真・恋姫†無双~外史書~   作:心は永遠の中学二年生

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本っ当に遅くなってしまいました!!m(__)m
蜀√だけど、どう考えても一刀はAIR…どうしよう?って4年前悩みましたね


『蜀の賢王』編

 さて、最後は『蜀の賢王の世界』について考察してみよう。北郷一刀が蜀陣営に所属し、劉備と共に王として大陸をまとめた世界である。この世界は、もっとも史実に近いとされている。理由は極めて簡単である。『蜀の賢王の世界』の場合、三国は全て存続し、各国首脳はその大半が存命であり、北郷一刀は三国をまとめた象徴になる。三国時代の各国の資料に北郷一刀を称える記述があることに整合性が取れるのだ。

 

 しかし私個人から言わせていただくと、この世界もどうもおかしい。それは『蜀の賢王の世界』の根幹の部分にかかわる、とある事実によるものだ。そう蜀の君主は、劉備と北郷一刀の二人であるという事実である。しかも、漢王朝から与えられたとされる平原の相、徐州の州牧といった地位が劉備に与えられたものか、北郷一刀に与えられたものなのか判明していない。理由は例によって、劉備に与えられたとする資料、そして北郷一刀に与えられたとする資料の両方が発見されているからだ。

 漢王朝が与えた地位は置いておくとしても、君主が二人、つまり二頭政治というあまりにも不自然かつ不安定な状態で、なぜ分裂することなく三国時代を生き残ったのだろうか。歴史に照らし合わせても、劉備と北郷一刀がぶつかることは避けられないはずだ。この謎を紐解くためにも私はまた、この世界の北郷一刀の略歴を書き出そうと思う。

 

 

 

 

北郷一刀、出身地など一切不明

記録は残っていないが、劉備らと桃園の誓いを行っていることから、劉備らが各地で賊の討伐を行っている過程のどこかから行動を共にしていた

幽州の公孫瓚の客将となり、その後公孫瓚の協力の下、義勇軍として独立

黄巾の乱の功により、朝廷から劉備、もしくは北郷一刀が平原の相として指名される

反董卓連合に参加。劉備軍が汜水関の先鋒を務め、汜水関を攻略の策を北郷一刀と諸葛亮で練る

反董卓連合の功績で劉備、もしくは北郷一刀が徐州の州牧となる

袁術・呂布連合の侵攻を撃退。このとき呂布を北郷一刀自ら説得し、配下にしたという

曹操軍の侵攻に対し、益州に逃走。長坂橋で呂布、張飛、陳宮らと共に殿を務め、曹操軍を撃退する

益州を平定し、国号を蜀に定め、仁徳王劉備、賢王北郷一刀として三大勢力の一角に並ぶ

南蛮を平定する

魏と呉の全面戦争の報を受け、北郷一刀は単身呉に赴き蜀呉同盟を締結する

赤壁の戦いで勝利する

蜀呉同盟と魏の最終決戦の際、五胡の大軍による侵攻の報を受け、『天下三分の計』を説き、大陸同盟を締結。五胡の大軍を撃退する。

 

 

 

 

 さて、出身地不明はいつものことだが、平原の相になるまでの記録がほとんどない。これは正規軍ではなく義勇軍であったため、仕方がないことだろう。よって、平原統治時代から彼らの足跡をたどり始めようと思う。

 

 平原を統治し始めてから、彼らは劇的とまでは言わずとも、堅実にかつ着実に黄巾の乱で荒れた治安の改善に取り組んでいた。しかし、北郷一刀の平原統治時代に一つ、当時としては実に奇妙な、現代では実に当たり前なことが徹底して行われていた。

 

 『汲み上げた井戸水のなかで、特に口に含むものは必ず、一度火にかけて沸騰させてから使用すべし』

 

 そう、煮沸消毒である。水の中の細菌を殺菌する技術だ。現代でこそ広く知られた技術であるが、当時は誰の理解も得られず、やむを得ず規則として縛ったのだ。反感を持つものも少なくなかったが、北郷一刀自身が長老たちとの会談に赴き、説得したという。この出来事は有名な『北郷記』にも書かれている。

