最初に謝罪しときます。
今回、コメディ要素が強いです。っていうか、さすがに次回からは違うけど、今回はほぼギャグ回になってしまった……。
人魚:序の幕
それはまだまだ新米の看護師、
看護師にとって、それは日常。彼女にとってまだ慣れてはいなくとも、経験したことのない出来事でもなければ、今までと逸脱している訳じゃない出来事……だったはず。
「うぅ……。くっ……あぁ……」
「! 富士野さん!?」
加世子が担当している、寝たきりの高齢老女の患者が弱々しく心臓のあたりを抑えて呻く。
もちろんすぐに加世子は担当医師を呼び、自分も出来る限りの処置を行うのだが、彼女は知っている。この患者はもう助からない事を。
この老女は癌などといった特に大きな病気はないが、歳の所為で心臓がもう弱りに弱りきっている。こんな発作は、もはや珍しいものじゃない。
病気ではなく加齢で心臓の働きそのものが弱まっている訳なので、薬や手術でどうにか出来るものじゃない。
仮にどうにか出来たとしても老女にはもう、手術はもちろん薬の副作用に耐えられるかどうかも怪しい体力しかない。
だから加世子たちがしていること、出来ることはこの老女の苦しみを少しでも和らげること。
けど、きっともう終わり。
医師が昨日、患者の孫に「今日のような大きな発作がまた出たら、覚悟しておくように」と言っていた。そして今の発作は、明らかに昨日と同じくらいかそれ以上。
加世子に出来ることは、医師が来るまで気道を確保しながら患者を励ますことだけ。
「だ、大丈夫よ、富士野さん! 頑張って! ほら、明日お孫さんがプリン作って来るって言ってたじゃない!!」
加世子は少しでも患者が生きる気力を失わないように、励まし続けた。
治すことも出来ないのだから、もういっそ死なせてあげた方が優しさなのかもしれない。そんな考えは一瞬どころか、励ますことと並行して浮かび上がる。
この考えは看護師として失格なのかもしれない。けれど、看護師だからこそ加世子はそう思ってしまうほど酷い、生き地獄としか言えない状態の患者を知っている。
加世子は決して人でなしではなく、むしろ見た目は看護師にあるまじきギャル風なのに、心根は素朴で人情に溢れているからこそ、そのような思いは決して消えない。
だけど、だからこそ加世子は自分の浮かんだ思考を振り払う。
この患者は違う。死が救いじゃないと言い聞かせる。
看護師としてではなくそれは完全に加世子の個人的な願望でしかなかったが、この患者にはまだ生きていて欲しかった。せめて、せめて明日まで。
昨日、医師から余命はもう幾ばくも無いことを宣言されても、涙をこらえて意識がハッキリしていない祖母に優しく話しかけていたあの孫娘との約束を果たしてほしい。
その一心で加世子は、患者に声を掛け続ける。
「富士野さん! お孫さんの花嫁姿を見るまで死ねなかったんじゃないの!? それは無理でも……せめて、一緒にプリン食べるくらいの約束は守ってあげようよ……」
どんどん呼吸が浅くなっていく患者に加世子は出来る限りの処置を施しながら話しかけていると、皺と皮のたるみで起きていても細かった患者の目が急にカッ! と開いた。
「!?」
そして、患者の両目が開いたことに驚いてとっさに引いた加世子の手を、死に掛けの老女……富士野は掴む。
枯れ木のように細い、骨に皮が貼り付いたようなカサカサの老人の手なのに、痛いくらいの力で掴んで富士野は息絶え絶えに、それでも命を燃やすように必死になって加世子に伝えた。
「お……ねが……い……。呼ば……ないで……」
「え?」
心臓の発作による激しい痛みも無視して、止まりそうな呼吸よりも優先して言葉を吐き出す。
富士野は懇願した。
「あの……子を……孫を……ここに……呼ばない……で……」
自分の孫を呼ぶなと加世子に頼み込む。
一瞬、「あんなに可愛がっていたのに何で!?」と加世子は思って狼狽したが、富士野の懇願は「死んでも会いたくない」などといった気持ちではなく、可愛いからこそ呼んでほしくないという愛情だった。
けれど、それは自分の死を知って孫が悲しんでほしくないという意味ではない。
もっともっと、シンプルな理由だった。
「……………………れる」
「え?」
かすれた、ほとんど声にならない声で富士野は言った。
加世子は、よく聞き取れなかった。聞き間違いだと思った。
だから訊き返したかったが、富士野が言った直後のタイミングで医師たちがやってきて、富士野も最後の力を振り絞って言ったからか、見開いていた眼は閉じてそのまま加世子の手首をつかんでいた力が抜ける。
その後は、医師の指示に従って動くのに精一杯で加世子はよく覚えていない。
