フォフォイのフォイ 作:Dacla
ドラコ・マルフォイというキャラクターになった夢が始まって、体感時間で一ヶ月が過ぎた。
その間、一度も俺自身の肉体で目を覚ますことはなかった。こうなるともはや自覚した邯鄲の夢だ。
一月の間にあった変化といえば、ナルシッサを夢の中での母親として見ることに抵抗がなくなったこと。そして父親のルシウスから逃げ回るのが上手くなったくらいだ。
俺の正体に勘付いている彼をどうやったら誤魔化せるか、いい案が浮かばない。魔法が使えるようになったら、掌を返して「さすが我が息子」と言い出しそうだが、日々の練習の成果は出ていない。
もし原作のようにヴォルデモート派の復権があったら、と考えると更に気が重くなる。魔法の使えない俺はいびられた揚げ句、自殺に追い込まれるかも知れない。それならむしろ今の内に「おまえなんか息子じゃない」とマルフォイ家から追い出されたほうが、平和な夢人生を送れそうだ。
そんな漠然とした不安を抱えつつ、夏を迎えた。
家庭教師の授業も休みに入り、マルフォイ家の三人は湖水地方に飛んだ。
俺も魔法での長距離移動を初めて体験した。
移動に使われたのは、原作でも登場した複合魔法だ。出発地点から姿を消す「姿晦まし」と、目的地点に到着する「姿現し」。二種類の魔法を組み合わせることから察するに、歪曲させた高次元空間なり亜空間なりを通るワープの一種だろう。
内臓が裏返るような素敵な余韻を味わいながら、俺はそう分析した。一時間連続でジェットコースターに乗り続けるよりも辛い跳躍だった。
お陰で目的地の地面を踏んだ途端、強烈な乗り物酔いに立っていられず、その場に蹲って胃の中の物を全て吐いてしまった。
頭上で両親が会話を交わしている。
「まったく、やわな奴だ。酔い止めは飲ませなかったのか」
「飲ませましたわ。昨夜寝るのが遅かったのかしら」
「立て。ここにいるとマグルの目に触れる」
父親は俺の腕を取って、強引に立たせた。
ワープ、もとい移動魔法の出口は藪に覆われた木立の中だったが、木立の向こうに人影がちらほら見えた。湖水地方は夏向きの観光地だ。人目が多いのは仕方ない。
俺は母上に手を引かれて、朽ち果てた二本の枯れ木の間を抜けた。
するとたちまち視界が開け、湖を背にした館が現れた。周囲の景色を邪魔しない、こじんまりした建物だった。
後ろを振り返ると、二本の枯れ木があったはずの開けた場所に、一対の門柱が立っているだけだった。藪も木立も遙かに遠い。観光客の姿は木立の更に向こうに遠のき、ほとんど見えなかった。
俺たちは一般人には意識もできず侵入もできない、ある種の結界の中に入っていた。ちなみにマルフォイ邸も同じ種類の魔法で外界から守られているので、ドラコとしては驚かない。
玄関のノッカーに触れるより早く、館から年配の男女が出てきた。二人とも俺たちと同じようなローブを着ていて、魔法界に属していることが分かる。
「皆様ようこそお越し下さいました。マルフォイ様、そしてナルシッサお嬢様!」
女性のほうがルシウスへの挨拶もおざなりに、その妻の両手を握り包んだ。
「遠いところをよくお運び頂きました。この館に本家の方を再びお迎えできるとは光栄でございます」
