永久氷壁の名を冠する天然の防壁を砕いた内側に、鎮座しているのは
やれやれ、主じゃなくって悪いな。
こっそり詫びて手を伸ばす。その伸ばした指先が―――。
―――触れる前に凍りついた。
そんな錯覚すら覚えるほどの凍気だった。
誰だ、などと問うまでもない。氷河ならここまで近づかれる前に分かる。
もう来たのか。手紙とほぼ同時に来たら、手紙の意味ないだろうによ。
「何をしている」
周囲に負けぬ低温の声。とそう感じるのは後ろめたいからだろうか。
高められた小宇宙はすでに沈静化しようとしているが、かといって力強さと余裕を失ってはいない。
ああ、振り返るのが嫌だ。だが、振り返らなければもっと嫌なことになりそうだ。
肩を落としつつ後ろを向けば、予想に違わぬ黄金に輝く姿。
氷河の師である黄金聖闘士―――
ポケットに突っ込んである件の手紙に、ちらりと視線を落としてしまう。意図せず溜息が洩れた。凍りついて鬱陶しいと分かっていても洩れた。
来るなと念じて、そうなるまいと動いて、この結果だぜ。くそ。
そう、俺はカミュがここに来るのを知っていたのだ。
手紙に記されていたのは、聖衣受領許可と聖衣の在り処、及び、それを持参して聖域へ来るようにという召致命令だったからな。それも、今すぐに来なければ迎えをやる、とあった。
迎え、だぜ? 迎え。
なんたる過保護。か弱い女子供じゃあるまいし、聖闘士の資格を得るほどの弟子に、なんで迎えがいるってんだろ。疑問だ。
しかも、早すぎだろ。おまけに誰か適当なのに来させればいいだろうに。わざわざ師匠が来るとは嫌がらせか嫌がらせだな。よく分かった。そんなにも俺の邪魔をしたいのか。シャカの同類か。ええい。
途中から身勝手な本音が混ざったが、声には出してないからいいんだ。ぼやくくらい許されるべきだ。
カミュでさえなければ―――神官や雑兵であれば適当にあしらえるってのに。
なんつーか、運命の女神に嫌われているとしか思えない巡り合わせだ。出くわさないで済むように、わざわざ家は避けたってのにな。
それ以前に、なんで聖域に呼び出されてるんだ、氷河は。
それとも、
いや、今すぐ、とあるからには、聖域で何か起こっての非常召集もありえるか。とすると、日本に帰ったら俺にも来てるかもな。
色々と可能性はあるんだろうが、俺の記憶にあるのは、当然ながら俺の経験したことだけだ。
この時期の聖域に「何か」あったかどうかなんて分かるはずもない。なにせ、これから俺達自身が「何か」を起こすのだから。
だが、そのためにも、召致命令が氷河に届く前に氷河に話をせねばならなかった。手紙は俺が渡さない限り届くはずはないが、迎えが来るとあらば話は別だ。急がねばならなかった。
だから、俺はこんなところにいるのだ。そうでなければ、いくらなんでも手紙を盗み見たあげく、こそどろみたいな真似しようとするもんか。ちゃんと氷河が、海から上がってくるまで待ったさ。じゃなければ、氷の下まで追いかけて行くか。
寒い中の説得は嫌だし面倒だが、それでも説得に時間をかけるだけの余裕があるなら、それを惜しんだりしない。惜しみたいのは確かだが、寒いだけなら妥協する。うむ、まあ多分。
だから、こんなところで、こんなところでカミュに遭遇してる場合じゃない。そんなことは分かってるんだが……どうしたらいいだろう。助けてくれ魔鈴さん
情けないと言うなかれ。魔鈴さんは俺が知っている中で、一番頼もしい人だ。精神的にな。ただし、そうそう助けなんざ求めたら「甘えるな」と一喝されて終わるが。
無表情で佇むカミュは俺の返事を待っているようだ。
何をしている、か。
どう答えれば、正解だろう。
正直に、なんて選択肢はない。だけど
デスクイーン島でシャカと遭遇した際の葛藤が胸をよぎる。ぞっと内腑が冷えた。
繰り返すようだが、現段階では聖域に殴り込みをかけるなんざ、無謀としか言いようのない実力なのだ。聖域が俺達を本気でつぶそうとすれば、たやすいだろう。俺がいないなら、という条件付でだが。
そう考えると、前回って、実はすごく運がよかったんだな。
新米青銅聖闘士同士で
俺達の実力に合わせたように敵が現れ、そのたびに俺達の実力は強化されていった。
聖域に挑む頃には、なんとか黄金聖闘士相手でも乗り切れるだけの小宇宙の成長を果たしていた。
すごく運に恵まれた流れ、と言うよりも運だけで乗り切ってる感があるな。よく生きてたよ俺達。そう感じるのはきっと間違いじゃない。まるで誰かが意図的に与えた試練のようだ。
だけど、それがどうしたってんだ?
