体を苛むのは、付けられた傷の痛み。
一日一度の食事は、固いパンと薄いスープだけで必要なエネルギーを摂取出来ているとはとても言えない。これは人質である自分に余計な行動を起こしたり、余計な事を考えたりする体力・気力を付けさせない為の処置であると子供の頭でも分かった。
エアコンなど当然付いていない部屋は、昼は暑くて夜は寒い。毛布など与えられる訳もなく、それもまた自分を削っていくのがはっきりと分かる。
もう、この部屋に入れられてから何日が過ぎたのか、判然とはしない。
固く閉ざされたたった一つの入り口は、何十時間も開いてはいない。
「ハツメ……ハツメ……ハツメ……」
思考が既に、正常には働いていないのが自分でも分かった。
頭の中は霞が掛かったようで、ずっとはっきりしていない。
体を起こす力すら無くなって、ぼんやりと扉だけを見ていた。
そんな時間が何日も、あるいは一週間も続いたのかも知れない。それは、唐突に終わりを告げた。
「な、何だお前は!?」
「ぎゃあっ!!」
「おい、止まれ!! うわっ!!」
「?」
扉の向こうから何色もの悲鳴や怒号、それに争う物音が聞こえてきて、しかし数十秒でそれは静かになった。
カチャカチャ……
鍵を開ける音がする。
「……」
後ろ手に縛られているから殴り掛かる事は出来ない。ならばドアが開いた瞬間に体当たりをかまして、向こう側にいるヤツが怯んだ隙にここから逃げようとして……
しかし、満足な食事も与えられず劣悪な環境で放置され、しかも気まぐれに振るわれる暴力によって体力を削ぎ落とされていた悲しさ。体は思うように動いてくれず、床でもがいている間に扉は開ききって、部屋に人が入ってくる。
「……良かった。無事……とは、言い難いけど。生きていますね」
安心しきったような声が、頭の上から降ってくる。
「……」
右目は殴られ腫れ上がって塞がっているので、左目を使ってこの人間を観察する。
自分よりはずっと年上だろうがそれでも成人はしていないだろう、十代半ばぐらいの少女だ。
さらりとして、それ自体が光を帯びているように艶やかな金砂の髪が腰まで伸びている。この国ではあまり浸透していない宗教のシスター服に身を包んでいて、胸元には十字架がぶら下げられていた。
顔立ちも整っていて、今迄自分が見てきたどんな女性よりも綺麗だと思った。額にはビンディーが付けられている。その両目は、眠っているように閉じられていた。
そっと手が伸ばされて、思わず体を竦ませてしまう。
目を閉じたままなのに、この少女はぴたりと動きを止めた。
「大丈夫、怖がらないで。あなたを助けに来ました」
「……」
今度は止まらずに両手が差し出されて、優しい手付きで抱き上げられる。
敵意は感じない。罠か、騙しているのかとも思ったが、すぐにそんな必要など無いだろうと考え直した。
信じられないけど、この人は本当に自分を助けに来てくれたのだと分かった。
安心して、とろんと瞼が重くなって眠ってしまいそうになる。でも、その誘惑に抗って目を開ける。眠りに落ちる前に、伝えなければいけない事があった。
「お願い。もう一人助けて。友達なんだ」
「……」
女の人は、少し困ったように間を置いて、首を振った。
「……残っていたのは、あなた一人でした。多分、買われたのか身代金を払って解放されたのか……」
「そんな……」
「……兎に角、まずはあなたの事ですね。傷も酷いし衰弱も著しい。今は、眠りなさい。お友達を探すのは、その後でも遅くはないでしょう」
「……あなた、は……誰……」
「私はすざ……いえ、鳳凰。鳳凰と、そう呼んでください」
「ごめんなさい、少しよろしいですか?」
「ん?」
政令指定都市・空崎市。
この日、いつも通り駅前で弾き語ろうとお気に入りの場所へと足を進めていた八千代命は、不意に後ろからの声に足を止めた。
振り返って見るとそこに立っていたのは、二十代半ばくらいの女性だった。
艶やかできめ細やかな金髪は膝裏まで伸びていて、180センチは軽く越えるすらりとした長身を、シスター服に包んでいる。
