さっさと食事を済まして自分の部屋へ戻った俺の手の中には、メッセージカードがある。
曰く。
『戻ったら、私の所へ。―――沙織』
俺に割り当てられた部屋はベッドとサイドテーブルがあり、サイドテーブルの上には小さな照明器具が置かれ、ポストカードが数枚飾られている。
そこから一枚が抜かれ、枕辺で俺の帰りをぽつんと待っていた。無造作に置かれたポストカードに記されているのは、必要な部分だけを書きぬいた簡素なメッセージだ。朝の挨拶も、ねぎらいも省いた書置きだった。お嬢さんらしいと言えば、お嬢さんらしい。
いや、人手をやって、俺を呼びにやらせなかっただけ気遣いがあるのかもしれないが、日本語で書くあたり詰めが甘い。
俺は六歳までしか日本にいなかったし、その日本での教育もろくろく受けてない。その俺に日本語のメッセージを読めるとどうして思うんだ?
配慮がない、と言うよりも、その配慮が甘い。
読めるけどさ。師匠が魔鈴さんという日本人だったおかげで、そこそこの日本語教育は受けてるから。
それでも、平均的な日本人としちゃ劣るだろう。他の奴らよりはマシだろうけど。
補足しておけば、聖闘士にとっての公用語は、ギリシア語だ。ギリシア文字も然り。日常のやりとりはもちろん公式書類の数々もギリシア語だし、重要書類なら古代ギリシア語か、ラテン語で来る。
ちょっとした簡易書類なら
慣習ってやつだな。
ギリシアは古来より神の恩恵を受けし地。聖域の歴史は長いが、その聖域のあるギリシアの歴史もまた長い。ギリシア語ってのは、単に「ギリシア語」というと古典ギリシア語をさすほど歴史のある言語でな。さまざまな地域に分派し、さまざまな方言に分かれている。
さらに重要な書類なら暗号化もかねて、古代フェニキア文字で来たり、アラム文字で来たりするらしい。そういった書類を取り扱うのは、どちらかと言えば神官の役目だから、俺はあまり詳しく習ってないんだが。
関連して、ギリシア国内の言語論争についても教わった、はずだが、そっちはほとんど覚えてない。 魔鈴さんに殴られるから、言わないけどな!
世界各国からの報告書も聖域に合わせた共通形で来ると魔鈴さんは言っていたから、どの修行地でも最低限ギリシア語は身に付けさせられる。他の言語は師匠次第。
だが、聖闘士は世界各国で任務をとりおこなう。俺が日本語教育を受けているように他の言語を学ぶ者も多いはずだ。
最低限、現地語はやってるだろ。生活にかかわるんだしな。
いや待て。帰国してから日本語の話せない奴なんか見てないし、母国語は最低限やらされるのかもなあ。読み書きはともかく。
とにかく、日本で育ってない俺の日本語能力は当然ながら高くはない。ぶっちゃけてしまえば低い。読めない危険性もさることながら、日本語特有の言い回しの感覚が俺にはない。だから、書置きを残すより呼びにやったほうが安全だ。
「まさか、だからか?」
だからこそ、俺の部屋にわざわざ自分で呼びに来たのか? この時期のワガママ放題だったお嬢さんが? ……まさかな。そんな理由はないし。
しかし、朝飯に大した時間はかけてないぞ。タイミングが悪かったな。お嬢さん。
朝っぱらから、俺に何の用事だったんだ。
■■■■■■
「話は明日に、と言ったでしょう」
お嬢さんの書斎。
執務机に座っている沙織さんはそう言って、端にあったベルを鳴らした。
やってきたメイドに何事か言い付ける。かしこまりましたと退出していくメイドがドアの外に消えると、俺を手招いた。
「私は、今日の記者会見で、
執務机の前に立っている俺の前で、沙織さんは緊張した面持ちで指で机をたたいた。
憂慮とわずかな諦念が表情に浮かんでいる。
「ただ、彼らが私の言葉を信じ、ともに戦ってくれるでしょうか」
「説得は俺がやる。お嬢さんは顔を出さないほうがいい。自覚はあるんだろ?」
からかっているだけだと分かるように笑いながら言えば、お嬢さんも口を尖らせながら、こらえきれぬように笑い声をこぼした。
沙織さんは、自分が嫌われていると知っているのに、あの傲慢な態度は改めないんだよな。今みたいにしてれば、まだしも反発されないだろうに。
いや、やめられないのか。
それが「城戸沙織」だから。
俺は血がつながっている事実でさえおぞましいが、沙織さんは逆なんだろう。
なんでまた、城戸光政の孫であることにそうまでこだわりたいのか、分からないし、分かろうとも思わない。ただお嬢さんは「そう」なんだろうと認識するだけだ。理解はできない。したいとも思えない。
そして、あいつらは「城戸沙織」が「
甘いよなあと思いながらも、今の俺には、それを可愛いと受け止められる余裕がある。
聖戦時の沙織さんを知っているからな。俺も、大概甘いんだろうなあ。
分かっちゃいるが、変えられない。俺が死んだと告げられなかった俺が、その甘さを責めるのはずるいってもんだろ。そんな資格はない。
「記者会見は今からなのかよ?」
「ええ、ああ、いいえ後二時間ほどありますわ」
「じゃ、グラード
「それは構いませんけれど、まだ到着してない聖闘士が」
「
「
「げ?」
おいおい!
