The Boss in Ikebukuro   作:難民180301

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第6話

『我々は親を捨てた』

 

『すべての(しがらみ)から解放され、この池袋と一体となる』

 

『そこには親も、学校も、PTAの連中もいない。我々は大人たちに頼らず、媚びず、同じ痛みを抱えた者同士で生きていく』

 

『だが我々に明日はない。社会はどこにも属さない子供を決して野放しにはしない。様々な困難に直面し、平穏でまともな生活は望めないだろう』

 

『そうだ。我々は、地獄に墜ちる』

 

『しかし我々にここ以上の居場所があるか? 我々は誰のためでもない、自分たちのために生きる』

 

『ここはそれ以外に生きる術のない者たちが最後に集う、唯一無二の楽園』

 

『それが我々の――』

 

 

 

---

 

 

 

 ネット上 某チャットルーム

 

【なんですかこの音声ファイル】

 

《だから、今池袋で話題のチームの演説ですよ! どうですかどうですか?》

 

【いろいろとツッコミどころがありすぎて……】

 

【まず声。何なんですかこのハスキーなのに妙な渋みのある感じ?】

 

【それと思いっきり公権力やら社会やらにケンカ売ってるような内容ですけど、削除とかされないんですか?】

 

《声の威厳は当然ですよ! なんたってボスの教えを受けてますからね、この子!》

 

【あ、また出たボス。さっきから誰のことです?】

 

《何度も削除されて、なんなら垢バンも食らってますけどそのたびに再投稿されちゃうんですね!》

 

《で、このチームに興味を持った子どもたちが投稿主に接触してチームの規模が拡大! 今やダラーズに次ぐ勢力になりつつあります!》

 

《その名も》

 

---甘楽さんが退室されました---

 

【ちょ】

 

【タイミング悪すぎでしょ! 名前は!? 音声ファイルもそこだけ加工されて失くなってるし!】

 

【あとボスって結局誰――!?】

 

 

 

---

 

 

 

 池袋駅 東武東上線・中央口改札前

 

 午後六時過ぎ、会社や学校から帰宅する人の波で満たされた広大な地下空間の隅っこに、一人の少年がポツンと立っている。視線は携帯電話の液晶に向いており、先日のチャットルームのログを読み返していた。しかし地方から上京してきたばかりで緊張している状態ではろくに内容が頭に入ってこない。入ってきても気になる終わり方をしているせいで悶々としてしまう悪循環。

 

「帰りたい……」

 

 すっかり萎縮している彼の名は竜ヶ峰帝人。その名前にはいかにも物語の主人公めいた特別な響きがあるし、実際その通りなのだが、都会の荒波を前にした彼は早くもくじけかけていた。

 

 そんな彼に近づく人影が一つ。

 

「よっ、帝人!」

 

「……え、あれ、紀田くん?」

 

「疑問系かよ。ならば応えてやろう。三択で選べよ、1紀田正臣 2紀田正臣 3紀田正臣」

 

「わあ、紀田くんだ! 久しぶり!」

 

 帝人に独特のセンスの謎掛けを仕掛けたのは、紀田正臣だった。帝人の小学生時代の友人で、帝人が上京してきたのもチャットルームで彼と交流していたことが大きい。今回は帝人を下宿先のアパートに案内しつつ、池袋の街をガイドする約束をしていた。

 

 サラっとボケを流されて釈然としない様子の正臣だったが、再会のあいさつもそこそこに歩き出す。

 

「じゃ、どっか行きたいとこあるか?」

 

「ええと、チャットでも言ったけど、サンシャイン60とか……」

 

「今から? まあ俺はいいけどよ。行くなら彼女の一人でも連れて行った方がいいぞ。俺みたいにな! ちなみに俺は沙樹と――」

 

「ボトルコーヒーで頭割られたくなかったら黙って?」

 

「おっと、この話はお前に毒だったなぁ!」

 

 帝人は正臣にコーヒーをぶっかけたい衝動に駆られた。

 

 正臣には二年前彼女が出来た。詳しい経緯を聞くとはぐらかされるのだが、名前は三ヶ島沙樹といい、ボーイッシュなショートヘアがよく似合う小悪魔系女子らしい。チャットルームで甘々な惚気話を聞かされるたび帝人はボトルコーヒーをがぶ飲みし、いつかワインボトルよろしくコーヒーボトルで正臣のドタマをかち割るんだ、と小さな野望を抱いている。いわゆる非リア充の嫉妬である。

 

 地下から地上に出てすぐのところにある自販機のコーヒーに帝人が剣呑な視線を向けると、正臣は慌てて話を変え、池袋ガイドを再開した。

 

 人であふれる大通りを歩きながら、帝人はテレビやネットで仕入れた池袋の知識を正臣に聞いていく。すると暴走族やカラーギャングの話題に発展し、大げさに怯える帝人を正臣がたしなめる。

 

「暴走族もカラーギャングも数は結構いるし、それ以外にも危険はあるから絶対安全とは言わねえよ。最近は小波会の残党が裏で動いてるって噂もあるし、一般人の中にも絶対敵に回しちゃいけないヤツとか、触ると病気になるヤツとかいるしな。でもま、帝人は自分からケンカ売るようなヤツじゃねえし、基本大丈夫っしょ」

 

「……触ると病気になるヤツ?」

 

「やあ正臣くん、奇遇だねぇ!」

 

 爽やかな青空を思わせる明るい声。その声が横から聞こえたとたん、正臣の表情が歪む。抑えきれない嫌悪の念が滲み出し、まるで電源の落ちた夏場の冷蔵庫を数日ぶりに開ける直前のような顔である。

 

 二人がそろって振り返った先には、眉目秀麗を具現化したような好青年が立っていた。人の良い笑みを浮かべてはいるが、帝人は正臣の表情が気になってどうにも気を許せない。

 

「あっ臨也さん! まだ生きてたんですね! そろそろ静雄さんにそのイケメンフェイスを陥没させられてるかと思ったのに、残念だなぁ!」

 

