あしたは   作:山石 悠

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第六歌 おもへども

思へども 猶あやしきは 逢ふ事の

 なかりし昔 なに思ひけん

村上天皇 斎宮女御集


 

「坂上、今度うちに来ない?」

「……え?」

 

 不定期ではあるものの、何度か開催されるようになった僕と三ノ輪さんの読書会からの帰り道。

 完全に不意をつかれた言葉に、僕は思わず三ノ輪さんの方を振り返っていた。並んで歩いていた当の本人といえば、僕の反応が面白かったのか少しだけ可笑しそうに口元を押さえている。

 

「鉄男にさ、一緒に本を読んでるって話をしたら、一緒にやりたいって言ってて」

「なるほど」

 

 下の子は兄や姉と同じことをしたがるとは聞いたことがあったけど、こういうことなのかなと思う。

 

「それとなんだけど、夏休み明けの学力テストあったでしょ?」

「そういえばあったね」

 

 先日丸つけされて返ってきた。点数が悪かった人には追加の課題が出ていたような気がするけど、僕は特に貰わなかったのであまりよく知らない。

 と、そこまで思い出して僕は言葉の続きを理解した。

 

「……あ、もしかして」

「追加の課題って来週の月曜までなんだけど、助けてくれない? 坂上、クラスで一番点数よかったんでしょ?」

「そうなの?」

「確か、前川が『二位かー……坂上に勝てねぇ』って言ってたから」

「あ、そうなんだ?」

 

 確かに前川君には点数を尋ねられたので答えた覚えがある。他の人にも聞いていたのを見たけど、あれは順位を割り出すためのものだったらしい。

 

「だから、お願い! 助けて!」

 

 両手を合わせて祈られるが、果たして僕に教えることなどできるだろうかと少し思う。今まで誰かに勉強を教えたことなんて一度もない。

 今までの僕ならきっと「やったことないから」と断っていたような気がする。教えられるかもてんで分からないから、やろうとしなかっただろう。

 

 だけど、今の僕はそんなことも忘れて、笑いを噛み殺すように息をこぼしていた。

 

「いいよ」

 

 友人に助けを乞うためにそんな仰々しいお願いをする必要なんてない。

 自分はすぐに手を差し伸べるくせに、逆になると全然分からなくなってしまう彼女は、なんだか少しだけ可笑しかった。

 

 

 

 三ノ輪さんの家は、和風な平屋の建物だった。

 庭もあって敷地面積はそれなりに広い。家はあまり裕福じゃないと言っていたけれど、全然そんな風には思えなかった。

 

「いらっしゃい」

「お邪魔します」

 

 戸を開けてくれた三ノ輪さんの後ろをついて玄関に入る。大きさもデザインも違う靴や玩具のボールが置かれており、傍にアロエの鉢が見えた。積まれている段ボールには、工具とかアウトドア用品が雑多に放り込まれていて、なんだか日々の生活が垣間見えるような家に感じた。

 初めて訪れる友人宅ということもあって失礼なのは理解しつつも様子を見ていると、部屋の奥から「あ!」という声が聞こえてきた。

 

「いらっしゃい! 兄ちゃん!」

「おはよう、鉄男君」

 

 数週間ぶりに会った鉄男君は、相変わらず元気盛りだった。

 だだだーっ!! っと走ってきたかと思えば、ぴょんぴょんと僕の目の前で「早く早く」と飛び跳ねている。

 

「ほらほら、はしゃがない」

 

 三ノ輪さんさんが鉄男君を嗜めてから「坂上、こっちこっち」と奥の部屋を指さした。

 三ノ輪さんがつっかけを脱いだのを見て、僕は持っていた袋を出した。

 

「三ノ輪さん、これ」

「なにこれ?」

「手ぶらだと申し訳ないから、よければどうぞというか……」

「え!? そんなの気にしなくていいのに!」

 

 流石にそういうわけにはいかなかったというか、三ノ輪さんの家に行く話をしたら、母さんからお土産を持って行くように言われたのだ。

 僕自身そうしようと思って話した部分もあるのでちょうどよかった。

 

「まあ、大したものじゃないから、気にしないで」

「ありがとう、坂上」

 

 中はお菓子の詰め合わせだ。こういうときのチョイスをよく知らないので、そこは母さんセレクトになっている。

 三ノ輪さんはお菓子を持って、改めて奥に部屋を指さした。

 

「じゃあ、部屋行こうか。こっちね」

 

 三ノ輪さんの後を追うために、僕は靴を脱いだ。

 

 

 

