「人魚」というモノノ怪を生み出したのは、死にたくないと願う死にかけの人間ではなく、その人間を殺すのも生ぬるいと思うほど憎む者……、家族だと薬売りは断言した。
薬売りの指摘に、人魚たちの顔が変質する。
無理やり自分たちを食わせて、他者から奪った命を与えはするが病を癒しはしなかった、苦しみが長引くように生かし続けた人魚たちの顔は水死体のように膨れ上がっていた。
人魚という存在から浮腫んだ顔は水死体を連想したが、そこの患者と見比べたら一目でわかる。あれは水死体の顔ではなく、肥満と腎臓の機能低下による浮腫みで膨れ上がった顔だったことを。
その顔が、男か女かの判別もつかぬほどパンパンに浮腫んでいた顔は、風船がしぼむようにして浮腫みが取れて逆に痩せこけた顔になる。
男も女もいた。どいつもこいつも痩せこけ、眼の下に濃い隈が居座って魚の体をしていなくとも幽霊にしか見えない形相だ。
歳はどれも若くないように思えたが、よく見ると十代ほどの子供も混じっている。だが子供らしい溌剌さはなく、大人と同じく痩せこけた頬に落ち窪んだ目、そして白髪が目立つ髪の所為で顔に皺こそはないが異常に老けて、顔だけなら三十路を超えているようにも見えた。
おそらくは、それは皆この患者の家族の顔。
どれほどこの患者によって心も体も痛めつけられ、搾取され続けたのかはその生気のない顔と、目の中のぎらつく憎悪の炎でよくわかる。
「よほど、恨まれているようです、ね」
その憎悪が「邪魔者」と認識された薬売りにも向けられ始めるが、薬売りは最初から変わらずぞっとするほど美しい冷笑を浮かべたまま、言葉を続ける。
「あんたの『死にたくない』という願いで、生まれた訳じゃない。あんたを生かし続けることで、苦しみ続けた八百比丘尼にするために生まれたモノノ怪だからこそ、『人魚』という形を得た」
おそらく正体は人魚と何ら関係のないアヤカシが「人魚」となった理由を、被害者にして加害者、全ての元凶である患者に向かって聞こえていないのは承知の上で語る。
「重要だったのは、『八百比丘尼』を作る事だった。
復讐の為だけはなく、おそらくはあんたの延命を医者に断って死なせることも、あんたの家族は怖いのだろう。死してなお、あんたが恨んで化けて出る事が、恐ろしくてたまらない程、あんたを恐れているからこそ、生きているが文句のつけようがない今を、維持していたいというのも、あるのだろうな」
この辺りは完全に薬売りの独断と偏見による推測だが、事実からさほど外れてはいないだろう。
実際、加世子から少しだけ聞いた話によるとこの患者の家族は、患者自身の所為で入院費を捻出する貯金どころか借金を背負っており、患者の怠慢と吝嗇の所為で保険等の金額保障もない為、この患者を生かし続けるのは自分たちの生活の余裕どころか、必要最低限のものすら削らなければならない。
言葉通りわが身を削って患者の命を長引かせているその様は、あの自らを食わせていた人魚と似ている。
生かす理由は復讐だけではなく、どんなに憎くてもそうしないと向こうも生きてゆけないほどに支配され尽くされた人生だったと思えば、さすがに憐憫を覚える。
しかしその憐憫を顔に表すことなく、薬売りは冷ややかな笑みのまま告げる。
「――――あんたに今まで人生を食い潰され、踏みにじられてきた者たちがその復讐に、あんたを生かし続け、苦しめ続けること。それが、このモノノ怪の『理』だ」
掲げた退魔の剣が、今度こそ正解だというように歯を鳴らす。
剣が抜かれる条件は、揃った。
* * *
条件はそろった。
だが、薬売りは剣を人魚たちに見せつけるように、盾にするように掲げたままで、まだその剣から鞘を抜かない。
人魚たちは復讐の対象が入院しても、寝たきりになっても、見捨てるどころか直接的な嫌がらせすらせずに、「生かし続ける」という消極的で陰険な復讐しか出来ないほど、自分から何らかの行動を取ることが出来ない者から生まれた。
それ故か、憎々しげな眼で睨み付けながらも襲い掛かるのを躊躇するように動かない。