俺は、俺のすべきことをする。俺が
だから俺は迷わない。その必要がない。
今、すべきことだって、ちゃんと分かっている。
仲間を集めなきゃならない。
仲間を鍛えなきゃならない。
そのすべてにおいて、聖域に関わらねばならないが、聖域に気付かれてはならない。
すげーな。なんて綱渡りだ。
おまけに、方々に出向くたびに、ありえない確率で黄金聖闘士がいやがる……!
聖域にいるのはいいとして、なんでデスクイーン島に俺と同じタイミングで出てくるんだ。ここだってそうだ。弟子を迎えに来るならタイミングずらせよ!
そもそもだな、どうして迎えがカミュなんだ。何でだ。弟子を師匠が迎えに来る―――もしかして普通なのか? 当たり前なのか?
でも、魔鈴さんは絶対に俺を迎えになんて来てくれないぜ。よしんば迎えに来るとしても、討伐のためとか逃がさないためとかだ。確信を持って断言できる。断言できる自分になんだか物悲しくなるが、多分それも魔鈴さんの信頼の証、なんだろう。俺が一人前の聖闘士であるという信頼の証。
違うって言われたら凹むぜ。
考えれば考えるほど不思議だ。なあ、カミュ、質問に答える前にこっちが訊きたいんだが―――。
「何であんたがここにいるんだ?
「召集を受けているからな。試練を見にいったは友の誘いゆえだったが、良いものを見させてもらったぞ」
フッとカミュの口元が緩んだ。
何かを思い出すように。
俺の口元もカミュとは正反対の方向に歪んだ。
嫌な予感がした。
「あの時のお前の技が余りにも見事だったのでな。すでに聖闘士の資格は与えてある我が弟子だが、鍛えなおすべく聖域へと呼び寄せることにしたのだ。教皇のお召しがある以上、私とてそうそう氷河についておるわけにもいかぬがな」
予感的中。
ちっとも喜べないがな!
聞き間違いであってくれれば助かるが、こんな時に聞き間違いであってくれた試しはない。聞き間違いでないとすればつまり、氷河を聖域に呼んだのはカミュってことで、呼んだ理由は―――口に出したくないんだが、俺、か?
全身から力が抜けるのを感じる。
とすると、何もかも俺のせいか!? 自業自得なのか!?
氷河が聖域に呼び出されるのも、カミュがわざわざ自分で迎えに来たのも!?
嘘だろう……。こんなつもりじゃなかった……。こんなつもりじゃなかったってのに!
唖然としたまま、まとまらぬ頭が言葉を勝手に紡ぐ。「ああぅあ」だの、「おおううぅ」だのとうめく俺をどう思ったのか、カミュはさらに付け足した。
「うむ。あの試合は、悪くない見世物だったぞ」
フッとカミュは笑う。違う。違うんだよ……。そいつは大いに誤解だ。
仮にもほめているのだろう言葉が、ここまで嬉しくないってのも珍しいな!
