リセット   作:エイ

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プロローグ

 冥界の大地が鳴動していた。

 耳をつんざくような荒れた大気の音が、崩壊の序曲を轟音ともども崩れゆく大地と奏でている。

 此度の聖戦も、女神(アテナ)の勝利で幕は閉じた。

 冥王(ハーデス)の死により制御を失った冥界が、崩壊に向かっているのだ。

 死と言えど、神の意思が消滅するわけではない。

 力を失い、封印されるだけのことである。

 

 戦いによる余波と、強大な力が消えることによる反動。創世主たる冥王(ハーデス)の滅び。

 壮麗な神殿が、たちまち見る影もなく崩れ落ちていく。

 磐石のはずの大地は苦しみもがくかのようにのたうち、空間までも引き裂かんばかりの地割れが、冥王(ハーデス)(たお)れた場所より広がっていく

 

「みんな……、帰りましょう。光あるところへ」

女神(アテナ)……」

「沙織さん……」

 

 しっかりと星矢の頭を抱え込んだまま、女神(アテナ)は目尻に涙を残し微笑んだ。

 多くの犠牲を悼み哀しみ、それでも生への希望をたたえた眼差しだった。

 すべての戦いが、今終わったのだ、とその場にいた誰もが思ったに違いない。

 戦いにおいて考慮すべき、起こりうる非常の予想を欠いたのは事実だ。

 だが、一体、誰がこのような事態が起こると想定できようか。

 

 ――――大気の狂乱。

 ――――大地の慟哭。

 風は殺意そのもののように鋭く牙を剥き、悲鳴すらもかき消す怒号を上げながら大地に襲いかかる。

 大地は、もはや悲鳴すら上げず、鞭打たれる皮膚のように容易く裂かれ、敗北した。

 人ほどの大きさもある瓦礫が、軽々と空中に撒きあげられ、狂笑するように荒れ狂う。

 そして、冥界の空間が凶暴なまでに振動し、歪にたわみねじれていく。

 冥王(ハーデス)(たお)れた直後、消滅へと向かっていた崩壊とは明らかに異なる狂騒。

 

「こ、これは!」

「くっ! 立っていられない!」

「まさか、冥王(ハーデス)っ!?」

「な、沙織さん、これはいったい!?」

 

 消耗した小宇宙を燃やし世界の暴挙に抗いつつ、聖闘士達が驚きと疑問を口に乗せる。

 

「おそらく、私と冥王(ハーデス)による戦いと冥界の消滅による影響でしょう。時空が、この時空が歪もうとしているのです!」

 

 女神(アテナ)は目を見開いて、信じられないと言いたげに喘いだ。

 その足元が大きく崩れる。

 

女神(アテナ)、危ない!」

 

 同時に、天が割れた。

 さらに激しく風が吹き荒れ、空間が歪む。

 何もかもを押さえつける激しい圧力とすべてを吸い込もうとする強烈な引力。逆巻く大気のねじれ。異質なまでの不均衡。

 歪みより生みだされる無慈悲な力に耐えようと、女神(アテナ)と聖闘士は全神経を集中せざるを得なかった。

 それを責めることは何人たりともできまい。

 故に、星矢の身体から注意がそれたことも不可抗力であった。

 あえて言うなれば、それは運命の女神(モイラ)の悪戯、あるいは皮肉というべきものだったかもしれない。

 

 空間の歪みに吸い込まれていく星矢に最初に気がついたのは女神(アテナ)だった。

 整った容貌から血の気が一気に引く。

 

「えっ!? 星矢っ! いけないっ!」

 

 凄まじいまでに吹き荒れる嵐と圧力の中、気がつくとはさすが女神と言うべきだろう。

 だが、聖闘士の誰にもそれに驚嘆する余裕など与えられはしなかった。

 

「な、星矢っ!」

「くそっ、動け! 俺の足よ!!」

「チェーンよ、星矢の元に! お願い届いてっ!」

 

 いかなる努力も報われなかった。

 彼らの足は、彼ら自身を支える以上の余力を持たず、翼は容赦なく吹き荒れる嵐の中ではかえって邪魔としかならない。

 アンドロメダのチェーンですら、瓦礫が踊り狂う凶風にコントロールを奪われて。

 そして、女神(アテナ)は、血を多量に失い、戦い疲弊した己では不可能だと。

 歪みから星矢を取り戻すことと、残った彼らを守り続けることは。

 ――――両立できない。

 そう、判断してしまった。

 

