The Boss in Ikebukuro 作:難民180301
新宿 折原臨也のオフィス
完成されたキャラクターが主役の物語はそう多くない。ここで言う完成っていうのは、たとえば精神的に成熟していたり、バトルものの世界観で最強無敵の力を持っていたりすることを指す。
なんでそういったキャラクターが主役になりにくいのか。答えは簡単、物語が盛り上がらないからだ。強大な敵や障害に絶望し、努力し、乗り越えて成長する基本的な面白さがないんだ。まあネット上の無料小説や同人界隈なんかじゃ、こういう成長しきった最強のキャラクターが快刀乱麻の大活躍を見せる展開が好まれることもあるけど、俺は面白いとは思わないねぇ。人間は変化や揺らぎがあってこそ。リアルに明鏡止水の境地に至った人間がいたとしても、レアケースとしての価値しかないよ。
だから今回、黄巾賊とブルースクウェアの抗争に彼女――ボスを巻き込んだのはほんのついでだった。特に何かを期待したわけじゃなくて、ちょっとした思いつきだったんだ。沙樹をボスに接触させ、無理やり抗争との関係をこじつけるまではよかったんだけど、その後がいけない。
沙樹はボスにすっかり宗旨替えするし、正臣くんは立ち直ってるし、おっさんくさい女子中学生が出てくるし、絵に描いたようなしっちゃかめっちゃかっぷりだ。
あの蛇野とかいう中学生たちだって、当初は僕の手駒にするつもりだったんだ。でも僕より早く沙樹が接触してボスに引き合わせたもんだから、手出しできなくなった。まあ、あんな無茶苦茶な子たちを手駒にしたってむしろ損してただろうし、結果的にはよかったんだろうね。
そう、よかった。ハッピーエンド。正臣くんと沙樹を主役に据えた悲劇なんてなかった。メインキャラはみんな笑顔で幸せになってめでたしめでたし――なんて、俺が絶対に認めないよ。自分の趣味がここまで、しかも無自覚に邪魔されておいて黙っていられるほど、俺は我慢強いタチじゃないんだ。厭らしく陰湿にねちっこく仕返しをさせてもらうさ。
大した額も出せない君にこうして格安で
自業自得? 彼女の情報じゃなくて俺の失敗談だろうって?
やれやれ、ケチをつけるくらいなら自分の携帯で検索してみなよ。「兵士 最強」で検索すれば彼女の情報はいくらでも転がってる。え、ネットの使い方?
……それは極めて貴重な情報だからねぇ。本来なら一万はもらうところだけれど、特別に学生割引で五千円だ。どうだい?
取り引き? ――コブラ部隊の幻の隊員、生霊、ザ・ソロー? あんまり調子に乗っていると祟られる?
なるほど、都市伝説の類にしか聞こえないけれど、君みたいな存在が言うと説得力があるねぇ。参考程度に覚えておこう。
いやいや、うちは現物交換なんて時代遅れなことやってないからね? ほら、情報が欲しかったら出すもの出しなよ。君の大好きなボスのことがたった五千円で分かるんだ、安いもんだろう?
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池袋 サンシャイン60通り
池袋駅からサンシャインシティに通ずるこの通りには、池袋最大の繁華街が形成されている。平日の昼間ではあるが、さかんなキャッチセールスの文句が飛び交う中、営業で飛び回るスーツ姿のサラリーマンや最後の青春を謳歌する大学生たちの姿が入り乱れ、雑多な雰囲気を醸成していた。何か事件でもあったのか、路地に設置された自販機の周りに人だかりができているものの、不穏な空気も含めて街の風景に溶け込んでいる。
しかし通りに面したあるハンバーガーチェーン店の店内に、街の空気から若干浮いた一画があった。
テーブル席に一人で座り、機械的にハンバーガーを咀嚼している女性。彫りの深い顔立ちや後ろでくくった金髪、青い瞳などの日本人離れした容姿が人目を引いているが、恐ろしく鋭い目つきを見たとたんにみんな揃って目をそらす。硝煙と血の臭いを連想させる剣呑な空気が、彼女の体からにじみ出ていたからだ。
そんな彼女――井上さんことザ・ボスに背後から近づく人影があった。徐々に距離を詰めていく人影を見て、通行人はすわ刺客か暗殺かと目をむく。
「――フッ!」
「ぐほぉっ!?」
「……ジョニー? 何をしているの?」
が、人影がボスの肩に手をかけようとした瞬間、人影は前のめりに崩れ落ちた。座ったまま体をひねって繰り出されたボスの肘鉄が、人影の股間に直撃したのだが、あまりの早業のため一般人にはジョニーと呼ばれた人影がひとりでに倒れ込んだようにしか見えない。
よく分からないけれど何かすごいものを見た気がする、と曖昧に感動して去っていく野次馬たちを尻目に、ボスはどこかバツの悪い顔でジョニーの背中をさすった。
「
「悪かったわね。最近気が立ってるのよ。ケガしたくなければ、気配を消して背後から近づくのはやめた方がいいわ」
「先に言ってくださいよぉ……ふぅ」
ジョニーは脂汗を拭い、ボスの向かいの席に腰をおろした。ボスが街中であることを意識して威力を加減したとはいえ、なかなかタフな青年である。