他者の命を求めて啜り奪う事、特に若いとはいえ二十代の大人である看護師や付添いの者はともかく、幼い子供まで襲い、入院が必要な程に命を奪って弱らせた挙句に、心にまで深い傷を負わせることは出来たくせに、自分たちの復讐を邪魔する者を排除することが出来ない気の弱さに薬売りは冷笑を消して、呆れたような溜息を吐く。
もしかしたら最初の浮腫んだ顔、素顔ではなく真の獲物である
「……少しだけ、期待をしたが……やはり、関係ないようだな。
まぁ、わかってはいたが。……『形』はとうの昔、最初に判明しているのだから……『八百比丘尼』というアヤカシが、モノノ怪となって別の『形』を得ているのか……、もしくは別のモノノ怪が、『八百比丘尼』に憑いているなんて可能性……あるはずはないことくらい」
溜息を吐いてから、呟く。
人魚や人魚の被害者でありながら最大の元凶である患者に聞かせている訳ではない、ただの愚痴でしかない独り言。
「不老不死」がキーワードとなる「人魚」と「八百比丘尼」から連想し、想像した、ないとわかっていながらも期待してしまった可能性が、モノノ怪の「真」と「理」を得たことで完全に潰えたことに対する愚痴を吐き出す。
富士野はやはり、運悪く発作で死の淵に立たされた時にあの人魚を見てしまっただけで、無関係と言える存在だった。
あの光の中で薬売りが見た記憶からして、富士野はわざと糖尿病が悪化するように甘味を言われるがままに持って来て食べさせていたこの患者の家族の思惑に何らかの拍子に気付いて、その結果であるこの生き地獄に生まれ故郷の伝承、「八百比丘尼伝説」を連想したのは間違いないので、もしかしたらその連想がモノノ怪の「形」を得るきっかけになったのかもしれないが、そうであっても彼女に非や責任はない。
その連想がなければ違う形のモノノ怪になっていたかもしれないというだけであって、おそらく起こる出来事に大差はない。
むしろ、伝承の中では寿命以外に人死にがない「八百比丘尼伝説」を連想したからこそ、こちらの人魚も人死にを起こすほどではなかったかもしれないので、富士野の連想はファインプレーだった可能性の方が高いくらいだ。
加世子はもちろん、火鳥も人魚が求める獲物の条件、生命力が溢れている若者という条件に合ったから襲われただけ。
彼女たちは全員、このモノノ怪たちにとっては端役どころか裏方ですらない、自分たちが「人魚」である為の材料でしかなかった。
関係などなかった。「彼女」とは、何一つ。
薬売りが勝手に、「不老不死」という部分に反応して期待しただけだというのを思い知らされたからか、彼は少しだけ疲れたような顔をして、自分を睨み付けるだけで襲い掛かる事も出来ない、臆病で卑怯な人魚どもに言った。
「あんた達は、富士野さんに感謝した方が良いです、よ。
そりゃ、彼女は生命力に満ち溢れているでしょうが……、本物の人魚ならまだしも、あんた達では、『あれ』に敵わない。
結局、結果は俺か『あれ』か程度の違いで、似たようなもんだとはいえ、自分たちの敵だとわかっている相手にある程度、覚悟を決める時間をもらってから、清め祓われるのと……、獲物だと思っていた、獲物でしかなかった相手に不意打ちで、灰すら残さず、
それはわずかな同情と覚悟を決める為の猶予を与える言葉。
薬売りとしては無関係な者を多数、復讐にしても消極的で無意味な自己満足の為に巻き込んでいながら、自分でその罪という責任を取ろうしない人魚たちが気に入らないが、ここまで心が畏縮するほど虐げられてきた人生には同情している。
なんだかんだで死人が出ていないのが決め手となって、少しだけ恩情を見せてみたのだが、やはりその優しさは逃げ出すチャンスがあってもそれをせず地獄に居残り続けたくせに、被害者意識に凝り固まって傷つくのは嫌がり、自分の犯した罪から目を逸らす卑怯者どもには通じない。
薬売りの言葉から優しさは読み取らず、受け取らなかったが、「清め祓う」という言葉、自分たちを傷つけて消し去ろうとする意志には過剰に反応して人魚どもの顔が再び浮腫んだ、重篤の糖尿病患者、獲物の八百比丘尼と同じ顔になる。責任転嫁の仮面を被る。
自分の罪と向き合わない人魚どもに、薬売りの眼が不快そうに細まった。
