薬売りさんはいつの間にか箱の一番上、最上段は引き出しではなくそこだけ独立している箱の蓋を開けて取り出したものを構えていた。
それはたぶん、刀か剣だと思われるもの。
長さはせいぜい50センチくらいで、さほど大きくなく。
青系統の配色でまとまっているこの人にはちょっと不釣り合いに見える金と赤が基調で、宝石なのか硝子なのかは私には判別つかないけど、この人の持ち物らしく派手な装飾が柄にも鞘にも施されている。
そして、柄と思わしき部分の先には赤鬼にも白い毛の猿にも見える頭がついていた。
私は、確かに見た。
薬売りさんが「彼女」を「くびれ鬼」と言った時、口を大きく開いていたはずの頭が勢いよく口を閉ざして、その歯が「カチン」と硬く澄んだ音を立てたのを。
私が聞いた、聞き覚えのある音はあの剣の音であることをようやく知った。
「く、くびれ鬼? それが、あのお化けの正体なの?」
樹里が薬売りさんの言葉に反応して問い返す。
その声には少しだけ安堵が見て取れた。
現状、窓の外に同級生の死体とその死体にしがみついて死に誘う幽霊みたいなのがいるこの状況で、懐くはずがない感情。
それは、明らかに妖怪っぽい名前を口にした薬売りさんが「気付いてない」と思っているからこそ懐いたもの。
あれは妖怪なんかじゃない。
間違いなく10日前まで私たちと同じ、中学2年生の女の子だったことに気付いていない、最初からそういう妖怪だったと思ってくれていることに樹里は、そして美紀も安堵している。
自分たちが「彼女」にしたことを、なかったことに出来ることを喜んでいる。
けれど、そんな甘い考えは通用しない。
私が樹里の腕を引きはがして、薬売りさんに「違う!!」と訴えかける前に、薬売りさんは窓の外の首吊りと「彼女」に剣を構えたまま、やっぱり淡々と答える。
「……正体、ではなく、『形』ですよ。
そして、モノノ怪の形を成すのは、人の因果と、縁」
「彼女」を、「もう人ではない」という証明のように別の名前で呼んだ。
けれど、あれは「彼女」の「正体」ではないと言ってくれた。
「彼女」があんな「形」になってしまった、
私達に向き直った薬売りさんは剣を見せつけるように構えて、凛と高らかに宣言した。
* * *
「ま、真と理って何よ!?」
「く、薬売りさんはあれを、あのお化けを切りに来たんでしょ!?
その剣で切るんじゃないの!? なら早く切っちゃってよ!!」
樹里が問い返し、美紀はもう泣きながら薬売りさんに早く切ってと懇願する。
けれど薬売りさんは樹里の問いは黙殺して、美紀の懇願には即座に言葉で切り捨てた。
「無理、ですね」
「何で!? どうして!?」
「この剣は、『形』と、『真』と、『理』が揃わないと、抜けないのですよ」
「だから、その真と理は何だって訊いてるんでしょうが!!」
薬売りさんの「無理」に美紀は絶叫で問い返すけど、それでもこの人は飄々としつつ淡白な調子を崩さない。
樹里に再び怒鳴られて問われても、剣の頭に話しかけるように眺めたまま視線も向けなかった。
それでも、さすがに「真」と「理」に関しての説明はしてくれた。
「『真』とは、事の在り様。『理』とは、心の在り様。
人の縁と、因果を廻って、モノノ怪を為す。何かが有り、何者かが、何故にか、怒り、憎み、恐れ、欲し、望んでいる。
それを、明らかにしない限り、剣には力が宿らず、モノノ怪は斬れん、ということですよ。
だから……お聞きしたい。
あのモノノ怪。『くびれ鬼』と成り果てた――『いつきさん』という方の、『真』と『理』を」
薬売りさんの説明を樹里は「意味わかんない!」と噛みつき続け、美紀は教卓にしがみついたままただ怯えて泣き続けてどっちもろくに話を聞いていなかったけど、「いつきさん」という名前には反応して一瞬黙る。
そっか……。薬売りさんはちゃんと聞いて、そして覚えていてくれてたんだ。
私が「彼女」を見て呟いた名前を。
樹里や美紀の安堵と同じくらい場違いなのはわかってるけど、それが私にとっては嬉しかったから少しだけ無意識に笑ったんだろうね。
私の首に腕を回している樹里の力が強まって、一瞬だけど完全に息を止められた。
それはただ単に私が笑ったことが気に入らなかったのと、私が余計なことを言わないようにという脅しだったんだろうけど、樹里が首を絞めてまで「何もしゃべるな」と脅すべきだったのは、私一人じゃなかった。
「あ……あああああぁぁぁぁぁっっ!!
