察する。その表情から虚実を読み取るためだ。
関西呪術協会から単身関東魔法協会へと乗り込み、その権力闘争の荒波を乗り越え協会の理事の一人にして麻帆良学園の長という人材育成機関のトップの座に就いた男である。中学生の言葉に虚実がどの程度の割合で混じっているか、それがどんな種類の嘘なのかを見抜くことは造作もない。それは魔法によるものではなく、経験によって培われた技術であった。
「魔法、ですか?」
そして、首を若干傾げ、眉を顰める千雨の表情は、困惑以外の感情を映していなかった。なにをいきなり? そんな言葉が聞こえてきそうな表情だ。
それは魔法を知らない人間のリアクションである、と近右衛門は確信した。
これは魔法のことについても完全に忘れている。
「いや実はわし魔法が使えるんじゃよ、ほれ」
言いながら、何もないはずの手のひらから小さな造花をポンと出現させ千雨に差し出す。
パームトリックを使った見事な手品だった。
「手品、お上手ですね」
「趣味なんじゃよ手品が。指先を動かすとボケ防止にいいらしいしの」
「はあ」
さて、と近右衛門は一拍置いて、
「記憶に混乱があるとのことじゃが、君はどこまで記憶があるのかの」
「えっと、学校から部屋に帰って、しばらくパソコンをいじっていたんですけど停電の時間が近づいたんでさっさと寝ようとして……そこまでです。感覚としてはそこで寝てしまったんだなと思うんですけど」
「そんなはずありません!」
ネギが、涙をこぼしながら激しい剣幕で千雨に噛みついた。
「長谷川さんは停電の時僕と一緒にいたんです! それで僕を助けてくれてそれで」
「落ち着きなさい、ネギ君。長谷川君は怪我人じゃぞ」
は、とネギは学園長の言葉に我に返る。そして自分の態度に恥いったように目を伏せ、小さくごめんなさいと言ってまた椅子に座った。
病室が静寂に包まれる。微妙な空気になってしまい、それを嫌った近右衛門がごほん、と咳払いを一つ、
「どうやら階段から落ちたらしい、と聞いておる。停電で暗い中を下の階に降りようとしたところで足を滑らせたらしい、と」
「え……」
「そうなんですか」
もちろん嘘である。が、彼女は元一般人で、魔法について知ったのもごく最近のはずだ。ここで魔法について忘れてしまったのならその存在は一般生徒と変わらない。そんな少女にまた魔法について教えることはないだろうと近右衛門は判断した。少なくとも記憶が戻るまでは。
「まあ、怪我も大したことなさそうじゃし、記憶の混乱は一時的なものじゃろうな。落ち着いて生活すればいずれ」
「戻るんですか!?」
ネギが切迫した顔で立ち上がり、近右衛門に詰め寄った。近右衛門はその迫力を正面から受け止めて、
「まあ正直わからん。じゃが共通しておるのはあまり無理させてはいかんということじゃ。無理に思いだそうとせず、まずは落ち着いていつも通りの生活を送ることじゃ」
「そう……ですか」
ネギは力なく呟き、肩を落とした。見ているだけで痛々しくなるその姿に、学園長はそっと溜息をついた。
翌日の昼ごろに千雨は退院することができた。
記憶の混乱があったということでMRIやレントゲンなどで脳を調べてみたが異常はなく、ショックによる一時的な健忘と診断された。その後医者に言われたことは学園長に言われたことと大差ない。ただ若干の肌荒れから不規則な生活は控えるようにと、記憶のこととは何の関係もない注意をされた。
あと、なんでも自分は全身血まみれで制服を一着駄目にしてしまったらしい。
停電で部屋が真っ暗になった瞬間の記憶はあるし、そのあとはネットもできないからすぐ寝ようと思っていたはずなのだが、なぜ昨夜の自分は制服を着ていたのだろう。