脳裏に自分の罪、誰かの為に自分を投げ出しても助けようとした献身を「罪」として受け入れ謝罪し、その慈愛を失わぬまま、これ以上「罪」を犯さぬようにしてゆく方法を考えて宣言した少女が浮かんだから、彼女と人魚の落差がその不快感を強め、懐いていた同情を完全に消し去る。
自分ではないという言い訳の仮面を被った人魚どもは、楽しげに笑いながら歯を鳴らして薬売りに襲い掛かる。
しかし、もう薬売りが剣を抜くことに躊躇う理由はない。
「『形』と、『真』と、『理』によって……」
掲げていた剣から手を離すが、薬売りの手から離れても剣は空中に浮かび上がっている。
そしてそのまま薬売りが両手を上げると剣も同じ高さに浮かび上がり、柄の鬼にも白髪の猿にも見える頭は大きく口を開けた。
同情も、そして「あのモノノ怪」の真と理を得られるかもしれないという期待を失った人魚は、薬売りにとってはもはや「獲物」ですらない。
ただ、義務的に消し去らねばならぬ芥同然。
「
掲げていた腕を左右に下ろすと同時に、柄の頭も子供のような甲高い声で同じように「トキハナツ!!」と叫び、退魔の剣は抜かれた。
脇差程度の鞘が抜かれて現れたのは、この病室も両断できそうなほどの長さを持つ、火柱のような、いくつもの光を束ねた異形の刀身。
その異形の剣を握るのは、同じく異形の男。
薬売りに似ているようで全く違う、別人に見えて同一人物に思える金色の男は自分に襲い掛かる人魚に向かって無造作に剣を振るう。
たったそれだけで全てが終わる人魚は、やはり本物には程遠い泡沫の「不死」だった。
* * *
「……薬売りさん、大丈夫かしら?」
「大丈夫です」
モノノ怪の領域から現実に戻った富士野の病室に残された加世子が呟いた言葉に、火鳥は即答で応じる。
「剣を抜く条件が揃ったのなら、あの人は無敵です。絶対に、大丈夫なんです」
火鳥の言葉は不安を紛らわせるように自分に言い聞かすのではなく、確信に満ちた力強いものだった。
それは前回の幕引きを知っているからにしても過剰と思える信頼だと加世子は少しだけ思ったが、そんなことを指摘するのは無粋どころかただの嫌がらせだ。
そもそも、あの呟きこそ自分が弱いから現実逃避に零した無関係の言葉。
薬売りを案じる思いは決して嘘ではないが、加世子の本心はただこの現実から目を逸らしたかっただけ。
心電図はもはや1分に2,3度しか波を描かない。呼吸は部屋を静かにした上で耳を澄ませていないと聞き取れないほど弱々しい。
もう富士野に残された時間はわずかであることを思い知らせるこの空気が嫌で、逃げ出したかったから上げた話題に過ぎなかった。
けれど、そんなことは許されない。
人魚の所為で服が全部じっとり湿って、気持ち悪いわ寒いわで着替えた方が良さそうなのに、火鳥は加世子が持って来たタオルで最低限の水気を拭っただけで、富士野の傍らに座って手を握って離さないから。
このもう終わるしかない現状から逃げる言い訳、ただただ悲しい思いをするだけの瞬間を見なくて済む理由なら十分すぎるほどあるのに、その現実から逃げようとはしない火鳥がいるから。
だから加世子も、医者を呼ぶという看護師としての職務を放棄して、ただ火鳥の傍らで同じように富士野の最期を見届けようとする。
助かる余地があるのなら一秒でも早く、医者を抱えてでも連れてきただろうが、そうじゃないのなら加世子は呼ばない。
看護師としては失格かもしれない。けれど、歳が離れていても友人のように思っていたから。だから加世子は、友人としてすべき行動を優先した。
ただひたすら無言で、富士野の人生が終わるまでのあと数分間を見守り……と言えば聞こえがいいが、実際は何もできない無力感に苛まれてて待っていた。
ただ、待つしか出来なかった。ただ、自分の無力感に唇を噛みしめる事しか出来なかった。そう、思っていた。
自分が無力であることを思い知りながら、やはり火鳥ほど強くなれなかった加世子の心は逃げ場を探す。
無力であることを思い知る自分から目を逸らして、別の事に思考を割ろうとして気付く。
(……あれ? 火鳥ちゃんの髪って……ここまで赤かったっけ?)
