火鳥を妙に注目して語る薬売りに、火鳥だけではなく加世子も不思議に思いつつ、話を進める。
「えっと……じゃあ、あの人魚を食べたら不老不死になれるってこと?」
「……さぁ? おそらく、無理でしょうね。同じ名と形でも、世間一般で知られる『妖怪』としての有り様と、『モノノ怪』としての有り様とは、別物である場合が多いので」
永遠の若さに関しては正直いって惹かれるものがあるが、あの「人魚」のビジュアルといい、先ほどの薬売りの話といい、もちろん加世子は食べたいとは思わない。ただ話を整理するために質問してみたら、薬売りはそっけなく答えた。
「大概の場合、世間一般で知られる『妖怪』としての有り様は、『アヤカシ』のものであり、その『アヤカシ』に人の情念が取り憑き『モノノ怪』になるから、同じ名と形でも、有り様が歪み、変化するのだろう。
だが……おそらくこの『人魚』は、『アヤカシ』の人魚が変化したものではない」
加世子に「何で違いがあるの?」と訊かれる前に、優美な指先で自分のあごを撫でながら薬売りはアヤカシとモノノ怪で在り様が違う理由を語る。
加世子に説明しているというより、自分の考えを整理するための独り言だと認識しつつも、火鳥は薬売りの言葉で気づいた点を上げる。
「魚も海とか川も関係ない、病院に現れているからですか?」
「……その通り。元が人魚のアヤカシなら、魚か、水が関係している。いくら人の道理が通じないとはいえ、病院に現れる道理は、さすがにない。
海や川から誰かを追ってきたのならともかく……、そうではない、
最初から疑問だった、「何故、病院の中に人魚?」という疑問が、「人魚のアヤカシが基ではない」という根拠に繋がる。
薬売りはおそらく今回のパターンは、遠い昔に斬り払った「
おそらく本来なら「
その為、ただでさえ香木は興味がない者にとってはただの腐った木、香道に携わる者にとっては価値ある物という二面性があるのに加えて、香道に知識や興味がなくとも野心を持つ者にとって大きな意味と価値が付属したことで、「見る者によって姿が変わる」という有り様を得た。
その在り様が、「虎の部分を見た者にとって鵺は虎、蛇の部分を見た者にとって鵺は蛇」という「鵺」というアヤカシの有り様と一致したため、「付喪神」だったアヤカシが「鵺」というモノノ怪の形を得るという珍妙な出来事が、「鵺」の顛末。
「病院という場所柄……、魚や水よりも『食べると不老不死になる』という部分が、『真』や『理』に関わっている方が自然、ですね」
そのような実例を知っている為、薬売りは「人魚」という形から思い浮かぶイメージは無視して、病院という場所柄から関連性があるように思える人魚の特性に注目する。
だが、火鳥は薬売りの考えに同意しつつもそれならそれで浮き彫りになる疑問を口にした。
「確かに、それならおばーちゃんだけじゃなくて病院の患者さん全体の『死にたくない』って願望そのものが『理』で説明がつくかもしれませんね。
でも、『食べると不老不死になる』割には、むしろ人魚がこちらを食べようと襲い掛かってません? モノノ怪の形が八百比丘尼の方でしたら、私たちを人魚に例えているってことで筋が通るのですが……」
「そうよねー。富士野さんが言うには、火鳥ちゃんが狙われてるみたいだけど、その理由も謎のまんまだし……」
加世子も火鳥の疑問に同意しつつ、更に浮かんだ疑問であり心配事を口にすると、火鳥と同じ部分に引っかかりを覚えているのか、薬売りはやや険しい顔をしつつも加世子の疑問の答えは想像がついたので答えてくれた。
「いや……、別に火鳥さん個人をあれは狙っている訳ではない。
加世子さんにも、俺にも普通に、襲い掛かって来た。単純に、自分から一番近い者に襲い掛かっているだけだ」
「え? じゃあ、何で富士野さんは火鳥ちゃんが殺されるなんて言ったの?」