端正な顔立ちで額にはビンディーを付けていて、両眼は閉じられていた。
「どうしたんです、お姉さん?」
「申し訳ありませんが空崎グランドホテルへは、どう行けば良いかご存じですか? 私、この通り目が不自由なもので……」
「あ……」
この女性の目は閉じているのではなく閉ざされているのだと分かって、命は少し姿勢を正した。
「あぁ、それなら……ん……言葉で説明するのも面倒だし、連れてってあげますよ。さ、こっちへ……あれ?」
女性の右手を取ろうとして、左手にはバイオリンのケースが握られているのに気付いた。
「どうかされましたか?」
「いえ、お姉さんも音楽をするんですか?」
「そう言うあなたも、ですね。ギターを持ってる」
確信のある口調でそう返されて、命は穏やかな驚きを見せる。
「え、何で……」
「何で見えてないのに分かったか、ですか?」
「う、うん……」
「匂いですよ。ギターに使われる木材の匂いと、革製のケースの匂いがしますからね」
「はぁ……」
少し驚いたが、自分達の新しい仲間も鼻や舌が鋭いのがストロングポイントだし、そんな人も居るだろうと思い直す。五感のどれか一つが衰えると他が鋭くなるって話も聞いた事があるし。
と、ここで、命の頭に一つのアイディアがよぎった。
「お姉さん、時間に余裕はありますか?」
「うん?」
「これから駅へ弾き語りに行くんですけど、どうです? 同じ音楽をやってる仲間として、デュオでもやってみませんか?」
「……」
その女性は少しぽかんとした顔になったが、すぐにふっと微笑を見せた。
「そうですね。中々こんな機会も無いですし。ご迷惑でなければ」
結論として、この臨時のユニット結成は大成功だった。
女性が奏でるバイオリンの妙なる響きは、初めて合わせるにも関わらず、完全に命のギターにぴったりとくっついてきて、普段よりも音をずっと良くしてくれた。
ギャラリーも、いつもの倍か3倍は集まったようだった。
曲が終わって、常よりもずっと大きな拍手が巻き起こる。
「どうもどうも~、今日はありがと~」
命はいつも通り気さくに挨拶して。
「……」
女性は一流のバイオリニストの様に、堂に入った風に優雅に一礼してみせた。
数分して客が解散すると、命は女性に駆け寄ってその手を取った。
「すっごいですね、お姉さん!! もしかしてプロの人だったりしますか?」
「……いえ……これはあくまで趣味ですよ」
「そうなんだ。でも凄い良かったですよ!!」
興奮冷めやらぬといった様子で、命はおひねりを集めながら撤収の準備を進めていく。
「ところで、命さん」
「はい?」
「この子を、見た覚えはありますか? 私、この子を探しているのです」
「んん?」
差し出された写真を覗き込んで……
「!」
この女性は盲目だから驚いた所で見られる心配は無いが、しかし命は普段の習慣からポーカーフェイスを保って、心の動きが顔に出るのを防いだ。
「…………」
写っていたのは、十歳ぐらいのやんちゃそうな中国系の少女だった。命にとってはつい先日から、見知った顔である。
「命さん?」
「いやぁ、すいません。見覚えは無いですね」
「…………………………………………ふぅん……そう……ですか」
女性はそう言って、写真を懐に仕舞った。
「今日は楽しかったですよ、命さん」
「命も楽しかったよ、それでお姉さん。お姉さんのお陰で沢山お金も入ったし、良かったらこの後食事でもどう? 奢るからさ」
「……そうですね、少しお腹も空いてきましたし、ではお言葉に甘える事にします」
「よしっ、決まりだね」
命はそう言って、女性の手を取る。
相手が盲目なのを考慮に入れてぐいぐい引っ張るのではなく、ぶつかったりしないよう丁寧に注意深く、エスコートしていく。
と、そうした所で命は一つの事に気付いた。
「そう言えば、まだ自己紹介してなかったよね。命は八千代命、お姉さんは?」
「……凰(ファン)。私は、ファンです」