あしたは   作:山石 悠

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第九歌 にいばりの

新治の 今作る道 さやかにも

 聞きてけるかも 妹が上のことを

柿本人麻呂歌集


 

「こんにちは」

 

 いつものように図書室に入ると、普段は返ってくる司書さんからの挨拶がなかった。

 何かあったのだろうかと受付カウンターの方を覗いてみると、司書さんが誰かと話している姿が見えた。最近よく図書室で見る白い髪の女の子だった。

 

「はい、貸し出し期間は一週間です」

「…………」

 

 カウンターの前でコクリと頭を下げた彼女が奥の閲覧スペースに向かうのを見送ってから、カウンターに近付いた。

 

「こんにちは」

「坂上君、いらっしゃい。ごめんね、山伏さんとお話ししてたから挨拶できなくて」

「山伏さん?」

 

 チラリと奥で本を読んでいる彼女に目を向ける。名前を知らなかったけれど、山伏さんというらしかった。

 

「いつもはあんまり借りていくことはないんだけど、今日は借りていってくれるみたいで」

「へぇ」

 

 いつも図書室にいるのを見かけるから、本を借りていかないというのは何だか意外だった。

 でも改めて考えれば、教科書類だけでも荷物なのに、その上に本となると通学が大変なのは考えるまでもなかった。僕だって本用の手提げを一つ用意しているくらいだし。

 

 なるほど、と頷けば司書さんがなんだか不思議そうに首を傾げた。

 

「坂上君、山伏さんのこと知らなかった? 同じ学年だよ?」

「え?」

 

 そう言われても、これまでの四年と半年の間で見かけた覚えはあまりない。最近、図書室で本を読んでいる姿を見るようになったくらいだった。

 司書さんはそれを聞いて苦笑した。

 

「坂上君も山伏さんも、本の方に熱中していたからね」

「あ、あはは、そうですね」

 

 司書さんの言葉に、僕も苦い笑いを浮かべることしかできなかった。

 それはずいぶんと気を使った言い回しではあったが、つまり僕と山伏さんは他人への関心が希薄という話だった。実際、僕が図書室によく来る人の顔を理解するようになったのは最近のことだ。

 今までの僕は本を借りては読むだけで、話をする司書さん以外の顔をまともに見た記憶がない。

 

「すみません……」

「別にいいんだよ。ここは本に触れるための場所だからね。誰かと語り合いたい気持ちも、一人で文字に没頭したい気持ちも、どっちも大事にするのがこの場所なんだよ」

 

 その言葉に少し心が軽くなる。

 司書さんの言葉は書架のように、いろんなものを受け入れてくれる。

 

「あまりカウンターには来てくれないけど、山伏さんは常連さんだね。いつもあの席に……ああ、坂上君の定位置からだと少し見つけにくいか」

 

 山伏さんがいるのは小説の棚に近い場所で、机のない布製の丸椅子に座っている。僕は人が滅多に来ない専門書の棚の近くで読むから、あまり目に入らなさそうではあった。

 

 こちらのことを気にする様子もない山伏さんの顔と名前を一致させると、司書さんは僕が持っていた本の返却手続きをしながら「坂上君」と僕の名を呼んだ。

 

「せっかくの読書仲間だし、話も合うかもしれないね」

「そうですかね……」

 

 曖昧な返事をする。

 だけど、話と言われても何を話せばいいのかとか、きっかけすら分からない。

 

「機会があれば」

 

 僕は自分から初対面の人に話しかけたことがなかった。

 

 

 

 

 

「あれ、坂上?」

 

 あれから、数日が経った。

 

 司書さんから話をされてから改めて日々を過ごすと、図書室でしか見なかった山伏さんの姿をあちこちで目にするようになった。

 本当は山伏さんが僕の視界にいたのは前から変わらなくて、僕がただ山伏さんの姿を認識できるようになっただけなんだと思う。

 

「どうしたの? ボーッとして」

 

 僕の見かける山伏さんはずっと一人だった。誰かに声をかけるわけでも、かけられるわけでもない。

 仮に誰かに声をかけられていても、その口は滅多に動かない。ほとんどは首を上下や左右に振る動きだけの返事だった。

 

「おーい、坂上〜?」

 

 みんなとどこか居場所がずれているのに、決して学校という居場所から外れているわけではない。なんていうか、一人でいるのが自然に思えた。普通はクラスの中で仲のいいグループみたいなものができるが、山伏さんは一人のグループにいるようだった。