なので千雨は退院した足で制服の注文をしに行こうと頭の中で計画を立てた。注文して、帰りにパソコンショップに寄ろう。イヤホンが最近聞こえづらくなっていたし、外付けHDDも新しいのが欲しいと思っていたところだ。
だが千雨の歩みは普段より幾分遅い。
その原因は、千雨の隣を歩くネギにある。
退院する段になって寮まで送りますと千雨に告げたネギは、病院ロビーからずっと無言で千雨の隣を歩いている。若干顔を俯かせ、力ない足取りでとぼとぼと。送ってもらう側の自分がなぜ相手の歩く速さに合わせねばならないのか、と千雨はだんだん腹が立ってきた。さらにネギは時折千雨の顔を横眼でちらりと見上げては視線を戻すを繰り返していて、そのうじうじした態度がまた千雨のイライラを募らせた。気づかないフリもそろそろ限界だった。
「なんですかネギ先生」
「え?」
「いえ、何か言いたそうにそわそわしてましたから」
「え、いえ別に」
「そうですか」
なるほど言う気はないらしい。なら相手にする必要はないだろう、と千雨は判断して、
「じゃあ私こっちなんで」
指差したのは麻帆良の繁華街のある方向だ。
「あれ、でも寮は」
「制服とかパソコンの部品とか、いろいろ見ていきたいんです」
「あ、それじゃあ僕も」
「一人で見たいんです」
「……あ、そうですかすみません気がきかなくて」
「いえ」
ネギの歩みが止まる。いらいらしていたためかちょっと言葉がきつすぎたかと千雨は思い返し、せめて挨拶くらいはちゃんとやろうと、千雨は数歩進んでから振り返った。
「じゃあこれで」
「はい、お大事に」
ここでようやく千雨は正面からネギの顔を見た。
あのあと……学園長がネギを連れて退室したあと、千雨は早々に眠ってしまったが、ネギは一晩中泣き続けていたのだろう。目が赤く充血してうっすらと隈ができている。メガネに涙の跡がついている。一体何に泣いているのか千雨には見当もつかない。いや、自分が怪我をしたことに対して泣いてくれているのだろうとは思うが、ここまで泣き腫らすほど深い関係を彼と築いた覚えはない。
それとも、自分が失ったという数時間の為に彼は泣いているのか。
そしてそれを失った自分に気を使わせないようにと、彼は今笑みを浮かべようとしているのか。
勘弁してくれ、と千雨は空を仰いだ。何をやらかしたんだ昨日の私。
「先生」
「は、はい?」
「そんなに無理して笑わなくて結構ですよ」
「え」
「人前で泣かない努力は認めますけど、そんな愛想笑いを浮かべる必要はないでしょう、
先生はまだ子供なんですから」
声がどうしても不機嫌になる。正直この子供先生にはあまりいい感情を持っていないのだ。コスプレを見られたし、人前で脱がされたし。素顔をほめられたことは少し、ほんの少しだけ嬉しくないこともなくはないかなという感じではあるのだが、でもやはりトータルで見ればこんな非常識の集大成みたいな存在にはなるべくお近づきになりたくないというのが本音である。私に近づくなら肩に乗せてるペットを檻に入れるところから始めろと言いたい。
「そ、そんな」
「昨日の夜、先生とどんなやり取りをしたのかなんて私にはわかりませんが」
ネギが息を飲む気配が千雨にもわかった。
「その……私は大丈夫ですから。特に不便もないですし。だからそんなに気にしないでください」
我ながら不器用だと千雨は思う。
ネギが知っている自分と今の自分は、きっとネギの中では別人なのだろう。それがわかっていて、今の自分では何を言っても意味がないとわかっていて。慰めることなんてできやしないのに、それでも何か言葉をかけずにはいられなかった。
偽善だな、と千雨は心の中で吐き捨てた。
女子寮に一人帰ったネギは、ドアを開けると同時に明日菜に怒られた。
「ちょっとあんたどこいってたのよ! 連絡なくて心配し……ねえ、ネギあんたどうしたのよ、ひどい顔して」
