モノノ怪「不死鳥忌憚」   作:淵深 真夜

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投稿の順番をミスって、前章の途中に入って訳わかんないことになってました。
読んでて混乱された方、申し訳ありませんでした。


人魚:四の幕

 人魚から少しでも遠ざける為に、薬売りは火鳥をとっさに後ろに突き飛ばしたが、火がむき出しの蝋燭を置いてある富士野のベットの頭側ではなく足元側に突き飛ばしていた。

 これはとっさでも突き飛ばした際に蝋燭を倒して火を消してしまわぬように、その火で火鳥や富士野が火傷を負わぬようにという配慮だったが、薬売りの配慮は最悪の裏目に出る。

 

 蝋燭程度の光源では、ベッドの足元側にいる火鳥は照らせない。

 薬売りと加世子がいる位置、病室の出入り口は火鳥の位置から対角線上だというのもあって、懐中電灯代わりにしていたスマホを手離した火鳥は今、一番光が届かない暗い場所に一人でいる。

 

「火鳥ちゃん!?」

 

 投げつけられたものが何であるかに気付いた加世子の、恐怖で真っ白になっていた思考が蘇る。硬直していた体が、あれほど恐れて気味悪がっていた人魚たちに手を伸ばす。

 しかし数の多さと勢い、そして魚特有のぬめりの所為で一匹たりとも捕まえられない。

 

 薬売りも鞘がついたままの退魔の剣で人魚を何匹か打ち払うが、焼け石に水でしかない。

 人魚たちは自分たちの仲間が剣で殴り落とされようが、勢いは緩めず加世子も薬売りも無視して一直線に襲い掛かる。

 

「っっっ!!」

 

 闇の中、人影が魚影にたかられて蹲る。

 悲鳴は上がらない。耐えるような、くぐもったうめき声すらも、ビチビチと人魚同士がぶつかりあって跳ねる音に掻き消される。

 

「火鳥さん!!」

 

 薬売りが犬歯をむき出しにして叫んだ。怒鳴ったと言った方が正確な程、怒りを含んだ声で思わず加世子の身が竦む。

 実際、薬売りの声は彼女の身を案じたものではない。

 

 わかっているから。

 彼女がスマホを投げつけたのは、善意のつもりですらなくとっさの反射のようなものであったことくらい。

 鳥目とはいえ、光源があるのだからその光源の方向に、祖母の枕元にまで移動するくらいスマホを投げつけた後でも出来たはずなのにしなかったのは、とっさに行動してから恐怖で硬直した訳ではない事も、わかっている。

 

 祖母に被害が行かないように、薬売りや加世子を人魚の気から逸らせる為に、彼女はわざと一番暗いあの位置から動かなかった。

 自分を囮にして、犠牲にして、守ろうとしている。

 これだって、善意のつもりもない。自己満足でしている事だとすら、今は思っていない。

 

 意図的に動かなかったくせに、スマホを投げつけた時と同じく、呼吸と同じくらい「当たり前」のことだと思ってしているのを薬売りは知っている。

 

 悲鳴を上げないのだって今更になって、自分のしている事は相手に心配をかけて悲しませていることに気付いたから、だからせめて少しでもその心配を和らげようと思って耐えている事すら、わかっている。

 いつも、いつだってそうだから。

 

 悲鳴すら上げないのは余計に周りを心配させていることを全くわかっていない、そんな気遣いは無駄であることを学習しない阿呆である事を、薬売りは知っている。

 

 ずっとずっと昔から、薬売りは知っていた。

 何度も何度も、彼女がそういう阿呆だということを思い知らされてきたのに、またしてもその阿呆なことをしでかした火鳥が腹立たしくて、わかっていたのにまた火鳥がやらかすのを止められなかった自分が許せないまま、火鳥が投げつけたスマホを拾い、その光を魚影にたかられ、生きながらに貪り食われている愚か者に向けた。

 

 いや、向ける前にそれは起こった。

 

『!?』

 