何で!?
あいつ、前回の
なんでいないんだ?
俺の表情を見たお嬢さんが苦笑いして、書類をめくる。目は書面に向いているが、ただ視線を逸らすために眺めているだけのようだった。
「氷河には何度も通達しているのですが、梨の
どういうことだ?
俺は曖昧になりかけている記憶を探る。
確かにいたよな。
うん? 何かひっかかる。
俺は記憶を探る。どうしようもなく遠い記憶を探る―――何か、何かがあった。何かがあったはずだ。
―――ああ、俺は、何かを、忘れている、気が、する。
馴染みのある嫌な予感に、気分が暗く落ち込んでいく……こういう時に限って当たるのだ。しかもほぼ間違いなく。こんな感覚に馴染みたいとはこれっぽっちも思ってないってのに、現実はいつでも俺に厳しい。
お嬢さんが俺の表情を気遣わしげに窺う。分かってる。何とかするさ。氷河の馬鹿野郎!
ノックの音が響く。メイドが二人分の茶器と茶菓子を乗せた盆を持ってしずしずと入ってきた。お嬢さんが表情を緩めて立ち上がる。執務机の脇にあるソファーに移動して俺に笑顔を向けた。
「星矢、お茶を飲みながら話しませんか? 今日のお茶菓子はオレンジのシャルロットですわ」
お嬢さん、俺、そのサイズの一切れなら一口で終了なんだ。お代わりあるか?
■■■■■■
グラード
円形のドーム天井は大きく開けられたままになっており、秋晴れの青空が俺達を見おろしている。十万人もの収容を誇る観客席には当然ながら人影はまったくない。本来リングが設置されるはずだったのであろう場所には、土台だけが味気なく立っている。
その土台の根元に、青銅聖衣のパンドラボックスが鎮座していた。ただし、その数は七だ。そこに
「おい、星矢、俺達をここに集めたのはお前か? 何のつもりだ?」
「まさか、
「俺はそれでも構わんぜ。結果は同じだからな」
「ハンッ、ほざいとけ」
「弱い犬ほど吠えるとはよく言ったものだ。フッ、その口がいつまで持つか」
どいつもこいつも威勢がよくて実に結構。
だが、お嬢さん、記者会見より先に教えといてやれよ。
まあ確かに、こいつらが怒って暴れ出したら辰巳なんかの手には負えないだろうから、構わんのだけど。
割合に仲よくやってるのかと思ってたんだが、それはそれ、これはこれらしい。言い争いに参加しない奴も止めようとはせず、他人事として傍観している。諦めているのか、いつものことなのか。
やかましいが気にしない。静かにさせたところで、俺の話を聞けば騒ぎ始めるだろうからな。
これでここに氷河がいれば、万事解決なんだけど、と空しい希望を抱え、俺はもう一度数えなおす。何度数えても、八人のままだ。
分かってる。分かってるけどな! 氷河の馬鹿野郎!