明日菜の言葉に応えず、ネギは自分のスペースとして使っているフロアに敷いている布団にもぐりこんだ。その様子に気を使ってくれたのか、明日菜は何も言おうとしない。代わりにネギの肩から降りたカモとこそこそと話しながら、足音を殺して部屋を出て行ってしまった。一人にしてくれるその気遣いが今のネギにはありがたかった。
千雨は自分を追い払いたかったのだろう、とネギは思う。それはそうだ、特に何を話すでもなくただついてくるだけ、邪魔くさかったのだろうし迷惑だったのだろう。
何を話したらいいかわからなかった。あの夜のことは話題に出せないし、魔法についても同様だ。魔法に関することを忘れた彼女を一般人として扱うよう学園長に言われたからだ。するともう話題がなかった。
自分は今まで千雨とろくに会話もしたことがなかったことに気付いた。
あのとき、優しく笑いかけてくれた千雨の表情を思い出し、先ほどの不機嫌そうな表情と比較してしまい、ショックがさらに大きくなった。
もう別人なのだ。
自分の為に命を賭けてくれた彼女はもういないのだ。
千雨の言葉に、その思いは大きく確固としたものとなった。鉛のような罪悪感がのしかかる。それは一秒ごとに重さを増していて、もうネギは潰れてしまいそうだった。
あの時の千雨に謝ることはできない。あの千雨はもういないから。
それは、死んだことと同じではないか。
僕が殺したんだ。
ごめんなさい、と何度繰り返してもその声は彼女には届かない。届いたところで意味がない。だって彼女は覚えていないのだから。謝られても困ったように首を傾げるだけだろう。
そうである以上謝罪の言葉に意味なんてない。それでもネギは謝り続けていた。
許してほしいから。背負った罪の十字架を少しでも軽くしたいから。
その部屋は散らかっている。
様々な工作機器と観測機器、所狭しと並べられた部品とあらゆる場所に積み上げられた図面の束。
麻帆良工大研究棟の一室。休日にもかかわらずそこには二つの人影があった。
二つの影は部屋の電気を消し、プロジェクターから投影された映像を眺めている。
麻帆良大橋を俯瞰する景色から一気に視界は降下して行き、メガネをかけた少女に一瞬で迫る。しかしその直後に視界はブラックアウトし、映像はそこで止まってしまう。
薄暗い部屋に沈黙が降りる。
映像を見つめていた影の片方、超鈴音が沈黙を破った。
「なるほどそういうことカ」
「なにがですか?」
もう一人の白衣の少女、葉加瀬聡美が超に問いかける。超は映像を巻き戻し、千雨が握る杖を指差して、
「茶々丸にとって千雨サンは相性最悪の相手ということヨ」
「というと?」
「あのアーティファクトネ」
「? 子供向けのおもちゃみたいですけど、あれがそんなすごいアーティファクトなんですか?」
「未来でも、あれの恐ろしさは伝説として語り継がれているヨ。その担い手は最強の電賊、電脳世界の暴君、電子の魔王など、二つ名には枚挙の暇がないネ。エヴァンジェリンよりも有名だたヨ」
「はあ~……え、千雨さんが、ですか?」
「それはわからないネ。あのアーティファクトは確かにレアだが歴史上一人しか発現しなかったというわけではないし、電子の魔王がいつごろの人間なのかもはっきりしていないネ。平和な日本で女子中学生やってる長谷川サンがあの魔王だなんてちょっと想像できないヨ」
「ああそっか、なんだびっくりした」
「話を戻すが……千雨サンが持つアーティファクトは電子精霊の制御を行うものネ、茶々丸のAIプログラムを稼働させている量子コンピューターをフリーズさせることは可能ヨ」
茶々丸のAIには量子コンピューターが使われているが、その超電導など電子の動きは電子精霊の制御によるところが大きい。量子コンピューターに必須である『電子の揺らぎ状態』を制御するにはそれがもっとも安定しているためだ。