富士野が一命は取り留めたところでやっと一息を付けたくらいだが、それは本当に一命。せいぜい数時間ほどの命。
もう自力で呼吸をすることも出来ないから、人工呼吸器が外れるだけで終わる。外さなくてもきっと朝には、この弱りに弱り切った心臓は止まると医師が言った。
この命は、最期のお別れの為だけに延ばされた命。
だから加世子は、重々しい気持ちで連絡した。富士野の唯一の身内である孫娘に祖母の危篤を知らせて、面会時間外だがこちらに向かっている彼女を、見舞客用の休憩室ベンチで待つ。
待ちながら、思い出した。
多分聞き間違いだと思う、訊き返せなかった富士野の言葉を。
自分の命よりも、孫を心配して言った彼女の言葉を伝えるべきかどうか一瞬悩んだけど、すぐに「伝えてどーする?」と自分で自分に突っ込みを入れた。
突っ込みを入れつつ、自分が聞き取った言葉を反復する。
(ホント、伝えてどーすんのよ。『人魚に殺される』、なんて)
祖母の最期の言葉すらちゃんと伝えることが出来ない事を、加世子はまだ来ていない富士野の孫娘、
* * *
「加世子さん! おばーちゃんは!?」
もう面会時間を過ぎてる夜の病院の廊下を、パタパタと足音を立てて加世子に駆け寄ったのは、日本人にしては少し赤みが強く思える髪の可愛らしい少女。
まだたったの14歳の少女、火鳥が泣きだしそうな顔で駆け寄り、縋りつかれて加世子は一瞬言葉を失う。
普段はどんなに急いでいても、病院の廊下を走ったら迷惑だとわかっているから走らない子であるのを加世子は知っている。なのでその行動が彼女の余裕の無さを如実に表している。
いや、余裕のなさなど火鳥の格好を見るだけでも十分すぎるほどわかる。
もう風呂に入って後は寝るだけだった所に連絡を受け、慌ててこちらにやって来たのか、コートこそはダウンだが中に着ている物は薄いワンピース1枚で、足は室内用のもこもことした靴下にサンダルといったチグハグすぎる姿だった。
それでも面会時間外どころかあと1時間ほどで消灯の時間なのをわかっているからか、声の大きさこそは控えめな気遣いが出来てる。それがむしろ加世子には酷い痛々しく見え、彼女に危篤を知らせたことを激しく後悔する。
まだ中学生の子など病院側から呼ぶことはいくら危篤でも普通はしないのだが、富士野の身内は孫の彼女しかいない為、前々から必要な手続きは全て彼女が行っていた。
それに歳のわりにしっかりした子というのが、加世子たち看護師や医師が懐く火鳥の印象だったのでつい呼んでしまったが、この時になって加世子はようやく理解した。
彼女はしっかりしているのではなくしっかりするしかなかったと、今にも溢れ出しそうなほど溜まった涙を見るまで加世子は気付けなかったことを激しく後悔しながら、「あたしの持ち前の明るさをここで発揮しなくてはどうする!?」と自分を叱咤して、笑顔を作って言った。
「火鳥ちゃん。大丈夫よ、……大丈夫だから、ね」
自分に縋りつく火鳥に加世子が言った言葉は、本人が白々しすぎて説得力など皆無であることを自覚していた。
笑顔の裏で、自己嫌悪が加世子の心を苛む。
(……何が、大丈夫よ。
富士野さんはもう……、火鳥ちゃんに『さよなら』すら言えないのに。きっとあの人はもう意識を取り戻さないまま亡くなる。別れの言葉も交わせないのに……)
なのに、火鳥は加世子の言葉に淡く微笑んだ。
「……そう、ですよね。約束……しましたもんね。明日……私とおばーちゃんと加世子さんとで、プリンを食べようって。
ちゃんと、作ったんですよ。加世子さんのはリクエスト通り、牛乳プリンを」
火鳥の言葉に、加世子の涙腺が一気に緩む。
加世子の言葉は拙い嘘である事くらい、火鳥はわかってる。わかっているはずなのに、彼女は加世子の言葉に騙されたフリをしてくれてる。
騙されたフリをしつつも、心から信じてくれている。
加世子の「大丈夫」を。加世子自身も信じていたい、これが真実であればいいと願う「大丈夫」を信じて、明日の約束を口にするこの子の健気さに緩んだ涙腺を締め上げて、加世子は歯をむき出しにして笑う。
「そうよ。楽しみにしてるんだから、富士野さんには頑張ってもらわなくちゃ」
笑って言ったが、病室に入ってしまえば自分たちの期待はあまりに儚い夢想であったと思い知らされる。
人工呼吸器に繋がれ、心電図はあまりに小さな波しか描かないか細い老婆は、どう見ても朝まで生きてゆけるとは思えなかった。
それでも、火鳥は眼に浮かび上がった涙を零さなかった。
それは現実逃避のようなものだったかもしれない。認めたくないからこそ、泣いて縋り付いて「死なないで」と言いたくなかっただけの弱さかもしれない。
それでも、加世子にはこの少女がとても強く見えた。
「……おばーちゃん、寒くない? 大丈夫?
