鳴る神の 少し響みて さし曇り
雨も降らぬか 君を留めむ
柿本人麻呂歌集
窓の向こうに見えていた積乱雲は、夕方になる頃にはこちらまでやってきていた。昼間は白かった雲が、今ではいつ降り出すかも分からないほど灰色に染まっている。
「急がなきゃ」
靴を履き替えて外に出た。背中のランドセルがあることを確かめるように、軽く背負いなおす。
雨が降り出してしまえば、傘があったとしても濡れてしまうのは確実だ。それ自体は仕方のないことだし、乾かしてしまえば何の問題もない。
だけど、ランドセルに入った教科書や図書室の本は別だ。僕自身や服は乾けば元通りになるが、紙は絶対に元には戻らない。そうなることだけは絶対に嫌だ。
空を睨めば、傘を持つ手に力がこもる。
今はまだ降り出していないものの、そう長くはもたないだろう。
「じゃあ、これ使いなよ」
ふと、昇降口の方から声が聞こえた。
そちらに顔を向けると、クラスメイトの松井さんと三ノ輪さんの姿が見える。三ノ輪さんが松井さんに傘を貸しているらしい。
「え、いいの?」
「いいよ。アタシ、教室に傘置いてるからさ」
「ありがと、銀ちゃん」
「いいっていいって」
松井さんが傘を受け取って三ノ輪さんに手を振りながらこちらに向かってきた。少し空を見て降りそうなのを確認すると、駆け足気味で昇降口から飛び出していく。
「じゃあねー」
「また明日―」
三ノ輪さんは松井さんの姿が見えなくなるのを確認すると、空を見上げて苦笑いを浮かべた。
「確か、家は逆だったよね……」
それは、誰に言うわけでもなく、ただの確認事項みたいな口ぶりだった。なぜ家の位置を気にするのだろう?
そもそも、どうして傘が教室にあるのに外の方に出てきたのだろうか。
三ノ輪さんは、おもむろに準備運動をするように屈伸を始めた。
「走ればまあ、間に合うでしょ」
と、小さくつぶやいたところで理解した。
さっきの言葉は嘘だった。三ノ輪さんは教室に置き傘なんてなくて、本当は貸した傘しか持っていない。
「ちょ、ちょっと待って!」
「え?」
気が付いた時には、思わず三ノ輪さんの前に飛び出していた。三ノ輪さんが目を丸くする。
「さ、坂上!? どうして!?」
「ちょっとね……」
黙って見ていたのがなんとなく後ろめたくなって、バレバレなのに口ごもってしまう。でも、三ノ輪さんにはこれだけでも十分僕の状況には気付いてくれるのだろう。
そもそも、この状況で見てないと言い張るのも無理があるので、結局は認めるしかないのだ。
三ノ輪さんは恥ずかしそうに頭を掻いた。
「あちゃー、坂上に見られてたのかー。なんか、ちょっとカッコ悪いな」
「そんなことないよ」
そんなことを気にしなくても、ああして誰かを助けてあげられるのはカッコいいことだと思う。少なくとも、僕にはできないから。
現に今も自分の分しか傘を持っていないわけだから、三ノ輪さんに傘を貸すこともできない。同じことをしようとしたところで、断られてしまうのがオチだろう。無理に貸そうとしたところで、スマートに貸すこともできない自信がある。
「えっと、その……」
次の言葉が出てこない。
僕は何をしようとして彼女の前に出てきたのか。助けたいはずなのに、どうやって助ければいいのかが分からない。
傘を持ったままあたふたしていると、三ノ輪さんが面白そうに笑った。
「坂上って、帰り道一緒だよね?」
「え? うん、多分」
たまに帰り道で見かけることはあるから、一緒の方向だと思う。
「じゃあさ、一緒に帰らない? もし雨が降ったら入れてよ」
「あ、ああ! うん!」
三ノ輪さんの提案に、僕は深く思考する間もなく首を縦に振る。確かに、そうすれば三ノ輪さんに傘を貸してあげられる。
……でも、それを提案されている時点で、僕はかなりカッコ悪かった。
帰り道には、あまり人がいなかった。
もともと神樹館は近隣の市からも児童が集まってくるから、徒歩で通学する生徒は普通の学校より少ない。
「あの、さ」
「何?」
「三ノ輪さんって、よく人助けしてるよね?」
「そう?」
「うん」
人助けというと大げさかもしれないけど、誰かに手を貸してあげている姿は、話をする前から頻繁に目にしている。きっと、もっと仲のいい人達は詳しく知っているだろう。
僕に声をかけて話を聞いてみたいと言ってくれたりもしたし、すごくいい人なのだと思う。
「いやぁ、アタシそういうところに出会いやすいっていうか。それで、流石に放っておけないっていうか……」
「でも、そこでちゃんと助けてあげられるのはいいと思うよ」
月並みなことしか言えないが、なかなかできないことだと思う。
「まあ、アタシは勇者だからね。これくらいはやってみせるよ」
三ノ輪さんが力こぶを作るようにしてはにかんだ。
なんだか、三ノ輪さんにしては不思議な言い回しだった。
「勇者?」
「え? ああ、アタシのお役目が、そう呼ばれてるんだ。なんかカッコよくない? 勇者って」
「カッコいいと思うけど……なんか意外だったな」
「意外って?」
「大赦ってそういう感じの名前も使うんだなって」
大赦が使う言葉は、割と古来のこの国に伝わるものが主になっているらしい。
古事記等の現代訳を読んだことがあるから雰囲気は分かるけど、勇者なんてファンタジーな感じの言葉を使うとは思っていなかった。
もしかして、勇者って実は神話にも出る言葉なんだろうか?