 

 『長老たちの長々しい遠回しな拒絶にうんざりした北郷一刀は懐から二つの小瓶を取り出して机に置いた。「話を要約すると、汲み上げた井戸水が透き通っているから汚れているはずがない、ということに集約されるわけだな?ではこの小瓶を見よ、この二つ、清く透き通って見えるが、片方は水、もう片方は猛毒だ。これが見分けられるもののみ反論を述べよ。」この言葉に長老たちは沈黙した。』

 (○×出版、丸場 通 著『北郷記』より抜粋)

 

 恐るべきことに、衛生の概念すらまともにないこの時代に、既に水質について考えていたのだ。北郷一刀が細菌についてどこまで認識していたのかはわからない。ただ、この時代の人々にその概念は早すぎたのだろう。結果的に北郷一刀は、説明による理解と納得という最良の結末を、切り捨てざるを得なかったという事実のみが残っている。

 先の引用からも伝わることだが、「理解できないなら仕方がない。ならば理解できなくとも従え。決して悪いようにはしない。」という、北郷一刀に関する記録の中では実に珍しい強引な発言の記録がこれである。

 余談であるが、平原はその後曹操が占領することになる。占領当初、曹操にはこの煮沸消毒の意味がわからず、すぐにこの決まりを取り止めてしまった。しかしその僅か数か月後、謎の疫病が平原で蔓延した。原因は当然水である。不衛生な水の摂取が原因の疫病は少なくない上、当時の症状の記録がないため、何の病だったのかは今日まで解明されていない。しかし、その報せを受けた北郷一刀は、当時はまだ敵国の主である曹操に対して煮沸消毒の必要性を説いた文を送り、疫病に被害を最低限に抑えたという逸話がある。

 

 平原には他にもさまざまな意図不明な試みや、機材、建築物などがあったということだが、それらに関する記録はほとんど残っていない。

 これはあくまで憶測だが、北郷一刀は平原で壮大な実験を行っていたのではないだろうか。彼らは幽州で公孫瓚の客将をしているとき、その政治や治安を学び、そしてそこから、自身の案がどこまで通用し、どこまで理解されるかを平原で実験、その後蜀の建国時には洗練されたそれらが大陸の三大勢力たる強固な基盤として機能していたと考えられる。

 こう考えれば、後の時代の発展に大いに貢献してきた『北郷の書』にも納得がいく。『北郷の書』は、歴史の名だたる偉人から「人類には早すぎた」とまで言われている代物で、現代でも解明できていない技術や知識が記されている総数一万巻を超える書物だ。

 

 話を戻そう。この後彼らを待っていたのは、この時代最大の転機、反董卓連合である。

 反董卓連合に参加した者達はわかっていただろうが、反董卓連合は実質的にただの政争であり、洛陽に軍を差し向ける反乱軍なのである。それは同時に、黄巾の乱や飢饉などの情勢不安によって揺らいでいた漢王朝に、今度こそ確実にとどめを刺し、乱世に向かわせる行為であった。

 反董卓連合を北郷一刀はどう思っていたのか?北郷一刀は後にこう語ったと言われている。

 

 『我が生涯の最大の汚点。其は反董卓連合の参加なり。忌むべき過去。過去に戻る手段あらば、例え其が破滅の道であろうとも、我は突き進むであろう。かの献帝の苦渋の決断、推して量るべし。』

 

 北郷一刀は反董卓連合を嫌悪していた。実際、当時の北郷一刀の立場で考えてみれば、胸糞の悪い政争だったことだろう。黄巾党の乱が終わり、ようやく最低限の平穏が訪れたというのに、それを打ちこわし、乱世に持ち込もうとする政争、それが反董卓連合である。群雄割拠の時代を北郷一刀は予見していただろうが、それでもあっさり割り切れるものでもない。