あのね、庭の椿がすっごく綺麗だよ。雪がちょっと積もって白い雪の間から瑞々しい赤と緑が本当に綺麗で、写真を撮ったんだ。
おばーちゃんが教えてくれたプリンも、上手に作れるようになったよ。おばーちゃんの好きな、蒸したてのあったかいプリンじゃないけど、美味しいよ。
だから……、明日見ようよ、写真を。食べようよ、プリンを。一緒に」
祖母の眠るベットの傍らに座り、枯れ木のような手を慈しむように握って優しく話しかける。
もうこの老女の命を繋ぐのは、人工呼吸器と生きたいという気力だけであることを理解しているからこそ、火鳥は祖母の生きる気力を決して途絶えさせぬように話しかけ続けた。
そんな火鳥の背中を見つめ、加世子は祈る。
どうか、富士野の意識が数分でもいいから戻ることを。
もう加世子には富士野がこのまま奇跡的に回復して退院し、火鳥の花嫁姿を見てひ孫に囲まれるという未来を夢見ることはできない。
それぐらいわかる程度の経験則はある。そんなのは本当に神様の領分の奇跡であることを知っている。
加世子が期待できる、可能性を信じられるのは、最期に富士野が孫と別れの言葉を交わす程度に意識が戻る事だけだった。
けれど、それさえも奇跡に等しいことを加世子は知っている。
加世子が医師に火鳥が来たことを告げれば、医師は火鳥に富士野の容体、人工呼吸器をつけていても彼女の心臓はもう数時間ほどで止まることを宣告する。
延命手段はあるにはあるのだが、入院する際に富士野の意思で延命処置はしない、するとしたら最期に看取ってもらえる程度の時間稼ぎに留めておいてほしいと言われており、火鳥もそれに同意している。
だから、この孫と祖母のやり取りも医師がくれば終わり。
医師によって現実が突きつけられた時、火鳥はどうするのかが加世子には想像がつかなかった。
堪えきれずに泣くのか、それともやはり涙を堪えて、「歳よりしっかりしている子」として手続きを行うのか。
どちらにせよ痛々しいのに変わりはない。
だから加世子は、本来なら火鳥が来た時点で入れるべき連絡を入れていない、医師を呼んでいないし、呼ぶ気もない。
この事を知られたら、医師やベテラン看護師たちから大目玉をくらうのはわかっているのだが、加世子は「どうせあたしが叱られるのはいつもの事だし」と開き直って、悪あがきを続ける。
信じていたい奇跡を信じて、現実を少しでも遠ざけて先延ばしにした。
一瞬、その罰が当たったのかと加世子は思った。
それほど唐突な、停電だった。
* * *
「え!? 何なに何ぃぃ~っ!?」
「!? 人工呼吸器!!」
地震や落雷はもちろん、ブレーカーが落ちる音、何かの配線などがショートして弾ける音といった、「停電の前触れ」と思われることは何も起きず、唐突に電灯が消えた。
消灯までまだ1時間近く猶予はあり、そもそも病室の電気は看護師たちが手動で消すし、明かりを全部落とすこともない。夜中でもナースコールが押せる程度に光源はあるはず。
なので完全な異常事態であることを加世子の方が理解していた為かパニックに陥って、火鳥の方が現状を理解しているからこその冷静な心配を抱いて、悲鳴のような声を上げた。
が、その心配は杞憂だったことがすぐに判明する。
電灯は消えてあたりは真っ暗だが、光源がない訳ではない。その光源こそが、火鳥の祖母の命を繋いでいる人工呼吸器だった。
人工呼吸器と心電図は変わりなく起動し続けていることに、火鳥と火鳥の悲鳴でパニックが一瞬にして納まった加世子が安堵の息を吐く。
が、それはそれでおかしいことに二人は気づいた。
「……え? ちゃんと動いてて助かりましたけど……停電でなんで動いてるんですか?」
「さ、さぁ? 災害用の予備電力とか?」
一般人かつ中学生の火鳥が疑問に思うのは当然だが、加世子も何故、電灯が全滅しているのに医療機器は動いているのか説明できない。
幸か不幸か、加世子は看護師になってどころか人生の中でまだ一度も、大きな災害の被害に遭ったことがないので、防災意識が低くて停電時の医療機器はどうなるのかをよく理解していなかった。