 山伏さんの孤独は、決していじめのような意図的なものではなく、本人の性格に由来しているものだと感じた。

 

「もしかして体調悪い?」

 

 山伏さんの姿にはとても覚えがあった。

 話せる人がいないわけではなく、でも友人と言える人がいない。程度の差はあれど、そんな生活を僕はよく知っていた。

 

 あれは少し前の、三ノ輪さんと出会う前の僕だった。いや、人間関係だけならきっと今もそう変わるまい。

 

「ねぇ、坂上!」

「え?」

 

 唐突に声をかけられて我に帰ると、三ノ輪さんがすぐ隣で僕の顔を見ている。

 

「え、三ノ輪さん? いつから?」

「さっきからずっと声かけてたってば」

「嘘、ごめん」

 

 完全に気付いてなかった。

 

「どうしたの? もうみんな帰っちゃったけど」

「……あ、本当だ」

 

 周囲を見ると確かにもう終礼は終わってみんな帰っていた。

 

「ごめん、考え語としてて。声かけてくれてありがとう」

「ううん、全然。アタシは坂上に用事があっただけだし」

「僕に?」

 

 いったいなんの用事だろう?

 

「坂上、忘れちゃった? 前に約束したでしょ、茱萸食べようって話」

「あ」

 

 それは夏休みになってすぐの頃の話だった*1

 

「なかなかタイミングがなくて誘えなかったけど、もうすぐ終わっちゃうからさ。時間あるならどうかなって」

「……うん、大丈夫」

「そっか、よかった!」

 

 肯定の返事をしてから、僕は内心で意外だと思った。

 約束自体は確かに僕も覚えていて。でもやっぱりタイミングを見つけられなかった。僕はどこかで三ノ輪さんが来てくれるのを待っていたように思う。

 だけど、タイミングとか相手の様子を伺っていたのは三ノ輪さんだって一緒だった。それがなんだか意外なように思えた。

 

 僕は荷物をまとめて席を立つ。

 

「それじゃあ、行こうか」

 

 

 

 

 

 初めてこの目で見る秋茱萸は、思っていたよりもずっと弾力を持っていた。一センチもない小さな実は、この時期の落ち葉のように色付いている。

 

「へー、これが……」

 

 それは毎年ここにあったはずなのに、僕が知ることのなかったものだった。今は部屋の片隅で偶然見つけたビー玉のように、夕陽を受けて本来よりもなお赤く輝いている。

 

「ふふっ」

「な、なに?」

「いや、坂上がすごく珍しそうに眺めてるのがおかしくって」

 

 三ノ輪さんが楽しそうに笑う。頬が紅潮しているのはきっと夕陽のせいではなかった。

 

「こんな顔が見れたんだから、誘ってよかったよ」

「……うん」

 

 それは僕の言葉だった。

 こんなに楽しそうな三ノ輪さんの顔を見ることができたんだから、誘われてよかったと思う。

 

 僕はこの気持ちを知らなかった。

 

「ねぇ、三ノ輪さん」

「どうしたの?」

 

 三ノ輪さんはこの気持ちを知っているんだろうか?

 この感情は、僕の知っている語彙に存在して、僕がそれを経験として知らないだけなんだろうか? それとも、全く知らない未知の感情なんだろうか?

 

 どうして僕は、こんな気持ちになっているんだろうか?

 

「三ノ輪さんはどうしてあのとき……あの河原で会ったとき、声をかけてくれたの?」

 

 僕は脈絡もなく問いかけていた。

 

 それが知りたかったわけではなかったけれど、何故かそれを訊こうと思った。

 今、僕の胸の中に新しく書き込まれる感情を解決できる言葉が、これしか浮かんでこなかった。

 

 あの場面では、気付いても声をかけない人だって多いだろう。

 会話ができるほど近くでもなかった。三ノ輪さんは用事があるタイミングだったはずだった。声をかけない理由はあれど、かける理由は思いつかなかった。

 

「どうして?」

 

 三ノ輪さんは不思議そうな顔で少しだけ考えてから、「忘れちゃった」と呟いた。

 

「覚えてないの?」

「うん。でも、大した理由じゃないよ」

「そうなの?」

「多分ね。あのときも今も、そんなに変わらないと思う」

 

 三ノ輪さんの指が僕の顔に向いた。

 指からなぞるように三ノ輪さんの顔に視線を動かすと、楽しそうに僕のことを見る三ノ輪さんの顔が映る。

 