薬売りの言う通り、よくよく思い返せば確かに人魚は加世子や薬売りを無視して、火鳥を執拗に優先的に襲っていた訳ではない。
人が水辺に寄ってきた時の鯉のように、ただただ意地汚く一番近くにいる者に食らいつこうとしていただけで、個人どころか性別の見分けがついているのかすら怪しいくらいだった。
しかしあの人魚の獲物が無差別ならば、それはそれで富士野の最期の懇願にまた別の謎が生まれるので、思わず加世子は反射的に訊き返した。
「それがわかれば、苦労しません、よ。……ただ、もしかしたら本当に、この方は無関係かもしれません、ね。
たまに、いるんですよ。アヤカシが見える、気配を感じられる、そして何の関係もないのにモノノ怪と関わってしまう、巡り合わせの悪いお人が。
特に、幼い子供や死期が近い者は、有り様がアヤカシに近いのか、その傾向がある。だから、この富士野という方も、意識を失う間際にあの『人魚』を見たからこそ、錯乱して、孫娘の身を案じたから、あなたに懇願したのかもしれません、ね」
別に火鳥の不安をフォローする意図はなかったのかもしれないが、祖母は無関係かもしれないという可能性が高まったことに、火鳥は少し嬉しげに微笑んで「そうかもしれませんね」と同意してから、またしてもふと疑問が浮かんだので薬売りに尋ねてみた。
「薬売りさんの言う通りだとしたら、この人魚って普段から普通の人には見えないだけで、病院内を泳ぎ回っているんでしょうか?
そうだとしたら私や加世子さんは、薬売りさんが言う『たまにいるアヤカシの気配を感じたり、関係ないのにモノノ怪と関わる人間』という条件に合ってしまったから、獲物認定されているだけでしょうか?」
「心当たりがないのなら、その可能性が高い。それと、時間も悪かった。
アヤカシは闇を渡って『こちら側』に干渉する。モノノ怪も、それは同じ。よほど力が強く、自力で光を覆い隠せるようにならない限りは、夜という時間か、光が届かない地下や密室などといった、限られた場所に現れ、そこから自分の一部と化した、他の者には見えない、聞こえない、全てが終わってどのような形であれモノノ怪から解放されぬ限り、不干渉の空間に引きずり込まれる」
「闇を渡る」と、「モノノ怪の一部である周囲が気付けない、不干渉の空間に引きずり込まれる」という説明で、医療機器は稼働しているのに電気がつかない、他の医者や看護師の気配が全くないという現状に説明がつき、火鳥と加世子は納得する。
くびれ鬼の時も、教師や部活などで残っていた生徒が通りかかってもおかしくなかったのに誰も現れなかったので、「自分の一部である空間を作り出す」は、モノノ怪としては基本の能力なのかもしれないと火鳥は思った。
「特に、あの人魚は光に弱いようだ。だから、灯りを手離すな。灯りがなければ、近くにいる者より優先して襲い掛かるはず」
「はい。……スマホのバッテリーもつかなぁ?」
「……あのー」
ついでに薬売りがベッド脇のサイドテーブルに置いた蝋燭を指さして人魚対策の忠告をし、火鳥はスマホのバッテリー残量を心配するが、加世子はちょっと気まずげな様子で挙手して言った。
「今の薬売りさんの説明で、思い出した。
人魚の心当たりは無いけど、あたしたちの現状の心当たりはあるかも」
* * *
心当たりを尋ねられて「ない」と答えながら、後で思い出すのは二度目なので加世子はこの上なく気まずい思いをしながら、「今回のは気づかなくて仕方ないでしょ」という思いをこめて、その心当たりについて話し始める。
「もしあたしの心当たりが正解なら、1年位前から被害は出てるけど死人は出てないわ。
それくらい前から、うちの病院で夜勤のナースとか、緊急手術患者の付き添いとか、病人・怪我人以外の人がしばらく姿が見えなくなったと思ったら、体調を崩して倒れてる所を発見っていうのがちょくちょくあるのよ。