日本人にしては赤っぽい髪の色をしている火鳥だが、赤毛と言い切れる程ではなかったと加世子は記憶していた。
けれど今の火鳥は、間違いなく赤毛だ。染めた髪独特の軋んだ痛みは見当たらない、艶やかな天然の赤毛は加世子の記憶と矛盾しているような気がする。
しかし本当に矛盾しているのかを検証することは出来なかった。
「!」
加世子の視線が、意識が火鳥の赤毛から心電図に……あまりに弱々しい波をあまりに長い間を開けて刻んでいた心電図が、まだ弱々しいが十数秒から一回、数秒から一回のペースに戻ってきた。
呼吸も浅く弱々しいが、先ほどよりもはっきりと聞こえる。人工呼吸器がむしろ邪魔に感じる。
「……おばーちゃん?」
同じく、心電図の反応に驚いて薬売りが出て行ってから外さなかった視線を心電図に向けていた火鳥が、その呼吸に気付いて視線を戻す。
火鳥がこちらを見たことに気付いたように、彼女の視線が自分の元に戻ったタイミングで、色が抜け落ちたまつ毛が震え、糸のように細いが確かにその瞼がわずかに開いた。
わずかに、隙間としか言えない瞼の奥から見える輝きが火鳥に向けられる。
人工呼吸器のマスクの中で、喉の奥に砂でも詰まっているような酷くかすれたものだったが、それでも確かな声を聞いた。
「…………ひ……とり……ちゃん?」
孫娘の名を、富士野は確かに呼んだ。
「おばーちゃん!」
「富士野さん!?」
その声に火鳥だけではなく、加世子も応じる。
火鳥の肩を抱くようにして前のめりになって富士野に話しかける、嬉しげに今にも零れ落ちそうなくらい目に涙を溜める加世子は気付かなかった。
人魚の体液らしきものでじっとり濡れていた火鳥の服が、だいぶ乾いている事。火鳥の体温がインフルエンザを疑う程に高い事に気付けなかった。
火鳥の異常に気付けぬほど、嬉しかった。富士野の意識が戻ったことが。
もちろんこれは、回復の兆しではない。ただ、最期に神様がくれたほんの少しだけの猶予であることはわかっている。
悲しみと後悔を少しでも失くす為の、最期の別れの為だけに起こった奇跡であることを理解しているけれど、それでも確かに嬉しかった。
火鳥に、富士野に最期の、別れの言葉くらい交わして欲しかったから。
加世子自身も、そそっかしい自分の看病を嫌な顔一つせずに見守ってくれた富士野と、最期に言葉を交わしたかったから。
富士野の眼が、孫と自分の担当だったちょっと騒がしすぎてそそっかしくて看病されているこちらがハラハラするような娘だったが、実に親身になってくれた看護師である加世子を映し、閉ざされる。
いや、閉じたのではなく笑ったのだろう。
怖かった。
長く生きてきて、その人生に後悔がないとは言わないがやり直したいと思う程の悔いはない。死ぬことに関しては、痛みや苦しみが多いのは嫌だ程度にしか思っていなかった。死そのものが怖いと思う程、生きること自体に未練はなかった。
それでも、ただ一つ耐えきれぬ恐れがあった。
望むものがあった。
それは死を意識し始めたから薄らぼんやりとあったものだが、ある出来事をきっかけに形を得て富士野の心に居座った。
同じ老人ホームにいた知人、親しいどころか正直言って嫌っていたし近づきたくもなかった老人の末路と、さすがにそれを憐れんで見舞おうと病室に向かった時、病室の前で聞いた中の声。