「……君も元気そうで何よりだよ」

 

 出し抜けに明るく言い放った正臣。それに対し笑みを深める臨也。帝人はどこかでゴングが鳴ったように聞こえた。

 

「帝人、触ると病気になるヤツってのはこの人な。折原臨也ってんだ。イザヤ菌がうつるから近づくな」

 

「えっ!?」

 

「それと話すだけでも洗脳されるから気をつけろ。歩く情報災害だ」

 

「ええっ!?」

 

「随分嫌われちゃったねぇ」

 

 本気で嫌っているのか、正臣独特の寒いギャグセンスは鳴りを潜め、小学生のいじめレベルの罵倒が連続した。しかし罵倒された当人である臨也という青年は、余裕を崩さずニヤニヤしている。

 

「でも俺を本気で嫌っているなら、こうしてお友達と一緒に相対してくれるのはなぜかな、正臣くん? あのとき一人じゃ立ち上がれなかった自分への怒りを、俺にぶつけているだけなんじゃないのかい? 君が憎いのは俺じゃない、君自身――」

 

「いや、変にこじつけ過ぎっすよ。いいか帝人、この人のこの顔にピンときたらすぐ一一〇だ。後で防犯ブザーも買っとけよ。じゃ、サヨナラ」

 

「ま、待ってよ紀田くん!」

 

 人の心にするすると絡みつくような臨也の語り口は、すでに正臣に通用しなかった。足早に背を向けて去っていく正臣と帝人。その背中を見つめる臨也は不敵な笑みを浮かべるだけだった。

 

 完全に臨也の姿が見えなくなったところで、帝人が口を開く。

 

「結局あの人何者なの? そんなに悪い人には見えなかったけど」

 

「黒幕だ」

 

「黒幕?」

 

「池袋で物騒なことが起きれば八割方あの人のせいだ。そう、バタートーストのバターを塗った面が下になって落ちるのも、世界から争いがなくならないのも、政治家の汚職も、みんな折原臨也ってやつのせいなんだ」

 

 正臣は臨也が大嫌いである。

 

 臨也は二年前、正臣の創設したカラーギャングに取り入って別組織との対立を激化させたばかりでなく、正臣の恋人を故意に抗争に巻き込み、大怪我をさせようとした。結果的にその企みは防がれたものの、正臣が臨也を許せる道理はない。しかし臨也がいなければ正臣と沙樹は出会えなかっただろうし、沙樹も臨也のもたらした出会いについて感謝している。そういった恩と憎しみのバランスもあって、あからさまな嫌悪と警戒という今の態度に至った。

 

 もちろんそんな事情を知らない帝人には正臣の態度が理解できず、「そ、そうなんだ」と苦笑するばかりである。

 

「あの人の根城は新宿だから、池袋で会うことはないはずなんだが――こりゃ、またなんか企んでんな」

 

 正臣は一つため息をつくと、気を取り直すように明るい口調で池袋ガイドを再開する。大通りから一本それたボウリング場のある通りで、板前姿の黒人に声をかけられ、若干ガラの悪い黄色い布を身に着けた少年たちと談笑し、池袋を練り歩く。帝人は正臣の顔の広さに感心しながら、様々な人種が渾然一体となっている池袋の街並みを脳に焼き付けていく。池袋では有名な都市伝説、首無しライダーが音もなく道路を走り去っていく様子まで目撃できたことで、帝人のテンションは最高潮に達した。

 

 十分堪能したから、そろそろ下宿先に行こう。正臣にそう言いかけたその時、帝人の視線がある一点で釘付けとなる。

 

「あれ? ボスだ。こんな時間に珍しいな」

 

 複雑に絡み合う首都高の高架に、寄り添うようにかかった歩道橋。そのたもとに佇んでいる女性がいるのだが、彼女の周囲だけが異様な雰囲気に変じている。

 

 後ろでまとめた金髪に長身、広い肩幅と鋭い目つき。時折自動車のヘッドライトでライトアップされる目元は、百戦錬磨の兵士を思わせる。見た目でいえば先の首無しライダーの方が目立つだろう。だが非日常を何よりも求める帝人には分かっていた。彼女が首無しライダーと同類の非日常そのものであると。

 

 特に何かを見ているわけでもないし、誰かと待ち合わせでもしているのだろうか。

 

 帝人が見とれていると、彼女は胸ポケットから携帯電話を取り出した。

 

「私よ。――カズターノが無断欠勤? そう、で? 私はオフよ。――ジョニー、あなたこの仕事私より長かったわね。少しは先輩としての意地を見せなさい、いいわね?」

 

(案外通話の内容は普通だった……)

 

 勝手に落胆する帝人。すると正臣が当然のように「おーいボスー」とその女性の元へ駆けていくので、帝人は慌てて後に続いたのだった。

 

 

 

---

 

 

 

 同時刻 某地下駐車場

 

 薄暗い地下駐車場に、男たちのうめき声が響く。地面に倒れ伏す男たちの周囲には折れ曲がった鉄パイプや粗末なナイフなどが転がっており、点々と飛び散る血痕が物騒な空気を際立たせる。

 

 そんな中二つの人影が相対している。一つは倒れる男たちと同じくガラの悪い若者で、腰の抜けたような姿勢で身を震わせている。もう一つはフルフェイスのヘルメットに真っ黒のライダースーツを身にまとった、首無しライダーその人だった。

 

「あの、あの、ちょ、ちょっと、ちょっととと、待ってくくださいよ。ちょ、待ってくださいよ」

 

 腰を抜かした男が後ずさりながら命乞いを口にする。武器を手にした仲間が一瞬で無力化された彼にできるのは命乞いだけだった。

 

 乞われた方の首無しライダーことセルティはというと、無言で男を見下ろすだけで微動だにしない。男の恐怖心が増大した。

 

(うん、やっぱり人間ってこんなもんだよな。ボスとか静雄とか杏里ちゃんみたいなのばかりじゃない。これが普通の人間なんだよ)