 反董卓連合の結成理由にしても、北郷一刀は納得していなかっただろう。現代まで残っている雍州州牧時代の董卓の記録からは、手堅く確実な善政を敷く善き為政者という印象を受ける。にもかかわらず、反董卓連合は「洛陽から情報が流れてこない上に碌でもない噂が流れている」から結成されたのだ。董卓という人間を調べなかったはずがないにもかかわらずだ。しかも「権力で豹変した」と言えば説明は付けられてしまうから性質が悪い。

 

 罪なきものを生贄に捧げる行為を、おそらく北郷一刀は気付いていながら参加したのだ。もっとも、もし反董卓連合に参加しなかった場合、各勢力から目を付けられて、早期に退場の憂き目にあった公算が大きいため、参加しないという選択肢は最初から取れなかったと思われるが。

 それは北郷一刀の背負った、重すぎる十字架だったのだろう。彼らは張遼や呂布といった名だたる猛将が守る汜水関、虎牢関という当時大陸でもっとも堅固だった関を突破して洛陽に辿り着いた。その時、北郷一刀の瞳に、洛陽の姿はどのように映ったのだろうか。

 この時の洛陽がどのような姿をしていたか、という記録はない。しかし、董卓が暴政を働いていたはずの洛陽の惨状が記録に残っていないという事実だけで、反董卓連合が張りぼてであった証明になる。なぜなら諸侯にとって洛陽の惨状とは、「これほど酷いところを私は救った」と言うだけで英雄になれる、自身を輝かせる最高の装飾品だったからだ。だが、事実でなければこれは使えない。洛陽は董卓側の情報統制で外の情報が出ない状態だったのだ。つまり董卓がいなくなった途端、洛陽の情報は大陸中に広まってしまう。反董卓連合に参加した者たちにとって、それは大変に都合が悪い。

 連合解散後、袁紹が公孫瓚を攻めた理由として最有力視されているのがこれである。反董卓連合の発起人である袁紹、暴政の敷かれていなかった洛陽、これだけで袁紹の立場は一気に窮地に立たされる。

 そんな理由で滅ぼされた公孫瓚としては、やりきれないだろうが、公孫瓚自身が攻められる可能性に気付いていなかったのかと問われれば、それは『否』である。なぜなら公孫瓚はこの少し前、袁紹から『ある文』を受け取っていたからだ。文は当時に失われてしまっているが、内容だけは伝わっている。

 

『我と共に、北郷一刀、劉備を討とう。』

 

 それは公孫瓚にとって、それは到底承服しかねる内容だったのだろう。共に盧植の下で学んだ良き学友である劉備を、一人で二万五千の賊軍を蹴散らせると慢心していた未熟なころの趙雲を預けた北郷一刀を討つことなど。

 公孫瓚も長年北の異民族と戦い続け、黄巾の乱、反董卓連合まで戦い抜いた英雄だ。袁紹と戦争になることも、当然勝てないこともわかっていたはずだ。そもそも資金でも兵数でも劣り、援軍になりうるのはこの先敵となる可能性の高い諸侯。劉備らとの連携には時間がなく、なにより反董卓連合で少なくない犠牲を出していた。あるいは、そこまで袁紹の計算だったのかもしれない。

 だが、ここでただで散らないあたり、やはり公孫瓚も英雄だったのだろう。この時公孫瓚は曹操に『後ろから袁紹討て。袁紹は幽州で息切れをしている』と文を送っていたのだ。そして袁紹は、幽州制圧の僅か2ヵ月後、官途の戦いで落日を迎えた。

 これはあくまで可能性の話でしかないが、もし公孫瓚が袁紹の力に屈していた場合、北郷一刀達は徐州の一州牧として生涯を閉じていた可能性が高い。公孫瓚と袁紹が戦っているころ、袁術・呂布連合が徐州に攻め入っていたのだ。最悪の場合、これに公孫瓚を配下にした袁紹が参戦していたかもしれない。