でも、分かった。理解した。
カミュも今まで会ってきた黄金聖闘士の例にもれない。つまりだな。人の話をまったく聞かない。正確に言えば、人の心情を一切察し得ない類の人間だ。
何をどうやったら、今の反応でそう返してくれるんだ。俺にはさっぱりだぜ。
だが、それならそれで対処のしようはある。
俺は頭をふらりと一度だけ振って、気を立て直した。眼前のカミュに、しっかと目線を当て決意する。
誤解の生まれる余地もないほど直球で行くしかない。これで駄目なら腕ずく力ずくだ。
これで駄目なら、と腹積もりをした時点で、最終的にどうなるか、なんとなく不幸な予感はするものの、諦めてなるものか。今までがどうした。今回は違うかもしれないだろ!
それで俺はまず目線を合わせたまま、話がある、とだけ切り出してみた。
予定としては、氷河を説得し、その氷河から師弟の縁を通して聞いてもらうはずだった話だ。
つまるところ、
「ああ、気にするな。その程度の猶予はあるから、邪魔はせぬ」
ん?
待ってくれ。俺は話があるって言っただけなんだが。
「聖域に連れていけば、しばらくは会えぬであろうからな」
カミュは分かっているぞと言いたげに、軽くうなずいた。存分に語り合え、と言わんばかりに微笑みがまぶしい。
だが、断固として言わせてもらうけどな。
そんな顔してても、あんた、絶っ対に分かってないんだろっ!
話があるのは氷河にじゃない。あんただ。あんた。
ついでに、一つ訊きたいんだが。
その、いかにも「拳で」といった風情はなんでだ?
俺言った? 氷河と殴り合いしたいだとか、一言でも言った?
ほんのすこしでも、拳にものを言わせたいなんてこと言った?
言って、ない、よなぁ?
カミュはかすかに笑みをひらめかせ、言いたいことがありすぎて逆に何も言えず煩悶している俺を見やった。控えめに言っても険のまったくない、むしろ真逆のものさえ感じる視線だった。
何だろう。やたら既視感を覚える視線なんだが。
例えるなら、足元にじゃれつく仔犬が真剣にバッタに吠えているのを眺めているような眼だ。
さらに言うなら、幼児が自身の足につまずいて転び怒っているのを見ているような眼だ。
猫が鏡に向かって気迫をこめて必死で猫パンチしているのを見つめるような、耐えがたいほどに居たたまれない気持ちになる、その目には覚えがあるぞ!
かゆいような生温さに耐えながら、どこで見たのかと記憶を探……るまでもなく、思い出した。ミロだ。
可愛いものでも見つめているかのような慈愛に満ちた―――俺は真綿に絞められているようだと感じるが―――とにかくそんな視線がそっくりだ。
ミロより面白がる気配は薄いが、小動物を愛でるような生温さはより濃い。どっちにしても気に食わないってことに変わりないがな!
さすがに親友だけはあるぜ。お前ら。妙なとこばかり似やがって。
よし、今度こそ抗議してやる、と俺が決意した瞬間、カミュの口が先に開いてタイミングを外された。
おいおい、そこまで一緒か。
「来るぞ。そなたにはまだ気づいておらぬ、か。ふむ」
「あー、弟子の勝負に師匠がでしゃばってくれるなよ?」
氷河か、ええい、こうなったら仕方ない!