「そんなことができるんですか、あのアーティファクトは」
「未来では電子精霊の制御技術が一般的になてたネ。その応用範囲はあまりに広い。量子コンピューターにERP通信システム、医療用ナノマシンにサイボーグ技術など。生活必需技術といわれるもの全てが電子精霊の恩恵を受けていたと言ても過言ではないネ。肉体のサイボーグ化が当たり前になていたし、精神がプログラムであるとわかってから脳まで丸ごと義脳に変える者まで現れた。その方がスペックの拡張がしやすいからネ、戦場で生き残るには生身を捨てたほうが効率がよかたヨ」
ほうほう、と葉加瀬は超の話に興味深そうに頷く。未来技術の話は葉加瀬にとっては宝の山だ。新鮮なインスピレーションを次々と得ることができる。
「そのサイボーグ技術の開発には電子精霊の統括が必須。そして電子精霊群の制御法開発に携わった者の中に、のちに電子の魔王と呼ばれる者がいたらしいヨ」
サイボーグ技術の始まりがいつの時代なのか、正式な記録は残っていないが、魔法戦争と呼ばれる魔法世界から旧世界への侵略が始まってからというのが定説だ。一説にはある科学者が設計した医療用の義手に使われた電子精霊制御技術を旧世界の各国が兵器に転用したのではないか、と考える学者もいた。そういった歴史について超は特に興味がなかったが。
「あのアーティファクトは電子精霊群の操作権限の最上位に位置する、まさに電子の王の名に相応しい権力を担い手に与えるアーティファクト。ゆえにその名は『力の王笏』。わかるかなハカセ、あらゆる技術が電子精霊によって成り立っていたネ。無敵を誇っていた機械化兵士も、情報を守護・管理する量子コンピューターも、あるいはどんな隙間からでも忍び込み暗殺を実行するナノマシンも、電子の魔王の前には無力だたらしいヨ。逆にその制御権を乗っ取り戦場をかき回した。電脳世界の暴君は、現実世界だって指先一つで破壊しつくすことが可能な、本物の魔王でもあたらしい」
「そ、そんな恐ろしいアーティファクトなんですか」
「ま、使い手によるネ。長谷川サンはただの女子中学生、戦場にでることもないヨ。それに時代も悪い。今の技術水準であのアーティファクトにできることはせいぜい情報を盗むくらいじゃないか? 機械化兵士もナノマシンも存在しないだろう? 量子コンピューターだってここにしかない。長谷川サンが魔王となることは不可能ネ」
まあそれでも十分脅威となりうるがネ、と超は締めくくった。
それにしても、と超は茶々丸に目を向け、ため息混じりに呟いた。
口元は楽しそうに、しかし目は笑っていない。敵を見定め、対立を覚悟した戦う者の眼光が宿っている。
「見事な手際ネ、まるで量子コンピューターの構造を把握しているみたいだヨ長谷川サン?」
ずるり、ずるりと湿った音が響く。
濡れた何かを引きずるようなその音は、壁に体を預けながら歩く少女から発せられている音だ。
血まみれの病院着、その下は全身が包帯で包まれている。痛みと疲労で、少女は壁に寄り掛かっていなければ立つこともできないほどに消耗していた。少女の息は荒々しく、時折苦悶の呻きが混じる。
少女の名前は長谷川千雨という。
暗く、明かりのない地下通路。千雨の歩く先には下水が流れる水路があるはずで、自分の周囲1キロに千雨以外の人間はいないことも七部衆に確認させてある。来る途中にあった監視カメラも掌握済みで、映像と音声を固定させている。それでは人通りの多い場所ではすぐにばれるが、めったに人の通らない地下通路ではそれで十分だった。千雨が本気を出せばリアルタイムで映像を編集して全くの別人としてカメラに映ることもできるのだが、今はそこまでする必要はない。