ち、違う!! 違うもん!! 私は悪くない! 私の所為じゃない! やだ、いやだ! いやあああぁぁぁっっ!!
お願い助けて薬売りさん! 違うの! 私は悪くないの!! 私は樹里に! あいつに言われてやらされていただけで鳥居さんのことを本当はイジメたくなかったの!!」
抜けていた腰は一体いつ復活したのか、美紀は天秤を蹴り飛ばしてなぎ倒して薬売りさんに駆け寄り、しがみついて主張する。
今はもう、初めのような下心はなく本気で助けて欲しいから縋り付いているのだろう。なりふり構わず、涙どころか鼻水もダラダラ垂れ流し、化粧が落ちてドロドロの顔で彼女は言い張る。
「彼女」を……いつきさんをいじめていたのは、自分の意思ではないと。
自分の意思じゃない?
樹里がいつきさんを下着姿で更衣室から閉め出して泣かせていた時、お前は何をした!?
お前はわざわざ男子を呼び出して、いつきさんを晒しものにしてただろうが!
いつきさんが喘息やてんかんの発作を起こした時、お前は何をしてた!?
樹里と一緒に笑いながら、苦しんでいる彼女をスマホで撮影した挙句にSNSで拡散したのは自分の意思じゃなかったって言うのか!?
結花さんが言うならまだしも、お前が言うか!?
あの人も弁護のしようがないことばかりしてきたけど、お前達の命令がない限りは自分から何もしない人だった。
自分がいじめる側に回らないと、自分がいつきさんの立ち位置になるとわかっているからやっている卑怯者だったけど、少なくともあの人はいつきさんをいじめて泣かせている時、お前達と一緒に嗤いつつも眼は嗤っていなかった。
卑屈そうに自己弁護の言い訳ばかりでも、それでも誰かが傷ついて泣いているのを見て楽しめる人ではなかったのは確かなのに……それなのに……お前は! お前は!!
「……ほう」
薬売りさんは美紀の狂態に引いた様子も見せず、ドロドロで汚い顔を嫌って押しのけもしなかったけど、彼女の言葉を信じて同情している様子もない。
むしろどこか面白がっているような薄い笑顔で、相槌を打つ。
「! 美紀! あんた何を……」
「あいつよ! あいつに命令されて、やりたくなかったのに無理やりやらされてたの!!」
樹里は美紀の光速の裏切りに一瞬呆気に取られたのか、ちょっと間が開いてから叫ぶけど、美紀はその声に被せるように主張する。
「あいつが! 安藤君が鳥居さんのこと好きだからって、鳥居さんさえいなくなればってバカなこと言い出して……、でも、何しても鳥居さんは学校を休まなかったから! だからエスカレートしちゃったの!
私は悪くない! 死んじゃえとか死ねばいいのになんて思ってなかったもん! あいつが、樹里が、喘息なのに無理やり走らせたり、階段から突き落としたりしたのは、鳥居さんを殺そうとしてたのは樹里で私じゃない!!
鳥居さんに死ねって、自殺してしまえなんて言ったのは私じゃない!!
だから、お願い助けて!! 死にたくない!!」
「美紀っっ!! あんた――――」
美紀の暴露に樹里は顔を怒りと羞恥、そして歪んでいたとしてもたぶん本心から樹里は美紀を親友だと思っていたんでしょうね。
その親友の裏切りによる悲しみの声を上げるけど、言葉にならない。
だから、その隙に私が行動に移す。
樹里を擁護する気はない。けど、それはお前の言い分を見逃す理由にはならない。
初めからそうだったけど、美紀。お前は絶対に許さない!!