姿が見えないって言っても、長くて3時間くらい? 急患とかでバタバタしている時とかにいつの間にかいなくなるから、具体的にいつからどれぐらい行方不明だったのかはわからないのよね。
それに体調不良も看護師なら過労、付添いなら心労が溜まって倒れたぐらいで済む程度だから、頻度の多さが気になってたけどよくある事ってみんなスルーして気にしてなかったのよ。
ぶっちゃけー、無人の病室からナースコールとか、半透明の人間が歩いてるのを見たとか、そういう心霊現象のテンプレっぽい事ならもっとしょっちゅう起こってるから、この程度は病院内の怪談としても噂になってなかったわ」
加世子のぶっちゃけた話に火鳥は若干引いたような苦笑を浮かべるが、薬売りは真面目な顔で質問を重ねる。
「……その、倒れた方は、人魚について何か、言ってましたか?」
「聞いてないから気付かなかったのよ。
付添いの人達には詳しい話なんか聞けないから知らないけど、看護師たちは『変な夢を見た気がする』くらいね。
あぁ、あと危篤の知らせを受けてやってきたご家族で、5歳の女の子が同じように30分ほど姿が見えなくなったと思ったら、高熱を出して廊下の片隅で倒れてたってのがあったわ」
話していて加世子は今になって思えば引っかかる、事件とも言えないささやかだが確かな「異常」を思い出し、それについても正直に、思い出せるだけ全部語る。
「別に外傷とかはなかったし、30分くらいなら退屈でその辺を探検してたけどたまたま見つからなかったで済む程度の時間だし、熱も夜中に連れ出された寝不足、子供だから免疫力が低い、何かピリピリしてる大人たちの雰囲気が怖かったっていう心労のトリプルコンボで風邪をこじらせただけだと皆思ってたけど……、高熱だから入院させることになったらあの子、過呼吸になるほど泣いて嫌がったのよ。
お化けが出る、お化けに食べられるから嫌だって」
病院嫌いの子供は珍しくない。そして「死」を理解しているとは言い難い子供でも、大人の言動からか、病院の独特な雰囲気からか、病院と死者を結びつけるのはさほど不自然ではない。
だから、「お化けが出るから病院は嫌」と泣き叫ぶ子供を不自然には思わない。思わなかった。
あの、人を喰らおうと襲い掛かる人魚が泳ぎ回るこの病院を知るまでは。
「……外傷はなく、死ぬほどではないが高熱を出す。……命を啜っているのか? それが、人魚の『真』。『理』は病院の患者の『死にたくない』という願い……なのか?」
加世子の話をただの偶然、無関係の怪談ではないと判断し、薬売りは剣にその話から考えられる「真」と「理」を語るが、剣は口を開ける事すらせず無反応。
「違う……みたいですね。でも、加世子さんの話が無関係だとは私も思えないのですが……。
加世子さん、しつこくてすみませんが他にもっと何か……、その行方不明になって倒れて見つかった人たちと私たちに共通点とかありませんか?」
剣の反応を見て火鳥は残念そうに呟いてから加世子にさらに問うが、加世子はもう話せることは全部話したつもりなので、腕を組んだり頭を抱えたりして唸りながら情報をひねり出す。
「う~ん……う~ん……。あとは……せいぜい皆、若いってくらいね。倒れた看護師たちは皆20代の新人がほとんどだし、看護師以外も30代はいなかったと思うわ……」
しかし加世子の努力虚しく、その共通点は既に剣によって否定された「真」を強化させてしまうだけ。
若い者、生命力に満ち溢れているであろう者が積極的に狙われるのなら、薬売りが言った「死にたくないから命を啜っている」という仮定が一番筋が通るのだが、実は剣に訊くまでもなく火鳥が言ったようにこの「真」と「理」だと、「人魚」という形に矛盾している。
喰らうことで永遠の命を得たのは、人魚ではなく八百比丘尼の方だ。
いくら基が「人魚」とは本来全く別のアヤカシでも、「人魚」の形を得たのならむしろ基が人魚のアヤカシがモノノ怪になるより、「人魚」としての特性を持っているはずだ。
