空を飛んでいた。
比喩ではない。本当に飛んでいた。
―――より正確に言えば、落ちていたのだが。
「―――っ!! なんだっ!?」
本能的に空中で体勢をととのえ、軽く足を曲げ、着地の衝撃をやわらげる。
途端に背後から攻撃が来た。とっさに転がって避ける。
この時点で頭は戦闘モードだ。ためらっていてはやられる。考えていてはやられる。
ある意味、この思考の切替は機械のようですらある。反射的に身体が反応し、攻撃を返す。
ここがどこであるかだとか、なぜ落っこちていたのかだとか、そんな疑問は後回しだと脳が勝手に判断して、目の前の敵だけの反応に切り替わるのだな。
だから、俺は、
「くっ!」
今自分が拳を向けている相手が誰であるかだなんてこと、認識していなかったし、気にもとめていなかった。
その姿を目にするまでは――――。
――――魔鈴さん!?
――――なんでっ!?
「――――っ!?」
思わず耳をふさぎたくなるほど派手な打撃音。
衝撃波が耳ばかりでなく全身を叩く。
埃がもうもうと辺りに舞い、俺と魔鈴さんの間の地面は身の丈ほどに深くえぐられている。
その深さと飛び散る土塊が加えられた衝撃の度合いを物語っていた。
とっさに寸前で逸らすことには成功したが、本当にギリギリだったために、魔鈴さんの仮面は吹っ飛び、着衣もところどころ破れている。
仮面の下の、秀麗な容貌が驚きもあらわに俺を呆然と眺めていた。
……げっ、うわ、これはヤバいかも。
いや、魔鈴さんが攻撃してきたのがそもそもだし、俺は悪くない! ……多分。
と言うか、なぜ魔鈴さんがここにいるんだ?
俺は……一体……どうなった……?
「星矢、お前……」
「ご、ごめん、魔鈴さん! いいわけは後でっ!」
疑問は置いておこう。
取りあえず落ち着ける場所まで行って考えるか。
俺はそんな風にもっともらしい言い訳をつけて走り出す。
怒られるのが嫌で逃げ出すなんてみっともないと言わば言え。
数々の闘いを経て、実力ならはるかに魔鈴さんを超えた今でも、彼女が俺の師であることにかわりはないのだ。
不可抗力だったとはいえ、攻撃をしてしまったことは後ろめたいものがある。
「お待ちっ! 星矢!」
魔鈴さんの声を無視するのも、これまた心理的にかなり抵抗があるが、この場合は仕方ない。
乾燥した空気が俺の頬を乱暴に撫でては、あっという間に過ぎ去り、景色は流れる水のように形を崩し色彩の残像だけを残して抜けていく。
ある程度離れたところで、足を止める。
……魔鈴さんは……いないな。よし。
つい反射的に逃げてしまったが、ここはどこだ。
少なくとも冥界じゃない。
思わず木陰を求めてしまう強い陽射し。その光に反射してまぶしいばかりの大理石と石灰の乾いた白。少ない緑は太陽に枝々を伸ばして生命力を誇示し、岩の転がる大地は自然の厳しさをうかがわせる。
疑問に突き動かされて見渡す目に映るものは、もはや日本よりも馴染みのある風景だった。
第二の故郷と言っても過言ではない、聖域の景色。
ということは、なぜここに魔鈴さんが、ではなく、なぜここに俺が、ってことか。
景色を眺めながら、そう判断する。
まあ何だ。長年過ごした場所だし、ひどく懐かしい気持ちになる……が、そんな気持ちになっている場合じゃない。
そもそも、どうして聖域にいるんだ。俺は
「何をしている?」
誰だ!?
とっさに振り返り、俺は思わず息を呑んだ。
そんな馬鹿なっ!