だが、決して看護師としての意識が低い訳ではない。むしろ今時珍しい熱血ナースの加世子は、富士野の脈拍を測って容体を診ながらナースコールを押す。
しかしどういう訳かナースコールは繋がらないので、ますます訳がわからなくなる。
ひとまず加世子が診た限りでは富士野に何らかの支障はないので、百歩譲って彼女はこのままにしておけても他の患者はそうはいかない。
富士野にも火鳥にも悪いが、とりあえず他の病室ではどうなっているのかだけでも把握する必要があると判断して、加世子は火鳥にここから動くなと厳命すると火鳥は祖母の手を握ったまま素直に頷いた。
「加世子さん、お気をつけて」
それどころか加世子を心配して声までかけてくれたので、思わず加世子は苦笑する。
唯一の身内の危篤という現状だけでも余裕などないはずだろうに、突然の停電、暗闇の中で今にも死にそうな祖母と二人っきりな状況なんて、加世子なら火鳥と同い歳の頃はもちろん、今現在でも耐えられる自信はない。恐怖と不安とストレスが爆発し、泣き叫ぶ自分が容易く想像ついた。
だからこそ、少しは目が慣れて見えた暗闇の中、決して不安がない訳ではないとわかる怯えたような表情で、それでも加世子を案じてくれた火鳥に笑いかけて答える。
「大丈夫よ! 心配しないで! 何があっても、たとえ火事でもあたしが火鳥ちゃんはもちろん、富士野さんもベッドと人工呼吸器ごと担いで逃げてあげるから!!」
加世子の言葉に、火鳥は一瞬きょとんとしてから笑ってくれた。
だから加世子も安堵して、瞳孔の確認用のペンライトをつけ、ひとまず廊下に出ようと病室の戸を開ける。
「!?」
開けた瞬間、加世子は息をのむ。
やはり富士野の病室の電灯だけ急に全部切れたとか故障という訳ではなく、廊下の電灯も非常灯すら消えおり、廊下の端のナースステーションにすら灯りは見当たらない。
これは自分の想像以上の異常事態だと理解した加世子の背に不安が重くのしかかるが、火鳥を不安にさせる訳にはいかず、ペンライトであたりを照らしながら一歩、足を踏み出した。
そんな暗闇の廊下で、やや暗闇に慣れた加世子の眼は何かを捉えた。
自分の腰くらいの高さで廊下を横切る影を見た加世子は、子供の入院患者が停電でパニック、もしくは面白がって廊下に出たのではないかと思って、とっさにそちらにライトを向ける。
向けた瞬間、「それ」は階段の影に隠れてしまった。
「……誰? そこにいるの?」
「? 加世子さん、どうしたんですか?」
加世子が階段に隠れた何かに声を掛けて見ると、火鳥はいぶかしげな声を上げて尋ねる。
「見えなかった? 子供っぽい人影が今、通ったんだけど……」と加世子が答えると、火鳥は申し訳なさそうに「すみません、私、鳥目で暗い所はダメなんです。全然、目は慣れませんし光源がないと何も見えません」と返された。
その答えで、なら仕方ないかと加世子は納得しつつ階段に近づく。「どうしたの? 怖くないから出ておいで」と声を掛けながら。
自分の背後、遠ざかる病室から火鳥が「あ、あの……加世子さん……」と控えめに呼びかける声が聞こえた。控えめとはいえ部屋の中から部屋の外にいる人物に声を掛けているのだから、そこそこ大きな声だ。
病院かつ夜、そして停電中という非常事態でそのような非常識、迷惑と思えることをする子ではない事を加世子はよく知っていた。
だが、子供が停電を怖がって病室から抜け出してしまったのなら放っておけなかったから、火鳥をひとまず後回しにする。火鳥が呼ぶということは非常事態であることを予測していたからこそ、気が逸っていたのもあるかもしれない。
だからこそ火鳥は、自分の声が迷惑になるかもという不安をかなぐり捨てて悲鳴じみた声で呼びかけ、尋ねる。
電灯は全滅だが医療機器は動いている事よりも、はるかな異常が発生しているとに気付いていない加世子に、警告した。
「あ、あの! 加世子さん! おかしくないですか!?
