今回はあとがきまで含めた作品となっていますのでご注意ください。
私自身のあとがきは※※※※※※※※※※と区切った下にあります。
今回は、萌将伝?です
ここからは、資料にほとんどばらつきのない、三国同盟成立後の歴史を考察していこうと思う。
大陸防衛戦終結後、三国はそれぞれの領地を治めながら、他国との交流を積極的に行い、大陸の発展に貢献していた。しかし、国という単位で相手と友好な形で接しようとするということは、必然的に他国を刺激しすぎず、自国を発展させるという国主の至上命題の遂行を意味していた。
何を当然のことをと、読者の皆様は思われるかもしれない。しかし一度乱世を経験した者にとっては認識が変わるのだ。乱世であったなら、特に理由がなくとも「天下統一」という大義名分を掲げて攻め滅ぼすという選択肢があった。しかし、一度治世になったものを再び乱世に戻すことは、基本的に平和を望む民からの支持基盤を失いかねず、重大な理由でもない限り、安易に選択肢に上げられなくなるのだ。
必然的に三国同盟成立の立役者にして大陸の象徴となった北郷一刀は、三国の折衝に日々奔走する毎日を送っていた。北郷一刀にとっては望むところだっただろうが、それでも相当な激務であったことは彼の残した言葉に現れている。
『政務とは、血の流れない戦である』
政務は激務であると、そう言っているだけの言葉だ。この言葉に対する反応はさまざまである。三国の平和な時代において初めて出た北郷一刀の弱音だという声も少なくない反面、激務の中でも「平和の取得は武官の功績、平和の維持は文官の功績」と文官たちに政務の重さを認識させ、奮起させる深い戒めと発破の言葉だという声は非常に多い。残念ながら、この言葉をいつどのような状況で発したのか、それは一切記録に残っていない。しかし、北郷一刀がこの言葉を発するほど、日々の政務が激務であったということくらいは読み取ることができる。
三国の折衝の激務に疲弊する文官、それの意味するところは、近い将来この政治体系が崩壊することを意味していた。
北郷一刀はこの政治体系の危うさに気付いていたようだ。現に後年、司馬懿に大陸を譲っている。しかし、戦乱の傷跡が癒えていない段階で下手に国を統一しても、国内で軋轢が生まれ、真の統一を果たす前に五胡に付け入られるのは想像に易い。残念ながら、下策だとわかっていてなお、三国が本当の意味で和解し合うまでの猶予を稼ぐ必要があったのだ。
この頃大陸では様々な催し物が開かれていた。天下一武芸大会や将棋大会、木登り一番乗りに音楽祭、大食い対決、女装大会、競馬など。現代でも見かける催し物の起源もあちこちに見受けられる。これらは民の傷を少しでも癒すための催し物と長く考えられてきたのだが、中世になって別の見方が浮上し、現代ではそちらが有力視されるようになった。
それは『ストレスの解消』、および『反発の中和』である。人間は善きにしろ悪しきにしろ、変化にストレスを感じる生き物である。当時を生きた多くの世代は、漢王朝の末期ながらも治世を生き、群雄割拠の乱世を生き、そして三国同盟から晋の成立とそれからも長く続く治世を生きたのだ。これだけの変化にストレスを感じないはずもない。
この見方は、17世紀、心理学が学問として確立し始めた頃に提唱されたものだ。現代日本でも、「ストレス発散」という名目でカラオケなどの小規模なイベントを催すことは決して珍しいことではない。単純にそのスケールアップ版だと思っていいだろう。
三国同盟時代の北郷一刀は、大陸のあらゆる分野に、革新的という言葉ですら足りないほどの改変を行っている。彼の影響を受けなかった分野のほうが少ないほどだ。
もちろんそれだけの変化に反発して、各地で反乱も起きていた。しかし、その規模も頻度も、後の時代のどの指導者も驚愕するほど小規模、低頻度なのだ。黄巾の乱から続いた戦乱で大陸全体が疲弊していたとしても、この頻度は異常の一言に尽きる。
漢王朝から三国同盟時代までの治政を比較してみると面白いことがわかる。