青年の名は今村ジョニー。名前が示すとおり日本人と白人のハーフであり、スッと通った鼻稜と涼し気な目元はハンサムと言う他なく、性別にかかわらず魅力を感じさせる顔つきである。といっても、お調子者で要領の悪い内面が外面の良さをすっかり中和しているのだが。
ボスの同僚でもあるジョニーは、ボスともう一人のスタッフと合流して午後の現場へ向かうため、待ち合わせ場所に現れた。すると店の入り口からボスの背中が見えたので、ちょっとしたイタズラを企んだというわけだ。
「しかし気が立ってるって、午前の現場で何かあったんですか?」
「違う。最近妙な視線を感じるのよ」
「視線なら今だって集めまくってるじゃないですか。ほら、俺がハンサムだから美男美女のカップルと思われてるのかも!」
「言葉では言いにくいけど、厭らしくて陰湿でねちっこい、奇妙な意思を感じる」
「俺の決死のジョークはスルーですか……」
妄言をサラっと流されて落ち込むジョニー。いつものことなのでボスは気にせず、最近の妙な気配について考えを巡らせる。
明確にいつからといえば、黄巾賊とブルースクウェアの抗争が決着した一ヶ月前からだろうか。外に出るたびに奇妙な意思のある視線を感じるようになった。当初は自分の容姿に対する好奇の視線かと思ったのだが、ボスがいくら周囲の雑踏を観察しても出どころがまったくつかめない。しかし隠密に長けたプロの類に特有の、粘ついた害意は感じられない。長い戦場での生活では感じたことのない何者かの意思に、ボスは警戒を厳としていた。
「そういうことだから、しばらくは私の背後に立たないで」
「元々ラスボスっぽい顔してるくせに、どこぞのサーティーンみたいなことまで言い出したぞ……まったく、最近の自販機通り魔の件といい、物騒な世の中になっちゃいましたね」
「そう? 元からでしょう」
自販機通り魔とは、近頃池袋を騒がせている自販機の連続破壊事件のことだ。なぜか特定のブランド名が印字された自販機が次々に破壊されているのだが、異様な破壊痕に注目が集まっている。
破壊された自販機は、まるで一刀両断されたかのように真っ二つになっているのだ。切り口は工業用裁断機を使ったようになめらかで、得体のしれないサムライか何かが潜んでいるなどの噂が絶えない。中には同業他社が雇った凄腕の殺し屋が云々、などと突飛なものさえある。
ただ、ボスにとっては「池袋なんだからその程度普通でしょう」くらいの感想しか湧かない、ありふれた日常だった。
「それより、午後の現場には三人で向かうと聞いている。もう一人は?」
「さあ、俺もいきなりこっちに回されたんで詳しくは……あ、来たみたいですよ!」
ジョニーの視線の先に目を向けると、バーテン服を身にまとい、サングラスをかけた金髪の男が店に入ってくるところだった。男は入り口で何かを探すように店内を見渡すと、まっすぐボスとジョニーの席に向かってくる。
「お疲れ様、静雄」
「……お疲れっす」
ボスと日本人特有の挨拶を交わした青年の名は、平和島静雄。池袋最強の喧嘩人形、喧嘩を売ってはいけない人物として知られ、一度キレると自販機でもポストでもコンビニのゴミ箱でもぶん投げて武器にする人間離れした怪力が特徴だ。
といってもその力とキレやすい性格が災いしてか高校を出た後の職探しに苦労しているようで、黒に近いグレーな仕事が多い企業――つまりボスの所属する警備会社に最近入ってきた。ボスとジョニーは静雄と何度か同じ現場で働いたこともあり、知らない仲ではない。
といっても、知ってる仲だからこそ調子に乗るのがジョニーの性格だった。
「よーう静雄! 待ち合わせ時間ぴったりに登場とは偉くなったなぁ! 先輩を待たせるなんてどういう了見だ?」
「……」
「ジョニー」
静雄の眉間に亀裂のようなしわが一つ。ボスはジョニーをたしなめるが、先輩風を吹かせるジョニーの耳には入らない。
「社会人なら十分前行動は基本だろ! まったくこれだから最近の若者は……」
「……っせぇな」
「ん? なんだ聞こえないぞぉ?」
「うるっせぇっつってんだよ! テメーだって最近の若者だろうがクソ野郎ォ!」
激昂した静雄の魔の手がジョニーの胸ぐらに伸びる。大型自販機を片手で投げ飛ばす静雄の手にかかれば、ジョニーを力任せに窓へぶん投げて店の外へ放り出すことだって簡単だ。実際、静雄はそうするつもりだった。
「あいてっ!?」
「……!」
が、そこにボスが介入する。瞬時に席を立ったボスは、すさまじいエネルギーを宿した静雄の手を絶妙な角度で払い除け、もう片方の手でジョニーの頭をはたく。
腕を払われ呆然として固まる静雄と、大げさに痛がるジョニー。ボスはまず、ジョニーを睨みつけた。
「ジョニー。あなたに悪気がないことは分かっている。でも、もう少し言われる人間の気持ちを考えなさい」
「は、はいぃ……」
「静雄。気持ちは分かるけど、仕事の前に人員を減らされると困る。今はこれで手打ちにしてくれる?」
「……はい。このクソ野郎をぶっ殺すのは後にとっとくっす」
「ええ」
