それはなかなか消えない、彼にとっては大きく複雑な悩みだった。
人里の長屋生まれの◯◯。なんの変哲もないその自己紹介は、生まれてからの二十何年間、何度も幻想郷で使ったものだった。
幼少期、自分では特に変わった所はなかったと思う。寺子屋に通える程度には裕福で、他の同年代の子供たちや、里の守護者でもある慧音先生と一緒に勉強に励んできた。
抜きん出て優秀だった訳でもない。成績は並程度だったし、たまには宿題を忘れて頭突きをくらい、廊下に立たされたものだ。
ただ、十代半ば……周りがそれぞれ異性を意識しだしたり、両親と仲が悪くなりだしたり、いわば「大人」の入り口に立つそんな年頃で。
自分の中で、色んな事に興味が湧きはじめた。
先生の友人の阿求さん、もとい稗田家はどうして金持ちなのか。
自分の住む里はどのようにして運営されるのか。
里にはどうして妖怪に管理されるルールがあるのか。
そのルールは誰に、どのような利益をもらたしているのか。
寺子屋で、黒板から写して習った事だけでは、理解した気には到底なれなかった。自分の手で世の中の裏を、清も濁も掴みとってやりたい。そんな背伸びした、奇妙な願望がムラムラと燃え上がりはじめたのだ。
今にしてみれば、その年頃の人々というのは誰しも方向はどうあれエネルギッシュになるものだと思う。しかし私は(これも珍しくないと思うが)そんな自分の目的意識が他の皆にはない、特別なものだと勘違いしていた。自分が周りより知的欲求の高い、賢い人間だと思い込んだのだ。
細かく思い出すとそれはもう顔から火が出るほどに恥ずかしいのだが、ともかく当時の私は話す機会さえあれば幻想郷中の様々な人に不躾な質問をし続けた。
稗田家はどうやって稼いでいるのか。
霊夢さんは貧乏な時期にどんな気分でいるのか。
お寺の人々は何故わざわざ人間を襲わないように努力しているのか。
他にも守谷神社や永遠亭などにも出向き、思うままに疑問をぶつけてみた。金、神、信仰、人の生き死にについて……。
しかし、どうしても肝心なところが分からない……というより、腑に落ちない気がした。一番大きなわだかまりが解けないというか……。
それを自覚しはじめたのは、ある出来事がきっかけだった。
寺子屋でよく会っていた一人の少年が死んだのだ。人里から帰る時間が遅くなり、妖怪に食われてしまったのだという。
寺子屋は一日だけ休みになり、先生も参加して葬儀が執り行われた。両親は泣き伏し、私も他の子供たちも、それほど仲良くなかったにも関わらず、ホロホロと涙を流した。
しかし、喪が明け幾日か経つと、皆は普段通りの――少なくとも外見上は――姿に戻っていった。たまに死んだ子の話題が出たとしても、運が悪かった、と寂しそうに口にしてそれっきりだった。
夜に里の外に出れば死ぬ。幼い頃から聞かされていたそれを、子供の時は当たり前だと思っていた。しかし、当時の私には何故それが"当たり前"なのかと気になった。
人間の里は狭い。子供の足でも数時間歩けば端から端に着いてしまう。そんな場所で一生を過ごす事に、不満を持つ人がいないとは思えない。それに、巫女や魔法使い、一部の人間はどこでも怯える事なく飛び回れる特殊な力を持っているではないか。
里の範囲を広げたり、妖怪の活動を抑えたり、そんな事は出来ないのだろうか。考えるうちにそう思った。
あれは結局のところ、『自分とは何者か』という究極の問いに通じる疑問であったと思う。自分がどんな社会や環境にいて、どんな影響を及ぼせるのか。それを意識的に確かめた一歩であった。
しかし先生や阿求さんなどの有識者、あるいは巫女や風祝などの実力者の方々に、件の里や妖怪へ手を加える話をしてみても、苦笑いをして流されるばかりであった。時には、自然の猛威と同じように、妖怪の猛威も逆らえないものなのですよ、と教え諭すように言われた事もあった。
それでも往生際悪く知り合いに話したりしていると、それが要注意と見られたか単に鬱陶しがられたのか、今度は友人がなかなか会ってくれなくなった。私は疑念を自分の中でこねくり回すばかりの、鬱屈した日々を送った。
