「釣れませんね、師匠」
「まぁまぁ、すぐには掛かりませんよ。考え事でもしながら、のんびり待ちましょう」
空崎市某所。
この日、鳳凰とテレジアは堤防沿いの川に釣り糸を垂らしていた。
鳳凰がこの町にやって来た目的は、桃源上層部の追放処分を撤回させて白虎を連れ戻す為である。ただし以前に雪が推測した通り特権を有する彼女をして、全くの無条件でワガママを叶えてもらうという訳には行かない。白虎を四聖獣の称号剥奪ぐらいの処分で済ませて再び桃源の一員とするには、それなりの対価が必要となる。
この場合、最も分かり易いのは白虎が果たせなかったツキカゲ打倒の任務を、代わりに鳳凰が果たすというものだ。彼女自身もそのつもりだった。
しかしその前に、まずは白虎の所在を確かめるのが先決。
クライアントであるモウリョウからの報告では、白虎はツキカゲに敗北し、その後は行方不明とあった。
最初は戦闘の結果ツキカゲに消されたのかと思ったが、それには少し違和感があった。
以前に同じく桃源の傭兵にして四聖獣の一角である青竜がツキカゲと交戦し、敗北した事があった。その際には青竜自身も、彼女直轄の部下である竜軍団も無力化された後で警察に引き渡された。
勿論、それなりの尋問は行われたのであろうがツキカゲ達は倒した相手の命までは奪おうとはしなかった。
今回の白虎は、敗北した後の足取りが一切不明。死体も見付かっていないし、警察やどこかの組織に引き渡されたという情報も無い。
ならばツキカゲに拘束されている? だが何の為に?
尋問で情報を引き出そうにも、余り長く手元に置いているのはかえってツキカゲ側にも都合が悪い筈だ。
じゃあ何故、白虎は解放されない? それとも、モウリョウが何かをした?
全て推測でしかないが、傭兵のカンで何か腑に落ちないものを感じた鳳凰は手始めにモウリョウの末端組織を襲撃して、改竄されていない情報を手に入れようとした。これまでの襲撃はその為のものである。証拠は何一つ残していないし、元々モウリョウは非合法の闇組織。潰された所で文句は言えない。
しかし所詮は末端か、手に入った情報で見るべきものは多くなかった。精々が、エモ・パチーノのアジトから手に入れたデータで白虎と同時期にもう一人、名の通った傭兵のドルテという女が雇われた事ぐらいだが……
こうして調査が煮詰まってきたので、一度気分転換にと鳳凰はテレジアを連れて釣りに出たのだ。
「……」
テレジアは、隣に座る師の横顔を、じっと見詰めた。
二人の出会いは、もう十年も前に遡る。
当時のテレジアは、人身売買組織に囚われていた。
来る日も来る日も死なない程度に痛めつけられ、苦痛だけしかないような、いつ終わるかも知れない日々。
だがそんな時間は、唐突に終わりを告げる。
何の前触れも無く現れた鳳凰が、たった一人で組織を潰して、彼女を助けてくれたのだ。
鳳凰はテレジアを、別の町の設備が整った病院に入院させてくれた。
適切な治療を受けて二週間も経つと、テレジアは怪我もすっかり治って元気になった。
それを確かめた鳳凰は、テレジアに親元に帰るように言った。
テレジアはその時、首を横に振った。
彼女にとって親とは、自分を金儲けの為の道具か、さもなければ憂さ晴らしの為のサンドバッグとしてしか見ていない男を指す言葉であったからだ。
「……では、信頼出来る学校にあなたを預けます。そこでなら友達も出来るでしょう。これからは盗みなどせず、真っ当に……」
「いやだ」
「……」
「親なんか要らない。友達なんか要らない」
親とは、憎しみの対象でしかない。友達だと思っていた女は、私を見捨てて自分だけ助かった。
「私を助けてくれたのはあなた。私には、それだけが本当の事だから。だから」
「……」
鳳凰はその時、何も言わなかったがその先に続くテレジアの言葉が容易に分かった。
だから、私を捨てないで。
「……では、テレジア。一つだけ、心して答えなさい」