「ええ、ってボス!? 俺、後で殺されるの確定!?」
喚くジョニーを無視し、ボスと静雄は席に着く。静雄は何事もなかったかのように持ち込んだ菓子パンを食べ始め、ボスも食事に戻った。不平たらたらのジョニーだったが、二度も同じ失敗をすると静雄より先にボスに制裁を食らいそうだったため、しぶしぶ黙り込む。
三人が現場を同じくしたときにはおなじみの光景だった。
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ジョニーのような口の軽いタイプ――良い言い方をすればムードメーカータイプの人間が静雄を怒らせ、仕事の現場に行く前に行動不能にさせられるトラブルはよくあることだった。同じトラブルがあまりにも連続したので、人事担当が静雄の解雇を考え出したころ、安定した仕事ぶりでクライアントからの覚えが良いボスに静雄を同行させた。すると驚いたことにトラブルはゼロ、クライアントからは静雄もボスも礼儀正しく真面目との高評価を得る。静雄の世話がボスに丸投げされるきっかけはこの件だった。
昼食を終えた三人は、クライアントに指定された店舗へ向かう。池袋の喧嘩人形こと平和島静雄と、大作ゲームか何かでラスボスを張ってそうな迫力のある井上さんことザ・ボスが並んで歩いているので、道中では雑踏が割れに割れた。二人の後ろで「ふっ、俺の威厳に恐れをなしたか」などと調子のいいことを言っているジョニーには誰も目を向けていない。
到着したのは大通りから一本外れた路地に建つ小さなビルだった。いくつかのテナントが入っているようだが看板には何も掲げられていない。ボスは勝手知ったるとばかり中へ入り、エレベーターで地階へ降りていく。
エレベーターを出ると、ボスたちはそれぞれ男女に別れてトイレへ入り、クライアントに支給された制服に着替える。男物のフォーマルな黒スーツだが、女性であるボスが着ても違和感がなかった。
代表してクライアントへ挨拶に行ったボスが帰ってくると、軽いブリーフィングが始まる。
「念の為仕事を確認する。私と静雄は店の入り口で客の顔と会員証を確認する。新規会員希望者がいれば、紹介元の人間と一緒に別室へ案内。ジョニーは店内で客を監視し、異常があれば適宜対応する。いいわね?」
「了解っす!」
「……はい」
今回の現場は、会員制の高級バー――の皮を被ったカジノの警備だった。ボスの所属する会社には用心棒のような仕事が多いが、きちんと警備員らしい仕事もある。その中でもこの現場は会員制で客をふるいにかけているためトラブルが少ない一方、覚えることが多くて難しい現場として知られていた。
まず、現会員の顔と名前を暗記しなければならない。新規会員を別室へ案内するには最低限の接客マナーが要求される。店内の警備では、客のイカサマに目を光らせる必要がある。
それだけの仕事を任されるということは、相応の信頼と責任が発生する。それらを背負った上できちんと仕事ができるスタッフは、今のところボスだけだった。
ボスと静雄が店の入り口に立ち、ジョニーが店内へ姿を消して数分後、店の営業時間が始まる。ほどなくスネに傷のありそうなごつい男連中が押しかけてきた。
「うぃーす、お疲れさん。ほい、会員証」
「確かに。どうぞ、いらっしゃいませ」
「……いらっしゃいませ」
「おっ、そっちの兄ちゃんは新顔だな? 細い体だけど大丈夫かぁ?」
「……」
絡まれる静雄。彼は無表情のままだが、メキメキと音の鳴るほど握りこまれた拳から苛立ちを察し、ボスがフォローに入る。
「彼は実によくやってくれています。お客様がたの安全は私と彼が保証しましょう」
「ヘッ、そりゃ安心だ。頼んだぜ」
「ええ、ごゆっくりどうぞ」
男たちは喧騒とともに店へ入っていき、ボスと静雄の間に再び沈黙が落ちる。
その沈黙を、不意にボスが破った。
「静雄」
「……何すか」
「よく我慢したわね」
「……いえ」
静雄が些細なことでも激昂する人間であることは分かっていた。そんな静雄があからさまに柄の悪い連中に絡まれたのに無言、不動を貫いたのだ。ボスとしては缶コーヒーを一本贈りたいほどの偉業だった。
しかし同僚の成長を喜ぶ一方、ボスの胸中に疑念が湧く。
(やはり解せない。なぜ静雄をこの現場に?)
喧嘩人形として恐れられる静雄だが、一見すると線の細い好青年にしか見えないし、言動も物静かで大人しい。いわゆる荒くれの男たちと顔を合わせる今回の現場では、静雄の外見を侮った男たちに絡まれ、トラブルに発展することは自明だ。
ボスが静雄の手綱を握っていると勘違いしているのか、それとも別の思惑があるのか――どちらにせよ、派遣元に意見する権利はない。できる限りのことをするだけだ、とボスは考えを打ち切った。
「なんや偉いヒョロそうなあんちゃんやなぁ。そんなんで警備務まるんか?」
「……精一杯、がんばらせて、いただきます」
「ほーう、謙虚なこと言うやん。そういう姿勢、嫌いやないで。がんばってなー」
「ごゆっくり、どうぞ……!」
(がんばってる、あなたはすごくがんばっているわ!)