「お嬢様は止して。私はもう嫁いだ人間よ」
と、母上は微笑んだ。
元々この館は、彼女の実家であるブラック家の別荘だった。それが遠縁にあたる夫婦に払い下げられたのだという。
ブラック家はイギリス魔法界で名を知られた旧家だった。しかし本家筋で世間と付き合いがある者は、今はもうナルシッサしか残っていない。そのため他家に嫁いだにも関わらず、ブラック家ゆかりの貴婦人として招かれる機会が多い。つまりこの湖畔の館に住む夫婦にとって主賓はナルシッサであり、ルシウスとドラコはそのおまけに過ぎない。
館に通されると、大きく取られた窓から湖が間近に見えた。
「結構な景色だ」と、父親が感心したような声を上げた。その割に目は冷ややかで、態度も淡泊だった。
館の主人は客の世辞にもニコニコ笑い、その立地を自慢した。
「そうでしょう。毎日見ていても飽きませんよ。マグルもこの湖には近づけないので、静かなものです。ニジマスもいましてね。釣りをされるなら道具をお貸ししましょう」
「なるほど。気が向いたらそうさせてもらおう」
全くその気はなさそうだった。
俺は主人に話しかけた。
「湖では泳げますか? 水着を持ってきたのですが」
「ドラコくんは泳げるんですか」
「教えた覚えはないが」と、父親の素っ気ない声。「水着など持っていたのか」
「綺麗な湖の近くに滞在すると聞いて、この前母上に買って頂きました。泳ぎを教わった覚えはぼくもありませんが、何とかなるでしょう」
薄灰色の目が俺を見下ろした。「吐いたばかりなのだから、今日は止めておけ」
そんな忠告が小学生男子に通用するかよ。
ティータイムの後、さっそく水着に着替えた。湖までは徒歩二十秒。
水に触れた途端、硬質な冷たさに心臓と玉が縮む。だが、こちとら小中学生の頃は川で泳いでいた海なし県育ち。冷水には耐性がある。すぐに慣れた。
ドラコの体は確かに泳ぎを知らなかったが、俺の意識で強引に動かしているうちに、ぎこちなさは消えた。途中、岸辺に現れたドラコの両親に手を振る程度の余裕はあった。
テニスコート四面ほどの湖を独り占めして泳ぎ回る。仰向けになれば、薄曇りの空が視界一杯に広がった。午後の太陽は雲の陰だ。
しばらくして水から上がると、父親がデッキチェアを持ち出して新聞を読んでいた。
「もう終わりか」と紙面から目を上げずに彼は言った。
「一休みです。母上は?」
「ここの夫婦と一緒に散歩をしている」
子供が一人で泳いでいるのだから、大人が見守るのは自然なことだ。しかしルシウスと二人きりにされるのは、俺としては避けたい。突然豹変して「息子を返せ」と首を絞められたらかなわない。
休憩もそこそこに切り上げて、桟橋から助走を付けて飛び込んだ。
泳いでいると、不意に右足に激痛が走って硬直した。痛みを堪えながら岸辺に戻ろうとしたら、今度は左足まで攣った。
――あ、やばい。
動かない両足が鉄の枷となって体を水中に沈めにかかる。冷静に力を抜いて浮こうとしても、鼻から水が入って体のほうがパニックになった。足を着こうにも底は深くて届かない。両腕で水面を叩き、もがく。俺の周りだけ湖が荒れ狂う。開いた口から湖が流れ込んでくる。湖に飲まれる。
溺れ死ぬ夢なんて見たくはなかった!