何で、病院全体が停電してるっぽいのに、
火鳥の指摘と同時に、加世子は階段にたどり着き照らして見た。
階段の踊り場に、身をくゆらせて水中のように泳ぐ錦鯉ほどの魚を。
白髪が多く混じった黒髪をなびかせ、黄ばんだ並びの悪い歯をむき出しにして笑う人間の顔を。
人間の顔をした魚が、加世子の顔の位置で揺蕩いながら笑っていた。
* * *
火鳥の言う通り。例え医療機器は問題なく動いていたとしても、病院全体が停電で誰も騒がないのは有り得ない。
百歩譲って患者はともかく、医師と看護師が何かしら行動に移しているので、指示を飛ばす声どころかあたりを走り回る物音が聞こえないのはおかしい。
廊下に出た時点で、廊下もナースステーションも電気がついてない時点でそのことに気付けてもおかしくなかったはずなのに、気付かなかった加世子はまったくパニックから回復していなかったことを理解した。
そして今更、そのことを理解しても遅い。
今、加世子の頭の中に占めるのは「先生や
それも「何これ!?」以外は考えられず、悲鳴さえも上げられないくらいに頭が真っ白になっている所で、人面魚は加世子の頭を丸々飲み込めるのではないかと思うくらいに口を開いて、すいっと泳ぎながら迫ってきた。
「!!?? きゃああああああぁぁぁぁぁっっっ!!??」
「加世子さん!?」
その人面魚に自分が食われるという認識を、加世子が出来ていたかどうかは怪しい。
ただただ悍ましいものが自分に迫って来たことだけは、混乱と困惑の極みで呆然自失となっていた頭でも理解出来たからこその悲鳴を上げ、火鳥は加世子を案じる声を病室で上げる。
そして加世子が混乱と困惑の極みだったからこそ起こした行動が、幸か不幸かはおそらく加世子本人もわからない。
悲鳴を上げつつ加世子は後ろにたたらを踏み、人面魚は加世子の悲鳴など意も介さずガチガチと歯を鳴らして迫って来たが、加世子も加世子で人面魚の怖がらせて甚振ろうという余裕など介していない。
ただただパニックのあまり、加世子は躊躇なく起こした行動は……
「気っっ持ち悪いのよー!! 来んなーーっっ!!」
空中を泳ぐ人面魚を拳でぶん殴ることだった。
正確に言うと殴るというより近寄って欲しくないの一心でぶん回した腕が、人面魚の下あごにクリティカルヒットした事故なのだが、どちらにせよ怪物を前にした女性の反応とは言い難い。
人面魚もまさか看護師からアッパーを喰らうとは思っていなかったのか、元々防御のしようもないのもあって勢いよく天井まで打ち上げられ、今度は天井にぶつかって地面に落ちるという、もはや憐みさえも懐いてしまう情けない目に遭って、そのまま階段の踊り場でまさしく打ち上げられた魚のよう、弱々しくぴくぴく身をくねらせた。
「え? え? 何なに、マジで何!? 何なのよ、これはーーっっ!!