 

 少々長めの脱線をしたが、反董卓連合解散後、彼らは徐州を手に入れた。平原に引き続き、徐州でも公的な地位を手に入れたのが劉備か北郷一刀かは定かではない。歴史的に見て、既に組織は分裂していそうなものだが、なぜか問題なく維持されている。理由はいまだ不明である。

 袁術・呂布連合を撃退し、呂布を味方に付け、義勇軍のころとは比べ物にならないほど大きな力を手に入れたとはいえ、袁紹を倒して華北を手に入れた曹操の五十万を超える兵力を相手取れるはずもなく、彼らは徐州から脱出した。この脱出時の戦闘こそ、のちに長坂橋の戦いと呼ばれるものである。

 

 長坂橋の戦いとは、徐州を脱出する北郷一刀らを追撃する曹操軍を、ごく少数の戦力で撤退させた有名な戦いである。

 作戦自体はいたってシンプルで、少人数しか渡れない橋の前に張飛、呂布を布陣し、常に数人での戦闘を強いてひたすら撃退し続けるだけである。しかし曹操軍にとっては、厄介極まりない策だったことだろう。張飛と呂布を抜くには物量に頼ってなお不安が残るにもかかわらず、少数での戦いを強いられ、じわじわと兵が削られていく。また張飛らの後ろには北郷一刀という交代要員がいて、さらに後ろの茂みには伏兵の気配すらあり、不利になれば橋を落とせるのだ。曹操ほどの天才なら、この状況で戦おうとは思わない。

 

 北郷一刀らが益州を平定し蜀を建国したことにより、大陸の情勢は一時的に膠着した。弱小勢力は大勢力に飲まれ、勢力は三つの収束したために迂闊に動けなくなったのだ。だがそれは当然長続きしなかった。呉の豪族の決起と、蜀の南蛮の略奪、そして大陸国境線の五胡の侵略がほぼ同時に起こったのである。なお、この時の五胡の目的は、敵情の強行偵察であったとされている。五胡という異民族達からすれば、三国時代は敵同士が勝手に潰し合って弱っている状態に他ならない。動かない理由がないのだ。

 漢王朝と五胡との交流はほとんどなく、潜入に行ったものは帰って来なかったため、漢王朝の下にいた人々は一様に「五胡とは得体のしれない戦闘部族」という認識を持っていた。五胡の撃退に国主たる北郷一刀と劉備が率いる本隊が向かったのは、当時のこの認識に則ったものだったのだろう。

 北郷らはこの決着後、そのまま南蛮に攻め入った。これが有名な蜀の南征である。しかし、五胡との戦闘の後、まるでオマケかのように攻めた南蛮で想定外の事態が発生した。優れた武人として名を馳せていた孟獲の武である。北郷一刀が供として連れていた趙雲は孟獲と幾度か切り結んでなお決着がつかず、関羽はその様を見て「自分では勝てない」と早々に戦闘を辞退したという。

 この時北郷一刀はこう考えたと記録されている。

 

 『武に頼った戦い、数に頼った戦い、財に頼った懐柔はせず、ただ心服させるが吉。』

 

 北郷一刀は、当時飛躍的な成長を見せていた馬岱を前面に押し出し、数多の策をもって孟獲を捕えた。しかし北郷一刀は孟獲のしつこい性格を見抜いており、孟獲が反抗の意思を見せ続ける限り攻めさせては捕えて放ち、攻めさせては捕えて放つ行為を繰り返した。これが後に『七縱七禽』と呼ばれる戦いである。

 『七縱七禽』の効果は今日に至るまでその効果を発揮している。かつての孟獲の支配地とその周囲には今でも「北郷一刀は実に心の広い善き為政者であり、その子孫らの治める土地は攻めてはならない」といった言い伝えがあり、中華とミャンマー、その周囲の国々との友好的な関係を築けている大きな要因なのだ。

 

