たらちねの 親のまもりと あひそふる
心ばかりは せきなとどめぞ
をののちふるの母 古今和歌集
リビングに降りると、知らないバラエティー番組がやっていた。普段は見ない番組だったので趣旨は分からないけど、今日は10人家族の人達の生活を特集しているらしかった。
家庭はあまり裕福ではないが、家族が力を合わせて毎日をドタバタと過ごしている様子が映されている。
しばらく見ていると、一家の大黒柱とテロップのついた大柄なお父さんが出てきて、スタッフの人と話をしている映像に切り替わった。
『家族の仲の秘訣って、何かあるんですか?』
『やっぱり、晩飯ですよ』
その言葉に合わせて、カメラが家族全員でご飯を食べている姿が映した。
わいわいと大皿の料理を奪い合って、やれ取りすぎだの落ち着きなさいだのと話している様子は、決して穏やかな内容ではないのにどこか楽しそうにも見えた。
「三明、これ持って行って」
「うん」
母さんから料理の乗った皿を受け取ってテーブルに向かう。
薄手の皿はフライパンから移ったばかりの野菜炒めの熱を、すぐに僕へと伝えてくる。徐々に伝わる暑さに耐えきれなくなり始めた僕は、急ぎ足でテーブルに皿を置いた。
今日もやはり父さんはいない。
家に帰れないというわけではないが、帰るのは僕が寝るかどうかといった時間帯だ。一緒に食事をとることはまず無理だった。
二人で料理を運び終えると、僕達は静かに手を合わせた。
「いただきます」
今日は野菜炒め、ごはん、お味噌汁にお浸しで、どれも丁寧に盛られている。作業は几帳面な母さんらしい料理だった。
何から食べようかと悩んで、僕は野菜炒めに箸を伸ばした。
『家族でね、一緒に夕食を食べながら、話をするのが一番いいんですよ』
味噌汁に口をつけようと近づけて直前で止める。のぼっている湯気が「やけどするゾ」と言っているようで、僕は味噌汁に向かって少しだけ息を吹きかけた。
しばらく息を吹きかけてから、もう大丈夫かなと思いながら器を少し傾ける。
「あちっ」
少し舌先がヒリヒリとするのを感じて、すぐに味噌汁を置いた。母さんが何も言わずにこちらをちらりと見るけれど、すぐにご飯の方に視線を落とした。
僕は冷たいお茶の入ったコップを手に取って、下を冷ました。
「…………」
僕達の食卓に会話はない。
それは別に不仲というわけではなく、母さんが食事中に話をするのがあまり好きではないだけだ。おじいちゃんやおばあちゃんも食事中は最低限の話しかしなかったので、特に思うところもない。
ただ時折、あのテレビの向こうにいるような家族の姿を羨む自分がいるのも、事実だった。
味噌汁はちょっと後にしてお浸しに箸を伸ばしたところで、母さんがこちらを見た。
「三明」
唐突に呼ばれて、口元を抑えて待ってと合図した。
すぐに口に入れたばかりのお浸しを飲み込んでから「なに?」と言葉を返す。
母さんは少しだけ言葉を選ぶように視線をさまよわせてから「三明は」と呟いた。
「三明は将来、医者になりたいの?」
「え?」
思ってもみなかったことを言われて、言葉に詰まる。
父さんは医者で、母さんは薬剤師。
そんな家に生まれた僕は学校の成績も比較的上位で、普段は本を読んで過ごしている。すると、必然的に周囲からは「お医者さんを目指しているの?」と問いかけられる機会は多くなる。
でも、それをまさか母さんにまで尋ねられるとは思ってもみなかった。
「どうして?」
なんでそんなことを言われたのか分からなくて、僕は思わずそんなことを口にしていた。
「この前、三ノ輪さんのおうちに行ってきたとき、息子さんが火傷したんでしょう?」
「え?」
話した覚えもない話を母さんが知っていることに驚く。
どうして母さんがそれを知っているのだろうか。
「三ノ輪さんのおうちから電話があったの。三明によくしてもらったって。息子さんが火傷したのを治療してもらったって」
母さんは少しだけ笑っていた。
「それに、病院に行った時の担当医の名前が坂上だったそうよ」
「え?」
別に坂上なんて名前自体は珍しいものでもないが、医師という条件が付いているなら、それはきっと……