そして千雨はどの侵入口からも一番遠い地点にたどり着くと、ようやくその重い足をとめた。
壁に背を預け、そのままずるずると千雨は地面に横たわる。こつん、とこめかみが地面のコンクリートに触れた。
シン、と静寂の音が鼓膜を揺らす。聞こえるのは静寂と、自身の喉から溢れる荒い吐息だけだ。
治癒しきれなかった傷が熱を持っていて、冷たい地面に熱を奪われる感触が心地いい。
暗くて、静かで、冷たい。そんな環境が心地よく感じるあたり自分は根っからのボッチだなあと千雨は小さく声を出して笑った。笑え、と自分に命じた。そうでなければ自分に絶望してしまう。
戦闘プログラムの作成、それが今回の目的である。
一度『力の王笏』にとりこみ、精神をリンクさせることで戦闘時の精神プログラムの動きを観測し、本人が無意識に行っているだろう戦闘行動をパターン化し、プログラムの形に落とし込み、プロトコルに落とし込む。
どんな達人であっても五分もあればその戦闘パターンの大体は把握できる。なのにエヴァンジェリンとナギのコピーの戦闘は、十七秒しか続かなかった。
パターンとして把握できたのは、エヴァンジェリンの経験のおよそ0.7%と言ったところで、つまりあれだけ死ぬ思いをして、血反吐を吐いて得られたものがエヴァンジェリンの0.7%程度の強さ、ということである。せいぜい瞬動がうまくなるとかその程度だ。
割に合う話ではなかった。
喚き散らしたい衝動に右手が勝手に拳を作り、独りでに震える。唇が歪に歪んでいるのがわかる。くけけ、と口から何故か笑いが漏れた。
──落ち着けよ長谷川千雨。
声が、千雨の頭の中で響いた。
それはもう一人の自分、脳内で作りだした疑似人格。エヴァンジェリンが用いた人造霊魂の作成技術を応用させて作った、千雨の14歳の時の精神クローンである。
──失敗なんて、いつものことだろ。
しかしクローンとは言ったところで、できることはただ言葉を発するだけだ。感情をこめるだとか、そういった精神活動を行えるほど高度なプログラムを作ることは千雨にはできなくて、ただ無愛想に、その場に合った言葉を発することしかできない。だが千雨にはこの声だけで十分だった。当時の自分のような、冷たく愛想のない声を聞くことで千雨はいつでも彼女たちのことを思い出せるから。
バカどものバカ騒ぎを傍観していた自分の声。自分が傍観者であることを再確認できる。
胸に渦巻いていたうねりが、あっという間に引いていった。
自分は傍観者で、自分の心すら傍観できる。できなくてどうすると千雨は思う。彼女たちを最後まで傍観し続けた自分に、いまさら何ができるというのか。
「いっつもこうだなあ、私は」
いつもいつも失敗ばかりで、何をしてもしなくても後には後悔が付きまとう。もはや千雨にとって、失敗と後悔は親友のようなものであった。
だから、彼女の割り切りは早い。
失敗したものはしょうがない。それに失敗とは言ってもあのエヴァンジェリンの0.7%である。使い方次第でいくらでも戦力となるだろう。
いつまでも呆然と時間を潰しているわけにはいかない。まずはエヴァンジェリンに防壁を破壊させたことでアクセスできるようになった、神木・蟠桃へのハッキングと魔力源の確保。次に戦闘プロトコルの作成。やるべきことはやまほどあるのだ。
やるか、と千雨は仮契約カードを手に取り、詠唱を始めた。
小さな小さな声。痛みのため唇もろくに動かさずに唱えるそれは、エヴァンジェリンと闘った時よりも小声だったかもしれない。
長谷川千雨は誰よりも強くならなくてはならない。
自分はネギ・スプリングフィールドの唯一にして最強、無二にして万能の従者とならなくてはならない。
それは、あのバカたちとの約束であった。