「うへぇ……」

 

 まずは課題を終わらせるのが先ということで、僕は三ノ輪さんの課題を見ていた。横では鉄男君も自身の宿題に取り組んでいる。どうせなら一緒に終わらせた方がいい。

 

「なにも分からない……」

「どれ?」

「この問題、計算のやつ」

 

 見せられたのは、括弧の使い方や掛け算の順番など、計算のルールについて話していた分野だった。

 

「どの辺が分からないの?」

「まずこの公式みたいなの」

「それは、そういうものだって割り切って覚えるしかないやつだね……」

 

 計算結果とかでもなく、そう決めたものだから。

 

「でもさ、掛け算の順序って入れ替えちゃダメって先生言ってたじゃん。それをいきなり入れ替えてもいいって言われちゃ、こんがらがっちゃうって」

「あー……」

 

 それを聞いて、三ノ輪さんが言いたいことを少し理解できたような気がした。

 これは分からないんじゃなくて、飲み込めていないだけのように思った。

 

 僕も以前、似たようなことを思ったことがある。

 

「それはね、どっちかが正解なんじゃなくて、どっちも正解なんだと思うよ」

「え?」

 

 驚いた様子の三ノ輪さんに向かって、僕は少し考える。

 ここからは宿題の解説ではなく、僕自身の価値観の一つを話すに過ぎない。でも、前に同じようなことを思った僕の結論が助けになるかもしれない。

 

 「えっと」と、言葉を置いてから、僕は頭にイメージした言葉を口にした。

 

「する、解説を、三ノ輪さんに、僕は」

 

 言いながら同じことを紙に書く。

 大したことはない、文節でシャッフルしただけの文章だ。

 

「これ、意味は分かる?」

「坂上がアタシに解説する、ってことでしょ?」

「正解」

 

 それが分かれば、話は単純なことだった。

 

 どうすれば三ノ輪さんに伝えられるかを少しだけ考える。いつものように本の内容を要約するだけじゃなくて、僕自身の考えを言葉に直していく。

 電気の消えた部屋の中でスイッチを探すみたいに、慎重に手を伸ばす。

 

「さっきの話もこれと一緒なんだ」

「どういうこと?」

「日本語は少しくらい順番を入れ替えたって、意味は通じるよね?」

「うん」

「でもそれって、すごく分かりにくいと思わない?」

「確かに」

「計算式も一緒なんだよ」

 

 人を意味する数、個数を意味する数、どんな順序で並べたって結果は同じだ。同じ結果が伝わる。

 でもそれは決して親切であるとは限らない。

 

 先生の言ってた順序を変えないっていうのは、相手に少しだけ分かりやすくしてあげようって意味。

 算数の世界が入れ替えてもいいというのは、ちょっと拙くなってもちゃんと相手に伝わってるよという意味。

 

 計算のルールが教えているのは、そんな人と人のコミュニケーションの話だ。

 

「日本語と違って計算式は、意味を伝えるときと、計算をするとき。それぞれ分かりやすい書き方が違うから、余計にこの二つとも大事にするのが大切なんだよ」

「なるほど……」

 

 計算式だって無機な文字列じゃなくて、やっぱり誰かから誰かへと伝える言葉だ。言葉に直すし文字に起こす時点で、僕達はそれを誰かに伝えようとしているはずなんだから。

 

「……これで、少しは納得できそう?」

 

 恐る恐る尋ねる。終わってからなんだか説明になっていないような気しかしなくて不安になってきた。

 三ノ輪さんは「うーん……」と少しだけ考え込む素振りを見せてから、意図せずといった様子で笑みをこぼした。

 

「やっぱり、坂上ってすごいよね」

「え?」

 

 分かったとか、分かりにくかったとか、どういうこととか。

 

 そんな答えを想像していたから、どう返事をしていいのか分からない。

 

「なんていうかさ、坂上って全然違うこと考えてるんだなって」

 

 三ノ輪さんは「さっきの説明はあんまり分かんなかったけどさ」と続けるが、その表情はやっぱり楽しそうだった。

 

「アタシは算数をそんな風に見たことないし。なんかさ、勉強できる人って『勉強してます! 頑張ってます!』みたいな感じですごいと思ってたけど、坂上はそういうのとも違って、自然といろんなこと知ってる感じだよね」

「そうかな?」

 

 そんな風に言われたことなんてない、と思ったけれど、それも当然の話だった。今までの僕はこうやって誰かに自分の考えを話したことがなかった。

 僕の言葉というのは、綴られた文字が全てだった。今ここにいない、かつてを生きていた遠い誰かの言葉に耳を傾けるだけで生きてきた。

 

