あかねさす 紫野行き 標野行き
野守は見ずや 君が袖振る
額田王 万葉集
三ノ輪さんと友人になった、というやり取りをしてから数日。
「こんにちは」
「いらっしゃい、坂上君」
僕と三ノ輪さんは友達になったといいながらも、あれから話す機会がなかった。
あの時そのやり取りを見ていたクラスメイト達も、既にその時のことを忘れていることだろう。現に、誰でもない僕自身があれを夢か何かではないかと思い始めている。
「これ、お願いします」
よく考えれば、当たり前のことだった。
僕の日常は一人で本を読むことに終始している。
その場所は、図書室であったり教室であったり外であったりといつも違うけれど、読書をしていることに違いはない。
一方で、三ノ輪さんはみんなの人気者だ。
いろんな人に囲まれていて、昼休みには校庭の方で遊んでいる姿をよく見かける。今も図書室の窓の向こうを見れば、みんなと遊んでいる彼女の姿を見ることができるのだろう。
「はい、いつも通り三冊ね」
僕達が友達になったところで、僕達の行動パターンは変わらない。僕は友達付き合いが増えるわけではなく、彼女は読書が好きになったわけではない。
僕は友達が一人だけ増えて、彼女は人が本を好きになる理由を少しだけ理解できるようになった。
ただ、それだけの話。
「……あれ?」
カウンターで本の貸し借りを担当している司書さんが、物珍しそうに呟いた。
いつもは「読んだ本どうだった?」と感想を尋ねてくる場面だったので、思わず司書さんの顔を見る。
「珍しいね」
「珍しい、ですか?」
「うん」
司書さんは二つの本の山を積んだ。借りた本と、返した本だ。
「まず、これは昨日借りた続き。いつも通りだよね」
「そうですね」
一番上に乗せられていた本をもって、その隣に腰を下ろす。
シリーズ物の小説は一日で終わるため、毎日返却と貸し出しをお願いしている。司書さんが今持っている二冊も、シリーズの続き物だ。
「そして、こっちが気になった分野の本」
「はい」
気になった分野の本に関しては、専門性が高い場合もあって一日や二日では読み終わらないことが多い。だから、貸し借りは一週間おきにしている。
これに関しては特に規則性もないため、ジャンルはその時の僕の興味ですべてが決まる。
「坂上君って、今まで同じ分野の本を続けて借りることってなかったでしょう?」
「そうでしたっけ?」
「うん。もし読み足りなかったら、延長の手続きをしてるからね」
司書さんに指摘されて、確かにそうだと思いだした。
一週間では読み終わらなかった場合や、読み足りないと思った時は延長手続きをしてさらに一週間読むようにしている。
「坂上君が同じジャンルの本を連続して借りるのは初めてじゃないかな? 何かあったの?」
「いや、特に何かあったと言われても……」
選んだことに関しては完全に無意識だったけれど、その理由には心当たりがあった。三ノ輪さんだ。
僕は不意に、この前のやり取りを思い出した。
「まあ、何がともあれ、坂上君に興味のある分野ができたのは喜ばしい限りだよ」
「え?」
「だって、今までは『好きになれるものを探している』って感じに見えてたからね。……和歌と植物、好きになれそう?」
「えっと……」
好きにはなるだろう。実際、この二つは面白かった。
だけど、これを思い出すたびに、脳裏には三ノ輪さんがすごいと言ってくれた時の記憶がよみがえってくる。
こんな、不純な理由で好きだと言ってもいいのだろうか。
「なんか、難しいこと聞いちゃったかな?」
「そ、そんなことは」
「気を使わせちゃってごめんね。坂上君は、坂上君がその時に読みたいと思ったものを読んだらいいと思うよ。その気持ちと読んだ本は、きっといつか坂上君の助けになるはずだからね」
司書さんが借りた本を渡してくる。
僕は、いつも通りにそれを受け取って頭を下げた。
七月中旬になったということもあり、外は少しだけ日差しが強かった。
うっすらと肌に滲んだ汗をぬぐいながら、上履きから靴に履き替えた。汗で濡れないように本を持ったまま校舎から出て、校庭とは反対側にある中庭に向かう。
神樹館の正面玄関から見て右手には校庭が、左手には中庭がある。中庭の入り口辺りにはケヤキの木が生えていて、そのケヤキを囲うようにしてベンチが設置されている。
「よいしょ、っと」
ここが、僕の読書スポットの一つだ。
ケヤキの木はいい感じに背もたれと屋根の役割をしている。暑い夏の日差しも、この木陰の下では関係ない。
正面玄関からも近いおかげで、正面玄関に設置された時計を確認することも簡単だ。中庭は人がめったに来ないこともあって休み時間の終わりを知ることが難しいけれど、この位置なら時計が見える上に校庭で遊んでいた人が戻ってくる様子を確認することもできるから、遅刻の心配もない。
ベンチに座って、本を傍に置いた。