「お願い! お願い!! 助けって痛っ!!」
私が樹里にしがみつかれたまま脱いだ上履きは、美紀の腰に命中する。
薬売りさんに当たるかもとか考えずに投げつけた勢いが良すぎて、黒いセーラー服でも靴の跡がうっすら見えるから結構痛かっただろうね。
しがみついていた薬売りさんから手を離して振り返り、涙と鼻水、溶けた化粧でグチャグチャの顔で美紀は私を睨み付けるけど、私は樹里にまだ首を絞められたまま言う。
これは邪魔しないだろうけど、このまま樹里に絞め殺されても絶対に言ってやるんだ。
「黙れ……。大ウソつき。
……いつきさんの、喘息やてんかんの薬を盗んで、捨てたのは……お前だろ。……樹里に、褒められたって……自慢していたくせに……」
何が、死んじゃえとか死ねばいいのにとか思ってない、だ。
確かにお前はそこまで思ってなかったのかもしれない。
でも、陰険で横暴な暴君だけどどっかちょっと抜けていて詰めの甘い樹里に代わって、自主的にその詰めの甘さのフォローをしていたお前は、いつきさんのことも、他の誰の事も全部みんな、自分が被害に遭いさえしなければ、「別に死んでもいいや」「死んだら面白いかも」ぐらいには思っていたんだろ!
許さない。絶対に。
自分のしたことの責任を、全部誰かに丸投げすることは絶対に許さない。
「な、何よ! 何、今更いい子ぶってるのよ偽善者!!」
私の暴露に美紀は一瞬ひるんで、けれど即座に言い返す。
わかり切っていることを、勝ち誇ったように歪んだ笑みを浮かべて叫んで言い返す。
「大ウソつきはあんたの方じゃない!
鳥居の奴の友達ぶっておきながら、私や樹里に尻尾振って私たちの言うこと聞いていたくせに!
今日だって、樹里の命令で鳥居の父親の形見のお守りを盗んで来たくせに!!」
美紀が、私の隠すつもりも言い繕うつもりもなかった「罪」を叫び終わると同時に、鈴が鳴る。
天秤の、モノノ怪との距離を測り、位置を傾きで教えてくれる天秤が一斉にまた傾いた。
今度は窓の方とは逆側。教室の廊下側に。
『え?』
思わず私たちは一斉に声を上げ、そちらに視線を向ける。
薬売りさんは何も言わなかった。ただ少し、いつの間にか少しだけ横に移動して彼も視線を廊下側に向けると同時に、教室の戸が開いた。
そこから、大群の蛇のような縄が飛び出し、美紀の全身に絡みつく。
ううん。よく見ればそれは縄じゃなかった。
それは全部、腕。
ただ、骨が抜かれたようにグネグネと有り得ない箇所が有り得ない角度、方向に曲がる。
蛇のように、縄のように腕は美紀に絡みついてしがみつく。
病的に白くて細い腕。
右手首の少し大きなホクロ。
左掌の内側にある、丸い小さな火傷の痕。樹里たちがふざけて吸った煙草を押し付けられた痕。
見覚えのある手だった。
無数の両手は全部、いつきさんの手だった。
いつきさんの手が、廊下から溢れ出して美紀の首を、手足を、服を、髪を、全身を掴んで引きずって教室から廊下に連れ出す。
「!!?? ぎゃああああああああああぁぁぁぁぁぁっっ!!!!
いやああぁぁぁ!! 助けて! 助けて!! 死にたくない!! 誰か! たすけ…………」
「美紀!!」
とっさに手を伸ばすけど、私の手は届かなかった。
何も考えていない反射なのか、それとももはや本能的に私を盾にしているつもりなのか、樹里がまた私の呼吸を止めるほど強くしがみついてきて振り払えず、ただ私は眼を見開いて絶叫して、もがきながら廊下に引きずり出される美紀を見送ってしまった。
美紀の全身が教室から出ると同時に、扉は勝手にピシャリと音を立てて閉まる。
廊下からは、もう何も聞こえない。
* * *
閉じた扉を私と樹里、そして薬売りさんが見つめてしばし沈黙。
その沈黙を最初に破ったのは、薬売りさんだった。
「……おっと。……窓の外に気を取られて、
うっかり、うっかり」
