ガタン、ゴトン、とリズミカルに揺れる車窓から、わたくしは行く先の空を覆う入道雲をぼんやりと眺めておりました。
天気を調べておけばよかったかもしれない、新幹線を使えばよかったかもしれない、そのような些末な事で気を紛らせておりました。
今のわたくしに、先を見る資格など、ありませぬからー……
「おや、芳乃かい」
ただいまの一言を発したわけでも、ましてや連絡していたわけでも無いのに、嗄れた声は驚く様子もなく芳乃を迎え入れた。
「はいー。只今、戻りましたー」
「雨の中よく帰って来たねぇ。どうだい、向こうの暮らしは」
「難しき事も多くありますが、慣れると中々良きものでしてー」
かっかっか、と心底愉快そうに笑いながら茶を運んできた部屋の主は、その湯吞みと同じく全く変わる気配が無かった。ドラマの撮影の前に帰った時と比べても、家の様子まで含めて何かが変わった様子は全くと言っていいほど無いようだ。強いて言うなら、その時に土産にした手拭いが台所にかけられているくらいだろうか。
「ばば様も元気なようで安心したのでしてー」
「アタシんこたぁ気にせんでええんよ。それより偶像家業の方はどうなんだい?」
「上々でしてー。毎日楽しくやらせていただいておりますー。これは土産でしてー」
ばば様はいつもアイドルの事を偶像と呼ぶ。何故だかは知らないが、あながち外れているとは思わなかった。
「それで芳乃や、連絡もせんと急に帰って、何かあったのかい?」
すっと目を細め、声音だけは優しいまま、そう問う。流れを崩す時は勝負時、鋭く核心を突くように。芳乃は薙の稽古でそう教わったことを思い出した。
「やはり隠し事をしても、すぐにばれてしまいますねー」
「そうだろう、万年早いさ。さ、怒らないから話して御覧」
昔からばば様がこう言う時は、全部見透かされていた。それこそアイドルになると言ったときも。
きっと全て知った上で、最後の一歩を敢えて委ねているのだ。それに気づいていることも、きっと知っているのだろう。
「わたくしはー、世の為に用いるべき力を、自らの為に使ってしまいましたー…」
ばば様は何も言わず、ゆっくりと茶を啜った。詳しく話せ、という事らしい。
「わたくしは、世界を三度、書き換えてしまいました」
一度目は叶わぬ夢から目を逸らす為――いえ、そう言うのも烏滸がましい――ただ、彼女なら気付いてくれるかもしれない、そう思い、姿を消してみた。
願い通り、彼女は私のもとへ辿り着いてくれた。罪の意識なんて忘れてしまうくらい、嬉しかった。
二度目は、告白のつもりだった。思い通りにしたのは自分の癖に被害者の装いをして、身を委ねるのを待っていた。
けれど、彼女の口から出たのは、受容ではなく謝罪だった。
嘘を総て信じてくれた真っ直ぐな彼女は、思惑とは丸っきり外れた本心を打ち明けてくれた。
ごめんなさい、ごめんなさいと嗚咽を漏らす彼女に、胸をつかれる思いで。
でも、最初に抱いた感情は贖罪ではなく、恐怖だった。
彼女の嫉妬心が見えたから、苦しまないように消えたのに。嘘だ。
彼女が苦しまないために、最高の舞台を用意したのに。嘘だ。
彼女の為だと言い訳して、何度もずるをしたのに。これだけが、真実だ。
私は、この後、どうすればいいのだろう。
私の作った世界で、私を導いてくれる人間なんていやしない。自業自得、泣くな、私の穢らわしいそれは、彼女のそれとは違う。
三度目。私は終に、言い訳の余地は一遍も無くただ私だけの為に、書き換えを行ってしまった。
総てを無かったことに。そう望みたかったが、流れた時だけはもう動いてはくれない。
泣き疲れて眠る彼女を眺めながら、何度も悔いた。取り返しのつかないことをしたのは、私だけだ。
本当に綺麗さっぱり消え去ってしまおうかと、何度も考えた。けれど、手放せなかった。
私のしたことに収拾を付ける、そんな言い訳が出来てしまった。
これは成果ではない。けれど、出来損ないと棄てることは出来ない。
目を覚ましても素直なままの彼女に嘘を重ね、反則の完全犯罪を成立させた。
文字通りの”人工物”は、無機ながらに腹立たしいほど上出来で。
これ以上の手間をかけることなく、何の変質も無いまま回り続けている。
これが正解だったかのように、神隠しの魔法は解けてしまった。それが、堪らなく憎かった。
「‥‥芳乃や」
堰を切ったように内を吐き出す芳乃に、優しい声音は投げかける。
「あたしにゃもうお前の行動を無かったことには出来ないよ。ただ、どうしてもと言うのなら、その神通力をすべて消し去ってやってもいい」
当然の報いだ、そう思った芳乃は逡巡の間もなく是非そうしてくださいと請願しようとしたが、ばば様に継がれた言葉は、芳乃の思っていたよりも残酷だった。
「ただし、あたしゃそれを誠実とは思わんがね。散々好きにしておいて資格が無かったなんてのは子供のすることさ」
静かな怒気に、空気が震える。図星だった。
許されたかっただけだった。自分を罰することの出来る存在に赦免の証を頂戴したい、本当にそれだけだった。
何一つ言えないまま、どのくらい時間が経ってしまったのだろうか。静寂に飽いたのか、よっこらせ、と普段より大きな声でばば様は立ち上がる。
曲がった腰に手を当てながら、ゆっくりと芳乃の目の前まで来る。その皺々の手で、芳乃の頭を撫でた。
「――人の子であるお前に大仰な役目を与えちまったことは、あたしも反省してはいるさ。後悔は無いがね」
「どうして――ですか―?」
そう聞かざるを得なかった。許されるわけのない間違いを冒してしまった、その筈なのに。
「すぐに気付くさ。お前は一番に大事なことを、やり残しておるからのう。修行よりもお勤めよりも、な」
「大事なことー、ですかー」
「ああ。お前は何を守る為にそうしたのかを思い出しな」
わたくしは―――何を――。
「あたしゃね、今はお前を守りたいよ。偶像でも、拝み屋でもない、我儘な人の子をな」
はっと顔を上げた芳乃の視界には、にぃと微笑むばば様の顔。
「お前は昔っから、頑固じゃが物分かりの悪い阿呆ではなかったからの。お前のやるべきだったことはわかったかの?」
「はいー。わたくしは、依田は芳乃――あいどるをさせて頂いております、拝み屋にございますー」
かっかっか、頑固だね。今はそれで十分さ。そんじゃあ、今日も平和を、頼んだよ。
気が付くと、芳乃はいつもの事務所の前に立っていた。
事務所の鍵は閉まったままだ。どうしてしまったのだろうと考えたところで、腕時計に気が付く。針は早朝を指していた。道理で誰も居ないわけだ。
トットットッ、とリズミカルな足音。その主は、振り向かずともわかっていた。
「おはようございますー、悠貴さんー」
「あっ、おはようございますっ! 朝早くに、何かあったんですかっ?」
「はいー。悠貴さんに、言わねばならないことがありましてー。少し、時間を頂いてもよろしいでしょうかー?」
「はいっ、大丈夫ですよっ!」
「ありがとうございますー。実は、わたくしは悠貴さんに――――」
嫌われる、怖がられる、そんな恐れは、不思議と湧いてこなかった。