……やがて寺子屋にも通わなくなった頃、その評判は両親へ伝わるところとなった。両親は私の悩みを『若さからくるハシカだ』と一笑に伏した上でこう付け加えた。
「それにしても、お前のニヒル趣味もこの辺で止すんだね。あんまり長引くと世間様が許さねえからな」
その頃、これまた年齢のせいか、私は自分の両親というものを酷くあてにならないものだと考えていた。
それも手伝っての事だと思うが、私は親が言った『世間』なる言葉が、その時イヤに引っかかった。
世間とは、一体なんなのだろう。人間の複数だろうか。どこにその世間というものの実体があるのだろう。
世間が許さない、酷い目にあう、葬られる……。
世間ではなく、あなただろう。許さないのは、あなただろう。今まで世間がどうだとやたらと大層な主語を使って、人生の先輩ヅラをしてきたのはあなたじゃないか。
そのように両親へ反発しかけたが、しかし、両親の言った『世間』なるものは意外にも私にヒントを与えてくれた。
世間というものは、結局一人一人の集合体をなんとなく言い表したものに過ぎない。ならば、一人一人に地道に語りかけていけば、もしかしたら大勢を動かす事に繋がるんじゃないか? と。その発想は里のシステムを変化できないのかと悶々としていた私にとって、遥か遠くの、しかし確かな光明だった。
しからば、大勢に訴えかける手段とは何か。人を一ヶ所に集めて演説する、というのも考えたが、飽きて立ち去られたり、聞いても後に忘れたりする事もあり得る。
やはり文字に残す方が良いだろう。そう考えてビラ配りをする事に決めた。毎日決まった場所で配り続ければ、狭い里だけに興味を持った人が再び会いにきやすいという計算だ。
ビラとなれば一枚ではいけない。同じ文言を書いた紙が何枚も何枚もいる。となれば手書きでは無理なので、私は印刷を頼む事にした。
印刷そのものは初めてだったが、昔から鈴奈庵という貸本屋でやってくれると聞いていたので、私は『里の住民としてこんな望みはありませんか?』などと問いかける文面の原稿を持ち込んだ。
しかし、そこで誤算があった。印刷などに料金がかかるのは知っていたが、それがべらぼうに高かったのだ。とても里の個人で賄える金額ではなかった。
店番をしていた小鈴ちゃんなる少女に困ったような顔をされながら、私は金の算段をしようか別の手を打とうかと頭を抱えていた。そんな時だった。
いつの間に来ていたのか、阿求さんが私の作ったビラの原稿をグイッと覗き込んだのだ。かねてからの友人らしい小鈴ちゃんは微笑んで挨拶していたが、私は居心地がとたんに悪くなった。阿求さんは私が質問をした中でも、特につれない態度をとった人だったのだ。
阿求さんは原稿をひとしきり眺めると、ふぅと大きなため息をつき、あろう事かそれを目の前で堂々と持ち去ってしまった。私がえ? と目をしばたかせていると、小鈴ちゃんはますます困ったような顔をしていた。
だがその日の夜の事である。寺子屋でお世話になっていた慧音先生が、思いがけなく自分の家を訪ねてきたのだ。例のビラの原稿を取り出し、『阿求に頼まれた』と笑った。存外、あの人も気を配ってくれたようだった。
両親にも内緒で話をしようと、私の自室に二人きりになった。先生に取り置きの酒を出しながら、初めてじっくりと自分の考え、苦悩、望みを吐き出した。里の構造の事、里人に向けた行動の事、幻想郷での自分のこれからについて……。
先生はそれを最後まで丁寧に聞き、しばし目を伏せて黙った後、こんな事を言った。
「……お前はつまり、里の仕組みを変えて幸福になりたいという訳か?」
幸福になりたい、その聞き慣れない言い回しに戸惑いながらも、私は頷いた。かつての葬儀の時のような悲しみを減らすには、仕組み、システムに手をつければいいと考えていたのだ。
先生はそれを聞いて小さく唸ると、神妙な顔になり、声をひそめて言った。
「幻想郷の里の人間というものについて、話してやろう」
