―――目を覚ませ。
微笑みに交わされた約束。優しい仕草で託された願い。閉じた目さえ眩む誓い。必死に叫んだ決意。揺らめく劫火の熱壁。
―――目を覚ませ。
限界まで伸ばされた手。触れれども離れゆく
―――目を覚ませ。
西日を受ける黄金の聖衣。空気を震わせ飛び交う怒号。大地に揺れ踊る影。銅色に染まった岩肌。高く響く靴音。
―――目を覚ませ。
暁光は真闇に。星空は曇天に。大地は焔の演舞場に。海は泡の煮えたぎる煉獄に。ひび割れる光景。あらざる情景。
―――目を覚ませ。
果て無き虚無。その中に一人。無限に散らばる生命の焔。その中に一人。永遠に一人。どこまでも一人。ただ独り。
―――目を覚ませ。
時空を漂う粒子。分かち合う世界の記憶。組み込まれる万物の韻律。拡散し集合する森羅万象を成さしめる法則。
―――目を、覚ませ!
星矢!
ハッと意識が目覚めた。
とたんに感覚のすべてが切り替わる。
聴覚、視覚、嗅覚、触覚、それまで遮断されていたものが流れ込み、手の感覚、足の感覚、固く強張った四肢に血液を流しこむ。脈打つ意思に応える鼓動。
意識にあるのは、呼ばれた事実だ。
「誰だ!」
大喝したつもりだったが、かすれるような声しか出なかった。疑問に思うのは後回しだ。動け俺。
ベッド脇からのしかかる影がびくりと揺れた。近い。今まで目が覚めなかったのが嘘のような距離。
相手の喉首を掴もうとするのはもはや反射だった。自分の動きとは思えないほどののろさに違和感を覚え、それでようやく自分が何をしようとしているのか明示的に脳で認識する。
腕が思ったように動かない。まどろっこしい。苛立つ間にも段々と本格的に覚醒していく感覚で、相手の動きを見取る。
誰だ、お前は。
問いかける意識は、本当に相手が誰であるかと知りたいというより、敵かどうか見定める意味合いを多く含む。
暗闇の中、反撃してくる腕は、上ずったこの声は、惑うこの気配は、お前は誰だ。殺気をもって問いかける。
「よ、よせ! 俺だ! 星矢!」
邪武?
「お前かよ。何だよ気配を消して近寄るんじゃねえ。敵かと思っただろ」
「別に消してねーよ。俺はお前がうなされてたから何事かと見に来ただけだ」
ぜぇぜぇ息を詰まらせながら、邪武は喉をかばう。
つまり、何か、俺は気配に気づきもせずこの距離を許し、その上に反撃までされたのか。
なんだろう。ものすごく落ち込むぞ。邪武ごときにと思うと死ぬほど屈辱だ。
「おい、何か失礼なこと考えてねぇか」
「気のせいだろ。それより、うなされて、いた?」
「ああ、覚えてないのか?」
「いや、何か夢を見ていたのは覚えてる。ひどく大事な夢だったような」
答えながら頭に手をあてる。寝起きの頭をかき回して、夢の残滓を探った。
大事だったのは覚えてる。覚えてるが、中身が分からん。何だ?
何を夢見ていた?
どうして大事だった?
「フン、だいたい、いつまで寝てる気だ。もう四時だぜ」
それがさも当然であるかのように邪武は胸を張る。この野郎、人が考え事をしてる時に。
そんなこっちゃ
手加減、上手くなったな。俺。
顔面を押さえて転がった邪武に満足を覚えつつ、あくびを噛み殺す。カーテンの隙間から見える外はまだ暗く夜の色をしている。
いつ起きて活動するかはお前の自由だ。だがな、それをさも常識かのように言うんじゃねえよ。
寝なおしたいところだが、一度起きちまったらもう寝られないんだよな。身についた習慣が恨めしい。
昨日は、大変だったってのに。
「いつまでってほど寝てないだろうが。時差ぼけを考慮しろよな」
ギリシアからデスクィーン島へ、デスクィーン島から日本の城戸邸へ。体力も神経も使い減らしてるってのに。ああ、主に神経のほうな。体力は寝たら回復したからもういい。それにしたって、配慮の片鱗くらいは見せろってんだ。
期待はしてないし、こいつに俺に対する配慮なんてもんがあってもおかしいが。
「はっ、軟弱な奴め!」
「へえ、その軟弱な奴に、昨日は手も足も出なかったわけか、お前は」
「なッ~!!」
上半身を起こして減らず口をたたく邪武に、二回目のあくびをしながら、言い返せば見事に顔に血がのぼる。のぼりすぎて赤黒い。言い返せずにわなわなと震える喉に筋が浮き出している。
もしかして、こいつがこんな朝っぱらから動いていたのは、悔しさのあまり特訓でもしてたのか?
