暗い。何も見えない真っ黒な世界。月のない夜のような、ただ闇しかない世界。そこに私はただ浮かんでいた。何も見えず、何も聞こえず、臭いすらない世界。まるで水の上を漂うように浮かんでいるという感覚しか、私には感じられなかった。
ここは一体どこなのだろう?
私が最初に思ったのはそれだった。記憶に残っている私がいた場所は、この世界とは逆の、病的案までに真っ白な世界だった。かつて見た白い雪のような柔らかな純白さではない、無機質で淡白な白色。そんな世界だった。じゃあ私が今いるこの場所は何なのだろうか?まさかこれが俗にいうあの世と言うものなのでしょうか。そう思ったら、不思議と私は安心してしまった。それはつまり、あの病的な世界からようやく私は解放されたということ。もう苦しまなくていいということ。そう思ったら、ここも案外悪くないかもしれな・・・。
死ね
声が聞こえた。その言葉に、私は身体が強張るのを感じた。ちがう、今のはきっと幻聴だ、空耳だ、ただの思い過ごし。だったここは・・・
殺せ
また聞こえた聞こえてしまった。それは怨嗟を伴った声だ。気づけば私の両手は耳を塞ぎ、身体は強張るように蹲っていた。
死ね
それは憎しみを込めた声だ。
違う、私じゃない。私は何もやってない!なんでそんなことを言うの?どうして?私は何も知らないの!!
殺せぇぇぇぇぇえぇぇぇぇぇ!!
私の身体を突き刺すように、その声だけが何度も何度も繰り返される。そして今まで感じていた浮遊感が消え、まるで海に引きずり込まれるような墜ちていく感覚身。呼吸が、息が苦しい・・・!そして体中を這いずり回る蛇のような何か。何も見えなかった私の目が移したのは、身体中を這いまわる手、手、手。そしてそれらは、私の身体を万力のように絞めていく。ギシギシと、ミシミシと悲鳴を上げだす身体。私は身体中を這う手を剥がそうと暴れる。
いや!助けて!お願いします!私は何もしてない!痛い!痛い!いやぁ!恐い!助けて!助けてください!
必死に叫ぶも意味がなく、むしろ叫ぶたびに更に力が強くなる。まるで獲物の骨を砕く蛇のように、私の身体が軋み始める。息も苦しくなっていき、意識さえも薄くなっていく。かすんでいく視線に誰かが立っていた。黒い髪に着崩された衣服。そして私と似た顔だちの女性。その女性に、私は右手を伸ばす。
助けて!助けてください姉さま!痛い!痛いの!お願い助けて!
もはや蛇の塊と化した私と身体。隙間から出た右手を、姉さまに向かって必死に伸ばす。苦しいの!痛いの!助けて!助けて!そう叫びながら伸ばした私の手は、あと少しで姉さまに届きそうになり
「じゃあね」
唇を歪めた姉さまは、目の前で消えてしまった。そして空を掴んだ私の手は、そのまま黒い手に呑まれていく。
あ・・・・・・
ピシリ
何かがひび割れる音が聞こえた。
あ・・・・・・?
ピシリ
ひび割れる音がどんどんと広がり始める。
あ・・・・・・え・・・・・・?
ピシリ、ピシリと、それは蜘蛛の巣のように、根を伸ばす草のように広がり、そしてそれが音を立てて一気に・・・・・・!