まず漢王朝のころの治政は絶対王政で、税は「家族の人数×一人頭にかけられる税=一家に課せられる税」という計算で課せられていた。また、税が払えずに逃げ出すことを防ぐために、他の州への移動に税がかけられ、そこかしこに関所があった。法はあれど、罰則は土地を収める官憲に一任され、「ある地方では窃盗で死刑になり、またある地方では殺人でも恩赦が下される」といった具合に罪に対する罰が一定ではなかった。警備は軍が行い、各地の治政は漢王朝に指名された州牧などの代行者に一任されていた。
三国同盟時代の治政は北郷一刀を議長にした三国の王による合議制、税は「田の保有面積×単位面積当たりの税=一家に課せられる税」という計算で課せられていた。収穫量が少ない土地には調査が入り、やむを得ない原因でなおかつ、生活すらままならない可能性が出た場合のみ、世界初となる生活保護が受けられた。他の州への移動に税をかけることをやめ、関所をほぼ撤廃した。法が絶対であり、罰則も規定され、「どこであっても窃盗は鞭打ち30、殺人は死刑」など多少の恩赦や情状酌量はあれど罪に対する罰が均一化された。「法の下に人は平等である」とし、法を犯した者はたとえ王であろうとも、平民と同じだけの罰を課せられる形をとり、為政者を縛る世界初の法律となった。警備は軍ではなく警備隊が行い、各地の治政は王が大まかな方針のもとに州牧などの代行者に一任されていた。
おわかりいただけただろうか。三国同盟時代に編み出された税や法は、当時としては革新的で、古代というよりむしろ現代のそれに近い形をとっている。そもそも、生活保護などという夢想の中にすら存在しなかった概念を、一足飛びに実用段階まで持ち込んでいるのは驚愕に値する。また、当時誰も考えもしなかった『権力者を縛るための法』は、後の時代のあらゆる権力者たちに大きな制限を与えた。おそらく北郷一刀は、歴史に名を連ねる数多の国々の末路から、その原因が政治の腐敗であったと考えたのだろう。
新たな国家への下地と、示した可能性。残すべきものと、残してはいけないもの。
北郷一刀は、改革を進めるにあたって『ある人物』と対話をしている。北郷一刀の無二の親友であり、北郷一刀自身が教えを乞うた、ある意味師とも言える人物。
―――『神医』華佗。
今なお、『医学界の神』と言われる、世界初の外科医として有名な人物だ。
神農大帝から脈々と受け継がれる五斗米道(※)の唯一の正統継承者であり、後述するが北郷一刀と共に龍の退治まで行ったとされる人物。当時の人々からは『医者王』と呼ばれ、民からの人気では北郷一刀に勝るとも劣らぬほどであったと言われている。
※五斗米道…発音は漢字圏にしては珍しい「ゴットヴェイドー」である。この読みを間違えるのは侮辱とされる。五斗の米を対価にいかなる医療行為も行うとする教えである。ただし華佗自身はこの「米」に関する教義をあまり守っておらず、重税に苦しむ村などでは無償で治療を行っていたとする記録が確認されている。五斗米道は医学としての教えだけでなく、五斗米道(ややこしいが、医学を含まない部分の場合は「ごとべいどう」と発音する)では悪行を行ったものでも三回までは許す、五斗米道を志す者は如何に困難な状況に陥ろうと決して諦めてはならないなどの教えも含まれている。なお、北郷一刀との対話をきっかけに華佗の手によって教義の一部が改変された形跡がある。
北郷一刀と華佗の衛生観念と治政、医学、文化、風土など様々に分野を題材に行った対話をまとめた本、『大陸王と医者王の対話』はあらゆる分野で教本とされ、医学の分野では四大聖書の一冊とされている。
華佗との対話は有名だが、あくまで一例に過ぎない。北郷一刀は各分野の専門家たちと対話をした上で、各分野への改革を進めている。しかしここまで革新的でなお、北郷一刀の目指していた形にはまだ程遠かったようだ。『北郷の書』の存在がそれを裏付けている。
現代に至ってなおも、『北郷の書』には未解明な部分も多い技術書である。それはつまり、現代でも未発見の技術を北郷一刀は識っており、北郷一刀の頭の中に描いていた無数の技術を成立させた後の理想世界に未だ到達していないということになる。