 

 男とは対照的に、セルティは安心していた。

 

 セルティは人間ではなく、アイルランド出身のデュラハンと呼ばれる妖精だ。訳あって日本に渡り、愛馬のコシュタ・バワーをバイクに憑依させて運び屋稼業に身をやつしている。形状、距離、質感、性質などを自由自在に変化させられる謎エネルギーの影や、人を遥かにしのぐ身体能力など、人外らしい力を持つ。

 

 が、この池袋には人外の全力をぶつけても平然と反撃してくる人間が少なくとも三人はいるのだ。そのせいでセルティは人間に対する畏怖に近い警戒心を抱いており、眼前のチンピラのような普通の人間を見ると安心するようになっていた。

 

「ちょっ、人違いです。俺は何もしてませんごめんなさいごめんなさい」

 

 セルティがしみじみしているうちにチンピラはペコペコと頭を下げだした。

 

 ここまで平身低頭している人間に追い打ちをかけるほどセルティは無慈悲ではない。くるりとチンピラに背を向け、駐車されたバンに向かって歩き出す。

 

 セルティが今回受けた依頼の対象はこのバンの中身だ。不法入国者や家出してきた少年少女たちを標的にした人さらい集団に依頼人の知り合いが拉致された。集団の居場所を教えるから、チンピラたちを制圧してバンの中を確認してきてほしい、とのこと。

 

 依頼完遂のためバンの扉に手をかけようとしたその時――

 

「待ってくれ」

 

 奇妙に渋いハスキーボイスがセルティの動きを止める。次いで、命乞いをしていたチンピラのくぐもった悲鳴。

 

 振り返った先には、セーラー服の女子中学生が立っていた。素朴な顔つきだが眼光は鋭い。ケガでもしたのか、右手に包帯を巻いている。どうやら逃げ出したチンピラに追い打ちをかけたらしく、チンピラは白目をむいて倒れていた。

 

『スネークちゃん、別に追い打ちしなくてもいいじゃないか』

 

「嫌な予感がしたんでな、念の為だ」

 

 彼女はセルティが苦手とする人外より人外じみた人間――の弟子だった。本名は蛇野というらしいが、いつの間にかスネークというあだ名が定着しセルティもそれに倣っている。

 

 首のないデュラハンであるセルティとの意思疎通はPDAを介して行われるが、両者ともすっかり慣れた様子だ。

 

「それよりセルティ、そのバンに用があるのか?」

 

『ああ、仕事でな。中の人間を確認して依頼人に連絡を入れることになっている』

 

「ターゲットが被ったか。珍しいこともあるもんだ」

 

 セルティの依頼とスネークの仕事のターゲットが重なったようだ。苦笑するスネーク。一方のセルティは、呆れたようにPDAに文字を打ち込んだ。

 

『危険だとか子供らしくないとかはもう言わないけど……女子中学生がやること?』

 

「中学生だからこそだ。真に居場所のない子供たちの味方になれるのは、理解のある大人じゃない。同じ子供だけだ。それは我々――『アウターヘヴン』の理念でもある」

 

 アウターヘヴン。それがスネークの所属する組織の名前である。

 

 初期メンバーはボスに保護された三ヶ島沙樹、スネーク、カズ、オセロット、クワイエットの五人と、成り行きでボスが拾ってきた園原杏里を合わせた六人。彼女らはスネークを中心に、地方から家出してきた少年少女や不法入国、滞在者など、社会的な庇護が弱く居場所が保証されない者たちの保護を行ってきた。当初はオセロットの情報網に引っかかった人物とスネークが接触し、同意を得た上で合流する小さな活動だったのだが、あるスポンサーを獲得したことで活動規模が拡大。それに伴い、ネット上でスネークたちの知らぬ間にアウターヘヴンの名が定着していた。

 

 スポンサーの協力を得てネット上にスネークの演説を投稿するとまたたく間に人員が増加。池袋を中心に複数用意されたアウターヘヴンのアジトにメンバーを住まわせているのが現状だ。

 

『ふーん。って、スネークちゃんが来たってことは、こいつら子供をさらったってこと?』

 

「そうだ。しかも我々のスポンサーにあたる人物をな」

 

 いたいけな子供に手を出すとか、人として最低だな。私がとどめを刺しておくべきだった。

 

 静かに憤慨するセルティをまあまあとスネークがたしなめる。

 

「そいつは少し気の小さいところがある。セルティがいきなりドアを開けると、まあその、女としてかわいそうな醜態を見せるかもしれん」

 

 全身真っ黒なセルティの格好は異様だ。ヒーロー物の物語ならヴィラン側にいてもおかしくない。大人にさらわれた気弱な子供が目にするのは確かに毒だろう。

 

 セルティは納得の意味をこめて一つ頷くと、バンの前から一歩退く。するとスネークは機敏に扉を開けて車内に入ったかと思うと、二人の少女を抱えてすぐに出てくる。

 

 一人は丸眼鏡をかけたくせ毛の少女。もう一人はサラサラの髪を肩口で切りそろえた、可愛らしい少女だ。

 

「遅かったじゃないか」

 

「待たせたな、オタコン。で、こっちの子は誰だ? 情報にはなかったが、知り合いか?」

 

 オタコンと呼ばれた少女はずれた眼鏡の位置を直すと、不安げに身を小さくしている少女の肩を抱いた。

 

「紹介しよう。僕の友達の粟楠茜だ。茜、もう大丈夫だからね」

 

「ほ、ほんと……?」

 

 粟楠茜。どこかで聞いたことのあるような?