「って、勇者ってことは、何かと戦うの?」
「あー………ごめん。あんまり詳しくは話しちゃダメって言われてるんだ。忘れてた」
「そうなの? ごめん、余計なこと訊いちゃって」
「いいっていいって、言い出したのはアタシの方だからさ」
三ノ輪さんが「気にしないでいいって」と手を振っていると――
「ん?」
――頬に、何かが当たったのが見えた。
三ノ輪さんが頬に手を添わせて、静かに上を見上げる。僕もそれにつられて空を見上げると、頬に冷たいものが当たった。
「……雨だ」
と、それに気が付くと、徐々に雨粒が手や頬に打ち付け始める。
夕立が降り出したのだ。
慌てて傘を差して、三ノ輪さんに向かって手招きした。
「早く、入って」
「う、うん」
少し大きめの傘なので、小柄な三ノ輪さんが入ってもはみ出ないで済む……けど、二人で傘に入るなんてやったことないから、妙に居心地が悪い。
雨脚はあっという間に強くなって、既にアスファルトはほとんどが濡れていた。
「流石に強いね」
風が強く吹いているわけではないけれど、勢いが強いせいで足元はかなり濡れ始めている。家に着くころにはずぶ濡れになっているはずだ。
少しだけ、傘を三ノ輪さんの方に傾けた。
「三ノ輪さんの家どこだっけ?」
「え、流石に悪いよ」
「でも……」
この雨で傘もなしに帰るのは流石に無謀だと思う。
強いとはいえ、夕立だからすぐに止んでくれると思うけど――
「あ」
周囲を見渡していると、不意に鳥居が目に入った。
「坂上?」
三ノ輪さんがこちらの顔を伺う。
僕は静かに鳥居を指さした。
「あそこで、雨宿りしていかない?」
「神社で?」
「うん。夕立だし、しばらく待ってれば止むと思うから」
無理に帰ろうとするよりも、少し待った方がいい気はする。夕立というのはそこまで長い時間降っているものでもないから。
「雨の和歌も、いろいろあるみたいだし」
返事が来ないので、理由にならない理由を付け足そうとする。
なんで自分がそこまで必死になっているのかも分からないまま、口だけは勝手に動いていた。
「どう、かな?」
雨のことなんて忘れそうになってて、
「……いいね、そうしようか」
今だけは、この時間がもう少しだけ続いてほしいと思っていた。
拝殿の賽銭箱の傍に、僕達は座っていた。
雨は非常に強く打ち付けていて、境内のあちこちに水たまりができている。雨音が非常に強い上、神社の周囲は背の高い木々が囲んでいるため、外の様子はあまりよく分からなかった。
「すごい雨だね……」
「これじゃ、帰る頃にはずぶ濡れだったな」
「かもね」
ランドセルから万葉集を取り出す。
まだ借りるようになって三週間目くらいだけど、既にあるのが当たり前のようになってきた気がしてきた。
雨の和歌はそれなりの数がある。
自然を題材にした和歌が多い中、雨というものは非常に身近な題材として選ばれやすい。
「雨にもいろいろ種類があるんだけど、今のにあった歌は……」
パラパラとページをめくりながら和歌を見ていく。
確か、夕立の和歌がどこかにあったような気がする。
「あ、あった」
見つけたところで手を止めて、三ノ輪さんにも見えるように二人の間に本を置いた。
「夕立が出てくる歌」
「この歌?」
夕立の 雨うち降れば 春日野の
尾花が末の 白露思ほゆ
小鯛王
和歌の意味は「夕立が降れば、春日野に咲く尾花の先の白露のことを思い出す」というもの。夕立が止んだ後の、ススキの穂先に付いた水滴が脳裏に浮かんでくる。
夕立という言葉ばかり意識していたせいで気が付かなかったけれど、よく読んでみると上がった後の歌だ。
「尾花ってどんな花?」
「尾花は、ススキのことだよ」
尾花という表現を使う言い回しを思い出すとすれば、“幽霊の正体見たり枯れ尾花”とかだろうか。
「ススキは、秋の七草のひとつだね」
「秋の七草?