そしてここが水辺も魚も関係していない病院内であることからして、「不老不死」もしくは「命」という要素が、このアヤカシを「人魚」に変えた「真」と「理」である可能性は高い。
もちろん加世子の話は無関係で、薬売りの想像も外れており、この人魚は元からアヤカシの人魚がモノノ怪になったもので、水辺から特定の誰かを追ってここまで来た可能性もある。
しかしそうだとしたらこの人魚は、無差別に人を襲う類のモノノ怪ではなく、特定の人間を狙って襲うはずだ。それなら、この場の誰も「人魚」に心当たりがないの有り得ない。
火鳥か加世子が嘘をついていると疑わしい状況だが、薬売りはモノノ怪を斬るようになって気が遠くなるような年月を重ねてきた。その年月で得た経験則は伊達ではない。
嘘をついているかどうかくらい、一言二言話せばお見通しに出来るくらい彼の観察力は研ぎ澄まされている。
その経験則、観察力から見ても、火鳥も加世子も嘘はついていない。
火鳥はくびれ鬼の件があるので、他人である加世子を巻き込んでいるのなら心当たりがあれば絶対に話す。
自己保身で隠し事など出来ないからこそ面倒事を生む性格だと薬売りは知っているので、彼女の言動に関しては何も疑っていない。
加世子は本日が初対面だが、こちらも嘘がつける人物ではないと見ている。
彼女によく似た女性を二人、薬売りは知っている。その内の一人は、軽薄な所があったが他者を思いやれる勇敢な女性で、外見だけではなく性格も加世子によく似ているように思えた。
もう一人は嘘つきだったが、根から腐っているとは言えない人だった。
一人目以上に浅慮だっただけで、自分のしたことがもたらした結果を知れば、罪を認めて反省することが出来る人であり、そもそも今と同じような異常な状況に陥っても、自分より年下の子供を気遣うことが出来る人だった。
根拠と言うには自分の、「そうであってほしい」という青臭い期待が多大なのは自覚している。
が、その個人の感情を切り捨てても、やはり彼女達の反応は嘘をついている者の反応ではない。心当たりがあって、それを知られたくないから嘘をついているのなら、沈黙を守り続けるかもっと嘘を重ねて真実から遠ざけようとするかが自然なので、この半端な情報量が彼女たちは無関係の証明となる。
ならば、やはり鍵はこの死にかけの老婆なのか? とでも思っているのか、女性のように優美な指先で自分の唇を思案するように撫でながら、富士野という老婆を薬売りが見下ろしていた時、鈴の音が響いた。
* * *
薬売りだけではなく、彼と同じようなことを思って痛ましげに、不安そうに富士野を見ていた加世子と火鳥も、まずは鈴の音の出所に注目してからすぐさま顔の向きごと視線を移す。
天秤から、札で封じられた病室の出入り口である扉に。
元々そちらに傾いていた天秤だが、あまり近くにいないのか浅い傾きで音が鳴らぬ程度に小さく揺れ続けていたのに、鈴の音が大きく響くほどに深く傾いたのは、間違いなく人魚が籠城する獲物に痺れを切らして集まって来たから。
そう、3人とも思った。
だが、扉の向こうから聞こえた「声」が一致していた3人の考えを分断させる。
「……開けて。……助けて」
「「!?」」
扉の向こうから弱々しい子供の声が、助けを求める子供の声が聞こえ、火鳥と加世子は同時に目を見開いてとっさに扉に向かって駆け出した。
「待て! 開けるな! 罠だ!!」
しかし一番薬売りの傍にいた火鳥は、彼に肩を掴まれて扉に向かうのを阻まれ、加世子も札を破って扉を開ける前に薬売りの制止が耳に届き、スライド式の扉の取っ手に手を掛ける体勢でひとまず振り向く。
が、薬売りの声は向こうにも聞こえていたのか、扉を激しく叩く音や衝撃と同時に、弱々しかった声は狂乱の叫びに変わる。
「!? 何で!? 開けて開けて開けて!! お願い助けて!