もっとも、残念なことに現在残っている『北郷の書』はおよそ6割程度しかなく、『北郷の書』では一度紹介された技術は、以降当然知っているものとして書かれているため、完全な解明はほぼ不可能であるが。
余談だが、『北郷の書』の第一巻は、歴代の中華王国の王族が代々継承されている。そして2007年1月26日初めてその一部が公開され、全容が公開されるのは今から2年後、2010年4月2日と発表されたのは皆様の記憶にも新しいだろう。
余談のついでに、この頃に関する『ある伝説』について言及しようと思う。それが事実であったのか、はたまた、ただのおとぎ話なのかはわからないが、内容は有名なので皆様もご存じだろう。北郷一刀の二つ名にもある『龍退治の英雄王』という御伽噺だ。内容は極めて簡単だ。
「民が疫病に苦しんでいることに悩んでいた王は、国一番の名医に意見を求めた。名医が言うには龍の肉があればこの疫病を乗り切れるという。王は国中から選りすぐった精鋭6人の兵と名医を引き連れ、龍の被害で荒れ果てた最果ての地に向かい、見事龍を退治し、その肉で民を救った。」
王というのは言うまでもなく北郷一刀、名医は華佗のこととされている。
龍は幻想上の生き物として知られているが、古代種、すなわち恐竜の生き残りのような生き物の存在は、記録として多く残っている。現実的には、南蛮に生息いていた大蛇と考える説がある。南蛮の記録では、全長20m級の超巨大な蛇もいたことになっているので、そう言ったものであった可能性は大いにある。しかし、古代種の蛇の骨が残っている訳ではなく、龍そのものの何かが残っている訳でもないので、北郷一刀らが実際何と戦って、何の肉を持ち帰ってきたのかは不明である。
ただ確実なことは、実際にこのころ疫病が蔓延しており、北郷一刀らが持ち帰った『なにかしらの肉』で、疫病に苦しんでいた民の多くが救われたという記録があるのだ。
龍と戦ったという御伽噺そのものは置いておくとして、『なにかしらの肉』に関しては、華佗が作った薬ではないかというのが私の意見だ。
龍とは古代より、希少な薬の原材料になると有名である。龍を退治して持ち帰った肉とは、龍を原材料にした薬と考えるほうが素直ではないだろうか。もっとも、龍にしても隠語である可能性も非常に高い。例えば猿や烏など、縁起のいい生き物として有名な動物を原材料とする薬が必要となった場合、信仰深い当時の人間がそれを素直に口にするはずもなく、やむを得ず龍の肉としたのではなかろうか。
なお、このとき北郷一刀が将軍級の人間を連れて行かず、少数の兵士の身を連れて出たことにも理由がある。この頃、五胡の動きが活性化してきていたのだ。
疫病で死にかけの国など、普通は接触したくもないはずだが、五胡には呪術師と言われる存在がおり、呪術師には疫病を浄化する力があると考えられていたため、彼らからしてみれば、大陸側が一方的に弱っている状態だったのだ。そして、この状況で将軍級の、特に三国同盟の要である北郷一刀につけるような主力級の人間がいなくなれば、即座に攻め入ってくるのは目に見えていた。そこで北郷一刀は賭けに出た。それは「王が自ら龍退治に向かうなど、敵をおびき出すための罠にしか聞こえまい」という文字通りの博打だった。しかし、疫病で兵士の大半が戦えず、民も満足に避難もできず、黄巾の乱から大陸防衛戦まで続いた戦乱の傷も癒えていなかった状況で、五胡と事を構えるには荷が重かった。
結果的に五胡は攻めてこなかったが、家臣一同から独断専行を諌められ、以後動きが制限されたのはご愛嬌である。
その後も長く次の国の下地創りに精を出していた北郷一刀だったが、世代交代の波が来た頃、遂に後継者を決めることになった。この時代は己の子孫に国を託し、一族で国を運営していくのが常であったが、北郷一刀は魏の無名の軍師、司馬懿に任せた。
しかも北郷一刀は司馬懿の治政に一切口出ししないことを明言し、歴史の表舞台を去っている。これだけ聞けば、司馬懿の陰謀説すら囁かれかねないが、当時の司馬懿の地位から考えれば、司馬懿の陰謀が北郷一刀に届くとは考えにくい。おそらく司馬懿の才を見出したのだろう。
