本当に遅くなってしまい、申し訳ありません!!!!
今回は相当難産でした・・・
だって呉√いろいろであんまり好きじゃ・・・ゲフンッゲフンッ!!
今回はちょっとアンチが入っちゃってます・・・視点の関係上ごめんなさい!外せませんでした!!
さて、次は『呉の大都督の世界』について考察してみよう。北郷一刀が呉陣営に所属し、文官として大成した世界である。
この世界に関する資料は、全てが偽りであると言われている。理由は多々あるが、最たるものは北郷一刀が呉陣営に所属していた場合、赤壁の戦いにおいて魏は敗退し、大陸からその勢力が消滅するからだ。
多くの資料から、後に『晋』の皇帝になる司馬懿が曹操の下にいたことは間違いない。だが北郷一刀が呉陣営に所属していた場合、司馬懿も赤壁の戦いに参加し、曹操同様戦死(未確認)していた可能性が高い。もっとも、曹操は赤壁の戦いに大敗した後、東の海の向こうの倭(現在の日本)に落ち延びたとする資料もあるため、司馬懿が生き延びていた可能性もある。それでも、赤壁以降の歴史に魏陣営の人間がいないことで、多くの資料を否定することにつながってしまうため、北郷一刀が呉陣営に所属している可能性は極めて低いと言われているのだ。
だが北郷一刀が呉陣営に所属して生み出したとされる技術は多い。その一つには、世界最初の長距離通信技術『狼煙』がある。念のために説明しておくと、狼煙とは狼煙台から煙を上げて、それを視認した次の狼煙台が同様に煙を上げてそれをリレーのように繰り返し、馬の脚など目ではないほど早く、遠方に情報を伝達できる手段である。後世に生まれる数多の技術の下地になった発明が『なかったこと』になるはずもない。
ここで再び、並行世界理論に則って、この世界で彼の行動に不自然がないように彼の足跡を書き出してみようと思う。
北郷一刀、出身地など一切不明
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記録は残っていないが、おそらく孫策が袁術の客将であったころに士官
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黄巾党本拠地の攻略作戦を立案。呉軍を勝利に導く
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汜水関・虎牢関攻略において、袁術の手勢を削る作戦を立案。虎牢関一番乗りを呉軍に齎し、兵を旅人に扮装させて風評を操る策で孫策の武功を大陸中に広めるなど、情報戦で後の呉の基盤を作る
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曹操の部下により、北郷一刀は目の前で主君、孫策を暗殺される。この時の戦闘に関する記録はほとんど残っていないが、撤退する魏軍を呉軍は鬼神のごとく追撃、魏軍に多大な損害を与えた。おそらくこの時北郷一刀も最前線で戦っていたと推察される
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呂布の呉侵攻の際、文官から軍師に昇格。建業の援軍に向かう際、孫権の隣で周瑜の愛弟子である陸遜まで使って指揮を執る
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蜀の領地侵攻の際、諸葛亮の大水計に気付き、損害を最小に留める
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魏の南征を受け、当時戦闘中だった蜀の本営に自ら向かい同盟を結ぶ
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赤壁の戦いにおいて、病に侵されていた周瑜に代わり、実質的な次期大都督として呉軍の指揮の大部分を執る。なお、赤壁の戦いで有名な『苦肉の策』を実行段階で看破したのは策の実行者である周瑜、黄蓋を除くと陸遜、諸葛亮、そして北郷一刀のみであった
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蜀、呉による『天下二分の計』が成立する
この略歴で気付くことはないだろうか?