拳を握りしめ、地獄の底から響いているような恐ろしい声音で客に応対する静雄。その三点リーダーでどれだけのイライラと殺意を抑え込んでいるのだろうかと考え、ボスは感動と称賛を禁じ得ない。
そうしてボスと静雄が客の応対に追われていると、ボスの無線機に通信が入った。
『ボスゥ! 助けて!』
「ジョニー? 状況報告、どうぞ」
涙声で助けを求めるジョニー。ボスは嫌な予感を覚える。
『き、客のイカサマを指摘したら、逆ギレされてっ……応対してたらストレスで腹がぁ……!』
「……了解。あなたはすぐにトイレへ行きなさい。絶対に店を汚さないように」
『ああっ、も、漏れるぅぅ!』
胃腸が弱いのはジョニーの欠点だった。手先が器用で目端も効くのでイカサマの監視には向いているが、その後の応対がほとんどできない。静雄がジョニーをクソ野郎と呼ぶのは割とそのままの意味の罵倒だった。
ボスは静雄を一瞥し素早く対応を考える。一人で静雄を店内へ送るのは論外だが、ボスがトラブル対応に向かっている間に静雄が悪質な客に絡まれる可能性がある。そうなれば店の入り口が半壊するかもしれない。
「ボス、行ってください」
「静雄」
ハッとして静雄を見る。無線機の音量は大きめで、当然彼にも聞こえていた。
「俺が一人で中に行っても状況が悪化するだけなんで。ここならまあ、一人でもちょっとはどうにかなりますし」
「……そうね」
結局、選択肢は一つしかなかった。ボスは「任せたわ」と言い残し店内へ向かう。
この店は会員制であるため、悪質な客は少ない。静雄のように大人しそうな外見の若者に絡むような客もいるが、全体で見れば数は少ない。そういった客がボスのいない短時間にピンポイントでくる可能性は、かなり低いだろう。
「なんだコラァ!? 人の運をイカサマ扱いしやがって、証拠でもあんのか、ああ!?」
「ですから、詳しくは別室でお話しさせていただきたくてですね……んもう、警備、警備は何やってんの!?」
「ここに」
店へ駆け込んだボスは、イカサマを看破されて大声で逆ギレしている客を発見し、背後から肩に手をかける。客の体を無理やり振り返らせ、すかさずフックの要領で下顎をかすめるように打撃した。脳を揺らされ、客は糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
「お騒がせしました」
意識のなくなったイカサマ師を抱え、別室へ運んで店員に任せた後、男子トイレへ直行。すさまじい異臭を発する個室の扉を強くノックし「ひぃっ!?」という悲鳴を聞いてから、店の入り口へ戻る。
半分期待、半分危惧の心持ちで戻ったボスの見たものは――
「人の悪口を言うなとは言わねえよ。人間だから好き嫌いはあって当然だ。でもよ、俺の知ってる人間の悪口を、当人のいねえところでコソコソ言いやがって――しかもそれを煽りに使うような陰湿な連中は、ぶっ殺されて然るべきだって、そう思わねえか?」
「ぐ、か……」
人相の悪いチンピラの首元を締め上げ、宙吊りにしている静雄の姿だった。
段々青くなっていくそのチンピラの顔と、ボスの会員リストが照合した瞬間、ボスは動き出す。
静雄の膝裏に鋭い足刀。体の落ちる静雄の腕をとり、静雄の自重にボスの力も加えて地面へ引き倒す。解放されたチンピラは四つん這いになり、激しくせきこんでいる。
そうしてボスは、どこまでも忠実に職務を遂行した。
「申し訳ありません、お客様」
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池袋 六ツ又歩道橋
すっかり日が落ち、多くの人々が帰路を急ぐ時間となっても、池袋の賑わいは変わらない。繁華街などは人工の光と夜に活動する職種の人々がひしめき合い、むしろ昼よりも騒がしさが増したようだ。
にわかに夜の活気をまとい始めた中心地からほど近い歩道橋の上に、静雄の姿はあった。いつものバーテン服に着替え、手すりにもたれた彼は、隣接する首都高速をぼうっと見上げていた。
(またやっちまった……)
脳裏に過るのは、気に食わないチンピラに平身低頭する
静雄は自分の馬鹿力が大嫌いだ。平穏が欲しいのに、自分の体も周囲の人間もまとめて破壊するこの力を嫌悪している。いくら超人的な動きができたって本人は何も嬉しくない。
高校を出てからは力と短気な性格のせいで仕事を転々とし、なおさら力への嫌悪を強める。そんな折に出会ったのが今の
ボスはいつでも簡明直截だ。静雄の嫌いなあいつのように理屈をこねくり回すことなく、徹底的に分かりやすい物言いで接してくれる。静雄の怒りを敏感に察して力を振るう前に止めてくれるし、力を振るっても決してうろたえず、傷つかない。静雄の性格も力もすべてを受け入れてくれる、家族以外では初めての人間がボスだ。
「お疲れ様、静雄」
「……お疲れ様です、ボス」
と、ちょうどそのボスが現れた。トラブルの後クライアントに追い出された静雄は一人でたそがれていたのだが、ボスも今仕事を終えたようだ。彼女の手には缶コーヒーが二本。
そのうちの一本を無言で静雄に差し出し、「どうも」と静雄が受け取る。