「確認したら、お父さんだったんだって。ちょっと話を聞いたら、応急処置がされてる息子さんの手当てをしたって」
あれから一週間くらいは経っているが、そんなこと全然知らなかった。
「なんか、世間って狭いね」
「本当ね」
母さんは「びっくりしたわ」と言いながら、箸を置いた。
「三明がそんなことしてたなんて知らなかったから」
「昔、父さんと一緒に教えてくれたでしょ」
「でも、実際にああやって動けるわけじゃないの。傷を見て動けなくなっちゃう人もいるし、ましてや他の人に手当てするのは自分でやるより大変だもの」
「それは、鉄男君がしっかりしてたからだよ」
あれは僕が凄かったのではなく、鉄男君が落ち着いていたからだ。きっと痛かったはずなのに、涙をこらえていてくれたから、僕だって動くことができたのだから。
「だからね、三明がそんなにできるのなら、医者になりたいののかなって。違った?」
母さんが言いたかったことの意味を理解して、僕は口をつぐんだ。
「それは……」
ずっと、何かになりたかった。
将来の夢とか、なりたい自分とか、そういうものが欲しくて仕方がなかった。
サッカー選手になりたいんだと毎日練習する人が羨ましくて、刑事になるんだと勉強する人にあこがれていた。
そういうものを必死に探し続けていた。
先日の一件でようやく、なりたい自分が僕自身の中に存在していたのだと気が付いた。
今はまだそのなりたい姿を言葉にできていないだけで、僕の中には確かになりたい僕がある。かくありたいと思う僕の姿がある。
それは、母さんが言うように、医者なのだろうか。
「……三明?」
「ごめん、ちょっと待って」
医者、という言葉を自分の中で唱えてみる。
鉄男君の火傷の応急処置をして、三ノ輪さんはありがとうと言ってくれた。
それ自体はすごくうれしくて、そこで初めて僕は自分の中になりたい姿があるのだと気が付いた。
医者、少し方向を変えて母さんのような薬剤師等、関連する言葉を挙げては見るけれど、どれも僕の中でしっくりこない。
僕のなりたい僕は、別に医者ではない。
「……違う、と思う」
僕は別に応急処置ができたことに魅力を感じていたわけではない。僕が嬉しかったのは、あくまでも鉄男君の助けになれた、僕の知っていることが誰かを助けることができたところにあった。
自分の中でその気持ちが言語化できたところで、僕は改めて首を横に振った。
「僕は医者になりたいわけではないよ」
「そう、なの」
母さんは肯定が返ってくると思っていたのか、少しだけ意外そうな顔をしていた。
「じゃあ、三明は何になりたいの? 医者以外の何か? それとも、決まってない?」
ずっと、必要なものを探し続けていた。知らなければなりたいとすら言えないから、運命の出会いをするために、僕はずっと本を読んできた。
でも、僕にはそれだけでは足りなかった。言葉を追い続け、ページをめくるだけでは見つけることのできないものこそが、僕の欲しかった答えだった。
僕の欲しかったものは、人との関わりの中で、誰かとの日々を過ごすことによって初めて生まれる願いだった。
「僕、は……」
僕はずっと、独りでいたような気がしていた。
家には仕事があるとはいえ父さんも母さんもいて、学校では一緒に本の話をしたり分からない問題を話し合うクラスメイトだっていた。
僕の周りには人がいて、決して一人で生きてきたわけでもないのに、それでも僕はずっと孤独を感じて生きていた。
きっと、僕は人の輪に入るための理由が欲しかったのだ。
でも、順序が逆だった。
夢があるから人の輪にいるのではない。人の輪の中にいるから夢が生まれるのだ。
僕はそれを致命的にはき違えていて、その間違いを三ノ輪さんが教えてくれた。彼女のおかげで僕はようやく自分自身が欲しかったものを手に入れることができた。
「前は、そういうのなかったんだ」
「そうなの?」
「うん。でも最近……本当に最近、ようやくそれに気づいたんだ」
なりたいものを探すために本を読んできた。言葉を食んできた。
それ自体にはなんの思い入れもなかったはずなのに、それはいつの間にか僕自身が好きなものになっていた。
三ノ輪さんは鉄男君の応急処置をしたことに感謝してくれた。でもそれは、あくまでもおまけに過ぎなかった。