 突如、辺りを白く染めて薬売りや加世子の眼も眩ませるほどの輝きが放たれる。

 光源は、富士野の胸元。

 薬売りが「気休め」と言って置いた鏡が、カメラのフラッシュ並の光を放つ。

 

 人魚の跳ねる音に掻き消されることなく、火鳥の「心配しないで」という思いで耐えた苦痛の声を聞き逃さない者がいた。

 自分が死の淵に瀕しても、案じたのは彼女の事だったから。

 だから、例え動けなくても、動くことすらできないからこそ、残りわずかな命をさらに縮めるような行いであっても躊躇などなかった。

 

 誰もが理屈抜きで、理解出来た。

 その輝きは、富士野の命そのものであることを。

 

 

 

 * * *

 

 

 

『恐ろしい。恐ろしい……』

 

 影すら生まない、辺りを白で埋め尽くす光の中で声を聞いた。

 じゃらじゃらと何かを擦り合わせる音と一緒に、彼女は言う。

 

『あんなの……まるで八百比丘尼(やおびくに)じゃ……。あれはまるで、人魚の肉じゃ……。

 恐ろしい……、恐ろしい……。()()()()()()をわかってて、あんなものを与えるなんて……。人の所業じゃないわい……』

 

 何かを恐れ、彼女は、老婆は、富士野はひたすらに数珠を擦り合わせて一心不乱に祈っていた。

 

『嫌じゃ……。嫌じゃ……。わしは自然に、天寿を全うして死にたい。

 嫌じゃ……、嫌じゃ……。あのような死ねぬ体に、死んどらんのに生きてもおらん体になどなりとうない……。八百比丘尼になど、なりとうない……』

 

 光が薄れるのに比例して、その声は遠くなって消えてゆく。

 最後に聞こえたのは、か細く絞り出すような切願。

 

『――――独りきりで生きるのも、死ぬのも嫌じゃ』

 

 

 

 * * *

 

 

 

「火鳥ちゃん! 火鳥ちゃん!!」

「う……うぅん……」

 

 加世子に揺り起こされて、ぐったりしていた火鳥が目を開ける。

 しばし寝ぼけたようにぼんやりしていた顔だったが、気を失う直前の出来事を思い出したのか、急に眼を見開いてあたりを見渡す。

 

「!? え? 人魚は!? っていうか、何で電気がついてるんですか!? あと何で私はこんなぐっしょり濡れてるの!? なんかやたらとベタベタするんですけどこれ!」

 

 火鳥のパニック具合に、加世子はひとまず元気そうである事に安堵しつつ苦笑した。

 パニックになっていながらも、火鳥は周りをよく見ている。彼女の言う通り、モノノ怪の所為で停電状態だった病室や廊下の電灯は復活しており、あれほど大量だった人魚も一匹残らずいなくなっている。

 

 安堵すべき状況であるはずだが、つい先ほどまでがヤバすぎる状況だったので火鳥はまた罠か何かと身構えつつ、自分の全身にまとわりつくベタベタした液体を気味悪そうに悪あがきで拭い取りながら加世子に尋ねるのだが、加世子も答えようがなく、助けを求めるように視線を傍らの人物に向ける。

 

「最後のは、自業自得だ」

 

 パニックを起こす火鳥を見下しながら、薬売りは吐き捨てるように最後の問いにだけ答えた。

 薬売りを見上げる火鳥は、彼の顔を見て一瞬でパニックが納まったが同時に固まる。

 相変わらず奇抜な化粧でも損なわない美貌だが、その端正な顔はいつもの何を考えているかさっぱりわからない無表情ではなかった。

 

 腕を組んだ仁王立ちで火鳥を見下す薬売りは、明らかに怒っていた。

 表情こそは眉間に皺がわずかに寄っている程度なのだが、翡翠のような瞳は明らかに灼熱の怒りを灯しているのを感じ取り、思わず火鳥はその場に正座して背筋を伸ばす。

 

「あ、あの! 薬売りさん、ごめんなっ!?」

「うわぁ……」

 