いけしゃあしゃあの見本のように、薬売りさんは自分の頭を手で軽く叩きながら言う。
絶対にうっかりじゃない。表情はもちろん、顔色も自分のミスで一人犠牲が出たことに対して何一つ変わっていないし、何よりこの人、美紀が自分から手を離して私たちと向き直った時、地味に移動してちょっと横にずれてた。
この人の最初の立ち位置は、一番扉に近い。あそこじゃあの腕たちの巻き添えに自分も遭うことをわかっていたから、腕が扉から一直線に美紀に向かえるように移動したとしか、今は思えない。
だって、この人は美紀が消えても窓のようにお札を貼らない。「張り忘れてた」と言っていた結界を、張ろうとはしない。
また、廊下から腕や縄が私たちを縊り殺すために出てきてもいいと思っているようにしか見えなかった。
「あ……あんた……何なの!? お化けを! あれを切るんじゃなかったの!?」
樹里の方も、薬売りさんがわざと美紀を見捨てたとしか思えない事をしたと気付いて、私を抱えたままガタガタ震えて窓の外を、結花さんの首を絞めながらしがみついていたはずの「彼女」を指さす。
けれど、もうそこに「彼女」は……いつきさんはいない。
窓の外にぶら下がるのは、首吊りの輪と結花さんの首吊り。そしていつの間にか増えた、結花さんと同じようにもがき苦しんで窒息したと思える、けれど結花さんと違って全身に爪を立てられて握りしめ、捕まれた手形だらけの美紀の遺体だった。
増えた美紀の遺体に気付いて樹里は、「ひいぃぃっ!!」と悲鳴を上げて窓から離れようとするけど、薬売りさんや未だ天秤が傾いて「そこにいる」ことを表している廊下の近くにも行きたくなかったからか、結局は教室の真ん中に踏みとどまる。
「斬りますよ。
だが、その為に必要な『真』と、『理』を、話してくれなければ、この剣は、いつまでたっても抜けません、よ」
そんな樹里の醜態を嘲笑うように、最初からだけどもったいぶった口調で薬売りさんは言う。
真実を話せ、と。
けど、樹里は「ふざけるな!!」と怒鳴って往生際が悪くそれを拒否する。
ふざけるな? それはこっちのセリフだ。
見てみぬフリをしてても、いつか必ず追いつかれて清算させられるものなんだ。いい加減、眼を逸らすのはやめろ。
「……美紀の……言ったことは……、彼女自身のこと以外は……全部、本当です……よ」
「! 黙れ! 黙りなさいよ!!」
私の言葉に、樹里は鼓膜が破けそうな程、樹里自身の喉も避けそうな声を張り上げて足掻く。
よっぽど頭に血が上っていたのか、私の首を絞めるのも腕ではなく手を使って直接的に締め上げ、私の口を塞ごうとしてきた時――
「――――いい加減、その人を離してやったら、どうですか?」
樹里の目の前に薬売りさんの剣が突き付けられて、鬼か猿の頭と目が合ったのか樹里は短く悲鳴を上げた。
それでもまだ私を離さず、むしろ私を振り回して盾にして樹里は「何すんのよ!?」と薬売りさんに文句をつけるんだけど、彼は樹里を無視して私を見下ろし、言った。
「……それにしても、先ほどの話。本当に、『私は何も悪くない』という主張以外、『本当』なんでしょうかね?」
質問の意味がよくわからず私が無言でいると、薬売りさんはそのまま言葉を、薬売りさん自身の感想を告げる。
「私には、『あなた』がいつきさんとやらを、いじめるようには、どうしても見えないのですが」
私を真っ直ぐ、真っ直ぐに見て言う。
酷薄な笑みは、もうその綺麗な顔に浮かんでない。
あまりに真摯な、真実を求める顔で私に彼は尋ねる。
「本当か?」、と。
その問いに、私が返せる答えは。
私が、返すべき答えは。
私の「真」は――――
「っっどいつもこいつも、こいつのいい子ぶりっこに騙されて、私に全部責任を押し付けるんじゃないわよ!
本当よ! こいつはね! 陰気でノロマで勉強だけが取り柄のガリ勉な鳥居の唯一の友達のふりして一緒にいてやったけど、私が命令すれば何でもやったのよ!