寝たきりで、もう暴言も暴力も振るう事が出来ない相手に対する、乾いた嘲笑。今までの深い恨みを永遠と垂れ流して聞かせる呪詛が、富士野の恐れをはっきりとした形にした。
あんな風に苦しみ抜いて生きることを強要されること、死んでいないのに生きてなどいない永遠の苦しみを強いられるのは怖くてたまらなかった。
けれど……けれど……、自分はあんな目に遭う訳がないことを知っていた。あんな風に生かされることなどないのは自明の理だったからこそ、怖かった。
怖くて、望んでしまった。
「独りきりで生きるのも死ぬのも嫌だ」、と。
ある意味ではあの老人よりも自分の生にも死にも、富士野は意味を見出せなかったからこそ、懐いた恐れと望みだった。
けれど、その恐れは杞憂だったことを知った。
独りではない事を、最期に彼女は知った。
孫が、火鳥が自分を看取ろうと側にいてくれた。「呼ばないで」なんて願いは、ただの意地だ。
自分の生にも死にも意味を見出せなかったからこそ、自分が生きていた所為で、自分が死ぬ所為で誰かが傷つくという結果を出したくなかっただけ。
だから、本当は看取って欲しかった。
怪我もなく、元気そうで、今にも泣きそうだけど自分のことで笑ってくれる、笑って見送ろうとしてくれている孫だけでも富士野は十分に救われた。
自分の人生に意味はあったと思えたが、けれど本当に、本当に自分の恐れは杞憂だと思い知らせたのは加世子の存在。
赤の他人、自分の面倒を見てくれたのは、関わったのはただの仕事でしかなかったはずなのに、自分が意識を取り戻したことを泣いて喜んでくれる娘の存在に救われる。
孫の存在以上に富士野は加世子によって救われたことを、加世子は知らない。
「か……よ……こ……さん……」
だから加世子は、自分が呼ばれたのはついでだと思った。
その言葉は孫のついでにくれたものだとしか思わなかった。
「――――あり……がとう………………」
最期の命の灯を燃やして浮かべた富士野の笑顔も、富士野が伝えた言葉も、それは自分に向けられたものだとは知らぬまま火鳥の手に自分の手を重ね、火鳥の手ごと富士野の手を握って加世子は応えた。
「どう、いたしまして――――」
患者が亡くなって、泣きながらも加世子は笑う。
患者が亡くなったのに、笑えたのは初めてのことだった。
加世子の胸の中を苛んだ無力感は、いつしか消えていた。
* * *
「! 薬売りさん!」
富士野が息を引き取ったのを見届けて、火鳥には悪いと思いつつもさすがにそろそろ看護師としての職務に復帰した加世子が医師を呼ぼうと廊下を小走りしていたら、自分は怪しくないと言わんばかりに薬売りは悠々と前から歩いてきた。
「薬売りさん! 人魚の件は終わったの?」
「……えぇ。終わりました、よ」
「なら良かった。お願い、薬売りさん。火鳥ちゃんの傍にいてあげて。……つい、今さっき富士野さんが……」
加世子も加世子で富士野の死のショックと薬売りに慣れてしまった所為か、こんな奴が火鳥と一緒に富士野の病室にいたら、医師や他の看護師たちに何て言い訳したらいいかわからなくなるという当たり前の想像が出来ず、ただ祖母が死んで独りきりで病室に取り残された彼女を案じて、「傍にいてあげて」と頼み込む。
加世子が最後まで具体的なことは言わなかったが、何があったかなんて薬売りはすぐに察して、少しだけ富士野を悼むように神妙な顔をしてから、「わかりました」と応じてくれた。