 背筋を伸ばした正座から前に手をついて土下座の体勢に移行する前に、薬売りの拳が火鳥の赤っぽい頭に勢いよく落ちて、思わず加世子も自分の頭を押さえて同情の声を上げるほど痛そうな音がした。

 実際に相当痛かったのか、火鳥はそれ以上謝罪の言葉すら紡げずに悶絶するのだが、そんなのお構いなしに薬売りは火鳥を見下して睨み付けながら語り始める。

 

「あんたは、本当に阿呆だな。

 悪気はもちろん、善意のつもりですらない。完全な反射な分、余計に性質が悪い。阿呆なら阿呆なりに学習しろ」

「ちょっ! 薬売りさん、言い過ぎ! 火鳥ちゃんはあたしたちを助けようと……」

「い、いいんです……、加世子さん」

 

 火鳥の行動に対して容赦ない非難に、思わず加世子が庇おうと口を挟むが、ボロクソに言われている本人が拳骨の痛みで涙目涙声のまま加世子を止める。

 

「薬売りさんの言う通りです……。私は考え無しの自己満足で皆さんに心配を掛けたのだから、怒られて当然です。薬売りさんの言う通り、私は学習能力のない阿呆ですよ。

 だから……ごめんなさい薬売りさん。結局、迷惑をかけちゃって」

 

 自分を庇う加世子を宥め、薬売りの言葉を全面的に認めて火鳥は再び土下座と言うほど深くは下げてないが、それに近い体勢で頭を下げてせめて誠実に反省を示す。

 それも冷ややかな目で見降ろしていた薬売りは、一度ため息をついてからその場に膝をついてしゃがみこんでいる火鳥と視線を合わす。

 

 そして、躊躇なく火鳥の柔らかな頬を右手でねじりあげた。

 

「!? 痛い痛い痛い! 薬売りさん、まだ怒ってるの!?」

「ちょっ! 女の子に何してんのよ、あんたは!!」

 

 さすがに素直に反省して謝罪しているのだから、もう鉄拳制裁をすることはないと思っていた所で地味に拳骨より酷い攻撃を仕掛けて来て、思わず火鳥は悲鳴を上げて、加世子も薬売りの腕にチョップを決めて叩き落としてから怒鳴った。

 が、薬売りは加世子を無視して火鳥に呆れているようなややジト目になって語りかける。

 

「怒ってますよ。本当に、学習しないあんたに、な。

 ……あんたは何にもわかっちゃいない。俺が怒っているのは、あんたが余計なことをしたからでも、それが迷惑だったからでもない。あんたが、自分の命を軽く見て、大事にしないからだ。

 他人に心配を掛けたことを申し訳なく思う癖に、あんたはいつも、いつだって自分を自然に蔑ろにする。他人に迷惑をかけない行動は学習するくせに、自分を大事にしようという発想は、いつまでたっても生まれやしない。

 

 いい加減にしろ。あんたが自分を蔑ろにするということは、あんたを大切に思う相手の気持ちも、踏みにじっていることに気付け」

 

 そこまで言って、薬売りは指さした。

 ベッドの上でまだかろうじて心電図が動いているが、人工呼吸器をつけていても息をしているのかどうかもうわからぬほど弱りきった、死が近づいた富士野を。

 

「人魚に襲われていた火鳥さんから、人魚を追い払ったのも、人魚によって閉じられていたこの場が現実に帰ったのも、この人のおかげだ。

 文字通り、命の残り火をほとんど使い果たして、モノノ怪が伝って来る闇を払ったんだ」

 

 立ち上がって語る薬売りの言葉に、つねられた頬を押さえてまだ涙目になっていた火鳥が眼を見開いて固まる。

 人魚に襲われながらも、気を失う間際に見た光を思い出したのか、火鳥の顔色から血の気が引いていゆく。

 

「あんたが、自分の命なんて他の誰かと比べたら軽いものだと思えば、あんたの為に命の残り火を文字通り使い果たして、あんたを守ろうとした人の思いも、覚悟も、その結果も軽いものになる。

 火鳥さん、あんたにとって自分のばあさんの命はその程度の……「違います!!」

 

 ようやく、薬売りの言いたかったこと、自分が何に対して怒っていたのかを理解した火鳥にトドメを刺すように続けた言葉だが、火鳥は途中で遮って否定した。

 

「違う! 私はこんなことの為に、バカやった私の為なんかにおばーちゃんの命を使って欲しくなかった!!