お化けが、魚のお化けがいるの!! 助けて! お願い助けて!!」
あまりに悲痛な助けを求める声と、扉を壊す勢いで叩く音に加世子は暗闇でもわかる程に顔色を蒼白にさせて薬売りに尋ねる。
「こ、これ、本当に罠なの!? あたしたちと同じように巻き込まれた子供じゃないの!?」
「……天秤が、そこにモノノ怪がいることを表している」
「子供が襲われてるのなら、いるのは当たり前ですよ!
薬売りさん! 本当にこの声は、扉を開けさせる為の罠なんですが!? 万が一にも本当に子供って可能性はないんですか!?」
加世子の縋るように、子供を見捨てる罪悪感など背負わなくていい確証が欲しくて薬売りに尋ねるが、薬売りが「罠」と言い張る根拠は薄い。
薬売りは経験則でこれが9割がた罠であると確信しているが、加世子や火鳥にこの悲痛な子供の叫喚を無視しろというのは酷である事もわかっている。
そして何より、薬売りでも1割程度だが本当に火鳥や加世子と同じく、運悪く人魚の獲物認定された子供の可能性があると思っているし、その可能性を捨てる事も出来ない。
天秤はモノノ怪との距離を測り、位置を知り、場合によっては手繰り寄せることもできるが、そこにいるのが人間かモノノ怪かの区別はつかない。火鳥の言う通り、襲われている最中ならば本物の子供と一緒に人魚がいるのだから、天秤が反応するのは当然だ。
「痛い! 痛いよぉぉっっ! お願い! 助けて! 開けて!!
お母さん! お母さぁぁぁぁん!! 助けて! 助けてぇぇぇぇっっ!!」
薬売りは火鳥の問いに答えられない。子供を案じる彼女達の不安を消してやる根拠を見つけられず、逆に扉の向こうからはさらに彼女たちの良心を、罪悪感を煽る悲鳴が上がる。
扉のすぐ傍にいる加世子には、悲鳴だけではなく何かを噛みしめる、くちゃくちゃと咀嚼する音も聞こえたのだろう。
だから、その行動を浅はかと言って謗るのは鬼畜の所業。
「!! っっっごめん、二人とも!! 薬売りさん! 火鳥ちゃんだけでも守ってあげて!!」
「加世子さん!!」
頭では加世子も薬売りと同じく9割がた罠だとわかっていた。それでも、放っておくことは出来なかった。
例え、あの人魚に襲われても命に別状どころか現実に外傷はなく、ちょっと風邪をこじらせたくらいの高熱が出てしばらく寝込む程度の被害であったとしても、例え後になれば「怖い夢だった」で済む記憶になるとしても、それでも生きながらに人の顔をした魚に襲われ、貪り食われる体験などさせたくない。
何の非もないのに化け物に襲われ、心に酷い傷を負うであろう子供がいるかもしれない。その可能性が捨てられないのなら、加世子は見捨てることなど出来なかった。
だから謝りながら、せめて富士野が自分に懇願した最期の願いを薬売りに託して、力任せに扉に貼りついていた札を破って戸を開けた。
開けながらも、「光に弱い」という情報は忘れていなかったから加世子はペンライトを真っ先に廊下に向ける。
その行動が正解だったのかどうかは、加世子にはわからない。
開けた瞬間、襲われるという事態にならなかった点では正解だ。だがその代わりに加世子は暗闇というオブラート抜きで、見てしまう。
『騙された』
人面魚としか思えない、目どころか鼻の穴も塞いでしまいそうなほど浮腫んだ丸い顔の魚が空中で身をくねらせて揺蕩い、真っ赤な口内と並びも色も悪い歯をむき出しにして嗤う。