さっきよりもずっと真剣な声色になって、鳳凰は問うた。テレジアも察して、真剣に答える姿勢を見せた。
「理解しているかどうかは分かりませんが、私が生きているのは生きるか死ぬかの世界です。明日にもあなたは死ぬかも知れないし、それは私も同じ。私のこの目も、戦場で失いました。私に付いてくるという事は、そういう事。それでもあなたは私と来るのですか?」
テレジアはその問いに、是と答えた。
「他には、何も要らない。他のものは全て無くして、捨ててしまったから。だから私は、あなたに付いて行きます」
「……分かりました。ならばテレジア、せめてあなたがこんな世界でも、強く生きていく事が出来るように。私の全てを、あなたに授けます。これよりは、私があなたの師となる。師匠と呼ぶように」
「はい、師匠」
こうしてテレジアは鳳凰に連れられて桃源に入り、そこで修行が始まった。
「まずはテレジア、最初の修行に入ります」
「はい、師匠」
道場で正座して、真新しい稽古着に身を包んだテレジアは緊張して応じた。
「と、言っても今日は何もしなくて良いです。修行は明日の夜明けから行うので、あなたは私より先に来て準備を整えておくように」
鳳凰はそう言ってこの日は道場から出て行ってしまった。
次の日、テレジアは夜明けと共に道場に入る。するとそこには、鳳凰が正座して待っていた。
「あ、あの……師匠……」
途端にしどろもどろになって弁解しようとするテレジア。鳳凰は怒るでもなく、
「テレジア、私はあなたに、私より早く来るように言いました。しかしあなたは遅れてきました。明日、出直してきなさい」
そう静かに言い捨てて、その日は道場を出て行った。
次の日、テレジアは朝の5時に道場入りした。果たして、鳳凰は昨日と同じように正座して待っていた。
「……テレジア、私は今まで、あなたのような不精者には会った事がありません。明日、出直してくるように。これが最後ですよ」
昨日と同じように怒りも何も感じさせない穏やかさでそう言うと、鳳凰は道場から退出した。
この言葉を受けて、テレジアは背筋がぞっと寒くなった。
出来なければ、捨てられる。他には何も無い自分が、その最後の縋るものさえ無くなってしまう。それは、何より恐ろしい。
次の日、テレジアはまだ日が変わる前から道場に入った。流石にこの日はまだ、鳳凰の姿は無かった。ほっと、胸を撫で下ろす。
そして待つ事3時間。
すうっと道場の戸が開いて、鳳凰が入ってきた。
顔には、微笑が浮かんでいる。
「うん、私より先に来ましたね」
「はい、師匠」
鳳凰は頷いたテレジアの頭を、わしゃわしゃと撫でた。
「し、師匠?」
「よくできました。物事というのはこれぐらい周到に取りかからなくてはなりません。殊に、私達の生きるこの世界ではね。周到に準備する事で、少しでも生き延びる可能性を高くする事が出来ます。これが私からの最初のレッスンですよテレジア。覚えておくように。3回目でこれに気付ける辺り、あなたは素晴らしい弟子です。誇りに思いますよ」
「……はい、師匠」
誰かに褒められた事など、もうずっと記憶に無かった。この時のぬくもり、暖かさを、テレジアは今も忘れない。
次の日、テレジアの前には数学や英語など、様々な本が並べられた。
「し、師匠……これは?」
「見て分かりませんかテレジア。本です。教科書」
「い、いえ教科書は分かるんですが……何故こんなものが?」
「何故も何も、勉強するのですよ」
流石に誰が、とは聞かなかったが、
「どうして?」
とは、尋ねた。
「……まさかテレジア、あなた桃源が傭兵組織だからと言って、格闘技や射撃の訓練ばかりさせられると思っていたのではないでしょうね?」
「……」
テレジアは答えなかったが、鳳凰は心音を聞き取ってイエスノー程度の読心術は出来る。すぐに「図星ですか」と呆れたように溜息を吐いた。