 私は、おばーちゃんに少しでも長く生きて欲しかったから……だから……でも…………それこそがとてつもなくバカなことだったんですね」

 

 自己評価が極端に低い訳でも、自殺願望がある訳ではないので自覚できなかった、己の愚かさ。

 心配をかけたくないと思いながらも、自分を軽んじていたことがどれほど自分の大切な人たちの心を痛め、その人たちがくれた思いを蔑ろにして踏みにじって来たかを理解した火鳥の声はどんどん弱々しくなる。

 

 それでも、俯いて涙を一粒だけ零しながら彼女は言った。

 

「――――バカなことをして、ごめんなさい」

 

 先ほどまでの反省も本物だが、あれは「次はあなた達に自分を犠牲にしている所を気付かせない」という意味合いで学習しようとしていた。

 結局、自分を大切にしようとしていなかったから薬売りは全く自分を許さなかった、余計に怒った事を理解して、火鳥は再び謝罪して、自分がこれからすべきことを告げる。

 

「……私は多分、同じ様な状況になったらあのまま灯りを手離さずに動かないっていうのは出来ません。例えそれが、一番誰にも迷惑をかけずに済むとわかっていても。

 けど、今度からはちゃんと自分のことも考えます。自分のことが考えられなくても、……おばーちゃんやいつきさんのことを思い出して、自分から襲われに行くようなことだけはしません」

 

 バカ正直にお人好し具合は直らない事を告げながら、それでも自分なりに自分を大事にしよう、自分のことをどうしても大事に出来ないのなら、自分のことを思ってくれた人の事を思い出すと語る火鳥に、薬売りはもう一度だけ息を吐く。

 

「……わかってくれたのなら、いいですよ。

 ただ、()()()()()学習したそれを、忘れないでください、ね」

 

 呆れているような、期待などしていないような素っ気ない言葉だった。

 ただ、火鳥の赤っぽい髪を撫でる手は優しかったから、ようやく火鳥は安堵したように笑って顔を上げた。

 

 しかし顔を上げてすぐに可愛らしいくしゃみを3回ほど連続で起こし、加世子は火鳥が人魚にたかられた所為で魚の体液らしきものでぐっしょり全身が濡れていることを思い出し、慌てて現実に戻った病院の廊下を走ってタオルを取りに行ってくれた。

 

「うぅ……。怪我がないのは幸いですけど、ただの水じゃなくてベトベトで気持ち悪い……」

「……加世子さんの話では、他の犠牲者は怪我もなく、熱を出して、倒れてただけだったな。

 ということは、これはあの光で溶けた、人魚そのものかもしれない」

「その情報、知りたくなかった!!」

 

 高熱が出るほどの被害は受けなかったが、ある意味それ以上に嫌な被害に遭った火鳥に、薬売りはしれっと更にげんなりする仮説を口にして、さすがに火鳥は軽くキレた。

 薬売りの方も自業自得と言いつつも、自分たちを助ける為に人魚に襲われた挙句、人魚の体液塗れには同情しているのか、「そう怒るな」と言って頭に巻いていた手拭いを解き、火鳥の顔を拭ってやった。

 

 元々、他者に対しての怒りが持続しない火鳥はそれで呆気ないくらいに怒りは消え、薬売りに拭ってもらいながらふと思い出した疑問を口にする。

 

「ところで、薬売りさん。人魚はいいんですか? 私たちは助かりましたけど、まだ『真』も『理』もわかってないから解決してませんよね?」

「……そうだな。だが、少し進展はあった」

 

 答えながら、思い出す。

 火鳥の質問や加世子の様子からして、富士野の命の輝きから自分だけが見えたであろう彼女の記憶の断片。

 人魚と、八百比丘尼に対する恐れ。

 