 

 はてどこで聞いたんだったか、とセルティが記憶を掘り返そうとするものの、「私たちをアジトまで運んでくれ」というスネークからの依頼によって思考が途切れる。

 

 結局、追加依頼を完遂して自宅に帰った頃にはきれいさっぱり忘れているのだった。

 

 

 

---

 

 

 

「これが冗談だって!? みんなで寄ってたかって一人を囲んで、物を投げつけることが! どう見たっていじめじゃないか! どうしてこんなことが平気なんだ……! まともなのは僕だけか!?」

 

 ある日の放課後、空き教室から響いてきたその声に、粟楠茜は耳を澄ました。

 

 いつもどおり楽しい一日を学校で過ごし、先生にもあいさつして後は帰るだけというタイミングで宿題のドリルを教室に忘れたことに気づく。取りに帰るか、明日朝一番で宿題をすませるか。比較的真面目な彼女は取りに帰ることを選択し、少女の悲鳴を聞きつけたのだ。

 

 こっそり教室の入り口から中をうかがってみると、丸眼鏡をかけた同級生が集団に囲まれて物を投げられている。初めて見るいじめの光景に茜は声を失った。

 

 茜はまっすぐな少女だった。間違っていることを見過ごせない。しかし今回ばかりは迷いがあった。助けに入れば今度は自分がいじめられるのでは、と。

 

 迷っている間にもいじめはエスカレートしていき、いじめっ子の一人が丸眼鏡の少女のランドセルを漁った。そして出てきたのは一枚のフロッピーディスク。

 

「やめろ! それに触るな!」

 

 少女が必死で抵抗するが、数の暴力で抑え込まれる。そしてその反応を楽しむかのように、いじめっこたちはディスクを踏み潰した。

 

 少女は茫然自失となり、うずくまって泣き声をあげはじめる。いじめっ子たちは満足げに笑い合って教室を出ていった。

 

 茜はなんと言えばいいのか分からず、おずおずと教室に入っていった。助けられなかったことを謝るべきなのか、慰めるべきなのか。

 

 しかしいじめられていた本人はケロっとした様子で立ち上がった。

 

「やれやれ、加減を知らない分、子供は大人よりタチが悪い。ん? 君は?」

 

「え、えっと、その、大丈夫? それ、大切なものなんでしょ?」

 

 潰されたディスクを指差すと、少女は鷹揚に首を振る。

 

「全然。今どきフロッピーディスクなんて誰が使うのさ。本命のデータは自前のUSBと各端末、学校の共有サーバーにバックアップしてる。そのディスクはただのガラクタだよ」

 

「え? でもさっきはあんなに――」

 

「演技に決まってるだろ?」

 

 いたずらっぽく笑う少女。茜には、彼女のセリフから学校のサーバーが私物化されていることなど分かるはずもなかったが、彼女が食わせものであることはなんとなく分かった。

 

「さ、君はもう帰るといい。いじめられっ子と話しているのを見つかると、後々面倒だからね」

 

「う、うん。もう帰るけど……」

 

「何だい?」

 

「私は粟楠茜っていうの。あなたは?」

 

 少女は目をまん丸にして茜を見つめた後、苦笑しながら眼鏡を押し上げる。

 

「無鉄砲なのは父親譲りなのかな……」

 

「え、今なんて?」

 

「なんでもない。僕は春田。仲間内じゃオタコンで通ってる。よろしくね」

 

 オタコンは学校一の変わり者として有名だった。女なのに一人称が僕であることや、子供とは思えない落ち着いた言動が否応なしに人目を集める。その上テストでは満点しかとらないとなると、異物の排除のためにいじめっ子が出現するのは自明だった。

 

 茜はオタコンと知り合ってから何度もいじめを止めようとしたのだが、踏ん切りがつかず迷っているうちにいつもオタコンに止められた。

 

『君は父親が何の仕事をしているのか知ってるかい?』

 

『えっと、絵を売ってるんだって。私も大きくなったら絵をたくさん描いて、お父さんに売ってもらうんだ!』

 

『……そ、そうか。うん、素敵な夢だと思うよ。でもそれなら、なおさらいじめには関わっちゃダメだ。ケンカになって手をケガしたら絵が描けないだろう?』

 

 茜は夢を応援してくれたオタコンに深くなついていく。その関係は対等な友人同士というより、姉と妹の関係に近かった。一人っ子の茜には常に落ち着いていて自分を気遣ってくれるオタコンがとても頼もしく見えたのだ。

 

 オタコンの趣味に付き合って渋谷や秋葉原、池袋のアニメイト本店を巡るうち、オタク文化と通称されるサブカルチャーにも詳しくなった。遊馬崎や狩沢というオタク仲間のフリーターとも仲を深め、交友関係とともに世界が一気に広くなったようだった。

 

 そんなある日、オタコンが唐突に切り出した。

 

『茜。君に会わせたい人たちがいる。僕の恩人と友だちだ』

 

『友だちって、前から言ってたスネークちゃんたちのことでしょ。でも恩人って?』

 

『四年前、どこにも居場所がなかった僕に優しくしてくれた人でね。彼女がいなければ今の僕は――オタコンはいなかったと思う』

 

 茜は嬉しかった。それだけ大切な人に会わせてくれるということは、友だちとして自分が信用されてるからだと考えた。

 

 その彼女とは池袋でBOSSばかり飲んでいることからボスと呼ばれている女性らしく、ある歩道橋の近くで待ち合わせを取り付ける。いつもどおり池袋のアニメイト本店でグッズ漁りをしていた茜とオタコンは、つい興が乗ってしまい店を出るのが遅れた。

 

 そのため狭い路地を近道しようと女児二人で無防備に歩いていたところ、件の組織にさらわれたというわけだ。

 

 

 

---

 

 

 

 池袋某所 アパートの一室

 

 帝人の下宿先のアパートは駅から数分の距離にあった。建物全体が小さなヒビやツタに覆われている状態で、築何年か見当もつかない。当然、どこぞの高級マンションのように防音もしっかりしておらず、意識しなくても隣室からの物音が聞こえてしまう。

 

 しかし帝人は引越し業者の置いていった荷物も放置して、隣室の音に聞き入っていた。薄暗い四畳半の部屋で壁に耳を引っ付ける彼の姿は、結構不気味である。

 