「坂上は多分気付いてないけど、本を読んでる坂上って、いつもと表情が違うからさ」

「え?」

 

 そんなの誰にも言われたことなかった。

 

「別に笑ってるっていうわけじゃないんだけど、なんていうか目が輝いてるっていうか。すごく楽しそうにいろんなものを見てるなって思ってたんだ」

「そうかな?」

「そうだよ。だって、アタシは教えてもらったから分かるよ。坂上の見てる世界を」

 

 僕達は夕焼けの方を見ていた。

 あの河原で見た夕焼けと同じくらい真っ赤で、風は冷たいけれど体は熱を抱えている。

 

「アタシは今がすごく楽しい。でも、坂上の見てる世界を知って、アタシの世界をもっと広がったよ」

 

 それは僕も同じだった。

 

 三ノ輪さんは僕がずっと欲しかったものを全てくれた。

 友達も居場所も夢も、僕だけでは絶対に手に入らなくて、だからこそ僕はこの抱えきれない感謝を伝えたいと思っている。

 

「だから、本当に大したことなかったんだ。坂上が楽しそうにしてるのが気になって、アタシは声をかけただけだからさ」

 

 大それた理由なんて必要ない。

 僕はずっと知らなかっただけで、人と人が繋がるのはそんな些細でなんでもない理由で充分で。ただそれだけで、こんなに変わることができるのだ。

 

「ほら、早く食べて帰らないと夜になっちゃう」

「そうだね」

 

 僕は意を決して夕陽を丸ごと口にした。

 

「ん!」

「おいしい?」

 

 美味しくはなかった。当然だが、食用として作られている果実の方がずっと甘美だっただろう。

 だけど、そういう問題ではなかった。

 

 僕はそれを飲み込んだ。

 

「これはなんていうか……」

 

 僕の中にあった『食べると渋味が残る』『ほんのり甘い』といった記述が、はっきりと五感で補完されていく。

 

 きっと普通なら二度は口にしない気がした。

 でも、僕は絶対に次もこれを食べる機会が訪れるだろうと確信していた。

 

「……忘れられない味だったよ」

 

 次も、その次も。

 またいつか秋茱萸を口にしたとき、この味が『三ノ輪さんと秋茱萸を食べた今日』を、五感で思い出させてくれるだろうと思った。

 

 

 

 

 

 昼休みになって、僕は本を持って図書室に向かっていた。

 ルーチンになったルートを通りながら階段を降りようとすると、正面から人が歩いて来るのに気が付いた。

 

 この階を使う学年で白い髪をした女子生徒を、僕は一人しか知らなかった。

 

「…………」

「…………」

 

 僕と山伏さんは、一瞬だけ互いに立ち止まって見つめ合った。

 

 それは道を譲る前の駆け引きみたいで。いや、実際そうだったのだと思う。話もしないのに一緒に行くのは居心地が悪くて、それは暗に一人でいるのが普通だと僕達が思っている証拠でもあった。

 

 このまま話をせずに図書室に行くこともできるのだろう。それはきっと今まで通りの日々で、何一つ変わらない今日を過ごすことになる。

 

 ──だけど、そんないつもの今日が、無性に嫌だと感じた。

 

「山伏、さん」

 

 彼女の名前を呼んだ。

 不自然なほどに声が震えているのが分かった。緊張しているのを自覚した。

 

 山伏さんは僕の方をじっと見て、少し首を傾げた。不思議そうな表情から察するに「どうして知っているのか」といったところだろうか?

 僕は慌てて本を見せた。

 

「山伏さん、よく図書室にいるでしょ? 僕もなんだ。司書さんとも話すから、山伏さんの名前を聞いてさ」

 

 我ながら言い訳がましい語り口だった。

 後から自己嫌悪に陥るのはなんとなく想像がついていた。でも、喋るのをやめようとは思わなかった。

 

「その……今から図書室に行くの?」

 

 首が縦に振られる。

 

「だったら、その、山伏さんさえ良ければなんだけど……」

 

 なんでもないことが、ここまで緊張することだとは思わなかった。

 断られることが怖くてなかなか上手く口が動かない。

 

「い、一緒に、行かない? 図書室」

 

 何度思い返しても酷かっただろうし、自覚がある分、山伏さんからすればもっと酷く見えていることだろう。

 それでも僕は、三ノ輪さんみたいになりたくて、ああいう風に変わりたかった。

 