鳥居のノートを破けと言ったら破ったし、財布からお金を取ってこいって言ったらやったし、今日だって! あいつが赤ん坊の頃に死んだ父親の形見のお守りを盗んできなさいって言ったら、本当に盗んできたのよ!」
私が何かを、私にとってまぎれもない「真」を語る前に、樹里はもうヤケクソなのか私が何をしたのか、私に何をさせたのかを叫んで暴露して、そして見せつける。
私が投げ渡した、泥で薄汚れたピンク色お守り袋。
私が決して無罪なんかじゃない証を、薬売りさんに勝ち誇るように見せつけた。
なのに、薬売りさんの眼には私に対しての失望や侮蔑と言った感情は浮かばない。
何考えているかさっぱりわからない人だけど、そういった感情がないことだけは自惚れじゃなくてはっきりとわかった。
だって、この人は樹里が突き付けるお守り袋を見て、消えていたはずの薄い笑みを復活させて言ったから。
「……ほう。……赤子の時に死んだ、父親の形見のお守り……ですか。
それにしては、そのお守り袋、妙に――――」
薬売りさんが
「!! やめて!!」
けれど、私が「言わないで!!」と懇願する前に、樹里が行動に移す。
私を人質の様に抱え込んでしがみついていた樹里がいきなり、私を薬売りさんの方に思いっきり突き飛ばす。
「おっと」
薬売りさんは横に避けるのではなく、そのまま突き飛ばされた私を受け止めてくれた。
その隙に、彼が持っている剣を握る力が弱まったのを計算していたわけじゃないでしょうけど、樹里は見せつけていたお守りを投げ捨て、薬売りさんの剣を奪ってそのまま窓の方に向かって、剣で窓をたたき割ろうとする。
廊下に逃げなかったのは、そちらに「彼女」がいるからだろうけど、窓を割ってもここは3階だから飛び降りても死にはしないかもしれないけど、そのまま走って逃げられるほど軽症で済むとは思えない。
だから別に何も考えてなかった。ただひたすらにここから逃げ出したかっただけだろう。
その行動が、最大の悪手だと知らないまま。
全部が薬売りさんの掌の上だと知らないまま、樹里は踊る。
その踊りの伴奏のように、鈴が鳴った。
* * *
鈴が鳴る。
天秤がまた、傾いた。
「え?」
薬売りさんから奪った剣で、びくともしない窓をガンガン叩いて割ろうとしていた樹里が、顔面を蒼白にさせて床を見る。
その視線は徐々に傾きが示す方向に向かって行き、どこに行きつくか気付いた時、彼女は剣を落としてそのまま壁に、窓に背中がぶつかっても距離を取ろうと足掻いた。
「あ、あ……。い、嫌! 嫌ああぁぁぁっっ!」
今度の天秤は、全部が一斉に同じ方向に傾いたわけじゃない。
一つ一つが微妙に角度が違う。
真上から見たら教室内のある机を中心に放射状の線になっているように、天秤は傾いて示す。
『――――許サナイ』
モノノ怪の位置を。
その傾きが示した机の上には、花が活けられた花瓶が乗っている。
『許サナイ許サナイ許サナイ許サナイ……オ前ハ、絶対ニ許サナイ!!』
……いつきさんの机の引き出しから、ずるりとそれは現れた。
蛇のように動く無数の両手が、教室の扉から出てきた時の様に溢れ出し、その腕たちは机をガタガタ揺らして花瓶を落としながらも一直線に、樹里に向かう。
「いやああああぁぁぁぁぁぁっっっ!!」
「やめて!! やめて、いつきさん!! ダメ!!」
美紀の時と同じように、樹里はいつきさんの腕に全身が捕まれ、今度は教室の扉から廊下ではなく、人が入れるはずのない引き出しの中に引きずり込まれる。
私がそれを阻止しようと、必死にもがいて抵抗して私たちに手を伸ばす、助けを求める樹里に私も手を伸ばすけれど、今度は薬売りさんに腰を掴まれたままだったせいで、また私の手は届かなかった。
「何で! 助けなさいよ!! いや、いやああっっ! 助けて! 助けてよ!
嫌だ嫌だこんな死に方だけはいやああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!!」
私が手を伸ばした時、樹里の目は一瞬輝いたけど薬売りさんに邪魔されて樹里のもとに行けない私を見た彼女の顔は、憎悪で歪みきっていた。
けれど、体の一部が無理やり机の中に引きずり込まれているからかゴキっ! とかボギっ! という硬いものが折れる音に樹里自身が戦慄して、怯え切った絶叫をしながら結局、彼女はいつきさんの腕と一緒に机の中に消えてしまった。
全身の骨をあの机の中に入れる為に折って砕くものすごい音に怯えていたけど、痛み自体は感じていなかった様子が救いになるのかどうかはわからない。
ただ、私は樹里がいなくなって私と薬売りさんだけが残された教室の床に座り込み、ゆっくりと窓の外に視線を移す。
そこにぶら下がる体は、三つに増えていた。
結花さんと同じように苦しそうに、美紀と同じように全身手形だらけで、そして体中の骨が折られたせいか二人よりも全身がだらりとだらしなく重力に従って垂れさがっている樹里の遺体は、それ自体が一本の縄に見えた。