やはり、罠だった。
廊下には大群と言える、数十もの数の人魚が待ちかねていた。
けれどそれはまだ、想像の範疇。それだけなら襲われる前に、ペンライトの光に怯んでいる隙にまたすぐ扉を閉めることも叶ったかもしれない。
ペンライトの灯りで、加世子は誤魔化しようもなく見てしまったもの。それは、自分を騙すためにリアリティを出す為だったのか、それとも獲物が籠城してしまって喰らい損ね、飢えが限界だったからこその蛮行か。
廊下に転がる、人面魚の残骸。
空中を泳ぐ人魚たちの口を染め赤黒い液体の正体、歯に絡まって垂れさがる黒い糸のようなものが何であるか、ここで、扉の向こうで何をしていたのか、自分の聞いていた音が何であるかを加世子は理解してしまった。
「きゃああああああああぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!」
自分たちを騙す為の罠を張り、演技が出来るほどの知性を持ちながら、共食いというケダモノ以下の行動を取った人魚の悍ましさに、加世子は理性で理解してしまったからこそ恐怖が理性を、理知を塗りつぶしてペンライトを落とし、扉を閉める事も出来ずに悲鳴を上げた。
薬売りは舌打ちしつつも、火鳥を後ろに、少しでも人魚から遠ざける為に突き飛ばすようにして下がらせてから、鞘が抜けぬ剣を手にして駆けつけ、自分たちの仲間を喰らった口を開けて襲い掛かる人魚から加世子を庇い打ち払って追い払う。
だが数が多すぎるのと、加世子は見たものの衝撃が強すぎて薬売りの腕の中で庇われて抱かれたまま、動けない。自分から彼の後ろに回って逃げるなり、扉を閉めるなりの行動が取れずにいる。
薬売りも忠告を破ったとはいえ、それは弱者を思いやる慈愛ゆえの行動だからこそ加世子を見捨てる事が出来ず、あまりに危うげな防戦に強いられる。
光に弱いことはわかっているが、自分が光源にしていたのは火がむき出しの蝋燭だったので、もちろん今は手元にない。富士野のベッド脇にあるサイドテーブルの上に置きっぱなしだ。
加世子の落としたペンライトを拾う隙はなく、薬売りが使える手段は限られている。
けれど、その手段は使う訳にはいかない。絶対に使わないと決めている。
「加世子さん! 薬売りさん!!」
だが、薬売りの決意などこの女は知らない。
いつも、いつだって彼女は悪意はなく、善意のつもりだってなく、ただ呼吸をするように、当たり前のことのように行動する。
「! この阿呆が!」
だから、薬売りは思わず感情をむき出しにして怒鳴った。
自分たちに、自分と加世子を襲う人魚に向かって投げつけられた、光量を最大にしたスマートフォンがそれほど今は憎かった。
自分たちを助ける為に、鳥目の癖に、それを失くせば何も見えなくなってしまう癖に、自分の身を守る「光」を薬売りと加世子を守る為に人魚に向かって投げつけた、底抜けのお人好しに怒りの言葉をぶつける。
「逃げろ!!」
光に一瞬怯みながらも、一番美味そうな獲物が一番無防備になった事を喜ぶ人魚の醜悪な笑みを浮かべて、彼女の元へ向かう人魚の群れを打ち払おうと足掻きながら。
また、何度も何度も繰り返した失敗を悔やむように顔を歪めながら。