道の辺に 清水流るる 柳陰
しばしとてこそ 立ちどまりつれ
西行法師 新古今和歌集
自宅だと本を読んでばかりで宿題をしないからと、今日も家を追い出されたのが今から三時間前。
ちょうど読み終わったタイミングだったのもあり、制服を着て学校の図書館に逃げたのが二時間半前の話だ。
小学校の図書室は夏休み中も開いていて、宿題や本の貸し出しができる。
とはいっても、夏休みにまで学校の図書館に来ようという人はあまりいない。夏休みが始まって何度か足を運んでいるけれど、開館日に毎回来ているのは僕と白い髪の女の子だけだった。
切りの良いところまでテキストを終わらせたところで、大きく伸びをした。
顔を上げると、やはりいつもの白い髪の女の子が本を読んでいるのが見える。学年が一緒なのは知っているけれど、同じクラスになったことはないので名前も知らない。
「んー……」
とりあえず、テキストを片付けながらこの後はどうしようか考えながらカバンの中に入っている本を確認する。カバンに入っているのは、家で読んでいたシリーズ物の小説、万葉集、身の回りの植物の本。
三つをしばらく眺めながら時計を確認すると、時刻は3時を過ぎたところだった。
少し悩んでから、一度窓の外を眺めた。
今日は八月にしては涼しく、外に出る分には問題ないだろう。
手早く荷物をまとめると、静かに図書室を出た。
「よし」
今日は、中庭の植物についてあれこれ見ていくことにしようと思う。
中庭は、名前こそ中庭と呼ばれてはいるが、植物がうっそうと生えていることもあってどちらかというと森と言われた方が納得できるような場所だ。
校舎に囲まれているので迷子になったりすることはないけれど、奥に入れば木々に囲まれてどこにいるのか分からなくなることはある。
靴を履き替えて外に出る。
中庭の植物には名前を書いた看板みたいなものがかけられているので、植物の名前が分からなくなることもないだろう。
とりあえず、今日は手前の方から始めてみようと思いながら中に入っていくと、ベンチに座って休憩している人影が見えた。運動しやすい格好をしているが、見慣れたクラスメイトの顔。
「三ノ輪さん」
「坂上?」
意外な人物だったからだろうか、三ノ輪さんは少し驚いた様子で僕のことを見ている。
僕はそっと植物の本を取り出して三ノ輪さんに見せる。
「僕は図書室で宿題をして、今からこれを見ながら中庭を回るつもりだったんだけど。……三ノ輪さんは?」
「アタシはお役目の方の練習」
ニカッと笑って三ノ輪さんが力こぶを作った。
笑顔こそ元気そうだったが、僕にはそれよりも腕やひざにある絆創膏が目についた。
「三ノ輪さん、怪我したの?」
「あ、これ?」
「うん」
お役目というのがどんなものかは知らないけれど、少なからず怪我をするものらしい。三ノ輪さんは体を動かすのが得意な方なのかもしれなくても、こうして怪我をする場面があるというのなら不安になる。
「これくらい平気だって。心配しなくても大丈夫」
「でも……」
口ごもるけど、ここで僕が反論したってどうにもならないのは事実だった。
三ノ輪さんに何かを言ったところで三ノ輪さんはきっとお役目を解かれることはないだろうし、三ノ輪さん自身もやめることはないと思う。
人助けが好きな彼女のことだ。きっと、誰かのためになるというのなら自分からお役目をやるのだろう。
「っていうか、それよりさ、今から読書するんだよね? アタシも一緒に行っていい?」
「練習は大丈夫なの?」
「さっき終わったところ。帰る前に一息ついてただけだから」
よく見ると、三ノ輪さんの奥にはカバンが置いてあった。
「……いい?」
「僕は大丈夫だよ」
「よしっ」
三ノ輪さんが嬉しそうに笑いながらガッツポーズをすると、なんだかこっちまで笑みがこぼれてしまう。
彼女のように、僕の読書に付き合ってくれる人はほとんどいない。
読書とは基本的に、屋内でするものだし歩き回りながら見るようなモノでもない。世間一般の読書は、僕が普段しているようなものとは違うから。
だからこそ、三ノ輪さんのこうした申し出は本当に嬉しい。
「今日は植物の本?」
「うん。中庭の植物を見ようと思って」
少し周囲を見渡してから、一番近くにあった木を指さす。