それから、幻想郷の成り立ちを改めて聞かされた。外の世界で力をなくした妖怪が、存在し続ける為に創った場所。
そこでは人間は『妖怪に襲われる』という役目を持った"
しかし、その要求が通る事は恐らくないだろう。何故なら幻想郷に『妖怪の為の場所』という前提があるから。誰が幸福だ不幸だという以前に、そのような場所が望まれたのだ。弱い立場の人間たちがいるのも含めて。
外の世界では、人間たちが様々に幸福を求め続けている。現状を絶えず否定し、過去の仕組みをどんどん変える事こそが幸せにつながると言う人々だっている。
だがもし、幻想郷で同じような志を持ったならば、大変に生きにくいだろうと先生は言った。
更に、先生は恐ろしい事を言った。以前からの言動が災いし、私は裏でこっそりと巫女や妖怪の賢者に目をつけられているというのだ。
私が動揺すると、先生は選択肢を三つ提示してきた。
一つは、自分の考えを表に出さず平穏に生きるか。
二つは、先生の『歴史を食べる能力』を使い自分の余計な歴史、悩んだ記憶を消してもらい生きるか。
三つは、私という存在を例の能力で『いなかった事』にし、ただの一個の記憶喪失者として外の世界に追放されるか。
先生は強く一つ目を推したが、私は考える時間をくれと言った。他の人はどうだか知らないが、やっと身につけた主義、思想めいたものを捨てる気には、私はなれなかった。
先生は無理強いするでもなく、それなら待つよと微笑んだ。そして私の手をとると、今更ごめんな、と何度も頭を下げてきた。幼少からの付き合いだからか、間近に見ると少し老けているように見えた。
これを書いている今になっても、結論はまだ出ていない。一時の気の迷いだと断じて、現状に満足するのも無理だとは思わない。先生や友達、親や知り合いに未練もある。
だが、それは大切なものを捨てる事でもあると思う。生きている間に、出来るだけ良い未来を作っていきたい。そういう願望も昔から残っている。
ただ、誰にこれを向けて書いたという訳ではないが、少なくとも迷いを文章にしただけでも価値はあったと思う。どのみちいつまでも今の状態ではいられまい。改めて考える良い機会になるだろう。
―
「……以上。これが最近見つかった『正体不明の日記』よ」
……長い長い文面を読み終えた小鈴は、椅子の背もたれにどっかと体を預ける。
いつもの鈴奈庵の店内で、小鈴と阿求は一冊の日記を座って眺めていた。机の上に置かれた日記帳は、長い間使われていないのか少し色褪せている。
小鈴がうんと背を伸ばす横で、阿求は眠たそうなため息をつく。そして気だるげに小鈴に言った。
「これに妖怪が絡んでいるかも、って本気?」
「本気よ。だって誰が書いたものなのか、全然分かってないんだから」
小鈴は頬を膨らませて言いつのる。彼女は奇怪な出来事が大好物だ。しかし阿求はページをめくりながら異を唱えた。
「だってさ、里でしっかりと交流があって、巫女に睨まれるよう事までしてるのよ? 身元なんてすぐ割れると思わない?」
阿求はページを指差しながらそう指摘する。すると小鈴は一瞬押し黙り、もどかしそうに頭をかいた。
「それがね……私も色々聞いて回ったけど、ダメなの。この◯◯って名前、知ってる人が全然いないのよ」
「……そう。そうよね」
「え? なんか言った?」
一人で合点したように頷く阿求を見て、小鈴は首をかしげる。「何でもないわよ」と答えてから、阿求はふと天井を仰いだ。
慧音の歴史を食べる能力、それは阿求や一部の妖怪には通じない。もはや◯◯の行方を知るのは、その能力が通じない者たちと慧音本人だけだと、阿求は思った。
彼は今幸せなのだろうか。預かり知らぬ事だが、どうせなら幸せであって欲しい、と柄にもなく考える。
「あ」
ぼーっとしていると、小鈴が声をあげる。阿求が見ると、あるページの数行を指で示す。
「見てここ。ページをまたいで何か書いてある」
「んー……?」
そこには、こうあった。
――多分他人に見せる事は無いだろうが、もしこれを読んだ人がいるなら聞いてみたい。
貴方がこの立場なら、一体どうするだろう?――