『ほう……杏里、お前また大きくなったんじゃないか?』

 

『や、やめてください……カズさん……』

 

『そんなこと言って、本当は嬉しいんだろう。体は正直だ。罪歌のやつだって口出ししてこないじゃないか』

 

『さ、罪歌は面白がってるだけで……ひゃっ!? だ、ダメ! そこはダメです!』

 

『ふふ、女に生まれたことに今日ほど感謝したことはない。女同士であれば、セクハラはすべてスキンシップとして容認される……!』

 

『助けてボスぅ……!』

 

 壁の向こうから小一時間聞こえてくる嬌声に、帝人は前かがみで釘付けになっていた。彼は非日常に憧れている一般的男子高校生。壁一枚隔てた向こうで女の子達がキャッキャウフフしているとなると、盗み聞きの罪悪感にフタをして、真っ赤な顔で聞き入るしかできない。

 

 どうやらカズと呼ばれる好色な女の子が、杏里と呼ばれる大人しそうな女の子を襲っているようだ。もう一人サイカという人物がいるようだが、声は聞こえない。

 

 カズは越えてはいけない一線の直前のあたりをギリギリ保っているようで、そのせいで杏里は本気の抵抗をためらっているようだった。スキンシップの名を借りたセクハラだ。

 

 本当に嫌がってたら通報できるのにな、スキンシップなら仕方ないよな――帝人が自分に言い聞かせながら頭に音声を焼き付けていると、重い破裂音が響く。扉が蹴破られたような強烈な音だ。

 

『スネークパァンチ!』

 

『ぶげらっ!?』

 

 続いて打撃音とくぐもった悲鳴。隣室に誰か入ってきたらしい。

 

『仲を深めるのは結構だが、場所を考えろ。このアジトの防音はないようなものだ。お前たちの声を聞いて良い気分になってるヤツがいるかもしれんぞ』

 

 帝人の肩がビクリとはねる。動くと見つかりそうな錯覚に囚われ、壁に耳をつけたまま動けない。

 

 乱入してきた女の子の声はいかにも女性らしいハスキーボイスだったが、時間を重ねた大樹のような威厳と重みがある。

 

『つ、つまり別のアジトならいいんだな? 杏里にあんなことやそんなこと――』

 

『スネークキィック!』

 

『おごぉっ!?』

 

 カズは沈黙した。失神したのかもしれない。帝人はよくやったとスネークを内心で称賛しつつ、なんてことをしてくれるんだと非難もする。

 

『あ、ありがとうございます、スネークさん』

 

『……なあ杏里。私の勘違いならそれでいいんだが』

 

『なんですか?』

 

『お前、実は満更でもないんじゃないか?』

 

 沈黙。あまりにも長い沈黙が満ちる。早鐘を打つ帝人の心臓の音さえ外に聞こえかねない、無音のときが数十秒。

 

『……そっ、そんなことっ、ないですよ?』

 

 やがて杏里が裏返った声で否定するのを聞き届けると、帝人は満足げに頷いて壁際を離れ、パソコンを立ち上げた。池袋に来て初日に体験した素晴らしいイベントを、ネットの海に刻み込むためである。

 

 なお、この件がきっかけで帝人は後に、顔を耳まで真っ赤にした杏里に斬りかかられることになるのだが、今の帝人には知る由もないのだった。

 

 

 

---

 

 

 

 はだけたセーラー服を着直した杏里は、スネークの後ろから二人の小さな少女が入ってくるのに気づいた。どちらも小学生高学年か中学生程度の年頃のようだ。黒髪の少女が丸眼鏡の少女の腕にコアラのごとく抱きついている。何か怖い思いをしたのだろう。

 

 アウターヘヴンの加入希望者をスネークが連れてくるのは珍しいことではない。アジトをたまり場として使わせてもらっていることだし、お茶くらいは淹れよう。そうして杏里は立ち上がったのだが、

 

「おさかんなことだねぇ」

 

「オタコン、今のって何をしてたの?」

 

「何って、ナニだよ」

 

 小学生の二人組のやりとりにずっこけた。顔が熱い。今すぐ罪歌を取り出して切腹したい気分だ。罪歌は杏里を切れないので、そんなことをしても無駄なのだが。

 

 杏里が羞恥で悶絶している間に、気絶したカズを押入れに片付けたスネークが戻ってきた。

 

「もう夜も遅い。今日は泊まっていくといい」

 

「そうさせてもらうよ。茜はどうする?」

 

「泊まる!」

 

「じゃ、じゃあご両親に連絡を入れないとね」

 

 オタコンが茜の剣幕に引きながら連絡を促すと、茜はしぶしぶ携帯電話を取り出す。通話がつながると、杏里の耳にも両親の怒鳴り声が聞こえてきた。現在時刻は午後八時過ぎ、小学生の少女が連絡も入れず街をうろついていい時間ではない。

 

 茜は涙目で何度も謝りながら、最終的には友だちの家に泊まることだけを伝えて一方的に切った。

 

 むしろ余計心配させるだけなのでは。そう危惧する杏里と茜の目が合う。

 

「あ、おさかんなお姉さん」

 

「――!?」

 

「き、気を悪くしないでくれ! 悪気はないんだ」

 

 茹でだこのように赤くなる杏里。すかさずオタコンがフォローに入り、お互いの名前を名乗り合う。オタコンはオタコン、茜は粟楠茜というらしい。

 

 明らかに本名ではないオタコンはさておき(スネークたちのコードネームで慣れっこになっている)、粟楠という名に杏里は聞き覚えがあった。だがある程度記憶を掘り起こすとモヤがかかったようになり、どこで聞いたのか思い出せない。

 

「杏里、私は二人の着替えを調達してくる。しばらくここを任せていいか?」

 

「……え? あ、はい」

 

 任された杏里は思考を中断した。思い出せないなら大した情報ではないのだろう。それよりも二人の世話だ。

 