『呉の大都督の世界』では一つの戦場を除いて、細部に至るまで膨大な資料が現在まで残っているのだ。これは後述する『蜀の賢王の世界』を超える質と量だ。『魏の警備隊隊長の世界』のように、何かを隠すようなぼやけた記録はほとんどない。『呉の大都督の世界』を除くと、黄巾の乱における彼の活躍の記録はほとんど残っていないことからも、それは容易におわかりいただけることだろう。
それはつまり、誰かが記録していたということだ。それも呉の成立前の初期幹部の誰かが。黄巾の乱の彼の活躍を事細かに。
この時代、戦闘に関する記録は双方の規模、戦闘のあった場所、被害や戦果と兵や将の個々人の報告書という形で記録されるものであった。しかし、それらの記録の多くは失われている。これは別に保管方法や時代の変遷のせいではない。当時のコスト的な問題だ。
当時はまだ紙が開発されたばかりで、決して手が出ないものではないが、それでも十分高級品に分類されるものだった。よって、一般的にはあまり使用されるものではない。そして、そんな高級品で一々報告書を書いていては、当然ながらコストが嵩む。よって当時は、木簡や竹簡の使用が一般的であり、当然報告書や手紙、親書にしてもそういったものが使われていた。
なぜ今このタイミングで紙の話をしているのかと、読者の皆様は思うことだろう。理由は簡単だ。単純に木簡や竹簡は紙よりもずっと場所をとるのだ。当然だが倉庫の許容量にも限界がある。
ではどうするのか?数年で倉庫は一杯になってしまう。当時は保管年数を決めていたのだ。多くの資料は十年以上保管されない。後の世に残すべきと考えられる資料のみ、百年後も千年後も残るように紙やそういう加工がなされた木簡や竹簡などで保管されていった。
つまり何が言いたいのかというと、大陸全土を巻き込むほど大規模な騒乱になったとはいえ、黄巾党の乱も所詮は山賊や農民の一部によるものであり、人数はともかくとして装備も練度も何もないような賊との戦闘記録など、特に細々とした戦闘一つ一つの記録など残っている訳がないのだ。現に他の勢力の記録はほとんどない。
私はここである仮説を立てる。
北郷一刀の才覚に早くから気付き、それを後の世代に残そうとした者がいたのではないか?黄巾の乱の段階で既にその記録を残そうと判断し、それを実行できる地位を併せ持つ人物は、少なくとも記録上、たった一人しかいない。
孫呉の偉才、大都督周瑜。赤壁の戦いの苦肉の策の一端を担い、孫呉の勝利を見届けながら病で息を引き取った英雄である。かの偉才ならそのくらいやってのけるだろう。むしろそう考えると、内政や機密情報など内部でしか知り得ない裏側の活動が記録として残っている理由として納得がいくのだ。
そして、赤壁の戦い以前と以後で記録者が変わっているようなのだ。筆跡や言い回しなどからしても、北郷一刀の腹心の部下であった呂蒙が書いたものではないかと現在では考えられている。つまり、赤壁の戦い以前を周瑜が、それ以降を呂蒙が記録したということになる。
さて、話を元に戻そう。
黄巾党の乱で小さいながらも少しずつ戦果を齎した北郷一刀は、反董卓連合においても才能を発揮し、虎牢関の一番乗りを孫呉に齎した。しかし、彼はそれだけでこの戦いを終わらせなかったのだ。
当時としては最速となる風評操作、兵を旅人に扮させて孫呉の戦いぶりを各地の主要都市に喧伝させたのだ。あくまで彼らには旅人として嘘偽りのない、ただし真実の一部を伏せた噂を流すように徹底して。そしてそれは、実に効果的な策だった。
元々苛政で民心が離れていたことも相まって、袁術は反董卓連合で何もしていない無能と民に噂され、次第にその影響力を失っていくこととなる。
反董卓連合の戦いでの彼の策はそれだけではない。いかに民心が離れようとも、名家である袁家の名は伊達でも酔狂でもなく、強大な袁術の戦力を削らなければ、孫呉の復興の大きな妨げとなってしまう。だから彼は、袁紹・曹操が戦っている前線へ自軍を突入させ、わざと前線を攪乱、敗走しているように見せかけて董卓軍を袁術の陣にまで引っ張っていくなどという大胆な、それでいて緻密な計画を立て、成功させたのだ。