二人はしばし無言で缶コーヒーを呷った。頭上の首都高速を大型車が通ると歩道橋が揺れ、眼下の線路を車両が通るたび微風が吹く。
やがて、ポツリとボスが切り出す。
「今日はよくがんばったわ」
「……嫌味っすか」
「言葉通りの意味よ。前までのあなたなら、キレて手を出す場面が少なくとも四回はあった。よくこらえてくれた」
「でも、結局最後はあんな風になっちまって――すいません」
不器用そうに、小さく頭を下げる静雄。しかしボスは首を横に振る。
「若者が失敗するのは当然よ。少しずつ前に進んでいけばいい」
「……少しずつ前に進んでます。色んなもんをぶっ壊しながらね」
「何が言いたいの?」
静雄は自嘲気味に笑いながら訥々と語りだした。大嫌いな自分の力のこと、苦悩してきたこと、傷つけてきた周囲のこと――ボスは終始一言も発さず聞き役に徹する。
すべてを聞いた後、コーヒーを一口やって一言。
「折原くんはよく生きてるわね」
キュキャリ、と高い金属音。見ると、静雄のもたれる手すりの一部が手のひら型に陥没している。これだけの力を持つ静雄に追い回されてよく生きているものだ、という率直な感想だったのだが、静雄に彼の名前は禁句だったらしい。
「あいつの名前は出さないでもらえますか」
「そうしましょう。でも、私はあなたの力も性格も好きよ」
「は?」
「私だけじゃない。あなたのすべてを必要としている人間もごまんといる。その人たちがどんな仕事をしているか、分かる?」
「……分かんないっす」
「傭兵」
「はぁ?」
あまりにも非現実的な単語に静雄は耳を疑った。人間離れした静雄であっても生まれつき平和な国で育ってきた身だ。ボスの言葉が冗談にしか聞こえない。
「軍人ではない一介の兵士であれば、あなたはきっと肯定される。もちろん苦労も多いけれど、ありのままのあなたでいられるでしょう」
「……ぷっ、ははは。そういうことか。ありがとな、ボス」
「?」
生真面目なボスが冗談を言ってまで励まそうとしている、とようやく理解できた。とたん、ボスの仏頂面と突拍子のない冗談のギャップがおかしくなり、思わず噴き出してしまう。笑いと一緒に、ネガティブな気持ちは霧散していた。
もちろん、長年を戦場で過ごしてきたボスがその手の冗談を言うはずはない。静雄に傭兵という過酷な仕事を勧めたのは決して本意ではないが、この広い世界にありのままの彼を受け入れる職場はあるのだと彼女なりに伝えたかったのだ。
微妙なスレ違いを察したボスだが、微笑を浮かべる静雄からは暗い陰がとれている。多少でも若者の助けになれたなら、問題はないだろう。
「あー、こんな話をした後だと、言いにくいんだけどさ」
慣れない敬語ではなく、素の口調をさらけ出す静雄。言葉通り相当言いにくいことらしく、手すりを指でトントン叩きながら悩ましげに唸る。
「焦らなくていい――とはいえ、私も家に子どもたちを待たせているから、そうね、これを飲み終わるまでゆっくり悩むといいわ」
ボスは悩ましげに言葉を探す静雄を横目に、ゆっくりと缶を傾ける。表面にプリントされたBOSSが街灯の光を受け、キラリと輝いた。
この世界は、とてもシビアに出来ている。戦いのない平和な国の少年に過剰な力を与え、苦悩させる。その力に振り回された少年の性格は力を中心に形成され、周囲とは大きく違う独自の個性を生み出した。かといって、その個性を受け入れる環境は少年の手の届くところにないときている。まったくもってシビア極まりない。
ただ――シビアな現実と必死に向き合い、あがき続ける若人の姿は――
「
キン、と澄んだ音色と共に、ボスの姿が消失する。宙に残された缶が真っ二つに割れ、落ちる。
落ちていく缶から一滴の液体もこぼれないのを見るに、中身はとっくに干されていたらしい。事態の急転に理解が追いつかない静雄は缶を目で追いながら、とりとめもなくそう考えた。
すると、ボスが立っていた場所に真上から人影が降り立つ。
「私のボスはあなただけ。ボスは一人でいいの」
「……合点がいった。ここ最近の妙な視線もお前か」
その人影を簡潔に表すとすれば、大人しそうな女子中学生だろう。池袋ではおなじみの中学の制服を行儀よく身にまとい、肩にかからない程度の長さで切りそろえた黒髪と丸眼鏡がいかにも優等生らしい。
ただ、眼鏡の奥で真っ赤に輝く両の瞳と、右腕に携えた日本刀は、非行や素行不良と表現するにはあまりにも現実離れしている。
上からか下からかは分からないが、どうやらこの少女が日本刀でボスに斬りかかり、ボスは素早く後ろへステップして回避した、と静雄は少しずつ理解していく。
「まあ、姿を替えても私のことが分かるなんて、やっぱりあなたは私の運命の人なのね」
「願い下げよ。怨霊か寄生虫か知らないけど、すぐにその少女を解放しなさい。さもなければへし折る」
「ああボス、いいわ、その目。その輝き。今までに見たどんな人間より、どんな魂よりも強く輝いてる。私はあなたが欲しい、一つになりたい、つながりたい!」
「ちっ……静雄」
頬を上気させた中学生が猛然と斬りかかり、ボスは舌打ちしながら回避に徹しつつ、静雄の名を呼ぶ。返事が遅れ、再度呼んだ。
「静雄!」
「お、おう!」