 やはり富士野は無関係ではなかったこと、それを火鳥に告げなくてはならない事に思う事がない訳ではないが、それは躊躇う理由にはなりはしない。

 だから、「進展?」とオウム返しをしながら小首を傾げる火鳥に尋ねる。

 

 富士野が「何」を人魚と八百比丘尼に例えていたか。その心当たりを尋ねるつもりだった。

 しかし、口を開く前に薬売りの眼が見開き、そのまま火鳥と向き合ったまま動かなくなる。

 

「? 薬売りさん?」

 

 呼びかけられても、薬売りは反応しない。火鳥と向き合っていながら、彼女を見ていない。声が聞こえていない。

 その証拠に、彼は火鳥の声を無視していきなり行動に移す。

 火鳥の未だ人魚の体液にまみれている手を取り、それを自分の口元に持って行った挙句に意外と肉厚な舌でベロリとその体液を舐め取った。

 

 薬売りの行動に、今度は火鳥がまたしても「ぽ?」と鳩のような珍妙な声を上げて、そのまま石化したように固まってしまう。

 だが火鳥を石化させても薬売りは、自分の口の中で舐め取った人魚の体液の味を確認しながら、火鳥の顔を拭った手ぬぐいも同じく確認するように匂いを嗅ぐ。

 そして、そのどちらにも共通する感想を呟いた。

 

「……()()

 

 匂いも、体液の味そのものも、蜂蜜のように甘い。

 ベタベタするのは糖分の所為だろう。今の火鳥は濃い砂糖水を頭から被ったような状態である事に気付いた薬売りは、そのまま石化した火鳥から手を離し放っておいて一人でブツブツ何かを呟き続ける。

 

「甘い匂いと……体液。……八百比丘尼と、人魚の肉。そして……病院。……死にたくないのではなく、生かされたくないという……恐怖。

 ……なるほど。だから、アヤカシの人魚から生まれた訳ではないあの『人魚(モノノ怪)』は、人の命を奪い、啜っていたのか。それが、『真』と『理』か」

「火鳥ちゃん、タオル持って来たわよ!

 って、どうしたの火鳥ちゃん!? 薬売りさん、何かした!?」

 

 もう既に薬売りはそこにいないのに、薬売りに手を口元に持って行かれた体勢のまま赤い顔で固まっている火鳥を発見して、タオルを抱えたまま加世子が薬売りを問い詰めるが、薬売りは火鳥石化の原因が自分だという自覚すらないのか、加世子の質問もまだ固まっている火鳥もスルーして、逆に自分が知りたいことを尋ねる。

 

 

 

 富士野と面識がある、そしてある特定の病気の重篤患者が入院している病室を薬売りは尋ねた。

 

 

 

 * * *

 

 格好や職業こそは時代錯誤も過ぎるのだが、薬売りの常識や知識は和装が当たり前の時代から止まっている訳ではない。

 売っている薬は漢方薬の類なので、西洋薬や外科関連の知識はさほどないだろうが、そこらの素人よりはマシと言い切れる程度にはある。

「現代病」の類を何も知らない訳ではない。

 

 だから、「甘い匂いと体液」ですぐに連想は出来た。

 

「こんばんは」

 

 がらりとスライド式の扉を躊躇なく開いて中に入り、薬売りは挨拶するのだが、病室の住人は何も答えない。

 ギリギリとはいえまだ消灯の時間ではないはずなのに病室の電気を点いておらず、患者もベッドに横たわっているので眠っているから気付いていないのかしれない。

 起きていても反応などしようがないのかすら、わからない。

 

 起きていたって、どうせ変わらない。患者はこの奇妙奇抜な男を現実か夢の住人かの区別はつかないし、そもそもその姿さえも見えていないだろう。

 その身は、体中の体液という体液が甘やかな蜜になる程、本来なら生命力そのものであったものが毒となって、全身を侵している。

 

 2型糖尿病の重篤患者。

 複数の合併症も発症しており、その所為で視力は失われている。肥満の影響もあって両足を切断されて動くこともままならないし、足を失ったショックからか、動けなくなった事で脳が刺激を受けることもなくなったからか、入院した頃には既に発症していたアルツハイマーも悪化して、自分の名前さえも患者はもうわからない。