あーん、もう手が生臭くなって最っっ低!!」
「え? 生臭い? 加世子さん、廊下で本当に何が起こってるんですか!? あいたっ!」
「火鳥ちゃん!?」
人面魚にアッパーを決めた加世子は、恐怖と混乱のあまりにやや幼児退行してしまったのか、その場に座り込んで現状の不満を喚くと、火鳥がなんか自分の想像とは違う方向で加世子が修羅場っているのに困惑して、壁などにぶつかりながらも病室から出てきてしまった。
さすがにまだ中学生の子に心配された挙句、鳥目で周りが見えない子を、あんな化け物がいた廊下に出させる訳にはいかないという一心が、加世子の折れかけた心を奮起させて立ち直らせる。
しかし、振り返った瞬間に自分の行動の浅はかさを後悔した。
悲鳴など上げてはいけなかった。弱音など吐いてはいけなかった。彼女を守りたいのなら、自分は意地を張り通すべきだったと思い知る。
「いたた……。加世子さん、大丈夫ですか?」
「火鳥ちゃん! 逃げて!!」
「え?」
スマホのライトを懐中電灯代わりにしてこちらに向かう火鳥は、必死の形相で懇願する加世子の視線が自分からややズレていることに気付き、後ろにライトを向けて振り返った。
そこで彼女も見てしまう。
空中を、灯のない病院の廊下を泳ぐ、眼が線になるほど浮腫んだ人間の顔の魚が数匹、自分に向かって大口を開けて迫ってきていることを。
そして同時に、加世子も気づく。
火鳥が病室から引きずって持ってきているものが何かを。
「!? ぴゃあああぁぁぁぁっっ!!」
妙に気合いが抜ける悲鳴を上げて、火鳥はそれをぶん回して人面魚を壁に叩きつけて撃退。
火鳥が持ってきていたのは、病室で自分が座っていたパイプ椅子。それをわざわざ折りたたんで何故かこの女、ずるずる引きずって持ってきていた挙句に、人面魚に躊躇なくフルスイング。
「何で火鳥ちゃん、そんなもん持ってきてるの!?」
加世子の突っ込みは当然の疑問である。
「す、すみません! 何かつい最近もこういうホラーな経験してたもんだから、護身に」
「護身がダイナミックかつバイオレンスすぎない!?」
「そこは突っ込まないで! 役に立ったんだから! それより、加世子さん! 一旦、病室に戻りましょう!!」
火鳥がなかなかに信じがたいことを口走るが、加世子は「ホラーな経験」よりも護身にパイプ椅子を選んだ火鳥の思い切りの良さに突っ込みを入れ、火鳥はちょっと恥ずかしそうに顔を赤くしながら加世子に駆け寄る。
が、彼女も宙を泳ぐ人面魚のインパクトでパニくっていたのと、鳥目が合わさって足元がお留守だったらしく、火鳥は加世子が最初にノックアウトした人面魚を思いっきり踏む。
「あ」
「へ?」
それはもう見事に足全体を魚の腹に乗せるように踏み、不幸中の幸いは踏みつぶして嫌すぎる感触を足裏に感じなくて済んだことだが、魚のぬめりがよく磨かれた病院の床と相性が良すぎてつるんと前のめりに滑り、そのまま火鳥は頭から階段にダイブする形ですっ転ぶ。
「火鳥ちゃん!?」
まさかの人面魚が原因だが、人面魚が無関係の理由で大怪我間違いなしの事態に陥るのは、火鳥のパイプ椅子フルスイングより予想外で、加世子は慌てて手を伸ばすが、火鳥を支えることも腕を掴んで落下を防ぐこともしてやれなかった。
しかし、運は火鳥を見放してはいない。
「……モノノ怪に、同情してしまう事は珍しくはないが……、こういう意味で同情するのは初めてです、よ」
「「え?」」
火鳥が下の階の踊り場に墜落する前に、彼女を受け止めた人物がやや掠れているが色っぽい声で、呆れたように言った。
そして女二人は、それぞれ顔を赤くして固まる。
加世子は日本人にしては色黒の顔でも紅潮しているのがわかる程、陶酔した。
暗闇の中に浮かび上がるように、その顔は白い。
その白い顔に歌舞伎の隈取のような化粧、上唇のみ笑みを描くように掃いた紫の紅という、異常さで言えば人面魚と大差ないような化粧を施しておりながらも、一切損なわない美貌に思わず思考が完全に停止してしまった。
そして火鳥の方は、自分の間近にあるその白皙の美貌が既知であること、そして先程の発言からして彼は自分のダイナミックかつバイオレンスな撃退を知っていることを察し、衝撃と羞恥で失っていた言葉が噴火するように思わず口から飛び出た。
「っっっっかぁーーーっっ!!?? く、薬売りさん!? 何でまたこんなとこに!?」
「……もちろん、モノノ怪を斬りにですよ。カラスさん」
「火鳥です! 今の悲鳴は忘れて!!」
数日前、「くびり鬼」を斬った薬売りは、火鳥を抱えたままうるさそう顔をしかめて答え、火鳥の顔をさらに赤くさせた。
原作を知っている方はわかると思いますが、作中の「野本 加世子」は原作である「怪~ayakashi~」の「化け猫」と「モノノ怪」の「海坊主」に登場した「加世」のそっくりさん設定。子孫か生まれ変わりとでも思っていてください。
苗字の「野本」は、同じく加世のそっくりさんである「モノノ怪」の方の「化け猫」に登場した「野本 チヨ」から取りました。