不意に腕を掴まれた。それを引っ張られたかと思うと、胴回りを何かに締め付けられた。ざばりと水音が聞こえ、顔が空気と再会した。反射的に激しく噎せる。
水を吐き出す俺の体は、誰かに抱えられたまま移動を始めた。抱えてくれている人の体温が、そのまま生の実感になった。
助かった。
水際に着いても両足は攣ったままだった。その場に崩れ落ちて咳き込んだ。助けてくれた人が地面に膝を突いて、背中をやや乱暴に撫でさすってくれた。
「大丈夫だ。ドラコ。もう大丈夫だ」
どうにか落ち着いて顔を上げると、傍らにいたのは父親だった。全身ずぶ濡れだ。乱れた髪からも重く濡れそぼった服からも、ぼたぼたと水滴が落ち続けている。先ほどまで着ていたローブもない。
「馬鹿者が。調子に乗るからだ」
と、父親は立ち上がった。その視線の先には、デッキチェア横の彼の杖。ひょいと指を動かしてそれを引き寄せると、父親は服と髪を乾かした。
ついで彼が目を向けたのは桟橋だった。湖に突き出した桟橋の端に、ローブが投げ捨てられている。裾が水面に触れて揺れていた。
それも手元に引き寄せて元の紳士然とした格好を取り戻すまで、俺は馬鹿面で眺めていた。
「何という顔をしている」
「いやあの……ありがとうございました」
礼を言うと、ドラコの父親はふんと鼻で笑った。
「子供を助けるのは親の務めだ。そんな意外そうな顔をしなくてもいい」
「どうして魔法を使わなかったのですか、ぼくを助ける時に」
生粋の魔法使いなのだから、桟橋を走って水に飛び込む必要はなかったはずだ。
虚を突かれた表情で、父親は手の中の杖に目を向けた。そして「思いつかなかった」と苦笑を浮かべた。
「おまえとナルシッサを助けるためなら、火を噴くドラゴンの口に飛び込んでも構わん。どんな時でも、とは言い切れんが、手の届く範囲で助けてやる」
「ごめんなさい」
申し訳なさに俯いた俺を、父親の手がぎこちなく撫でた。
もしかしたら俺は勘違いしていたのかも知れない。目の前の男性の目が冷たいのは元々で、息子に対して疑問を抱いていなかったとしたら。母上の言う通り、ただの言葉の綾だったとしたら。そうしたら俺はなんと失礼な態度を取っていたことだろう。
「ぼくはあなたの息子ではありません」
手が止まった。
思わず出てしまった本音を、俺は慌てて取り繕う。
「その、ぼくは魔法が使えません。ドラコ・マルフォイなら出来て当然のはずのことが出来ないんです」
咳払いしてから、父親は口を開いた。
「馬鹿なことを言うな。おまえは私の息子だ。たとえ一生魔法が使えなかろうが、それは変わらない。名家にもスクイブは生まれるし、スクイブの親から生まれる魔法使いもいる。第一おまえは、ドラコ・マルフォイにしか出来ないことを既に成し遂げているだろう」
はて。何だろう。
俺が瞬きすると、彼は軽く微笑んだ。
「私を父と呼び、ナルシッサを母と呼ぶ。私たちの息子にだけ許された行為だ」
彼は、妻同様、息子の中身を疑ってなどいなかった。俺がすべきだったのは、彼を警戒することではなく、息子として接することだったのだ。この夢の中では二人が俺の親なのだから。
彼は取り繕うようにローブの裾を払った。
「溺れたことは母上には黙っておいてやるから、今日はもう上がれ。明日も泳ぐつもりなのだろう?」
息子が溺れたことを過保護の傾向がある母上が知ったら、遊泳禁止を言い出すことは明らかだった。べつに俺は水が怖くなったわけではないから、明日以降ももちろん泳ぎたい。
少し考えてから俺は父上を見上げた。
「明日は二人で釣りをしませんか」
「……いいだろう」
父上は目を細めて笑った。
そうして翌日、二人で湖畔から釣り糸を垂らした。
後で聞いたところによると、湖水地方での釣りは有料ライセンス(入場料)を取る所が多いそうだ。館のプライベートレイクのようなこの湖では、そんなものは関係なく釣り放題だった。
釣果は、俺がブラウントラウト五匹にパーチ二匹。父上がブラウントラウトとパーチを三匹ずつ、レインボートラウト一匹だった。二人とも初めてにしては上々だろう。アマゴやイワナといった俺自身の川釣りの経験は、この際ノーカウントだ。館の亭主にも誉められた。
ところがその次の日は揃ってボウズという情けないものだった。母上からは「ビギナーズラックでしたね」と非情な評価を受けた。
俺と父上は顔を見合わせて肩を竦めた。
In Flames "Underneath My Skin"