 山伏さんがその意味を理解して返事をするのに、多分そう時間はかかっていなかった。

 でも、普通なら一瞬で過ぎるような時間が、この時だけはページが進まない本みたいに永遠に感じられた。

 

 山伏さんは僕の言葉を理解すると、ゆっくりと首を縦に振った。

 

「そっか」

 

 止まっていた呼吸が再開すると同時に、安堵の言葉が漏れた。

 

「じゃあ、行こうか」

 

 また頷かれ、僕達は並んで階段に足をかけた。

 ペースを山伏さんに合わせながら、道中での話題を探す。

 

「山伏さんっていつもどんな本読んでるの?」

「…………」

 

 山伏さんが黙り込んだところで、僕は少しだけ後悔した。

 彼女はこれまで一言も喋っていなくて、僕は答えにくい問いを投げてしまったのかもしれないと思った。

 

「あ、えっと、もし答えにくかったら──」

「──小説」

「え?」

「……小説を。読む」

 

 初めて聞いた山伏さんの声は、ラミネート加工された栞みたいに薄くて滑らかだった。取りこぼしたことに気付かないかもしれないと思うくらいに、儚くて可愛らしい。

 

「どんな小説? 種類に好みはあるの?」

 

 首が横に振られる。雑食らしい。

 

「そうなんだ? じゃあ、どうやって選んでるの? 直感派?」

 

 僕達の会話は、会話の体をなしていたのか分からない。ほとんどは僕が口を動かして、山伏さんにはイエスノーで答えられる質問ばかりを投げかけていた。

 それでは答えきれない場合にだけ、言葉で返事が来た。

 

 いつもより少しだけゆっくりとした足取りで、でもきっと会話と呼ぶには短すぎる時間。

 僕達は本当に当たり障りはない、普通の話をした。

 

「こんにちは」

「いらっしゃい、坂上君。……あれ?」

 

 図書室に入って挨拶をすると、司書さんが僕と山伏さんのことを見比べた。

 

「一緒に来たの?」

 

 山伏さんが頷く。

 

「そうなんだ」

 

 司書さんは嬉しそうにそれだけを口にした。

 

「坂上君はそれの返却?」

「はい、お願いします」

 

 カウンターに向かおうというと踏み出したところで、僕は山伏さんの方を見た。

 

「あのさ」

 

 こういうことを口にするのは本当に勇気のいることだと思った。

 

()()、声をかけても、いいかな?」

 

 それはあの河原で、初めて三ノ輪さんと話した時に三ノ輪さんが言ってくれた言葉だ。

 結局のところ僕は僕自身の力で頑張れるほど変われているわけではなくて、三ノ輪さんの真似をしているに過ぎなかった。

 

「…………うん」

 

 山伏さんは、戸惑うように視線をさまよわせてから、小さく言葉で返してくれた。

 僕は、嬉しくて「ありがとう」と返した。

 

 まだ次がある。今日これっきりではなくて、また次がある。

 変わるための昨日を積み重ねて、変わりたいと思った今日があって。

 

「またね」

 

 変わった明日が待っている。

 

 僕が受付カウンターの方に振り返ると、山伏さんが「また」と呟いた。

 

「またね。……坂上」

「あ」

 

 そこで僕は自己紹介を忘れていたことに気付いた。やっぱり三ノ輪さんみたいに完璧にはできなかった。

 

「……うん」

 

 でも、今日はそれで充分だと思えた。

*1
「第四歌 みちのべに」参照




章分けはしないですが、一章二節の始まりの話です。変わっていく話から、変わるための話になります。

山伏さんは徳島から移った時期が分からないので、一応ずっと神樹館にいる設定にしました。わっしーの転入時期も含め、何か資料があったら教えてください。既出の情報は変えませんが、今後の修正はすると思います。


次は11月の上旬になるといいかなと思います。

P.S.
前話で書き忘れてましたが、薬剤師ではない人が薬を自作して他人に挙げるのは薬事法に違反しますのでマネしないでください。自分に処方された薬を他人にあげるのもまずいです。
前話で作成した芍薬甘草湯は市販薬の第2類医薬品に分類されます。
坂上君の場合は薬剤師()が作り、管理している。坂上君は銀の代わりに用意した。みたいな言い訳はありますが、黒よりのグレーというか、黒じゃないかなぁと思っています。たぶん。
薬の自作は危ないです。
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