 自分の望みを形にすること。

 自分の胸の内にある言葉を誰かに伝えること。

 

 そんな大したこともないことが、僕にはできていなかった。ずっとできるようになりたいと思っていた。だからこそ、三ノ輪さんと出会ってからの二ヶ月は、そんな僕の憂いを取り去ってくれた。

 僕に足りなかったのは、人と時間を過ごすことだった。僕の望みは目の前の文字ではなく、目の前の他者がいなければ成立し得ないものだった。

 

 本当にすごいのは、僕をこんなに前へと進ませてくれた三ノ輪さんの方だった。

 

「そんなことないよ」

 

 僕の価値観など、所詮は孤独の副産物に過ぎない。

 だけど、そんなことを容易く口にできるわけでもなくて、なんとか捻り出せたのはそんな謙遜じみた言葉だけだった。

 

 

 

 課題が一通り終わり昼時になったということで、昼食にしようと決まった。

 三ノ輪さんの両親はちょうど病院に行っているらしく、昼食は三ノ輪さんが作ることになっているらしく、三ノ輪さんが立ち上がる。

 

「僕も手伝うよ」

「いや、お客さんを手伝わせられないって。ほら、坂上は待ってて」

 

 立ち上がろうとしたのを押し留められたまま、三ノ輪さんが鉄男君を呼んでキッチンに向かう。

 キッチンはすぐ隣にあって、この場所からでも料理を作っている二人の姿は見える。

 

「料理慣れてるの?」

「ん? まあね」

 

 三ノ輪さんは勝手知ったる様子で材料や道具を取り出していく。

 

「もともと、うちは共働きだから、アタシがご飯作る機会も多くてさ」

「なるほど」

 

 僕もたまに自分で用意するから納得できた。

 両親が返ってこないときは

 

「鉄男君も手伝ってて偉いね」

「普段はあんまり手伝ってくれないけどね」

「姉ちゃん!」

「はいはい、助かってるって」

 

 笑いながらうどん玉を鍋に放り込んでいるが、その受け渡しは妙に慣れていて、やっぱりなんだかんだ言っても手伝っているんだということは伝わってくる。

 

「何うどん作るの?」

「あー、どうしよっか。あんまり何も考えてなかったや。何か食べたいものある?」

「え? いきなり言われても思いつかないな……」

 

 完全にメニューは決まっているものだと思っていたから、急に言われても思いつかないし、言ったところで冷蔵庫に材料があるかも分からない。

 

「思いつかないなら、あんかけでもいい? 卵とわかめ入ってる感じで」

「うん、いいと思う」

 

 僕が同意すると、二人は素早く材料を取り出して準備を始めていた。三ノ輪さんが鍋を出して調味料を入れ、鉄男君が材料を冷蔵庫などから出している。

 なんだか二人の連携がすごくて、僕が手伝っても邪魔にしかならなかったかもしれないとすら思う。

 

 気付けばあんの方が出来上がるところまでできており、うどんを鍋から取り出している。

 

「もうできるから待ってて。鉄男は鍋のお湯捨てておいて」

「はーい」

 

 三ノ輪さんは器に入ったうどんの前にあんをかけていき、その横では鉄男君がうどんを湯がいていた鍋をシンクに運んでいる。三人分のうどんが入っていただけあって、少し重そ──

 

「あっ」

 

──鉄男君が躓く姿が目に入った。

 

「熱っっっっ!!」

「鉄男!」

 

 バシャッとお湯がこぼれ、中身をなくした鍋が床に転がった。

 僕達は慌てて悲鳴あげ泣いている鉄男君の方に近寄る。

 

「怪我は!?」

「腕、火傷してて、だから……」

「冷やして!」

 

 唐突なことで困惑した様子の三ノ輪さんを引き剥がして、鉄男君を素早く立たせる。水道の蛇口をひねって水が出るのを確認してから、火傷した部分の少し上に水をあてて腕を伝う水で冷やす。

 

 頭の中は一周回って冷静だった。

 火傷の応急処置を頭の中で必死に思い返す。とりあえず冷やすところまでは思い出せた。次は……

 

「他に痛いところある?」

 

 尋ねると首が横に振られる。涙目で口をギュッと強く結んでいる。

 その姿に堪らなくなりながらも、次のことを考える。とりあえず患部は腕だけでいいらしい。こちらから見た様子でも服はあまり濡れていないし、服越しに火傷をしたということはないだろう。

 