 

 富士野と同じく死を待つだけの、富士野より酷い状態で寝たきりな患者に薬売りは、高下駄の足音を床に高く響かせながら歩み寄り、嫣然と笑った。

 

「……加世子さんから、聞きましたよ。あんたは、富士野さんと同じ老人ホームから、持病が悪化して、1年ほど前に入院した、と。

 ……入院してからも、する前からも、医者から止められていたにもかかわらず、食事制限を無視して、好きなものを隠れて食べていたとも。……ご自分の、ご家族が用意してくれた、差し入れの菓子類を、ね」

 

 電気がついていない、闇がわだかまる病室で全長30㎝はゆうにある魚が身をくねらせて泳いでいる。

 人の顔をした、水死体のようにも……その病室の患者にも似ている、浮腫んだ顔の人魚が一匹、薬売りを無視して患者の口元に近づく。

 

 そしてそのまま、患者の口の中に無理やり頭から入り込む。

 患者が息苦しそうにえづいても無視して、むしろ周りを泳ぐ人魚たちはその苦しむ様を実に楽しそうに嗤って眺め、口の中に入り込む人魚もわざと苦しめているかのように派手に身をくねらせながら喉の奥へと潜り込み、突き進む。

 自らを食わせる人魚と、苦しみながらそれを喰らう患者を、薬売りは艶やかな笑みを浮かべたまま見下ろし、語る。

 

「人魚にしては行動がおかしいのは、俺達は途中までしか見ていなかったから。この『人魚』の行動の本質……『真』は、他者を襲い、命を奪ってからが、本番だ。

 元が人魚と何ら関係のないアヤカシが、人の情念や怨念に憑かれ、変質し、『人魚』というモノノ怪の形を得た。本物と違ってこの『人魚』自体に、あんたの寿命を延ばす術など、ない。

 だから、他者を襲って命を啜り、奪った命をあんたに食わせて、延命し続けた。あんた好みの、甘美な肉として、食わせ続けた。

 それが――――『真』」

 

 形が「人魚」ならばおかしいと思っていた部分を説明する。

 それこそがこのモノノ怪の「事の有り様」を表していたから、薬売りが無造作に下げた右手に握られている剣の頭が肯定するようにカチンと歯を鳴らす。

 

「あんたは死にたくなかったが、その為に何かを我慢する気もなかった。

 死にたくないのに、あんたにとっては毒である甘味を欲した。人魚が若者を狙うのは、生命力豊かというだけではなく、あんたの嫉妬もある。それが『理』……だと思っていたが、どうやらこれは、少し、違うようです、ね」

 

 そしてそのまま「心の有り様」である「理」を告げるかと思えば、薬売りは自分で自分の解釈を撤回する。

 彼の言葉を、ゆらゆらそこらに揺蕩いながらニヤニヤ笑って聞いていた人魚たちから、醜悪な笑みが消えた。

 

「『人魚』どもが叶えている願いは、上辺だけ。現に、あんたはもう動くことすらままならぬ体と、苦痛以外をもう何も、覚えていないし、考えることも出来ない頭だ。

 あんたの、死にたくないが我慢もしたくないという望みは叶わず、むしろ生き地獄に縛り付けられている」

 

 この病室を開けるまで、あの自ら患者にその身を食わせる人魚の、仲間が食われているのを見ている他の人魚たちの顔を見るまで2択だった可能性は、人魚たちの笑みが決め手となって薬売りに確信を与えた。

 

 

 

「人魚たちがあんたを生かしているのは、あんたが望んだからじゃない。『人魚』というモノノ怪を生み出したのは、あんたじゃない。

 

 ……この『人魚』を生み出したのは、あんたを八百比丘尼にして、生き地獄に括り付け、甚振り続けているのは……言葉と体、両方の暴力で痛めつけ、逆らえないように縛り付け続けた、あんたの家族とその怨念だ」


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