「そうそう」
ランドセルから植物の本も取り出して、目次を確認してススキのページを開く。
「ススキはイネ科の植物で、高さはだいたい1~2メートルくらい。夏から秋にかけて
花穂というのがあんまりよく分からなかったけれど、先端にある赤い部分のところを指すらしい。
「ススキは古くから日本にある植物で、
「なんだっけそれ?」
聞き覚えが内容で、三ノ輪さんが首をかしげる。
これも、この前の授業で少し出て来たんだけど……
「えっと、ススキの別名に
茅葺屋根*2は古い物語等で描かれている、屋根の種類の一つだ。
例えば、宮沢賢治という旧世紀の人の“雨ニモマケズ”という詩には「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ
「屋根の材料として使われていたり、詩や和歌に登場するみたいに歴史のある植物だよ」
科学技術の発達により、ススキを使って屋根を作るようなことはなくなったけれど、今でも風習に残ったりはしている。
お月見でススキを飾るというのは、その有名な例だろう。
「確かに、学校で秋には飾ってたりするよねー。アタシ的には、給食のデザートの方が嬉しいけど」
「花より団子、って感じだね……」
身もふたもない言葉に苦笑してしまう。
でも、確かに綺麗な月よりはデザートが一品増える方が、分かりやすい嬉しさだ。
「今でも、茅葺の建物ってある?」
「大赦の建物とか、そういうのありそうな気がするけど」
個人的なイメージなので、事実かは知らない。
大赦は古くから神樹様を祀ってきた組織だから、なんとなくこうした伝統とか歴史あるものとかを残したりするんじゃないかと思う。
「三ノ輪さんは、お役目とかで大赦の方に行ったりしないの?」
「アタシの場合は学校の奥に訓練場があって、そこでやってるから大赦の建物を見に行ったりとかは全然。いつかは行ったりするかもだけど」
「へぇ」
確かに、学校の奥には使われない建物があるのは知っていたけれど、大赦のお役目に関することをする建物だとは知らなかった。
中に入ることも許されないし、そもそも校舎から離れているので理由もなければ近づくこともない。
「坂上は、大赦の建物とかに行ったりすることないの?」
「そんなのないよ、全然」
親が大赦の人だったりするなら別かもしれないけど、僕の父さんは医者で母さんは薬剤師だ。それ以外の親戚にも大赦に所属している人はいない。だからこそ、大赦に行く理由はどこにもない。
神樹館は近辺でも名家とかの人が来るような学校なので、代々大赦に所属している名家の人は多い。というか、“三ノ輪”も名家の一つだったはずだ。
「でもまあ、月見の時に使ったりもするわけだし、大赦で育ててたりすることもあるかもしれないね」
植物の本をぱらぱらと見返してみると、日当たりのいい山野に生育するらしい。ここからだと、東の方とか南の方だろうか。内陸の方に入っていくと山がちになるので、そこで見られるかもしれない。
スマホを取り出してみると、時刻はまだ5時にもなっていない。
外は、徐々に雨脚が弱まっていた。
「あ、あの――」
「――お! 雨やんできた!」
声をかけようと思ったが、それよりも早く三ノ輪さんが外の様子に気が付いた。
空の方を見れば、雲が少しずつ薄くなって切れ間から光が漏れ出始めていた。
「いやー、止んでよかった」
三ノ輪さんは嬉しそうに僕の方に笑いかけた。僕も曖昧に笑みを返した。無事に止んでくれたのはありがたい。本が濡れずに済む。
「あ、そういえば、坂上なんか言おうとしてなかった?」
「え?」
思わぬ助け舟に、素で驚いたような声をあげてしまう。
本当は、夕立が止んでから尾花を探しに行かないかと誘いたかった。この前の女郎花を見た時のように、二人で“
……でも、
「いや、僕も止みそうだね、って言おうとしただけ」
今度は、そんな勇気が出てきてくれはしなかった。
三ノ輪さんの嬉しそうな表情のせいで、どうでもよくなってしまった。
「雨も上がったことだし、帰ろうか」
「そうだね、話もキリがよかったし」
ランドセルの中に万葉集と植物辞典をしまう。
誘えなかったことに寂しさを感じてしまうのは、こうして一緒に本の景色を楽しんでくれることが貴重だからだろうか。
初めてなことばかりで、理由の見当もつかない。
「まあ、いいかな」
でも、こうして一緒にいられただけでも、今の僕には充分楽しい時間だった。
「傘はいらなさそうだね」
手に持った傘をくるくると回しながら、既に境内に飛び出している三ノ輪さんの方に駆け寄った。
タイトルに使用している「鳴る神の」ですが、聞き覚えのある人は新海誠さんの「言の葉の庭」を見たことがあるかもしれません。あの作品でも登場する和歌です。
どんな意味かは「言の葉の庭」を見ながら調べてみてください。
そういえば、神世紀の教育ってどんな風になってるんでしょうね。
今回は宮沢賢治さんの「雨ニモマケズ」を引用しましたが、検閲的にはどうなんでしょう。個人的には、勇者関連以外の話は基本的に残されてる方向で話を進めようかなって感じです。本当は古事記とかも怪しいんですけどね。