「上の者は未だに傭兵は腕っ節さえ立てば良いと考えていますが……そんなのではこの先通用しなくなります。これからの傭兵は強い事は優秀か否か以前の前提条件で、そこから何が出来るかこそが問われるようになりますよ。物資の調達とか兵站ラインの構築、新兵の訓練などですね。バカではとても務まりません」
「はあ……」
「加えて、例えば仕事で外国に行ったとして、現地の通訳は敵のスパイの可能性がありますからね。ある程度の外国語は覚えなければなりません。ちなみに私は14カ国語が話せます」
「……」
「それともう一つには、傭兵は潰しが利きません。テレジア、あなたが傭兵として生きようとしても、戦傷や病気で、それが出来なくなるケースも十分有り得ます」
鳳凰はそう言って、閉ざされた自分の目をつついた。
「この目だって、普通なら失明した時点ですぐ現役引退、その後はリハビリや盲目で生活する為の訓練などをしなければなりません。この私だからそういったもの一切無しで、すぐに現役続行出来ているのです」
「でも師匠、私は」
「……テレジア、私は自分にはどんな分野で世界中の誰と競争しても勝てるだけの才能があると自負していますが、その私ですら、一生ものの傷を負う事は往々にしてあるのです。ましてあなたを含む私以外の人間には、そうした事態が十分以上の確率で有り得るのです。そうなった時に、戦う事だけしか知らない人間が世の中に放り出されて、どうやって生きていくのですか? 言っておきますが、桃源は任務を遂行出来ない者、任務に就けなくなった者は容赦なく見捨てますよ?」
弟子の抗議を遮って、脅すような響きの言葉が師の口から語られる。
「……それにこの先、実戦を経験して怖くなって、もう傭兵を辞めたいと思う事だって有り得ると、私は考えています。それを否定する気はありません。そうなって、桃源を出た者を私は何人も見送ってきましたから。テレジア、そうなっても生きていける知識や学も、私はあなたに授けたいと思っているのですよ」
「……はい、師匠」
最初は自分の決意を軽く見られているのかと思ったが、不思議と怒りや侮辱された気持ちは湧いてこなかった。
この人は本当に自分の事を想ってそうしてくれているのだと、テレジアには分かった。
師として、鳳凰はテレジアをあらゆる所に連れて行った。
二人は、その中でずっと生死を共にした。
多くの危険を味わって、神と世界に何度も絶望して。
人がどれだけ醜く、残酷になれるのかを思い知った。
人の良心が、どれだけ弱くどれだけ脆いかを思い知らされた。
だがその中で自分が歪む事なく在れたのは、鳳凰が傍に居てくれたからだろうとテレジアは思う。自分の半分以上が、鳳凰のものであるとも。
魂は鳳凰によって鋳造された。
業は鳳凰から伝えられた。
体は鳳凰によって鍛えられた。
時々思う事がある。もし、この人に会わなかったら、自分はどうなっていただろうと。
どこかの売春宿に売り飛ばされるか、それとも鉄砲玉に仕立て上げられるか。
漠然としたイメージは浮かぶが、だが決まって答えは出ない。この人が居ない事など、もう想像出来ないから。
「……師匠……」
テレジアが何か言い掛けた、その時だった。
「む」
鳳凰が持っていた竿が、びくりと動いた。
「来た。来ましたよテレジア」
リールを巻いて竿を持ち上げる。ロッドが、いきなり折れそうな程にしなった。勢いによって、鳳凰の体が川に引き込まれそうになる。
「お、大きいですよ師匠!! 慎重に!!」
興奮したテレジアが、鳳凰の体をがっしりと掴んで固定した。
「師匠、ファイト!!」
「一発!!」
思い切り、釣り竿を引き抜く。
ざばあっ!!
水柱が立って……
「「…………」」
霧雨のような水飛沫を浴びつつ、鳳凰とテレジアは絶句する。
釣り針が引っ掛けていたのは、魚ではなく人間だった。
「なっ……」
「何ですか? これは……?」
赤いドレスを着た、全身筋肉の塊のような女が川の中から吊り上がったのだ。