「あなたを見込んで頼みがある」
静雄は身構えた。状況は理解の範疇を大きく越えているが、ボスが危ないヤツに絡まれているのは理解できる。恐らくボスは「手を貸せ」と言うはずだ。そう考えると、ボスに手を出した女子中学生に対する怒りがふつふつと湧いてきた。怒りは全身の筋肉のリミッターを外していき、喧嘩人形の由来ともなった超人的怪力が総体にみなぎっていく。
が、その怒りもエネルギーもこの時点では空回りだった。
「そこの空き缶を片付けておいて」
「……は?」
「飲んだ後はゴミ箱へ。人として最低限のルールよ。私はこいつの相手をしてくる。今日はお疲れ様」
「あ、お疲れ様です――いやいや、んなこと言ってる場合か!」
と、静雄がついノリツッコミをしたときにはもう遅い。
ボスは歩道橋から飛び降りて線路へ。前転で衝撃を逃しながら起き上がると、スプリントで走り去っていった。赤目の女子中学生もそれを追いかけ、後には静雄と斬られたBOSSが残される。
「クソが……!」
怒りのボルテージがどんどん上がっていく。平和島の噴火警戒レベルはとうに既存のレベルを超え、天変地異に等しいエネルギーが静雄の体に満ちる。
静雄にとってボスは大切な存在になりつつあった。大嫌いな自分の力も性格も当然のように受け入れ、時には注意してくれた。冗談混じりに励ましの言葉もかけてくれた。だからこそ伝えたいことがあったのに、その覚悟を決めかねているうちに訳の分からない女子中学生が横槍を入れてきた。
そういった事実をしっかり咀嚼、嚥下したとき、静雄の心を一つの意思が席巻する。
(ぶち殺す)
女子供に手を上げることについて、静雄には人並み以上のためらいがあるものの、かつてない強い怒りが静雄の倫理道徳を乱暴に抑えつけていた。
その怒りのままに静雄は二人を追いかけるため歩道橋の手すりに足をかけ――
「くっ……!」
自分の分とボスの分のBOSSと目が合う。飲んだ後はゴミ箱へ。たった今聞いたばかりのボスの言葉が反芻され、缶を回収してから近場のゴミ箱を探しに向かう。
ゴミ箱なら自販機の横に大抵は置いてある。近場の自販機のもとへ駆けていく静雄だったが、連日の自販機通り魔事件のせいでどの自販機の周りにも規制が張られており、なかなか捨て場所が見つからない。
いいかげん缶を力任せに空へ放り投げたくなってきたとき、南池袋公園にゴミ箱を見つけ、ようやく廃棄に成功する。そして静雄は持ち前の並外れた膂力をもって、乗用車に匹敵するスピードで夜の街を駆け抜けた。
高校時代は散々ぱら学校やチーム同士の抗争に巻き込まれてきただけあって、静雄は喧嘩に使える街のスポットを熟知している。廃工場、ある学校の第二グラウンド、利用者の少ない立体駐車場など。
そのうちの一つ、都市部から少し離れた廃工場でついに静雄はボスたちの姿を見つけ、言葉を失う。
件の女子中学生とボスは息のかかるような位置で密着し――ボスの体を貫いた白刃に、鮮血がしたたっていた。
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遡ること二十分前。歩道橋を飛び降り、一般人を巻き込まないよう人気のない通りを駆け抜け、ボスは数年前に訪れた廃工場にたどり着いた。
窓から中へ飛び込んで振り返ると同時、無数の斬撃がボスに降り掛かる。距離をとって自衛用の銃を取り出す暇もない速攻である。
「あははっ、同じ轍は踏まないわ。あのインチキ銃を使う暇なんかあげないんだから!」
「インチキではない。サイファー独自の科学だ」
「あなたたちは世界中の科学者に謝るべきね!」
軽口を交わしながらも攻撃の手は緩まない。ボスは経験と勘を総動員し紙一重で刃を避ける。
CQCをかけようにも、女子中学生はボスの技術を知っているらしく、技をかけられる決定的な隙を見せない。ボスは回避に徹しつつ、相手の素性を推測する。
(おそらくは刀に宿った怨霊。あるいは刀そのものが持ち主を操っているのでしょう。ザ・ソローは妖刀と呼んでいたわね)
手がかりは三年前の日本刀を持った女性だ。彼女も眼前の女子中学生と同じく、明らかに戦いとは縁遠い外見にもかかわらず神がかり的な剣術を披露していた。さらに両目が爛々とした赤に輝いていて、同一の刀を振り回している。であれば、持ち主の精神を乗っ取る超常の刀、いわゆる妖刀の仕業だろう。
超常的な一部の兵士たちを率いてきただけあって、ボスの発想は大胆な飛躍を経て真実にたどり着いていた。
(となると、持久戦がベスト)
その上でボスは最適解をはじき出す。刀が持ち主の意思を乗っ取り、剣の技術を与えているとはいっても、所有者の体の持久力までは上げられないはずだ。このままボスが回避を続けていれば、重い鉄の塊を振り回している女子中学生の体が先に動かなくなるだろう。動きの鈍ったところに技をかけ、刀を奪い取り溶鉱炉へ廃棄。
ボスの案は確かに最適ではあったが、同時に冷酷でもあった。
ブチブチ、と何かが千切れる音が響く。その音は女子中学生の肩からだった。
「あはぁ、やっちゃった。杏里ったら、いくら鍛えてもてんで筋肉がつかないんだもの。嫌になるわね」
「……宿主の体でしょう? 寄生虫なら少しは弁えなさい」