城戸家から送り出された百人のうち、生き残り、聖闘士になったのは十人。
その内、八人はここにいるからいいとして、問題は残りだ。
より正確に言えば、一輝はデスクィーン島にいるし、考えも分かってるからおいといて、問題は氷河だ。
あいつは城戸家に何の恩も感じてない。むしろ嫌悪さえ持っているはず。城戸家に恩なんか感じてないのは俺も一緒だが、俺は姉さんとの再会を約束されていたから帰ってきたのだ。氷河には帰ってくる理由がない。
お嬢さんと話し合った結果、迎えに行くのが一番だろうという結論になった。
ただし、他の奴らに説明を済ませてからな。
どうしようかと迷った。迷ったんだが、俺が氷河を連れてくるまで待たせるのは時間の無駄だ。どうせなら、それまでに自主修行に取り組んでもらおう。
時間をおけば来るもんなら、待ちたいところだが、俺の記憶が確かなら氷河は来ない。どれだけ待っても。
『聖域から私闘を演じるお前らを抹殺して来いと命じられた―――』
とか何とか前回言ってたからな。
つまり、氷河が前回日本に来たのは、
今回、
「そこまでにしとけ」
さっさと説明してしまおうと、俺はしかめっ面で、いやいや水を注した。
根回しってやつの重要性を痛感しながら、どこから話せばいいのか迷って、結局最初から話すことにした。俺の知っているすべての始まり。
つまり、十三年前のアイオロスの乱からだ。もう何回目の説明だろう。面倒な部分はちょっとすっ飛ばしても許されるよな。
「十三年前のアイオロスの乱は知ってるな?」
「知らないはずがないだろう」
「あれは聖闘士全体にとって衝撃だった。すべての聖闘士の規範たる黄金聖闘士に裏切りがあったとは」
「アイオロスの乱がどうかしたのか。今、関係ないだろう」
「まあ、待てよ。今説明するから」
返ってくるのは腹立たしげな相槌と、きつく尖った目線。
不審五割、不満三割、疑問二割ってとこか。
ああ、苛立たしい気分はよく分かる。さっさと話せってんだろ。ちょっと待て。
最低限、話しておくべきなのは、アイオロスは無実。教皇が彼に罪を着せ、
別にやけっぱちになってるわけじゃないが、気が乗らない。初っ端から番狂わせは起こるし、目の前のこいつらはごちゃごちゃとうるさいしな。
だいたい、前回は何の情報もなく、実力も足りぬまま戦いに臨まなくちゃならなかったんだ。自分の命を賭け金にしてな。今回、説明があるってだけで十分親切なんだぜ。
俺、いや「前回の俺達」と比べるのが間違ってるってことは分かってる。それはこいつらのせいじゃない。
だけど、やっぱり、ちょっとだけ、怒りに近いような悔しさがある。もどかしい。
前回は巻きこまれて、それが運命なのだと受け入れたのは戦いの最中だった。受け入れざるを得なかった。
その「俺達」と比べたら随分とマシだろうが! と一喝したくなる。
そんなのは間違っていると分かってるんだけどな。卑屈だ。比べるようなもんじゃない。それが分かってるから説明する。だけどな、説明してやるんだから、もっとしっかり聞きやがれ!
そんな気分で説明を一息で早口に終わらせる。ぽかんとした奴らの顔に、
暫しの沈黙。
針一本の落ちる音さえも響き渡るだろう沈黙。
そして、表情に理解が表れる。
理解して驚愕する者。
理解して激怒する者。
理解して困惑する者。
理解して反発する者。
まったくもって―――理解を否定する者。
「ハッ、何か、つまりお前の言うことを信じるなら、あの、お嬢さんが
「……星矢、君を疑うわけじゃないけれど……」
「気でも狂ったか。星矢。そんな話、到底信じられん!」
「それでは
「お嬢さんが
お嬢さん、出てこなくて正解だ。あんたの人望は薄すぎる。城戸家には俺達に憎まれる理由があるんだけどさ。俺だって、逆の立場なら信じない。
いや、実際、信じなかったのか。前回、沙織さんが白銀聖闘士に誘拐されたりしなければ、ずっと信じなかったままに違いない。実際のところ、俺にこいつらの態度をどうこう言う資格なんざないんだ。
だけど、信じようが信じまいが真実は変わらない。
げっそりと現実を見ながら、俺は一言だけ付け足した。
「全部、本当だぜ。諦めろ」