 アウターヘヴンにおいて家事や年少組の世話を任されるのは決まって杏里か沙樹である。他の連中はというと、蛇でも鼠でも拾い食いする悪食に、女性とあらばすぐに手を出す好色家、諜報活動でほぼアジトに顔を出さない山猫と、闇医者に懐いて別行動してばかりの無口など、てんで使えない。

 

 人と付き合うのが苦手な杏里もこんな環境で何度も世話を任されれば慣れる。まずは二人に手洗いうがいをさせて――

 

「あ」

 

「どうした?」

 

「あの、今朝ここに来たら、洗面所の鏡が粉々になってたんですけど……何か知りませんか?」

 

「ああ、それか。実は今朝洗面所で足を滑らせてな。とっさに手をつこうとしたら鏡に突っ込んで、この有様だ。散らかして悪かった」

 

 バツが悪そうに包帯の巻かれた右手を掲げるスネーク。責任感の強い彼女が散らかった場を片付けもしなかったということは、相当急な用事があったのだろう。杏里は小さく首を振った。

 

「いえ、大丈夫です。それよりケガは平気ですか?」

 

「問題ない。――それじゃ、少し出てくる」

 

 スネークが足早に出ていき、杏里たちが見送る。彼女の足音が遠ざかって聞こえなくなったころ、茜がぽつりとつぶやいた。

 

「あの人いくつ?」

 

「へ? たしか私と同じ、十六だと思いますけど……それが?」

 

「なんかあの人見てると、うちのおじいちゃんの姿がチラついて仕方ないの」

 

「まあスネークはここの中でもかなり大人びた人だからね」

 

 オタコンに「そういうのブーメラン発言っていうんですよ」と言いたいのを年長者の意地でぐっとこらえ、杏里は二人の女子小学生をかいがいしく世話するのだった。

 

 

---

 

 

 

 池袋 某歩道橋上

 

 絡み合う首都高速の高架に寄り添う歩道橋の上で、ボスは一人夜景を眺めていた。すでに帰宅ラッシュも過ぎ、街を歩く人々の姿もまばらになり始めている。

 

 先程オセロットから連絡があった。ボスが待ち合わせをしていたオタコンがトラブルに巻き込まれたものの、セルティの協力もあって解決できたという。

 

 オタコンはボスがスネークたちに会うよりも前にボスが遭遇した子供だ。スネークたちの立ち上げたアウターヘヴンのスポンサーとして、つい最近ボスと再会した。

 

「……」

 

 ボスの表情は晴れない。オタコンと再会できたことが嬉しくなかったわけではない。問題はオタコンを含む、子供たちの変化だ。

 

 オタコンはボスに出会って以来、機械工学と電子技術の才能に目覚め、今は親元を離れフリーの技術者として生活しているらしい。まだ小学生の身だが、偽造に偽造を重ねた戸籍と高い技術力でまったく生活には困っていない。学校のコンピュータールームにあるPCを秘密裏に改造したり、サーバーを私物化するなどやりたい放題だ。

 

 スネーク率いるアウターヘヴンは、どこから学んできたのか諜報と隠密の技術を総動員して子供たちだけで生きるすべを確立した。たとえば地権者の弱みを握ってタダに等しい家賃で建物を借りたり、複数勢力の下っ端に特定の情報を売り与えることで争いを誘発させ、さらなる情報を生み出すなど。彼女らに百円玉を貸し与えれば、一時間後には万札数枚で返ってくるだろう。

 

 子供たちは変わった。誰にも愛されず、生きる気力を失っていたあの頃の面影はもうない。どんな理不尽にも屈せず、戦う力を身に着けた。

 

 だが本当にこれで良かったのだろうか?

 

「ボス?」

 

「……静雄。久しぶりね」

 

 思い悩むボスに声をかけたのは、金髪とグラサンが特徴的な青年。ボスの元同僚でもある、平和島静雄だった。

 

 彼は上機嫌そうに笑いながら、軽い足取りでボスの隣にやってくる。

 

「おお、マジで久しぶりだな。聞いてくれよボス、俺、今の仕事はかなり長く続いてるんだ。上司のトムさんは話しやすいし、俺がキレても文句を言われねえ。まあ客の連中は腹立つヤツばっかなんだがな」

 

「そう。元気そうで嬉しいわ」

 

 微笑ましげに目を細めるボス。静雄と街で出くわすのは、彼がボスの職場を離れて以来よくあることだった。

 

 あるときは仕事を首になった愚痴を聞き、あるときは臨也にハメられたイライラを受け止め、あるときは無口な首無しライダーを含めて三人でコーヒーを飲んだ。今回もその例の通り、静雄が話し役になるのかと思われたのだが――

 

「そういうボスは珍しく元気がねえな。何かあったのか?」

 

 キレていない静雄の感覚は鋭い。表情の幅が狭いボスの雰囲気から、悩まし気な思いを感じ取った。手すりに身を預け、横目でボスを見やる。

 

 沈黙。考え込むように、ボスはしばし目を閉じる。

 

 そしてゆっくり目を開き、訥々と語りだす。

 

「私には平穏に生きる資格はない。この手はあまりに穢れている。今更平和を望むなど、厚顔無恥も甚だしい」

 

「あぁ?」

 

「だが過去の行いは変えられない。たとえどれだけ恥知らずであろうと、今よりいい明日を作るしか生きる術はない。私はずっとそうして生きてきた」

 

「お、おう」

 

 静雄の額に浮かんだ青筋が引っ込む。もしボスが悲劇のヒロインを気取ったような自虐を口にすれば、歩道橋を倒壊させてでも黙らせるつもりだった。

 

 もちろんボスにその手の葛藤はない。戦場で人を殺し続けた罪悪感も、戦い続けた徒労感も、すべてを呑み込んで今を生きる。それがボスの生き方だと割り切っている。しかし――

 

「しかし、私の生き方は少なからず子供たちに影響を与える。スネークたちはその筆頭だ。彼女たちは私のミームを知らぬ間に受け継ぎ、変化した。もはや普通の女の子に戻ることは望めまい。出会い自体に後悔はないが……本当に彼女たちの進む道はそれで良かったのかと……悩む」