「嫌よ。それどころじゃないの。ねえボス、みんなあなたのおかげなのよ?」
閃く白刃。ブチリと何かが千切れ、メキメキと何かが軋む。
「この子には愛が欠落していた。だから私の愛の言葉が届かなかった。でもボス、あなたのことを強く思えば――この子の心に届いたの! 私は愛しか知らないから、この気持ちが何なのかは知らないわ。でも、私がこうしてあなたと話せているのは、あなたのおかげなのよ」
何が言いたいのか、ボスには半分も分からない。ただ、一つ分かることがあるとすれば、ボス自身の蒔いた種であるということだった。
女子中学生の振るう妖刀、
しかし、罪歌の愛の言葉は徐々に形を変えていく。人類への普遍的な愛の言葉から、ある特定の個人への愛へ。個人への愛から、罪歌も杏里も経験したことのない謎の感情へと変化した。
その感情の正体とは「恋」だった。
普遍的な愛ではなく、個人への純粋な好意。罪歌は前の所有者が無力化された際、完成し完結したボスの魂に一目惚れしていたのだ。罪歌自身がこの感情を受け入れるまでに時間がかかったため、杏里の精神を乗っ取ったのはほんの最近のことである。
もともと罪歌が杏里を支配する可能性は残されていた。罪歌の戦闘経験を利用すると、杏里の体は半自動的に動く。戦闘経験を提供するのと同じ要領で、愛とはまったく波長の違う恋の力を杏里の心に与えると――杏里の体は罪歌の恋の力に支配された。罪歌そのものと化した杏里は情報屋からボスの情報を買い、街でボスではない方の某ボスを見かけるたび壊して回る。
罪歌は人類への愛を忘れたわけではない。ただ、恋に焦がれて宿主ごと果てることにためらいはなかった。
「ボス、あなた子どもに優しいんですって? あのコブラ部隊とかいうのも元は戦災孤児だったって、ネットで見たわ。素敵ね」
「……」
「言っておくけど、杏里の体はただの中学生よ? このまま動かしていれば――」
ボスが回避に専念するしかない連撃を、ただの女子中学生が無理やり繰り返していればどうなるか。全身の骨と筋肉が酷使され、後遺症や、最悪の場合は――
ボスの決断は速い。
即断即決。
ピタリと動きを止めたボスは、その刃を身をもって受け止めた。
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罪歌は人を斬ることによって人を愛し、人の精神を支配する。そのため、宿主となる人を殺すような斬撃は原則しない。
しかし恋は盲目で、ボスに対する攻撃はすべて殺傷率の高い急所狙いだった。だからこそ、ボスはその一つを完璧に読み切った。
「ボス……」
喉元への刺突。ボスはそれを右手で受ける。刃は手のひらを貫通し、ボスの耳元をかすめて虚空へ伸びた。女子中学生の口から恍惚とした声が漏れる。
その瞬間、ボスの脳内に罪歌の膨大な愛の言葉が流れ込む。人類への普遍的な愛に加え、ボス個人への病的な恋情は、どす黒い奔流となってボスの心を蝕んでいき――
「黙れ」
が、力強い拒絶の念が罪歌の気持ちを相殺した。罪歌の愛と恋にも勝る鋼の意思の力。それはかつて、死してなお男たちの心に輝き続け、半世紀にも渡る血みどろの闘争を引き起こした原初の意思であり――己の死と引き換えに弟子と世界の成長を願った、一人の女性の愛でもあった。
罪歌の愛と恋を同時にねじ伏せたボスは、貫かれた手のひらを滑らせて罪歌の鍔を鷲掴みにする。
「捕えた」
「くっ――!」
慌ててボスの手を縦に裂こうとする罪歌だったが、もう遅い。投げ飛ばされた杏里の体は宙を舞い、罪歌はボスの手に奪取される。武装解除と投げによる無力化。CQCの基本技能である。
右手から罪歌を引き抜き、コンクリートの地面に勢いよく突き刺すボス。
「愛は一方の気持ちだけで成立するものではない! 人を愛するというなら、まず接し方を考え直すべきね」
『で、でもボス? 私って刀だし、斬る以外に人と触れ合う方法なんて――』
「何のための言葉なの? まずは対話。話し合いで譲歩と妥協点を見い出せばいい。そもそも刀と人の関係が斬ることしかないなんて考えは、時代遅れよ。あなた、老けてるって言われるでしょう」
『老けっ……!?』
莫大な意思力と言葉による追い打ちで罪歌を黙らせると、ボスは倒れた杏里の元へ向かう。幸い骨に異常はないようだが、筋の損傷は外見での判断が難しい。
とりあえずは医者を呼ぼうと携帯を取り出す。
「うぉおおあああああ!!?」
「静雄? ――!」
しかしボスに休む暇はない。タイミング悪くやってきた静雄は位置関係や薄暗い環境が災いして、「ボスが刺された」と勘違い。刺されたという点だけは勘違いではないのだが、致命的なケガではなかった。
そんな判断をできるだけの思考力は静雄に残っていなかった。歩道橋の上から今まで溜めに溜め込んだ怒りが大噴火。割とピンピンしているボスの姿すら目に入らず、倒れ込む女子中学生にとどめを刺すべく地面をける。
爆発音に等しい踏み込みの音が轟く。初速からトップスピードに乗った静雄の突進はもはや砲弾だ。
ボスはいくら鍛えているといっても人間に過ぎず、静雄のように頑強な体も特異な力も持っていない。砲弾を正面から受け止めることなど不可能だ。