誰かが私の頭に触れた。私の中を走り出した音が止まった。ふと目を向ければ、それは誰かの手だった。手首から先は見えず、黒い靄から手が生えていた。そしてその手は私の頭の上でゆっくりと動く。
暖かい・・・
まるで日の光の下にいるような、そんな熱を私は感じ、そして・・・
「おはよう、寝坊助さん」
まるで日の光のような黄金の瞳が、私に向かってヒマワリのような笑顔を向けていた。
「ふむ」
私は今起きたことに、一体どうすればいいのか悩んでいる。呼吸を荒め、苦悶に歪む顔をする猫の頭を撫でていた。どれほど撫でていたのかは判らないが、少し落ち着いてきたと思ったら、猫が目を覚ましたので、取りあえず声をかけた。その結果、猫は叫び声を上げ、私の手を振り払ったのだ。振り払われた際、手のひらに爪が当たり、そのまま一本の赤い筋が残った。ぺろりと舐めれば、変わらない鉄錆た味。チラリと猫に目を向ければ、目を見開き、歯をガタガタと鳴らし、身体さえも震えていた。
「むぅ」
寒いから震えているのかと思ったが、猫の身体は寒さを感じるほどに低温ではない。ならばいったいなぜ震えている?そう考えていると、
背後から「オジョウサマァァァァァァァァァァァァ!?」という声が聞こえてきた。振り返れば、部屋の角から血相を変えて飛び出てくるメイドが見えた。メイドは私と猫を交互に見て、
「お嬢様、いったい何をやらかしたのですか!?ま、まさか襲おうとしたのですか!この年端もいかない幼子を!?頭のネジが外れているけれども、あの御兄様とは違い、ちゃんと道理を持っていらっしゃったと思っておりましたのに!鬼畜!外道!ロケットおっぱい!これでは旦那様も奥様もさぞお嘆きになります!こればかりは許されませんよ!!」
「「・・・・・・」」
沈黙がこの場を支配した。はぁはぁと息を荒げるメイドを見つめ、私は事情を説明。チラリと猫の方をみれば、彼女もブンブンと首を縦に振る。
「そうでございましたか。私としたらとんでもない誤解をしてしまい申し訳ありません。それでは私はこれで・・・」
そう言って、部屋の角から出ていこうとするメイドを呼び止める。まるで油の切れた機械のようにガタリと止まり、ギチギチと音を響かせるようにこちらに向ける。取りあえず、メイドをその場に四つん這いにし、突き出された尻を叩いた。パチンパチンと音が響く度に、「お止めくださひぃんっ!先ほどはお嬢様を心配してのォン!」と声を上げるが、別段いつも通りだったので気にせずに叩き続きた。
「申し訳ありません。少々、常軌を逸しておりました」
平然と頭を下げるメイド。なお、その顔はほんのりと薄桃色。まったく、自分の臣下ながら、こうも癖が強くなってのは一体誰のせいだろうか。まあ面白いのでなにぶん止める気は全くないのだがな。そして猫の方を振り向けば、今の光景を見せられて、涙目でガタガタと震え出す真っ青の猫。
一体どうしたものか。腕を組んで考えていると、急にキュゥゥゥゥゥゥという音が響いた。見れば、顔を赤らめた猫が私を見ている。
「別に今すぐに私を信用しろと言わない。それこそ、今すぐにここから出て行っても構わないわ。これも私が勝手にやったことだし、今からすることも私の勝手。だから君も勝手にしなさい。それじゃぁ、まず最初は・・・」
私は口元に手を当て、
「御飯にしようか」
笑うことにした。
「それで、件の者はどうしているかね?」
「警戒心が強く、始めは皿に手をつけませんでした。お嬢様が目の前で一口食べましたら、おずおずと食べだし、その後はベッドで横になってます。お嬢様が今もそばにおられますが、どうも距離をとられております」
「そうか、報告ありがとう。君は娘の元へ戻りなさい」
男がそういうと、メイドは一礼をし、部屋の入口から歩いて出ていった。
「あらあら、どうにも警戒心が強いみたいね。でも、お腹の虫には逆らえなかったなんて、ずいぶんと可愛いじゃない?」
「まあ、色々と察するけどね。知れている限り、心を相当やられてたみたいだしな。見せしめにしてもやり方と言うものがあるのに・・・。それでどうするんですか父さん?今までは色々と誤魔化せてきましたが、こればかりは流石にまずいんじゃないですか?取りあえず、妹の専属メイドが、以前からいた監視役を取り押さえ、明るみに出る前に色々と処置しましたが・・・」