 

「……」

 

 ボスの自己認識は極めて正確だ。こと戦闘能力については過小評価も過大評価もせず、完全な客観で把握している。しかし一つだけ過小評価している点があるとすれば、ボス自身のカリスマだろう。

 

 あまりに強いボスの意志は、ボスにその気がなくとも周囲に影響を与える。現にスネークたちはボスの何気ない言動や立ち居振る舞いから考えを吸収し、成長した。

 

 自分の生き方は決まっている。ただ、その生き方がそこまでの影響力を持つなら――

 

池袋(ここ)に来るべきじゃなかった、って言ったら、俺はあんたを許さねえ」

 

「静雄……」

 

 静雄の手中で手すりがひしゃげていた。静雄は怒りで暴走する全身の筋肉を抑え込み、言葉を探していく。

 

「俺はあんたほど頭が良くないから、気持ちは分からねえ。でもよ、あんたの影響を受けて変化して、成長して、その良し悪しを決めるのは本人だろうが。本人を差し置いて勝手に悩むなんざ、何様のつもりだ」

 

「……そうね。私がバカだったわ」

 

「!」

 

 静雄の頭上に赤いビックリマーク。怒りも忘れ、全身から脱力してその表情を見つめる。

 

 微笑みでも苦笑いでもない。威圧的な笑みでも、母性のあふれる笑みでもない。すべての仮面を取り払った、一人の女性として照れたように笑うボスの顔が、そこにあった。

 

「ありがとう、静雄」

 

「……べっ、別に」

 

 プイと顔をそらす静雄。横目でボスをのぞき見たときにはもう、いつもの頼もしいボスの顔つきに戻っていた。

 

「お礼にジュースをおごりましょう」

 

「ジュースだよな? この時間からコーヒーは眠れなくなるから勘弁だぞ」

 

「もちろんよ」

 

 ジュースを奢るといいながら毎回コーヒーを渡されるというボスの悪評をからかいつつ、二人は連れ立って歩道橋を降りていく。

 

 その時、ボスの携帯に着信。

 

 画面にはオセロットと表示されている。珍しい相手だ。

 

 静雄に断りを入れてから通話ボタンを押す。

 

 そしてボスは、池袋に来て以来最大級の驚きを経験することとなる。

 

『ボス! スネークが病院へ搬送された! 詳しくは直接話すから、まずは来てくれ! 来良総合病院――』

 

 

 

---

 

 

 

 一時間前

 

 突発的なお泊りに必要なものは多岐にわたる。替えの下着、バスタオル、歯磨きセット、寝具、年齢によっては各種生理用品などなど。それらのうちのほとんどを二四時間販売しているのがコンビニだ。アジトを出たスネークは当然そこに向かい、お泊りセットをアウターヘヴンの経費で購入すると思われた。

 

 しかしスネークはコンビニのある大通りには向かわず、わざと人通りの少ない裏路地を遠回りで歩き回る。うろつくこと自体を目的としているように、時間をかけてゆっくりと。

 

 そうしてニ、三十分は過ぎただろうか。スネークは足を止め、しびれを切らしたように声を張り上げた。

 

「いつまで隠れんぼを続けるつもりだ?」

 

 その声に呼応して物陰から姿を現したのは、人相の悪い男たちである。そろいもそろって目つきが悪く、派手な柄のシャツの下に大仰な入れ墨が覗いている。細い路地の前後を固め、スネークは完全に包囲された。

 

 スネークを地下駐車場から尾行していた連中だ。ボスの訓練を受けたスネークは当然これを察知し、あえてそのままアジトまで放置した。あのアジトは無数にあるうちの一つに過ぎず、仮に乗り込んできても全員で撤退することは容易だった。

 

 しかしスネークはある目的のため、あえて一人で彼らと相対したのだ。

 

 男たちの中から、体中に傷のある小男が歩み出る。下卑た笑みとは裏腹に、その両目にはすさまじい憎悪の念が燃えている。

 

「何を企んでんのか知らねえが、一人でこの人数をどうにかするつもりかぁ?」

 

「雑兵は蹴散らされるものと相場は決まっている。特にこの池袋ではな」

 

 小男の額に青筋が浮かぶ。

 

「……お前らアウターヘヴンは粟楠会を敵に回した。ごっこ遊びはもう終わりだ」

 

「粟楠? そうか、話が見えてきたぞ」

 

 粟楠会とは、池袋に事務所を構える任侠系組の一つで、目出井組系粟楠会として裏の世界で幅を聞かせる極道である。そうそうない名前の響きからして、オタコンの友人である茜は粟楠会の関係者なのだろう。つまり、スネークたちは夜も遅い時間に粟楠会の関係者をアジトに拉致した、と難癖をつけられているわけだ。

 

「だが分からんな。ここで私に手を出したところで、後で茜が勘違いだったと証言すれば、お前たちの立場が危うくなるはずだ」

 

「……知らねえよ」

 

「何?」

 

「知らねえっつってんだよ! 俺たちゃああのボスとかいう女をぶっ殺せりゃあ、どうなってもいいんだ!」

 

 男の目に正気はない。あるのはただただ熱い憎悪の炎だけだ。

 

「五年前の小波会壊滅以来、俺らの名声は地に落ちた! お前をタテにあの女ぁ脅して、土下座させてクツなめさせる。俺らはボスを倒した英雄として粟楠から独立する! そうだろうがてめえら!」

 

 雄叫びをあげる男たち。要領を得ない男の独白に、スネークは眉をひそめた。

 

 スネークが知らないのも無理はない。そもそも気炎をあげる男の存在を認知していたものは誰一人いなかったのだから。

 

 彼はボスが来日した初日に、過剰防衛で病院送りにされたチンピラである。

 