おそらくこの時、周瑜は彼を己の後継者として考え始めたのではないだろうかと推察できる。現にこの時のことを、周瑜の愛弟子、陸遜は己の生涯を書き綴った書にこう書き記している。
「舞台に踊るは無様な役者。愚かな笛吹きは舞台に上がらず、笛吹き観に徹し座する。師曰く、『笛吹き座らば舞台に上がらず、ただ舞わせるのみ』されど天曰く、『笛吹き座るもまた舞台。役者を供にいざ踊らん』師も主も一同驚に愕せり。」
この言葉は、当時の戦況を舞台に例えたものである。現代の言葉に直し、敬称などを外すと以下のようになる。
「袁紹・曹操は戦場で有効な策もなく立ち回ることを強いられ、そうなるように両者を動かした袁術は後方で現在の敵と未来の敵が潰し合い、疲弊するのを見物している。周瑜は『他者を操るものは前に出ない。潰し合うように立ち回るのみで自ら血を流すことはない。』と言い、打つ手なしと頭を悩ませた。しかし北郷一刀は言う、『袁術がいるのも後方とはいえ戦場である。袁術が敵の元に行かぬのなら、敵を袁術の元に連れて行けばよい。』と。その言葉に周瑜も孫策も驚愕を禁じ得なかった。」
諸兄らもご存じの通り、多くの資料で北郷一刀は度々『天』に例えられる。つまり、北郷一刀の策であったというわけなのだが、その戦果は前述の通りである。袁術は碌な迎撃準備もできないまま董卓軍の攻撃を受け、甚大な被害を被ったのだ。この策の優秀さは、後の時代にも幾度か形を変えて出現していることからも明らかである。
反董卓連合の後、北郷一刀は裏方に回り、孫呉の復興のために暗躍していたようだ。しかし孫呉復興が一段落したところで悲劇が起きた。
曹操の南征とそれに伴う曹操の部下による孫策暗殺である。曹操の部下と言っても、実質的には孫策に制圧された地方豪族の部下だった者達が、功を焦って勝手に暗殺を実行したものだとされている。
当時、私用で部下も連れずにいた孫策と北郷一刀。彼らの間でどのような会話が成され、どのような目的で外出していたのかはわからない。
詳細な記録はないが、おそらく敵部隊に待ち伏せされた孫策たちは、武を振るって迎撃するも、抵抗虚しく孫策は毒矢を受けてしまったのではないかと思われる。通常この場合なら、北郷一刀は主君を守れなかった無能な家臣というレッテルを張られたはずなのだが、そのような記録は一切ない。もみ消しにしても完璧すぎる。彼の名前に傷がついていない事実から、待ち伏せの部隊がよほどの大部隊だったか、あるいは攻めることができない何かしらの要因があったのではないかと推測できる。
そこから先の戦闘の記録はほとんどない。ただ、曹操は孫策暗殺の事実を知るや、実行に加担した者すべての首を刎ね、呉に弔問の使者を出して撤退したという事実と、呉が鬼神のごとく怒りの追撃戦を行ったことだけがわかっている。この時の両軍の被害は不明であるが、夥しい血が流れたことは想像に難くない。
孫策の死後、呉領地内で次々に豪族たちが蜂起した。この時、劉備から同盟の一方的な破棄が言い渡されている。理由として、『同盟はあくまで孫策と結んだものであり、孫権と結んだものではない』という主張であるが、つまりは『孫権は信用できない』という外交的に見れば絶縁状に等しいものであり、人の上に立つ人間として不相応な判断であったと後の歴史家たちからは酷評されている。また、この後すぐに攻め入ってきた呂布を匿ったことも、劉備の評価を落とす一因となっている。
この頃ようやく北郷一刀は軍師に昇格し、行軍指揮まで任されるようになっていた。北郷一刀が『呉の大都督の世界』で最も活躍するのは呂布を撃退した後からである。
孫呉はあくまで外交手段のみを用いて呂布の身柄引き渡しを要求していたが、なんと劉備は孫呉側の使者の服を剥ぎ取り、髪を剃って放り出したのだ。これに激怒した孫権は劉備に宣戦布告した。