司馬懿は国号を『晋』に定め、その後永く司馬一族の時代が続く。国が一つになったとはいえ、北郷一刀らの敷いた下地のおかげで、有名無実化していた三国の国境がなくなっただけで、大きな混乱にはならなかった。
曹操や劉備といった名だたる英傑の最期についての資料はない。遺言として「自分の葬儀に金などかけるな。そんな金民のために使え。死体はその辺の山にでも適当に埋めればいい。」と言い残しているためだろう。ただし、一人だけ例外的に気になる人物がいる。北郷一刀だ。
時期は不明だが、北郷一刀だけは死に関する明確な資料がある。北郷一刀だからそう感じたのだろうが、私にはどうも胡散臭いような気がしてならない。
彼の死に関する一文がこれである。
『天の御使いは天に帰った。』
私が気になっているのは『天に帰った』という部分なのだ。おわかりいただけただろうか。
天に
天に
天に
しかも彼の最初の二つ名は『天の御使い』である。これではまるで郷里に帰ったように感じるのだ。
序文でも呈した疑問をもう一度ここに呈そう。
北郷一刀を指す言葉、『天の御使い』とはどういう意味だ。本当にその優れた能力に敬意を表しただけの言葉なのか。
北郷一刀が余生を過ごすために、どこかの郷里に
真っ先に思いつくのは北郷一刀が劉一族、すなわち皇族の一員であった可能性だ。皇帝とは『天子』、つまり天意の代行者であり、その使いなら天の御使いと呼んでいい人物だ。しかし、これと全く同じ条件を満たすはずの劉備は『天の御使い』と呼ばれていない。かつて荊州を治めていた劉表や、同じく益州を治めていた劉璋といった正式な血統書付きの劉一族も同様である。
次に思いつくのは北郷一刀が日本人であった可能性だ。少しわかりにくいかもしれないが、この時代の日本は邪馬台国であり、その国主は卑弥呼である。卑弥呼と天照大神を同一視する説は有名だろう。そこから卑弥呼=天照大神、天照大神の頭文字である『天』を取り、その名代、あるいは邪馬台国から来たという意味で『天の御使い』と呼ばれた可能性がある。ただ、この説にも問題があり、三国同盟時代に邪馬台国から使者が来たことがある。『漢委奴国王印』あるいは金印と言えば、誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。その時北郷一刀も使者と会っているのだ。だが、その場にいた誰一人として、使者を『天の御使い』と呼んでいないらしい。なにより、金印を渡したとはいえ、仮にも三国同盟の要となった人物の出身地からやってきた者を相手に、宴を開いて歓迎しなかったのはいささか疑問が残る。少なくとも当時は、同郷の者が訪ねてきたときは宴を開いて歓迎するのが一般的で、それをしないのはよっぽど生活に困っているか、あるいはただの常識知らずとされていた。三国同盟の要がそんなくだらないことで顰蹙を買うことはしないだろう。
大陸の内外問わず、『天』に相当する地名や血統、あるいは肩書まで視野に入れてなお、それは決して多くはない。むしろ、この二つを除けば、他の可能性など、それこそ本当に天から降ってきたくらいしか思いつかない。
しかし、手掛かりが全くないわけではない。『北郷の書』、その第一巻だ。中華王国が長く守り続けているあの第一巻にこそ、『天の御使い』に至る手掛かりが残されているのではないか。私はそう考えている。
第一巻のみなのだ。北郷一刀から司馬懿に託され、以後長く受け継がれ、歴史の中で失われたものも全て含めた『北郷の書』の中で、唯一第一巻のみが中華王国が国家を上げて中身を秘匿しているのだ。
私は中華政府から2010年の第一巻公開に立ち会うように打診を受けている。そこで何が待ち受けているのか、それは私にもまだわからない。だがおそらく、私はそこで知ることになるだろう。『天の御使い』北郷一刀が、中華を統べた歴代の皇帝がひた隠しにした歴史をひっくり返す何かを。
~~~あとがき~~~
まずは本書を手に取っていただき感謝いたします。
いかかでしたでしょうか?