とすれば、ここにいるのは夜討ちでもする気だったか。なるほど。
だとしたら、いい覚悟だ。鍛え甲斐がある。
にやりと笑った俺の表情に、何か誤解をしたらしい邪武が胸倉をつかみあげてきた。
奥歯のきしりがはっきりと聞こえる。唾を飛ばされそうだ。
「てっめえぇぇぇぇ……! 誰のために来てやったと!」
「落ち着けよ。お前の売った喧嘩だろうが」
朝の四時から何を不毛なことしてんだ。こいつ。
三度目のあくびを噛み殺すのと、部屋のドアが開けられるのは同時だった。
暗い影が、のそっとドアから声をかけてくる。
「おい、何やって……んだ」
那智だ。
ドアの隙間からつっこまれた顔が、目を口を大きく開けて、語尾を尻すぼみにして口を閉じる。
無理もない。目の前のこいつがおかしいだけで、四時と言ったらまだまだ寝てる時間だろう。
ギリシアでの修行中は違ったけど。魔鈴さんに叩き起こされたけど。朝飯も食べずに腹筋五千回とか言われたけど。
だが、そんな俺にもまだ常識は残っている。午前四時は寝ていて構わない時間だ。
ギリシアでも、朝番の雑兵と修行中の見習い以外は寝てたもんな。
「……邪魔したな。ごゆっくり、と言うべきか?」
「言わんでいいッ!!」
はあ?
待て待て待て。何の邪魔だよ。何の。
いくら何でも朝っぱらから喧嘩はしねえぞ。
俺が目を剥いている間に、邪武は即座に否定した。今だけは邪武と同調できるぜ。
那智の眉がよせられ、困惑した表情になる。いまだ胸倉を掴まれたままの俺と邪武を見比べて、肩をすくめた。何が言いたい。
と言うかだな、それ以前に訊きたいことがあるんだよ。下がろうとするな。
「おい、ちょっと待てよ」
去ろうとドアを閉じかけていた那智が、俺の声にうるさげに振り返る。
その間に、邪武の腕を振り払い、俺は柔らかすぎるベッドから下りた。石造りに慣れた身としては、足指をくすぐる毛足の長い絨毯の感触がなんとも頼りない。
「なんでここに?」
「なんでって……うるさいぞ。お前ら。この近くの部屋の奴らなら全員聞こえてるんじゃないか?」
「あ?」
そんなに騒いでたか?
首をかしげた俺に、那智が無言のまま呆れたように親指で指した先は、怒り収まらぬ様子の一角獣の聖闘士だった。不貞腐れたと言うか、人によっちゃきまり悪げと評するかもしれない表情でそっぽを向いている。
思わず那智の顔を見やれば、肩をすくめてにやりと笑われた。
うん、騒いでた。騒いでたな。お前ら、とひとくくりにされるのは納得いかないが、ひとまず合点した。認めるけど笑うな。
顔をしかめながらもうなずいた俺を、片眉を上げ見やった那智に、不意に影が落ちる。体格のいい影から落ちてきたのは、その体格に相応しい野太い声だった。
「お前ら、何やってんだ?」
今度は激か。わざわざ見に来るなよ。
どうやらこいつも鍛錬中だったらしい。がっちりした上半身に、グラード財団のロゴマークつきトレーニングウェアが間延びしている。
カシオスといい、こいつといい、14、15歳とはとても思えん。
ひがみじゃないぞ。俺には未来がある。多分……。
「お前ら、とりあえず入れ」
それ以上、騒がれるのは面倒だったので、激と那智の首根っこを引っつかんで引きずり込み、悪夢を見てただけだと説明する。悪夢かどうか分からんが、うなされてたからには悪夢だろう。多分な。うんざりするほどその材料はあることだし。
正座はオプションだ。問答無用。三人とも、そこになおれ。
「つまり、怖い夢を見てうなされてたわけか?」
「寝ぼけて騒ぐなよ。お前」
「朝っぱらから迷惑な奴だな」
違えぇ!