劉備との戦いは大都督周瑜を連れていたものの、実質的には北郷一刀が筆頭軍師として孫権の補佐についていたものと考えられる。蜀側の大水計に気付いた北郷一刀が、全軍の足を速めたという事実も、つまり全軍を動かすだけの権限が与えられていた証左である。
戦闘が膠着状態に陥ったところで、曹操の侵攻の報せを受けた北郷一刀は、周瑜の供として劉備軍本陣へたった二人で出向き、劉備に『天下二分の計』を説いたのだ。いくら周瑜と北郷一刀とはいえ、つい先程まで戦闘中だった敵軍と曹操撃退のために同盟を締結してきたという素早さには流石の孫呉の将たちも舌を巻いたという。
この事実から二つのことが読み取れる。孫権の周瑜、北郷一刀に対する信頼の高さと、その信頼に応えられるだけの両者の実力の高さである。どちらも、そうできることではない。
赤壁の戦いについては略歴で軽く触れたが、曹操軍にそのまま立ち向かっても敗北が見えていた周瑜と黄蓋は、苦肉の策で黄蓋を曹操の下へ投降させることに成功した。
資料によると、赤壁の戦いの布石となった連環の計は、陸遜か呂蒙、あるいは北郷一刀の手によるものではないかという疑惑の声が、専門家たちの間で上がっている。周瑜によるものだと多くの資料では記録されているのだが、そもそもこの頃周瑜は重い病を患っており、とてもそこまでの時間が取れたとは思えないのだ。残念ながら、真実を追求する術は既になく、今後新たな資料が発見されない限り、この疑惑の答えは出ることはないだろう。
連環の計、苦肉の計、そして貿易風が見事に重なり、赤壁の戦いは曹操軍の敗北で幕を閉じた。
『呉の大都督の世界』が偽史と言われる最大の所以は赤壁の戦い以降の資料にある。
赤壁の戦いの後、魏の領地を二分割した蜀と呉は、その後数年ほどの間、それぞれの土地を守っていたわけだが、この後に関する資料がないのだ。まるで打ち切りとなった連載漫画のように。
『呉の大都督の世界』の資料は『天下二分の計』が成って数年間何もなかった、というところまでしか資料がない。少なくとも、現在に至るまでそれ以降の資料は発見されていない。
ご理解いただけるだろうか?ここまで正確に記録を残してきた呉が、その後の歴史に関して極めて重大な時代の記録を消失させているのだ。たとえ何者かが歴史の抹消を試みたとしても、いや改竄程度であったとしても、それがいつの時代のどこの誰であろうとも、それこそ北郷一刀であったとしても、そんなことは絶対に不可能なのだ。そもそも資料どころか口伝ですらも、ここから先の歴史に関する伝承がない。ここまでの歴史の抹消はいくらなんでもおかしいし、できるわけがないと断言できる。
後の歴史の資料の欠如、いたはずの魏の面々の不在。ここまで大きなイレギュラーがまかり通るはずもなく、『呉の大都督の世界』が偽史であるとされるのも、仕方のないことと言える。
しかし、偽史自体は世界中でよくあることであるが、ここまで精密に書きあげながら中途半端に終わらせていることに、私は大きな違和感を感じている。言っては何だが、別に適当にでっちあげるくらいなんでもないはずなのだ。例えば、呂蒙あたりが在野の司馬懿を発見し、北郷一刀がそれを皇帝に据えたとでも言えば、一応とはいえ整合性を取ることもできるはずなのだ。司馬懿さえいれば、晋という国家を樹立でき、その後の歴史は諸兄らも知るとおりであり、それで何の問題もないはずなのだ。
何の手がかりもないのはおかしい。しかしひょっとしたら、『それ』こそがこの奇妙な三国時代という、まるで無数の確率分岐が重なったような、違和感だらけの過去の鍵なのかもしれない。
資料がない以上、無理に結論を出そうとすれば『偽史』という一択となってしまうものの、ならばここで結論を急ぐことは避けたいと私は考える。なぜなら、ここまで後の世代に資料を遺そうとした多くの先人たちの想いが、歴史の闇にただ放り込まれてしまうのはあまりに惜しいからだ。
あとがき
今回遅くなってマジですいません!!!!
m(__)m
リアル忙しい・・・次回も遅くなってしまうかもしれません
次は蜀√です