歴史的に最も異端な人物をクローズアップした、ただの歴史考察のつもりでしたが、SF的な要素が入り、いささか詠み辛くなってしまったことをここに深く謝罪いたします。
さて、歴史研究家として随分異端な私でございますが、物事を考察するという一点に関してはいささか自信がありました。
私は多くの物事をまず一度分解し、一つ一つにとっての答えを導き出したのちに、大前提と大局の折り合いをつける考え方をする人間です。
私のこの考察の癖のせいで、三国時代の史実を三つに分けるという恐ろしい暴挙に出たわけなのですが、思いのほか整合性が取れたことに私自身も驚愕しております。実を言うと、内心では歴史を分けて整合性が取れるはずもないと冷静に分析する思いもありましたし、2010年の『北郷の書』の第一巻の公開の後に執筆したほうがよかったことは重々承知の上でしたが、一身上の都合により執筆に踏み切り、なぜか整合性が取れてしまいました(苦笑)。
本来であれば、もう少し長々と書きたいことがあるのですが、私事で大変恐縮なのですが、皆様に助けを求めたく、このあとがきのページを使わせていただきたいのです。
私には、高校二年生の息子がおります。
剣道をやっていますが、腕はそこそこで、学力も平均的。根は優しく、他人のことでも自分のことのように思い悩み、いささか正義感が強い気がある子なのですが、実は8か月前、突然行方が分からなくなってしまったのです。
最後の息子の目撃情報は、8か月ほど前の夜に、学校の寮から竹刀袋を持って外出する姿でした。
息子はたまに外で素振りをしていたので、目撃した男子生徒も特に気には止めていなかったらしいのですが、その日以降、息子の足取りが掴めなくなってしまっています。
家出の可能性も勿論考えましたが、そもそも次の仕送りの数日前であったため、懐事情がそう良いはずもなく、息子の通帳や印鑑も寮に残ったままでした。
私も親として四方手を尽くして捜索いたしましたが、ついぞ手がかり一つ見つけることができませんでした。
現在わかっていることは、2008年4月11日、つまり息子が最後に目撃された日の夜、何者かが息子の通う学校の資料館の骨董品を盗んだということだけでした。
当初警察は息子に疑いをかけていましたが、そもそもその骨董品がいつの時代の誰にどう使われていたものなのか、ほぼ不明の品だったことと、息子と資料館の接点がその日の前日に友人に誘われるまでなかったことが幸いし、息子はむしろこの事件に巻き込まれたという見方が強まっているとのことです。
骨董品はどうやら美術的な価値があるものでも、歴史的に大きな価値が証明されたものでもなく、仮にマニアに売っても、そう値がつくものではないそうです。私も歴史研究家として骨董品の資料を見せてもらうことに成功しましたが、多少状態のいい物ではあっても、学術的観点からしても代わりはいくらでもある謎の骨董品でしかありませんでした。
私は皆様に伏してお願い申し上げたい。
どうか、息子の目撃情報等ございましたらご一報いただきたいのです。
息子の顔写真を掲載しておきます。
どうか、どうかよろしくお願いいたします。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
あとがき
どもども~心は永遠の中学二年生です。
今回は萌将伝でした!
萌将伝的な要素が少なくてすいません!!
そして、やっぱり遅くなってマジでごめんなさい!!!
m(__)m
著者について・・・気付いていた方は気付いていらっしゃったのではないでしょうか?
4年前の最初の投稿の段階から無駄に考えていましたww
日付は気付いていただけると嬉しい・・・
わざわざ調べたあの日付・・・
今回で一応、外史書は完結です
外伝的な作品はありますが、あれを上げるかは未定です
モチベーションが上がるか、リクエストがあれば上げるかもしれません
それでは皆様、またの機会がありましたら、よろしくお願いいたします!!!!