理解力のない兄弟どもにこぶし交じりの説教を追加してやれば、いつの間にか、三人とも半眼になっているが、ふん、お前らが悪い。
物分りの悪い兄弟を持つと苦労するぜ。まったくお前らはなってない。俺の苦労を分かってない。
「分かった、分かったから、朝飯にしようぜ」
「お前は来たばっかりだから知らんだろうが、俺達用の厨房があんだよ。専用のコックがいつ行っても待機しててな」
耳をほじりながら言う那智。
激が立ち上がりながら補足する。
へえ、そんな風になってたのか。
俺は前回ここに世話になるなんて真っ平だったからな。初めて耳にする事実に少し心が揺さぶられる。
だが、いつでも食い物で釣れるとは思うなよ。
「俺は、お前らとメシなんか食う気はない。じゃあな」
邪武が捨て台詞を吐いて出て行く。
じゃあ、どこで何を食う気だ、と突っ込みたいのをこらえて見送った。突っ込んだらまたごちゃごちゃ言い出してややこしくなるに決まってるからな。これ以上の面倒はごめんだ。
那智と激も同じように思ったらしく、肩をすくめるだけでそのまま見送って、歩き出した。
城戸家は広い。よって、食堂まで遠い。
歩きながら受けた説明によれば、最初はきちんと朝昼晩きっちり時間が決まっていて、出るものも共通だったらしい。だが、俺達の育った環境―――要するに修行地―――が見事なまでにバラバラで、一日六食もの食事を取る奴もいれば、宗教上の問題などで特定の食品を受け付けない奴もいるので、食べたいものを言い、食べたい時に食べろと、そんな話になったらしかった。
「味は、まあ好みによるんじゃねえか?」
「だな。いつ行っても、とりあえず何か口にできるものがあるのはいいんだけどよ」
二人が酸っぱい顔になった理由は、食堂に着いてすぐ分かった。食事は確かにすぐ出てきたからだ。
何と言うか、不味いわけじゃない。上等なモンが使われてるんだろうと思う。上等すぎるくらいの。
ただ全体的に薄い、いや薄いというより、肉に肉らしい味がない。いかにも調理され整えられた味で、量も足りない。柔らかすぎて肉という感じじゃない。
総括して言えば、食った気がしない。
こう、肉なら肉で汁やら血やらが垂れてて、噛みごたえのある硬さがあって、食いちぎる楽しみがあってこそ食った満足感があるもんだ。
正直な感想としては、物足りない。
かといって、そうそう文句も言えない。職務にプライドを持ち、料理に命をかけていそうな城戸家お抱えのこのシェフに、俺の求めているものなんか理解できないだろう。具体的に言えば、そんなに手をかけずに肉をそのまま焼いてほしいってだけなんだが、言えばこっちが焼肉にされそうだ。
ついでに言うと、皿やらフォークやらからは高そうな匂いがプンプンするわ、控えめながらもテーブルクロスの光沢は高級感を主張するわで、くつろげるとはお世辞にも言えない。
食う気すらしなくなる。
おまけに、食後のデザートまで出されてはもう異次元だ。シャル……シャルなんだっけか。解説まできっちりしてってくれたが、馴染みがなさすぎて頭に残らなかったのだ。
冷やされた甘い菓子は不味かったわけじゃない。決してそういうわけじゃない。 だが、お口に合いましたでしょうかと尋ねられても、そもそも合わせる口を持ってない場合はどうすりゃいいんだ?
俺、やっぱり今回も一人暮らししようかな。
「お前ら、本当に毎日ここで食べてるのか?」
「……言いたい気持ちは分かるぜ」
「あー、まあな。全体的にこう、何もかもに手応えがないっつうか」
那智が片頬を歪めて言葉少なく同意すれば、、激は溜息をついて独り言つようにぼやいた。
かつて、
俺は姉さんを見つけるため、紫龍は己が力の証明を持ち帰るため、瞬は一輝との再会を願い、邪武はおそらくお嬢さんのために戦った。
だが、こいつらは。
こいつらの戦いは何のためだったのか。
考えたこともなかったが、こんなふにゃふにゃした生活じゃ、あんな戦いでもなきゃ生きてる実感もないだろう。
自分がいるべき場所でない場所にいる感覚。居心地の悪い違和感。戦士なら感じないはずはない。
そうすると、聖闘士は、どうしたって戦場こそが居場所なのかもしれない。死ぬまで戦場にて敵を倒し続ける。
……やめよう。思考がおかしな方向に行ってるぞ。俺。
今、考えるべきは目先のことだ。そう、ひとまずは、この手ぬるい生活に慣れ始めているらしいこいつらを叩きあげてやるぜ。
夜明けの光が、食堂の窓から差し込んでくる。
今日という日は、二度はない。喜べよ。退屈している暇はもうないぜ。
俺は二人に笑いかけた。
「安心しろよ。今日中に嫌でも手応えのあることを始めさせてやるから」