驚愕のあまり声も出ないとはまさにこのことか。
俺に声をかけたのは、黄金聖衣もまぶしい
「ここは、すでに聖域の端だ。脱走ならばこのミロのいない時にやるのだな」
そうではないとの否定も、驚きのあまり口が動かないためにできない。
在るはずのない姿。
聞くはずのない声。
一体何がどうなってるんだ。
ミロは、いや、黄金聖闘士全員が、俺達に希望を託して、嘆きの壁を砕くためその魂ごと散ったはずなのに。
俺が驚いてばかりなのか、ここが驚くようなことばかりなのか。
いや、問題はそこじゃない。落ち着け。
あまりの驚きに論点がずれかける思考を落ち着かせるために、ひとまず深呼吸をする。聖域の空気はいつもどおり乾燥している。
そう、落ち着いて確認しよう。
「なあ、何でここにいるんだ?」
「黄金聖闘士たる俺が、聖域のどこにいようと不思議はあるまい」
……ち、違う。そうじゃない。
ミロの言は道理にかなってるが、知りたいのはそこじゃない。が、死んだはずなのにどうしてこの世にいるのかと正面切って訊きなおすのもやりにくい。
何と言っても、今目の前にいる相手は生きているように見える。なのに、死んだことを前提で問えば、喧嘩を売っているようなものだ。
呆然としている俺に、ミロは惑いのない鷹揚な所作で歩みよってくる。
「お前は聖闘士候補か? 怖気づいたか。だが、聖域に一度入った以上、出て行くのは聖闘士となってか死体となってかだ。明日の最終試練に備えて修行をするか、休養をとっておけ」
親切な忠告だ。実に親切だ。俺は脱走しようとしてるわけじゃないが。
だが、重要なのはそこじゃない。まったくもって違う。
何だって?
どうにも俺は今到底信じがたいことを耳にした気がする。
聖闘士候補――――誰が?
最終試練――――
「何の?」
「
無意識にこぼした一言はミロの耳にしっかり届いていたらしい。
眼を訝しげに細め、面白そうに応えてくる。
朗々たる声と口調からはからかっているような調子は感じられない。
だが、訂正しておかなくてはならないことが一つ。
「違う。俺は
「ほう、ではアイオリアの言っていた少年とは別人か。東洋人だと聞いていたから、お前かと思ったのだがな」
豪奢な金髪を揺らし覗きこんでくる表情には、興味深いものを見つけた子供のような好奇心が浮かべられている。
その顔ににやりと笑いかけて宣言してやる。
「俺は、
――――候補じゃない。
俺がいる以上、俺以外の誰にも
たとえ、ここがどこで、目の前の相手が誰であろうとも、絶対に譲れない。
「へえ」
ミロはこらえきれないような笑みをひらめかせ、俺を見る。
む、何だよ、その微笑ましいなあと言いたげな眼は。
例えるなら、足元にじゃれつく仔犬が真剣にバッタに吠えているのを眺めているような眼だ。
さらに言うなら、幼児が自身の足につまずいて転び怒っているのを見ているような眼だ。
つまり、なんだか気に食わない眼だ。
やめろ。何も間違ったことは言ってないはずなのにひどく居たたまれない気分になるだろ!
耐えきれず俺が抗議しようとする寸前、ミロが口を開いた。
「それは悪かったな。では明日の試合を待つまでもないか」
口調までが微笑を含んでいる。
いささか引っかかるものを感じるのは多分気のせいじゃない。
だが、この言い様からして、ここは本当に聖域らしい。
そして、にわかには信じがたいが、明日、
それは一体どういうことか――――考えろ。俺。
「アイオリアが見に行くと言っていたが、俺も興味がわいてきたぞ。では、
「待った!」
「何だ」
思わず引きとめ、次の言葉を発するまでにはかなりの勇気がいった。
頭の中ではありえない推論が渦巻いている。
ここは聖域であり、明日は
そして、目の前の漢は、黄金聖闘士のミロである。
このすべてを真実であるとするならば――――。
過去に戻ったのではないか。俺が聖衣を受けとり、聖闘士となる以前にまで遡ってしまったのではないか、という突拍子もない推論が。
理性で考えれば、これから先数ヶ月のリアルな夢を見たと考えるほうがまだしも現実味があるが、その可能生は低いと言いきれる。
すべてが夢であったなら、魔鈴さんに対してあんな拳がふるえるものか。
あのころの俺にあれだけの力パワーはない。
あのころの俺にあれだけの速度スピードはない。
あのころの俺にあれだけの反射行動――――確実な戦闘経験にもとづき即座に意識を切りかえる戦士としての戦い方はできない。
……後でこれまでの戦いの傷跡があるかどうか、脱いで確かめておくか。
とにかく、何も尋ねずに済ませるわけにはいかない。
「今は……っじゃない、
「確か、御年十三になられるはずだな。と言っても俺とて尊顔を拝したことがあるわけではないが」
それがどうかしたのか、と怪訝そうなミロをおいておき、俺は一人冷汗をかく。
つい、年月日を尋ねるところだったからだ。
俺が
それにしても、ここが過去だとして、それで何をどうすればいいってんだ?
うっかり、そう考え込んだ俺は、ミロが去っていくのに気づかなかった上に、去り際の台詞まで聞き逃した。
「弟子の育成に励んでいた我が友も、ちょうど聖域に帰ってきている。明日を楽しみにしているぞ」