「あれから始めようか」
「あ、グミの木?」
「グミ?」
思い浮かぶのは、お菓子のあれ。
そういえば、友達も中庭のグミがどうとか言っていたような気がする。
「秋になるとさくらんぼみたいな感じで実がついてさ、美味しいんだよ*1」
「へぇ」
なるほどと頷きながら調べてみると、
説明書きをさらっと見ると最初の方に「お菓子のグミとは関係がない」と書いてある。
「あ、関係ないんだ」
「え、ないの!?」
「うん。お菓子の方はドイツ語でゴムを意味する単語
茱萸はちょうどこの時期に白い花をつける。少し縦に長い細身なのが特徴で、この部分から実がなるらしい。
実際に、目の前の茱萸の木を見れば白い花が咲いているのが見えた。
「ちなみに、中国では同じ漢字で
重陽の節句*3には、
「茱萸には六月頃に実がなるタイプと十月頃に実がなるタイプがあって、それによって春茱萸とか秋茱萸っていうらしいね」
「じゃあ、これは秋茱萸ってことか」
「そういうこと」
茱萸は商業用としては栽培されず、こうして庭に園芸用として育てられていることの方が多いらしい。
「坂上はこれ食べたことないんだっけ?」
「うん」
外に出ることは少なくないけど、本を読むのが目的だった。茱萸を食べに中庭に来たことなんて一度もない。
三ノ輪さんに指摘されて、胸のどこかでもやもやとした気持ちが湧いてきた。
「今まで、一度も食べたことないや」
紙の上でなら茱萸の味は書かれている。甘酸っぱくて熟していない頃は渋みがあると。だけど、そんなのはグレープフルーツやトマトの解説にだって同じことが書いてあるはずで、茱萸の味というのを本当に理解することはできないのだろう。
僕達がいくら本から情報を得ることができたとしても、それは僕達が体験したものじゃない。いくら言葉の知識を蓄えたって、自分の物にはならない。
僕は何も知らない。何も分からないのは恐ろしい。
恐ろしかったから文字を読んで勉強をしてきたけれど、そうして得ることができたのは
本を読んで外に出て。
何者でもない今の僕にできるのは、ただそれだけしかないのだから。
「じゃあさ」
声に釣られて三ノ輪さんの方を見た。
「秋になったら、一緒に食べに来ようよ」
「……うん、いいね」
その誘いに頷いて、茱萸の木を見上げた。
人は僕のことを止めない。
学ぶはいいことだから、それは違うのだなんて言ったりはしない。別に学校の勉強をしないわけでも部屋にこもりがちなわけでもないから。
だけど、三ノ輪さんはまるで今の何もない僕自身に何かがあるのだと言ってくれているような気がした。
まるで僕は自分に何もないのだと思い込んでいるだけで、本当の僕にはきっと魅力があるのだと。
「じゃあ、次に行こうか」
「任せた」
少しだけ上向いた気持ちで、また僕達は歩き出した。
次は茱萸の木から少しだけ歩いて、池が見えるようになった辺りで咲いている花に近付いた。
紫色の花が日の光を浴びながらこちらに顔を向けている。
「桔梗?」
「秋の七草のひとつだね」
「これも?」
三ノ輪さんが首を傾げた。
「ずっと思ってたけど、なんで夏なのに秋っていうわけ?」
「そもそも、僕達の四季と暦の上の四季が違うからだよ」
僕達が普段使っているのは、太陽の動きを基準にして作る
和歌等で詠まれる季節というのは旧暦を基準にしており、この差はおおよそ一か月ほどある。
「それに、四季は一月から三か月ごとに春夏秋冬を当てはめてるんだ。だから、今が旧暦の七月くらい、つまり秋の最初の月になっちゃうわけ」
「じゃあ、旧暦の一月……二月でも春ってこと?」
「うん。二月の節分っていうのは、春になるからやるんだよ?」
二月にやる節分は、立春*5の前日に行う行事だ。
「なるほどね。じゃあ、今は暦の上だと秋に入った頃なわけだ」
「そういうこと」
だから、この桔梗も多少フライングしているとはいえ、秋の七草に数えられてもおかしくはない。
「桔梗も秋の七草なら、和歌にも出てくるってこと?」
「出てると思うよ?」
植物の本を一度閉じて、万葉集の方を取り出す。
索引から桔梗の言葉が入っている和歌を探すけれど、特に見つからない。
「あれ?」
「ないの?」
「なさそう……」