涼しげな夏の風が吹き込んで、夏の暑さに火照った体を冷やしてくれる。
「んー」
気温は日差しと木陰で程よく調整されている。蝉の合唱や校庭から聞こえる遊び声は、夏を感じさせるBGMの役割を果たしていた。
こういう気候は、読書や昼寝にはちょうど良かった。
時計を確認すると、昼休みが終わるまでにはまだ時間の余裕がある。
「どれにしようかな」
借りてきた本を指さしながら、どれを読むか選ぶ。
「これだ」
小説は一気に読み切りたいので、置いておく。和歌と植物の本が残るわけだけど、植物の本はもう少し身軽な時に中庭の方を歩き回って探してみたりして読みたい。
ということで、消去法で和歌の本、万葉集だ。
「ふーむ……」
パラパラとめくって、大雑把な中身を確認する。
この前借りた万葉集のシリーズの別の巻だ。流石に同じ巻数は飽きてしまいそうだったし、せっかくならいろいろな和歌を見てみたかった。
中を確認しながら、ふと目に留まったところでページを止め――
「坂上?」
――声を、かけられた。
思わず顔を上げて声の主を探す。聞こえたのは校庭の方だ。
「おーい、坂上!」
「……三ノ輪さん?」
校庭の方向に目を向けると、三ノ輪さんがこちらに向かってきているのが見えた。
「何してるの?」
「これだよ」
そういって、図書室で借りてきた本を見せた。
「……読書?」
「うん」
「外で?」
「案外、いいものだよ」
特に、本の情景に近い場所でする読書は、五感で物語を楽しむことが出るから好きだ。僕は割とする方なのだけれど、読書が好きな友達でもこれをしている人はほとんどいない。
基本的に、読書は図書室や教室といった屋内でする人が多い。
「へぇ……今日はどんなのを借りたの?」
「前に話してた万葉集の、別の巻を借りてみたんだ」
そういって、持っていた万葉集を軽く見せた。
「どんな和歌があるの? ちょっと見せて」
「別にいいけど……外で遊んでたんじゃないの?」
「他の子が先生に呼ばれちゃったから。とりあえず教室に戻ろうと思ったけど、戻ろうとしたら坂上の姿が見えたから」
とりあえず声をかけてきてくれたらしい。
心が少しだけ弾むのを感じていると、三ノ輪さんは「そうだ」と目を輝かせた。
「前みたいにさ、いろいろ教えてよ」
「う、うん」
了承すると、ベンチに置いていた本を動かして座る場所を用意した。
立ちながら二人で本を読むことほど、やりにくいこともない。
「座る?」
「お、ありがと」
彼女が座ると、その隣に座って万葉集を開いた。
どの和歌にするかは特に決めてないので、目次の一覧を見ながらどれを見てみるか選ぶところからだ。
「あ、これ」
「ん?」
三ノ輪さんが、ある歌を指さした。
「これって、この前見てた花じゃなかったっけ?」
「えっと……?」
三ノ輪さんが指さした和歌を見た。
ひぐらしの 鳴きぬる時は をみなへし
咲きたる野辺を 行きつつ見べし
秦八千島
「女郎花か」
確かに、話すきっかけになった植物だ。
「ヒグラシって、カナカナって鳴くヒグラシ?」
「みたいだね」
歌の意味は、比較的取りやすかった。
ヒグラシが鳴く頃には女郎花の咲いているのを巡って眺めるのがいい、という非常にシンプルな内容だ。
三ノ輪さんの反対側に置いていた植物の本を手に取って、女郎花についてのページを開いてみる。
「女郎花は、日当たりのいい場所に咲く花で、一メートルくらいの高さまでいくみたい。この前見たのはもう少し小さかったけどね」
ある程度の手入れが入っていないと生育には向かないため、この和歌で歌われるほどの数が見られる場所というのは現代ではほとんどないのかもしれない。
これは、この前借りてきた薬学の本よりも植物の一般的なデータに視点を当てた本で、女郎花についても基本的な情報がいろいろと載っている。
植物にはいろいろな分類法があって、被子植物*1や双子葉類*2くらいは僕も理科の時間に習った記憶がある。見覚えのない分類というと、多年草*3や合弁花類*4辺りだろうか。
「あの花、昔はもっとあったってわけ?」
「多分ね」
歌には“をみなえし 咲きたる野辺を”とある。
わざわざ女郎花を見に行ってる場所がこの前僕達が見たような、いくつか咲いているのが見える、程度のものではないだろう。きっと、花畑なんて言葉が似合うくらいには沢山咲いていたんだと思う。
「一面の女郎花畑かー」
少しだけ、目を閉じる。
今は万葉時代、倭の国にて。
遠くの山には西日が今にも沈もうとしており、そんな一日の終わりを告げるかのようにヒグラシの音がこの場所まで届いていた。視線の向こうからは望月が徐々にその姿を現しており、夜の訪れが間もなくであることが分かる。
里から離れたこの場所には、視界いっぱいに女郎花が咲き誇っている。斜陽を背に受けて立てば、僕自身の影が女郎花畑まで広がっていた。