「三ノ輪さん、救急箱とか場所分かる?」

 

 声をかけるとようやく我に返ったようで、素早く頷いた。

 

「分かるよ、ちょっと待ってて」

 

 

 

 流水で30分近く冷やせば痛みはある程度治ったようだった。

 

「ご両親には?」

「もう連絡してあるよ。後30分くらいで戻ってきて、鉄男を連れて病院行くって」

「分かった」

 

 水を止めて、簡単に患部以外の水気を拭き取り、駆け足で玄関に向かう。

 

「坂上?」

「ごめん、これ使うね」

 

 玄関先にあるアロエ──キダチアロエ──を運ぶ。

 消毒液を付けたガーゼで葉を軽くふいてから、それをちぎった。

 

「なにしてるの?」

「これ、薬になるはずなんだ」

「え?」

 

 アロエは薬として昔から利用されていたことがある植物だ。

 その歴史は神世紀の前の西暦が始まるさらに前、紀元前2000年近くにまで遡る。

 

「って、そんな話は今どうでもいいよね」

 

 アロエの葉をちぎって中のゼリーみたいな半透明な部分を露出させ、それをやけどした部分に薄く塗布した*1

 

「病院に行くまでだから軽くにしておくね。いつまでもつけてると逆に悪いかもしれないから、病院に行く前とか病院で洗い流してもらってね」

 

 話しながらガーゼを傷口の上に触れる程度になるよう軽くテープでとめる。

 

「これでひとまず終わりだけど、やっぱりまだ痛い?」

「……もう大丈夫」

「そっか」

 

 消毒液などを片付けて一息つくと、ぐぅぅとおなかが鳴った。

 ちょうど誰もしゃべっていないタイミングだったせいもあって、妙に響いてしまう。

 

「…………ふ、ふふっ」

 

 さっきまでの慌ただしさが嘘みたいな感じがして、思わず僕達は笑いだしていた。

 結局、うどんはテーブルの上で冷たくなっている。

 

「ちょっと温めて食べようか」

「うん!」

「迎え来るまで時間もあるしね」

 

 そう言いながら立ち上がるので「手伝うよ」と立ち上がる。

 

「ありがとう」

「いや、これくらい別に」

「ううん、そうじゃなくて」

 

 三ノ輪さんはちらりと鉄男君の方を見た。

 

「鉄男のことありがとう、アタシもびっくりしちゃってて」

「仕方ないよ」

 

 唐突なことだったわけだし、すぐに動き出せていたのだから流石だと思った。

 

「坂上はよく知ってたね」

「たまたまだよ」

 

 怪我の治療はそれこそ父さんと母さんの仕事をきっかけにして最初の方に調べたことだった。おじいちゃんやおばあちゃんにも教えてもらったことがあったから、何とか行動に移すことができたところもある。

 

「本当にちゃんとできてるかは分かんないんだ。だから、僕のやったのが正しいのかは分からない」

「ううん。それでもだよ」

 

 三ノ輪さんは「正しいとかじゃない」と否定した。

 

「坂上がああして心配して、必死になってくれたのが嬉しかったんだ」

 

 必死?

 

「だから、ありがとう」

 

 三ノ輪さんの言葉が頭の中でエコーしている。

 

 僕は今まで必死になったという記憶がない。

 いや、ある意味ではなりたいものを探すために必死だった。やりたいことを探すために必死だった。

 

 でも、今はそんなあの時のような気持ちがどこにもないことに気が付いた。

 今の僕は、僕自身も気付かないうちに、何かに必死になっているらしかった。

 

 その理由は、きっと考えるまでもなかった。

 

「……ううん、どういたしまして」

 

 僕が変わったのは、前に進んだのは、きっと目の前にいる彼女のおかげだ。

*1
アロエには確かに薬効がありますが、家庭で育てているアロエでも付着している菌などにより感染症の恐れがあります。現代の医療は発達しておりますためアロエは使わず、流水で冷やした後に布で覆ってお近くの病院を受診してください。




アロエは民間療法として知られ一般家庭でもそだてられているのを見かけることがあります。
しかし現代の医療は進歩しており、アロエを含めた様々な民間療法を扱うメリットというのはあまりありません。

本編で坂上君は書籍や祖父母に教わったこともありアロエを用いた治療を行いましたが、実際は注釈の通りアロエを使わずに作中の処置を行う方がいいです。
皆さんもやけどの際は落ち着いて冷やすことから考えてください。患部には直接当てないことが大事です。

長く書きましたが要するに「よい子はマネしないでね」ということですので、よろしくお願いします。
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