万葉集を三ノ輪さんに預けて、もう一度植物の本に戻る。
桔梗のページを開いて秋の七草と書かれている辺りをたどってみると、気になることが少し書かれていた。
「三ノ輪さん、これ」
「……朝顔? なんで?」
「分かんない。でも、昔の桔梗は朝顔って呼ばれていたみたい*6」
僕達が知っている朝顔とは、意味が違うらしい。
少し詳しく読んでみても理由は書かれていないようだった。
しばらく見て諦めて、僕は三ノ輪さんに声をかけた。
「分かんないけど、そうなら朝顔で調べてみようか」
「りょーかい」
三ノ輪さんがパラパラとページをめくり、すぐに「あった!」と声を上げる。
「これ、そうじゃない?」
「あ、本当だ」
三ノ輪さんが出した和歌の訳には、確かに桔梗とそれに対する注釈がつけられている。
言に出でて 云はばゆゆしみ 朝顔の
穂には咲き出ぬ 恋もするかも
詠み人知らず
意味は「言葉に出して言ってしまえば悪い方に転がるかもしれないから、桔梗のように目立たない恋をするのです」というもの。秘めた恋心を詠んだ歌だ。
桔梗の花が目立たないのかは分からないけど、小ぶりな花だから群生していれば目立たないのかもしれない。
「恋の歌だね」
和歌を眺めていると、恋の歌をよく見かける。
万葉集の分類にわざわざ男女の恋を詠んだジャンルである“相聞”を設けている時点で、かなりの数があるのだろう*7。
「言葉に出せない、秘密の恋かぁ……いいなぁ……」
「三ノ輪さん、こういうのが好きなの?」
「え!?」
うっとりしていた三ノ輪さんに思わず尋ねると、なんだか驚いたような反応をされた。
そういえば、今まで見てきたのは景色についての歌ばかりだったので、恋についての歌は初めてかもしれない。
「三ノ輪さんって、結構こういうの好き?」
「……うん、まあ」
肯定しながら頬が赤らんでいるのが分かった。
今まで、誰とでもすぐに仲良くなる活動的な三ノ輪さんの姿ばかりを見てきたから、こうした女の子らしい一面を始めて見た気がする。
「変、かな?」
「ううん。全然」
とても意外だったけれど、なんだか可愛らしくていいと思った。
「そ、っか」
「うん」
そうやって悪い事じゃないって言っていると、なんだか恥ずかしくなってきた。
三ノ輪さんが僕の読書のことを褒めてくれたみたいに、僕も三ノ輪さんのそうした姿を認めてあげたかっただけなのに。
「……えっと、歌の話に戻ろうか」
「そうだね」
話を戻す。
この歌は、桔梗の花が咲く様子を恋をする様子に例えている。
“穂に咲き出づ”というのは“表に出る”という意味もあるらしく、これが文字通りの花が咲くことと恋が表に出ることを掛けているらしい。
「和歌は短いから、その短い言葉の中にどれだけの意味を込められるかが大事みたいだよ」
「だから、二つの意味があるような言い回しを使うわけね」
「そうそう。もともとはっきり言わない方がいいっていう風潮もあるけど、もしかしたら和歌がきっかけだったりするのかもね」
遠回しな言い方をするのが日本古来のやり方な印象がある。
僕も好きな人ができても告白する勇気なんて出ないだろうから、こんな感じの伝え方はいいなと思ったりする。
「和歌で告白って洒落てるね」
「そうかな? でも、伝わらなかったりするかも」
そうなったら、涙で枕が濡れてしまうかもしれない。
「でも、今はまだ全然想像がつかないかな」
「アタシも。恋とかは憧れるけど、現実味ないや」
僕達はまだ小学生で、愛や恋を知るのだってこれからなんだろう。
もしもそういう日が来た時、僕はこの歌の意味を理解することができるようになるのだろうか。
「……まあ、いっか」
それは、その時に考えればいいことだ。
「三ノ輪さん、次に行こうか」
「はいよ」
万葉集を閉じてカバンにしまう。
今はこのまま本を開いて、そこに綴られた想いに馳せる。
今の僕にとって三ノ輪さんと過ごすこの時間はとても居心地が良くて、この時間がずっと続いていけばいい。
「次はどれにしようか?」
「あれは? 凄い綺麗な花が咲いてるし」
「いいね」
ただ、そう思えた。
テンポに関してはひと月に二話程度を想定していますので、原作開始の春になるのは二十話辺りのことだと思います。