 南征後、魏が大軍をもって呉へ進軍したとの報を受け、北郷一刀は単身呉に赴き、蜀呉同盟を締結、時代は『赤壁の戦い』へ進む。『赤壁の戦い』について、もはや説明の必要はないだろう。大半が『呉の大都督』編で語り尽くしてしまっているので、ここでは割愛させていただく。

 赤壁で敗走した魏軍に追いついた蜀呉同盟は大陸最後の決戦に向けて舌戦の最中にその報せは届いた。

 

『五胡、魏、呉、蜀領地に向け侵攻中。総数三百万。制圧地は虐殺されている模様。』

 

 この知らせを受けた北郷一刀は驚くべき行動に出た。蜀のみでなく、他国領地への救援を出すことにしたのだ。蜀のみですらも守り切れるかわからない現状で、北郷一刀は大陸全てを守るために絶望的な賭けに出たのだ。この時の北郷一刀の言葉は今でも多くの資料や民間伝承などによって残されている。

 

 『他国の民とて民は民。諸君、力なきものを守らんがため、悪から正義を貫かんがため、その手に力を望みし、去りしあの日の想い、あの想いを今想起せよ。その手を血に染め求めし明日に、蛮行一切必要なし。大陸全ての民のため、奮起せよ諸君。』

 (凸凹新書、出仔簿 巧 著『歴史考察新書~三国志編~』より抜粋)

 

 この言葉で北郷一刀は自軍だけでなく、絶望的な戦力差を前に立ちすくんでいた他国の兵にまで火をつけた。孫策も曹操も、領地を攻められ、自軍の兵に火をつけられればもう戦う以外の選択肢などあるわけがない。

 彼の言葉は、この場にいたすべての人々にある悲劇の記憶を思い出させた。もちろん北郷一刀は、それを狙ってこの言葉を発したのだろう。忘れられるほどの時が経ったわけでもない。そもそも、それをきっかけに立ち上がったものも、決して少なくないはずだ。むしろ兵の大半はそうだろう。

 

『黄巾の乱』

 

 この言葉に、黄巾の乱を経験した者達が反応しないわけがないのだ。敵味方の垣根を超えて急遽成立した、後に大陸同盟呼ばれるそれは、共通の敵を持つという形であったとしても、たしかに『人と人はわかり合える』という可能性を示したものだった。

 当時の大陸同盟の総兵数は百万以下であったと言われており、三倍以上もの兵力差に勝ったということになる。しかし、真に恐ろしきは北郷一刀の外交手腕であろう。『魏の警備隊隊長の世界』を除いて、彼は類い稀な外交手腕で多くの問題を解決している。今回の五胡との戦いにおける戦力差もそうだが、呉だけではなく魏までも味方に引きずり込むために、彼は『外堀を埋める』という交渉の基礎を、大胆にも忠実に実践してみせたのだ。百万近い外堀というのも歴史的に見て稀であるが、それを埋めきったことなど、世界の歴史を見てなお、成功例はこの一例のみである。王たちにとっても、この状況で争っている場合ではないと気付いていたはずだが、せいぜい停戦が関の山だっただろう。それを同盟という形に即決した北郷一刀は本当に何者なのか、私は首をひねらざるを得ない。

 

 五胡との決戦の後、『天下三分の計』が成立し、その象徴として北郷一刀が大陸の象徴となる形でこの乱世は終止符を打った。

 この後のことが、特にこの世界を正史とする所以なのだが、このあと何年間か三国が協力して大陸を治めていたものの、北郷一刀が自身の死期を悟り、また自身の死が三国同盟の終焉を意味することに気付いていた北郷一刀は、かつて魏の軍師であった司馬懿を次期皇帝に指名した。ここまでの流れに矛盾がないところが、この世界が正史であると主張する歴史家たちの言い分である。

 

 さて、ここまでの時点で、聡明な読者の皆様はお気づきのことだろう。そう、ここまで私が語った『魏の警備隊隊長の世界』、『呉の大都督の世界』、『蜀の賢王の世界』のどこでも戦場としての描写がなく、どこの勢力とどれほどの戦力同士で戦い、なぜあそこまでの事態に陥ったのか誰にも分からない、ある戦場に関して私が全く触れていない点だ。