椅子に座っているのは妙齢な男性と女性、そして見た目は未だ幼さを残す少女と少年。左端の椅子に座る細目の少女が面白おかしく笑い、右端の少年がため息を吐く。中央に大人男女が座っている。
「それなんだがな。どうにも情報が錯綜していてね。一応、手を打っておくが、問題になる可能性は少ないと私は感じるよ。そもそも今回の件にしても、まさか娘ただ一人でやるとは想像もつきそうにないしなぁ・・・」
「私たちの娘だとしても、色々と面白いことをしましたからね。まさか猫を連れて帰るために、単身で牢獄に侵入するなんてね、ウフフ」
「私も姉として胸を張れるわ。ええ、心が躍ってしまいそう!」
口ひげを生やし、少し恰幅の良い男の言葉に、女性二人は面白おかしく笑う。その姿に、右端の椅子に座る、眼鏡をかけた少年が再度ため息を吐く。
「母さんも姉さんもいい加減してくれないか・・・。というか、なぜ妹はこうも厄介ごとを起こすんだ。今回のことと言い、今までのことといい・・・!心配する僕や父さんの身になってくれよ・・・!!」
不機嫌さを露わにする少年の肩を、男がポンとたたく。その顔は、色々と思う感情を無理矢理固めた表情をしている。
「フラウロスの女はこうなんだ。私も昔、母さんや母さんのお母様に色々と手を焼かされたものだよ・・・」
「まあ酷い!これでも色々と丸くなりましたわ、あ・な・た?それこそ、昔の貴方だってそれはそれは私をまるで壊すように毎晩鳴か・・・」
「それ今言うことじゃあないだろ?そもそも家族の間でなんとことを言おうとするんだ・・・!」
「その眼!その眼を見てますと昔を思い出すわ!ねえあなた、今夜久々に燃え・・・」
「だからやめなさいって言ってるでしょぉ!」
やんややんやと二人の世界に入りだす両親の姿に、少女はニマニマと笑い、少年の目から光が消えていく。彼らの後ろに立っている専属のメイドや執事の反応もまた多種多様。
「では精のつく物をご用意いたします。ご安心ください、腕によりをかけますから」と無表情で真面目ムーヴのメイド長。
「わ、私も主様に可愛がっていただけたいです・・・!」と零し、それを聞いて魂が口から出ていきそうなほどに真っ白になっていく長男。
「いやはや、次は妹ですか?弟ですかね?」「そうねぇ、次は弟が欲しいわねぇ!」とノリに便乗する執事とその主である長女。
こうして、フラウロス家の家族会議は過ぎていく。翌朝、げっそりした男二人と、艶やかな女性陣が見かけられたとか。
「おはようございます」
この家の長男である私の主様に、私は一礼をして挨拶をする。
「ああ、おはよう。君が今日から僕の専属になる新人だね?挨拶はこれで二回目かな?改めて、今日から僕が、君の新しい主だ」
そう言って手を差し出していただいた主様。ああ、なんて素敵なのでしょう!私の初めての主様が、こうもお優しい方だなんて!ギュッと両手で握り返し、私は咲き誇る花のような笑顔になる。えっと、私の担当は・・・
「いや、それもちゃんと知っているよ。事前に君のことは調べておいたからね。でも、ここでは君は新人だ。まずは僕の臣下に着いてもらって勉強してほしい」
そういうと、主様の後ろから一つの陰が現れる。私の給し服とは違い、すこし装飾が豪華。
「では色々と教えてあげてくれ。この子は色々とまだ新しいからね、色々と見てやってほしい」
その言葉にメイドはぺこりと頭を下げ、「では参りましょう、新人さん」と私を連れて行く。
「おっと、そうだ」
主様が振り返る。
「僕の妹にも専属メイドがいるんだけど、決して不用意にじっと見ないでほしい。色々と臆病でね。君みたいな新人には色々と警戒してしまうんだ。だから気を付けてね」
そういって去っていく主様の姿。このお屋敷には色々な方いらっしゃるのですね~。そう思いながら、私は廊下を歩いていく。よし!主様のために頑張るぞ!
猫の教育方針について
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