 小波会はボスの過剰防衛に対して報復の連鎖を繰り返し、その過程で粟楠会の系列店に誤って9mm弾を打ち込んだ。即座に抗争へ割って入った粟楠会は、小波会事務所を襲撃。ボスに対しても何らかの報復を図っていたものの、ボスの正体と明らかに人とは思えない戦闘能力を前に開戦をためらう。

 

 粟楠会や小波会のような組織は、一度争いを始めれば徹底的にやるしかない。ましてや相手が組織ではなく個人であれば、停戦や降伏などできるはずもなかった。組織としての体面が死ぬからだ。

 

 上位組織である目出井組も含めての協議の結果、ボスには完全不干渉という姿勢で臨むこととなった。彼女が表立って組織に敵対しない限りは何もしない。個人の戦闘能力が組織を抑止したのである。

 

 だがもちろん、その結果を不服とする組員もいた。意見を同じくした彼らは反ボス派として徐々に勢力を拡大していき、やがてもっとも強くボスを憎む人物が加入したことで派閥は暴走を始めた。

 

 その人物こそ、ボスに倒されたチンピラである。抗争の発端ともなった彼だが、粟楠会からはボスの戦力を測るためのかませ犬のようにしか認知されておらず、誰一人として彼を気にかけることはなかった。

 

 そんな影の薄さを利用して粟楠会に下っ端として潜入。ある情報屋から反ボス派の情報を買い、少しずつ派閥を拡大してきた。彼に人の心を動かす話術や営業力は皆無だったが、憎しみの炎はチンピラにチンピラらしからぬ能力を付与していた。

 

 後は開戦のきっかけを待つだけという段階でついに、ボスと関係のある女子中学生が粟楠会会長の孫娘を拉致したと報告を受ける。組織の身内に手を出された報復。その名目のもとに反ボス派を扇動し、スネークが一人になったところを狙い撃ちにしたのだ。

 

「まあそういうわけだ。殺しはしねえ。手足折って全員でマワして、顔面潰して虫の息であの女につきつけてやる。――かかれ!」

 

 前と後ろから男たちが殺到する。

 

 スネークは姿勢を落とし、もっとも早く攻撃圏内に入る男を分析。

 

 見極めが終わるや否や、最初の標的に躍りかかった。

 

 ドスを振りかぶる男。振り下ろしに合わせて手首を絡ませ、ドスを奪い取る。並行して金的を打拳し、後頭部をドスの柄で殴りつける。

 

 崩れ落ちる男を尻目に次の標的へ。左から特殊警棒が迫る。腕を取り、肩を極めながら後ろへ回って、固まった肘関節をドスの柄で折り砕く。

 

 男の体を強く押し、次の標的へ突進させる。怯んだ男の顔面に、ドスを握り込んだ拳を叩きつける。前かがみになった男の顔面へ更に膝蹴りを叩き込んだ。

 

 背後から殺気。振り返りざまに肘鉄を放つと、男の鳩尾に突き刺さる。小柄な男はスネークの体と相性が良く、首元に手を回して喉元にドスを突きつけ、拘束。男たちへの盾とした。

 

「な、なんだこのガキ!?」

 

 またたく間に四人を無力化したスネークに対し、動揺が広がる。スネークの眼光が彼らを射抜き、一歩、ニ歩と後退させた。

 

「怯むんじゃねえ! てめえら一生下っ端で終わっていいのか!? あの女ぶっ殺せば引く手数多だ! どこの組だって俺たちに頭下げて盃をよこすはずだ! ガキ一人やれねえ腰抜けは一生使いっぱしりだぞ!」

 

 男たちの目に暗い炎が宿る。彼らは皆似たもの同士、安っぽいプライドと暴力を糧に生きている。そのためなら多少の恐怖を誤魔化すことだってできる。

 

 第二波、第三波と波状攻撃がスネークを襲う――

 

「ぐあぁっ!?」

 

 すでに一時間はたったころ、スネークが苦悶の声を上げた。

 

 路地の壁に鮮血が散る。右目から滝のように血が流れ出る。顔面の右半分が燃えるようで、右の視界は真っ赤だ。疲労でわずかに動きの鈍ったスネークの右目付近を、男たちの特殊警棒が抉った。

 

「いいぞ! そのまま畳んじまえ!」

 

 じりじりと包囲網を狭める男たち。

 

 対するスネークは脂汗と血を滴らせながら、苦々しく笑う。

 

――やはりこうなるか

 

 分かっていたことだった。沙樹を助けた頃よりも成長しているとはいえ、十六歳の女の体だ。物量で攻められれば体力がもたない。スネークの技と心に体がついていかないのだ。相手が特に訓練を受けていない素人であっても、この不利は覆し難い。

 

 分かっていても。

 

 たとえ分かっていても、スネークはあえて一人でこの無謀に挑んだ。彼女はそうしなければならなかった。

 

「スネークさん!」

 

 唐突な声と、金属音。上から降ってきた人影が、スネークの前に降り立つ。

 

 それと同時に男たちの数人が倒れ伏す。登場と同時に仲間たちを無力化した新しい敵を前に、男たちは色めき立った。

 

「な、なんだお前!?」

 

「わ、私は、えっと……ファンの一人ですよ」

 

 リアルな狐の顔がプリントされた安っぽいお面に、日本刀。お面の覗き穴からは真っ赤な光が漏れ出し、動くたびに赤い線が描かれる。

 

 コードネーム、フォックス。作戦行動中における杏里の姿である。

 

「フォックスか……なぜここに?」

 

「帰りが遅いから、探しにきました。アジトはカズさんとオセロットさんに任せてます」

 

「そうか……それは安心だ」

 

「スネークさん!?」

 

 無力感と安心感に襲われ、スネークの体が落ちていく。

 

 罪歌を装備した杏里の力はすさまじい。体の負荷を無視すれば、あのボスと互角に渡り合えるという。武器を持っただけの素人集団相手では、苦戦することすら難しいだろう。

 

 すでに勝負の決した戦いを放棄し、スネークはあっさり意識を手放したのだった。

 

 

 

 


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