ただ、その砲弾が人間の形をしている今回のような場合に限り――ボスは無敵に近い防衛力を発揮できる。
倒れた少女に振り下ろされる拳を手に取り、肩越しに静雄を背負う。腕を軸として静雄の体を運び、腕を放す。静雄の体は突進のスピードそのままで飛んでいき――工場の一画が倒壊した。
CQCは対人戦闘を前提とした近接戦闘術。相手が人の形をしているなら決して負けはしない。
といっても、ただの背負投でここまで激しい破壊が発生するのはさしものボスとはいえ初めてのことだった。倒壊する工場の壁で生じた土煙に対し、こわごわと呼びかける。
「し、静雄? 大丈夫?」
返答はなかった。
即座に携帯を取り出し、頼れるメディックにSOS。
「ヴェノム、すぐに来て! 急いで!」
その時のボスの声について、ヴェノムは後にこう語る。いくら伝説の兵士でも、やっぱり焦ることくらいあるよな、と。
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川越街道沿い マンションの一室
幸せな家族の夢さえ見ないほど深く眠った杏里の耳に、男性の穏やかな声が届く。その声はどこか気まずげだが、同時に何かを見つけたような清々しさに満ちていた。
『やっぱ俺、仕事やめるよ』
『なんでって聞かれると、言い訳みたいに聞こえるかもしれないけどさ。俺はあんたに頭を下げてほしくないんだ』
『分かってる。部下のために上司が頭を下げるのは普通のことだって言うんだろ? それは違うんだ。俺が頭を下げてほしくない
『でも、あんたが頭を下げるのだけは死ぬほど嫌だ。あの蛇野とかいう生意気なガキ共とか、その刀、罪歌だったっけ? そいつらとボスの話を聞いてたら、余計そう思った。あんたが俺のために頭を下げたら、俺は自分を許せなくなると思う』
『あと俺、ギャンブルとか嫌いだしな』
『ああ、子どもだよ。子どもだから、あんたの言う通り焦らずゆっくり、少しずつ進んでいくさ』
『……うん』
『さて、んじゃ俺は帰るわ。あ、そういえばその刀どうする? なんならこの場でスクラップにできるけど』
男の声にわずかな怒気が混じるとともに、杏里は異常に気がついた。罪歌の声が聞こえないのだ。眠っている間でさえ、蝉鳴のように頭の中で反響していた愛の声が聞こえない。それどころか体の中に宿した罪歌の気配さえ感じられない。
罪歌は心の一部が欠損した杏里の義肢であり、よりどころでもあった。そんな歪んだものをよりどころにする自分自身に不安を抱いたことはあっても、罪歌に消えてほしいと思ったことは一度もない。この思いは、罪歌に精神を乗っ取られたことを自覚した後でさえ変わらない。
もしも罪歌がスクラップになんてされたら――
どうしようもない寂寥感に襲われ、杏里はまどろみを振り払って飛び起きる。
「――っあ……!?」
とたん、全身に引きつるような痛みが走り声にならない悲鳴をあげた。
「無理をするな。全身の筋肉が酷く傷ついている。しばらくは筋肉痛でまともに動けないそうだ」
「あ、なた、は……?」
「私は蛇野。ここじゃスネークで通ってる。ボス、目を覚ましたぞ」
傍に控えていた少女、スネークが杏里をゆっくりと横たえる。見た目も声も杏里と同じ年頃の少女なのに、妙な風格が漂っていた。
スネークが声を上げると、部屋の扉が開いて一組の男女が入ってくる。男の方は平和島静雄、女の方は井上さんことボスだった。
荒事には縁遠い杏里でも知っている池袋の有名人二人組だが、杏里はその二人を前にしてもひるむことなく、痛みをこらえて手を伸ばした。
「さ、さいかは、どこ、ですか? スクラップは、ダメ、です」
「……静雄」
「まだ何もしてねえよ。いや、まだってのは言葉の綾だから、泣きそうな顔すんなって」
ボスとスネークに睨まれ、杏里には号泣一歩手前の顔を向けられ、静雄は肩身が狭そうにしつつ踵を返す。杏里が首をかしげていると、彼は杏里が求めてやまない大切な相棒を手に戻ってきた。
砂漠で水を求めるように、激痛にも構わず杏里が手を伸ばす。静雄は罪歌の柄をその手に握らせようとしたのだが――罪歌はまるで生き物のように、するりと静雄の手を抜ける。
むき出しになった刀身が自重で傾き、切っ先が杏里の手に触れた。罪歌はたちまち杏里の柔肌を貫き、滑り込むように体の中へ消えていく。戻ってきた罪歌の声は杏里を気遣うように小さくなっていたが、欠けた心を補うにはそれで十分だった。安心感と共に意識が遠のく。
「失くした心の痛みは、いつまでも疼く。まだここにあるように、一生消えることはない」
スネークの声が聞こえる。昔を思い出すように、強い実感がこめられた彼女の言葉は、杏里の胸に沁みていく。
「その痛みを誤魔化す方法は二つしかない。時間と、痛みを理解してくれる仲間だ。彼女にとっての仲間はたまたま刀の形をしていて、とびきりやんちゃだった。そういうことだろう、ボス?」
「ええ、そうね。静雄もそれでいい?」
「別にいいけどよ。一つだけ言わせてくれ」
意識がまどろみに落ちていく寸前に杏里が聞いたのは、「お前ほんとに中学生か?」という呆れた静雄の声だった。