 どれほど耐えたか、各自が星矢を失った衝撃も冷めやらぬまま、ただ無我夢中で狂嵐をしのぐ。

 歪みの消滅は唐突だった。

 吹き荒れる風も、鳴動する大地も、もはや歪みの影響下にあるわけではない。

 脱出すべき状態であることに変わりはないものの、聖衣をまとった女神(アテナ)と神聖闘士を圧するほどの力はなかった。

 

 ――――だが、もうそこに星矢はいない。

 

 

 

 

 最初に動いたのは女神(アテナ)だった。

 荒れる暗い天を睨み、冥王(ハーデス)、と呼ぶ。

 どこか、切実な色が込められている声音。

 

「そこに、いますね?」

 

 瞳の色は厳しい。

 口に出すまでもない問いが、呼びかけにはこめられていた。

 崩れゆく冥界をつらぬいて響く、問いかけ。

 もはや意思のみとなり、眠りにつきつつある冥王(ハーデス)が遠く応える。

 

(――――此度の決着はすでについた。余がこのような暴挙に及ぶ理由があろうか)

 

 婉曲(えんきょく)な否定。

 再び、冥王(ハーデス)、と問いかける。

 同じ呼びかけでも意味合いが違う。

 正しく、冥界の神はその意図を汲んだ。

 

(――――さて、余も知らぬ。だが、貴女にあの歪みを理解できなかった筈もない。呑みこまれれば二度と戻れはせぬ……なれば、何処へ通じようとも、貴女にも余にもあずかり知れぬこと)

 

「そんなっ、そんな筈がない!」

「星矢はきっと戻ってくる!」

 

 こらえきれぬように、氷河と紫龍が叫ぶ。

 その言葉にかぶせるように、淡々と冥府の王は言葉を連ねる。

 

(あれは我々が存在する3次元より高次の次元をも含んだ時空の歪み。超次元ならば、最悪でも宇宙と時の彼方に飛び散るに過ぎぬ。この世界より弾き出されるわけではない。……この意味が分かるか。女神(アテナ)の聖闘士どもよ。五次元、六次元――――ここ三次元以外の世界は安定に欠けることこの上ない。肉体と魂の別がない状態が常であるかと思えば、その次の瞬間に分解と飛散が待っている。意思だけで存在を保てる神とは違うのだぞ)

 

「まさか、星矢はこの世界の外に、時の外に弾き出されたとでも言うのか!」

 

 一輝は瞠目した。

 握りしめた拳から、新たな血の筋が流れる。

 そんなまさか、と誰かがつぶやいた言葉が雑音のように遠い。

 視界が急速にせばまる感覚は、崩れゆく冥界の大地のせいだろうか。

 

 冥王(ハーデス)の言葉を分かりやすく言えば、星矢は世界創世の混沌に放り込まれたに等しい、ということだ。

 世界の誕生と共に神々が生まれ、神が世界のすべてを創造したとするならば、その外側は、世界の生まれる以前。すなわち原初の混沌(カオス)

 確かに、如何(いか)に最高峰まで辿りついたと言えど、人の肉体と魂が無事ですむとは思えない。

 

(……愛などではどうにもならぬ。女神(アテナ)よ。貴女にも分かっただろう。人の無力さは……哀しいほどだ……)

 

 薄れていく冥王(ハーデス)の思念。

 女神(アテナ)は一切の反論をせず、深く息を吸い、瞑目した。

 ――――その意味。

 

「沙織さん! 星矢は――――?」

 

 その先を口に出すのが恐ろしいのだろう。

 すがるようにチェーンを握りこむ瞬の双眸は、痛切に女神(アテナ)に向けられてひたとも外れない。

 チェーンのかすかな震えは、主の懸念そのものを表していた。

 瞬は、信じたくないのだ。

 

「帰りましょう。……地上へ」

「っ!?」

「地上で待ちましょう。星矢はきっと帰ってきてくれます」

 

 すべてを包み隠す深海のごとく静かな瞳に決意を写して、女神(アテナ)は聖闘士達を見渡した。

 

「命あふれる地上に」

 

 

 

 

 多くの犠牲を出して。

 聖戦は終結し、地上は太陽を取り戻した。

 

 ――――だが、もうそこに星矢はいない。

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