「……ただ、間に合えばいいんですけど、ね。
俺としても、どこかにまた飛び立たれては、探し出すのが面倒だから、なるべく眼は離したくないんです、よ」
応じて、富士野の病室に向かう薬売りが独り言を呟いていたが、少しでも早く火鳥の元に戻ってやりたいと急ぐ加世子の耳には届いても意味までは考える余裕はなく、ただの音として彼の呟きは加世子の頭には残らず素通りしていった。
薬売りに「火鳥の傍にいてやって」と頼んですれ違ってから5分も間を置かず、加世子は富士野の病室に医師や他の看護師たちを呼んで戻ってきた。
「あれっ?」
戻ってきて、呆けた。
病室には部屋に入る直前になってやっと思い至って焦った、あの極彩色の和装に箪笥のような薬箱を背負った、歌舞伎の隈取のような化粧で美貌を彩る、常識で考えれば不審者中の不審者な薬売りはいなかった。
頼んでおいてなんだが、それはむしろ加世子としては好都合だったのでまだいい。
しかし、部屋には薬売りどころか火鳥もいない。
まずはトイレか、それとも涙が止まらなくて医師たちの話も聞けそうにないから、ひとまず席を外して泣くだけ泣いて落ち着かせようとしたのかな? と加世子は思う。
それなら、薬売りがいない理由にも説明がつく。彼が自分の頼みに応じたのは、口先だけの生返事だとは思わないから、彼女を気遣って一緒に出て行ってやっていると解釈する。
彼はそっけないようで、火鳥の事をとても大事にしているように思えた。
まるで妹か大切な友人か何かのように、色恋ではないがそれと同じくらい深く大切に慈しんでいるからこそ、火鳥の自分を軽んじるような行動に対してあんなにも真剣に怒ったという印象を加世子は持っていたから、そう思った。
だから、医師が改めて脈拍や瞳孔を見て生命活動が完全に停止しているのを確認している横で、言われる前に、自分以外の誰かが指名される前に自分で名乗り出る。
「あの、先生! あたし、火鳥ちゃんをちょっと探してきます!」
まだ14歳の少女に、身内の死で涙する時間を奪って、泣くことを我慢などさせたくなかった。「さっさと終わらせたい」という大人の都合で、祖母の死を悲しむ邪魔なんてさせたくなかったから加世子は自分から、唯一の身内だからこそこれから様々な手続きを行わなければならない火鳥を探すと言ったのだが……。
「? 何を言ってるんだい、野本くん?」
「へ?」
医師は困惑した顔で、訊き返す。
加世子の提案の意味がわからないと言いたげな顔に、思わず加世子も「意味がわかんない」と言いたげな顔をして間抜けな声を上げてから、やや混乱しながらもう一度提案してみる。
「え? いや、皆さん忙しそうだし、私がひとっ走りして火鳥ちゃんを探しに行きましょうかって言ってるんですけど……。
手続きにあの子、いりますよね? 唯一の身内のお孫さんなんだから」
しかし加世子が話せば話すほど、医師が浮かべる表情から困惑は濃くなっていった。
医師だけではない。加世子が周りを見渡せば、他の看護師たちも医師と同じ顔をしている。
困惑7、薄気味悪さ3くらいの割合の表情を浮かべ、看護師長は加世子に言った。
「……野本さん、あなた他の患者さんと富士野さんを間違えてない?
富士野さんは独身で、お孫さんどころか親兄弟もだいぶ前に皆亡くされている、天涯孤独よ?」
次回は、腐れ縁の始まり。江戸時代が舞台です。