イメージしてみると、どこか郷愁的な気持ちになってくる。
そういえば、どうして僕達は行ったこともない田舎の風景に、こんな気持ちを抱いてしまうのだろう。
「きっと、綺麗な景色なんだろうな」
「そうだね、きっと綺麗だと思う」
僕と三ノ輪さんのイメージが一致していたのかどうかは分からない。でも、それが素敵な景色であるという気持ちだけは、きっと共有できていたと思う。
それは、1600年も前にこの歌を詠んでいた秦八千島さんも、きっとそうだったんだろう。
「……なあ、坂上」
「どうしたの?」
三ノ輪さんが万葉集に視線を落としながら、僕に声をかけた。
「帰りさ、時間ある?」
「え? あるけど」
唐突な問いかけに驚きつつも、肯定の返事を返す。
いつもというわけではないけれど、放課後には時々、図書委員としての仕事が入ることがある。今日は特にその活動があるわけではない。
「じゃあさ、また夕方にあの女郎花の花を見に行ってみない?」
「女郎花を?」
「実際に、本の景色に近いところで読むといいんでしょ? じゃあ、ヒグラシの声が聞こえて、女郎花の見えるあそこに行ってみない?」
思わぬ提案に驚いてしまったけど、その言葉を理解すると徐々に嬉しさがこみあげてくる。
「……うん、もちろん」
答えは、是以外にはあり得なかった。
放課後。
学校から家に帰って、荷物は図書室で借りてきた本だけにして家を出た。目指す場所は、この前三ノ輪さんと一緒に女郎花を見た河原だ。
歩きながら周囲を見渡せば、赤く染まっていく空が見える。どこからともなくヒグラシの声が聞こえてきて、東の空の方は徐々に濃紺に染まろうとしていた。
「ひぐらしの」
ふと、無意識に歌が口から出てきた。
川沿いの道を歩きながら、夕暮れの眩しさに目を細める。
「鳴きぬる時は」
約束していた場所が見えてきた。
少しだけ駆け足であの場所までたどり着くと、そこには女郎花が綺麗な花を咲かせていた。
「をみなえし」
少し周囲を見渡すけれど、三ノ輪さんの姿は見えなかった。彼女はいつも遅刻気味なので、今もきっと少し遅れてくるのかもしれない。
夕焼けはいつまでも待ってくれるわけではないのだから、できればこの夕日が見える間に着いてくれたらいいなと思う。
「咲きたる野辺を」
女郎花が見えるところで腰を下ろして、夕日を反射する水面を背景にして咲く女郎花を見つめる。
街並みこそ違うものの、唄の情景に少しずつ合わせることができてきたとは思う。
「行きつつ見べし」
と、後方から誰かの足音が聞こえ――
「坂上!」
振り返れば、そこには三ノ輪さんがいた。
軽く手を振りながら、間に合ったことに安堵する。
「危なかったね」
「いやー、ギリギリセーフでよかったよかった」
少し荒い息を落ち着かせてから、三ノ輪さんが僕のそばに座った。
「早く早く」と催告してくるので、バックから万葉集を取り出してページを開いた。
余計な音はない。
静かで、でも無音じゃなくて、何でもない日常の音が遠くから聞こえてきている。
「これが、歌の景色」
「うん」
僕は、少しだけ分かったような気がした。
何千年もかけて残ったこの歌は、こうして遥かな未来で、どこかの誰かに自分が感じたこの気持ちを共有してほしくて詠んだものなんだろう。
「三ノ輪さん」
「どうした?」
今この瞬間に、自分自身が感じたものを形に残したくて、その結果として出来上がった
和歌が“歌う”のではなく“詠む”ものであるのは、僕達がこうして“読む”ことで初めて意味を成すものであるからだ。
「来て、よかった?」
少しだけ、確認してみたかった。
僕が感じたこの気持ちが僕だけのものなのか、それと三ノ輪さんも一緒になって感じてくれているものなのかを知りたかった。
三ノ輪さんは、少しだけ間をおいて確かにうなずいた。
「ああ、もちろん」
三ノ輪さんがこちらを見ることなく、わずかに表情を緩めた。
「読書はあんまり好きじゃなかったけど……うん、坂上が教えてくれるこの景色は、アタシも好きだって言えるよ」
この前は、僕が読書を好きな理由を知っただけだった。
だけど、今は違う。
三ノ輪さんだって、この景色が、文字を通して見える新しい景色が素敵だと確かに言ってくれたから。
「いつもは気にしないで通り過ぎるだけの通学路が、こんな風に見えるとは思ってなかった」
「それは、よかった」
「ありがとう、坂上」
「どういたしまして」
日が沈んでいく。
茜に染まっていく空と、静かに咲いている女郎花。
これが、長い人生の中で僕が三ノ輪銀に対して抱く、原初の記憶だ。
多分、ここまでが本当の
タイトルの歌については特に解説していく予定はないのですが、興味があれば少し調べてみていただけると嬉しいなと思います。
ちなみに、今回の歌は返歌もありますので、そちらもどこかで紹介したいですね。