本当に大切だったのはもっと前のこと。僕と三ノ輪さんが出会って友達になったときのこと。三ノ輪さんに勉強を教えていた時に行ってもらったこと。
──少なくとも、アタシはこれを読んでも坂上みたいな説明できない。だから、こういう説明ができる坂上はすごい。
──ありがとう、坂上。
──やっぱり、坂上ってすごいよね。
本の中に載っていた知識が、誰かが必死に考えて紡いできた言葉が、別の誰かに届くこと。
場所も時代も、あらゆる壁を乗り越えて。ずっと昔に残された言葉や知識が、出会わなかったはずの誰かの助けや学びに繋がること。
和歌のおかげで何でもない河原が1500年以上の時を超え、草が生えているだけだった中庭が冒険の場所になって、数式が誰かと誰かの対話になる。
そういうことができる人に、僕はなりたいのだと思った。言葉を伝える人でありたいのだと思った。
だって僕は誰でもない、そういう人に、言葉に、知識に教えてもらったのだ。
「母さん」
それを職業として言葉に直すなら、一つしか思いつかなかった。
「僕は、司書になりたいんだ」
司書さんが教えてくれた。あのウイルスに汚染された大地の向こう、遠くの国で
ただ本を整理・管理しているだけではなく、その人が求める資料を探し人に望む知識を提供する仕事。知識と情報の専門家。それこそが司書という職業で、僕がなりたい僕の姿だった。
「あぁ、なるほどね」
母さんは納得したように頷いた。
「三明、本が好きだもんね」
鉄男君の応急処置も、あくまでその一つに過ぎなかった。僕の持っていた知識が誰かを助けることに役立ったのが嬉しかっただけだ。
人に知識や情報を伝える方法として、僕自身が実践するという手段の一つでしかなかった。
「うん」
母さんの言葉に頷く。内心では嬉しい気持ちでいっぱいだった。
僕はようやくなりたいと思っていたものを見つけることができた。なりたかった僕は、欲しかった夢は、これまで続けてきた日々の中にちゃんとあったのだ。
夢を見つけた。
それは僕にとって本当に大きなことで、とんでもない快挙だった。一人では絶対に見つけることができなかったもので、それも全部三ノ輪さんのおかげだった。
この感謝を僕はどうやって伝えればいいのだろう。
「何か、お礼ができればいいんだけど……」
言葉にしてみるけれど、できるのか分からなかった。
三ノ輪さんは僕なんかよりもずっとすごいのに、いったい僕に何が返せるのだろうか。
僕が三ノ輪さんに誇れることなんて、それこそこれまで読んできた本の数。三ノ輪さん自身が褒めてくれた僕自身の知識だけだった。
「何かあったかな?」
自分の記憶の中にある三ノ輪さんを掘り起こす。
友達になった河原でのこと、一緒に木陰で本を読んだこと、神社で雨宿りをしたこと、中庭でいろんな植物を──
「あ」
思い出したのは、お役目の後の三ノ輪さんが怪我をしていたことだった。三ノ輪さんは大丈夫だと言っていたけれど、それでもやっぱり心配だった。
僕は一緒にお役目をすることなんかできないけれど、それでも応急処置をするように、何かできるのではないだろうか。
「そうだ」
三ノ輪さんに応急処置や薬の知識を伝えるのはどうだろうか。
僕自身がそこにいなくたって、僕がそれを教えて上げられればきっと三ノ輪さんが仮に怪我をしても手当てができるようになるだろう。
必要なのは簡単な処置の仕方と、薬の準備。
処置については僕も知っているけれど、薬などは飲み合わせというのもあるから、素人の僕の知識だと少しだけ心もとない。
僕は少しだけ考えて、それについて詳しい人がすぐそばにいることを思い出した。
自分の部屋を出てリビングに行くと、タブレットで何かを見ている母さんがいる。
「母さん」
「どうしたの?」
母さんは薬剤師だ。
僕はこの人以上に薬に詳しい人を知らない。
「頼みがあるんだ」
「なに?」
「実は……」
僕はなんて説明しようか悩みながら、母さんに頭を下げた。
「薬のことを、教えてほしいんだ」
夢と今後の目標を手に入れる話です。
いつもならもう一、二話書いて完結ですが、本作はもう少し続きます。