 これまで私が語った『魏の警備隊隊長の世界』、『呉の大都督の世界』、『蜀の賢王の世界』のどこでも戦場としての描写がなく、どこの勢力とどれほどの戦力同士で戦い、なぜあそこまでの事態に陥ったのか誰にも分からない、あの戦場のことだ。

 

 

 泰山。

 

 

 中華のものとしては珍しく、なだらかな斜面を持つ山だと近代まで呑気に言われていた。しかし19世紀、泰山の土の下から出土したおびただしい数の武具や死体の数々から、その斜面一帯が巨大な墓標となっていることが発覚したのだ。最低でも、百万の死体が埋まっていると言われている。そして出土した装備品などから、それは三国時代の魏、蜀、呉のものであるというところまでは判明している。そして、北郷一刀が蜀の賢王であったときに率いていたという親衛隊の北郷白十字紋があしらわれた鎧も、同じく出土している。

 

 ここで私は一つの仮説を立てる。『蜀の世界』は、更にもう一つ重なっているのではないか。『劉備が徳王となって蜀を率いた世界』と『北郷一刀が賢王となって蜀を率いていた世界』が別に二つあったのではないか。そして『蜀の世界』の記録は非常に欠損していて、『劉備が徳王となって蜀を率いた世界』では北郷一刀の立ち位置の記録が残っておらず、『北郷一刀が賢王となって蜀を率いていた世界』ではそもそも権力を二分する劉備がいなかったのではないだろうか。かつて曹操に勧誘された関羽は「北郷一刀様こそ我が永久無二の君」と断ったというが、この言葉も『北郷一刀が賢王となって蜀を率いていた世界』の言葉だったとすれば辻褄が合うのではないだろうか。漢王朝から劉備と北郷一刀に与えられた地位の記録、公孫瓚が信を置いているはずの劉備を差し置いて北郷一刀に趙雲を預けた事実、君主であるはずの北郷一刀自らが殿となっていた長坂橋の戦い、分裂しなかった蜀。これらに一定の説明がつけられるのだ。

 『無いはずの世界』の可能性。しかし、それを追うことは残念ながら不可能に近い。『蜀の世界』の記録は区別ができないものも多く、また失われた記録が多すぎるのだ。泰山の記録などは全くと言っていいほど残っていない。民間伝承で「北郷一刀最期の戦地」と言われている程度で、それ以上の情報は全く残っていない。

 しかしそれは確かに存在したのではないかと思う。資料はいくらでも偽物を作ることができる。しかし泰山から出土したおびただしい数の物証は、数多の資料を超える説得力を有しているのだ。最低でも、三国時代の泰山で大きな戦があり、魏、蜀、呉の三国の百万以上の兵の命がそこで失われた。しかしそれでも記録は残っていない。それは何者かが、徹底して記録を抹消した証左ではないか。何者かの目的も、何者か自身の正体も1800年の時の壁に阻まれて真実を知るすべはない。

 しかし、私はたった一人、気になる人物がいる。その人物は三国時代に生き、名を残しているにもかかわらず、いったいどこに属して何をしていた人物なのか全く記録がないのだ。その人物の名は貂蝉。洛陽にいたとされているが、武に秀でていたという記録も、知に秀でていたという記録もない。成した偉業や功績、あるいは地位に関する記録すらもない。いつ現れ、いつ消えたのか、全てが謎に包まれているにもかかわらず、なぜか名前は残っているのだ。三国時代の英雄を祭る武候祠にも祀られている。もちろん証拠などはない。しかし一つの可能性として、一考の余地はあるのではないだろうか。

 




今回は蜀√でした!
遅くなってですいませんでした!!
リアルのほうが忙しく、次回もちょっと遅くなりそうです、申し訳ありません・・・
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