覚悟を決めた俺の耳に「未熟者め」と穏当を欠いた声音が飛び込んでくる。とっさに口をはさめば、肯定の視線らしきものをよこしてくれたが、その前の一瞬の間はなんだ。念押ししとかなかったらどうなったんだ。
だいたいだな、言っちゃなんだが、あんたならともかく、この時期の氷河に感知されたらそっちのほうがよほどショックだぜ、俺。
「カミュ! どうしてここに! いつ帰ってきたんです? 知らせてくれればよかったのに」
うわあ、仲睦まじいな、お前ら。
一歩後ろに下がってしまった俺の前で、氷河とカミュは師弟の心温まる再会の見本のような会話を始めた。
俺と魔鈴さんじゃ望むべくもない会話だぜ。
親しさを含ませた挨拶と疑問を含んだ軽い抗議、そして歓迎。タメ口じゃないが敬語とも言いがたい気安げな氷河の口調は、喜びに満ちて明るい。
ああ、悪いってんじゃないんだぜ? 俺と魔鈴さんではありえないから、見慣れないってだけで。
正確に言うと魔鈴さんが迎えに来てくれるなら、俺だってこれくらいのことは言うと思う。ただ、絶対に魔鈴さんは来ないってだけで。……何だろう。この虚しさ。
思わず遠い目になった俺に罪はないはずだ。いいんだけどな。信用されてる証だと思えば。
「ところでカミュ、その者は?」
一通りの挨拶を終えての一声だった。
お前……それは、もしかして、無視してたとか目に入ってなかったんじゃなくて……単純に俺が分からなかった、とかないよな? まさかとは思うが、俺の顔、忘れたってのか?
一瞬、ムカッとしたが、冷静に考えれば無理もないのか。俺にとっては昨日までともに戦った間柄でも、こいつにとっては六年ぶりということになるんだよなぁ。一輝みたいに覚えてるほうが珍しいか。あいつの場合、復讐という理由があったが、氷河にはないもんな。
納得はできた。
しかし、ひくりと頬が引きつった。ええい、このマザコン野郎め、兄弟なんざどうでもいいってか。
腹を立てるほうが理不尽。六年は長い。
分かっていても、薄情な奴だ、と訴えかけてくる感情にはなす術がない。
何ともいえぬ、このムカつき。
氷河がさっぱり分かってなさそうな憎たらしい顔つきで、しかも少々警戒しているっぽいのがまた腹が立つ。警戒する程度には、見知らぬ相手だと見なされている。兄弟だとも仲間だとも思われていない。
こいつは知っているはずなのに。俺達の父親を。
分かっているだろうに。同じ
本音を言おう。言っても仕方ないと分かっているが、言わせてもらおう。これは理屈じゃない。
非常に不愉快だっ!
筋違いかもしれない。いや、かもしれないじゃなくて、明らかに筋違いだ。それは分かっている、分かっちゃいるが。
だが、それでもあえて、この感情に素直に従ってやろうじゃないか。
俺は顔を引きつらせながらも氷河に笑いかけてやった。そのまま目の前の
「何をッ!」
「受け取れぇえッ!」
その後の展開は予測できるものと思う。
聖闘士の例にもれず、氷河も短気だからな。
平和的な話し合い? 知らんな、何を言ってやがる。俺達は聖闘士だぜ。拳を交わす以上の相互理解なんかあるもんか。
悪いな氷河、手加減は一応してやるから、大人しく八つ当たりされてくれ。俺の精神の安定のために。
お前のせいじゃないのは分かってるんだがな。
目下、当たらずにはいられない気分なんだよっ!
「見て分からないなら、身体に叩きこんでやるぜ、氷河。俺は星矢だ!」
IF与太次回予告
その声は淡々として一本調子であった。
顔も無表情である。
「さあ、やってまいりました。お待ちかねの『兄弟対戦~北の海から編~』です。この勝負、どちらが勝つか見ものですね。実況は私、水瓶座アクエリアスのカミュがつとめさせていただきます」
「……カミュ、ちょっと棒読みすぎです。あと台本は置いてください」
「待て、言うべきはそこじゃないだろ。見えないんだから置かなくていいし」
突っ込むべきはそこじゃない。星矢は主張した。
俺に師を批判しろというのか。氷河は反論した。
似合ってない。
確かにその一点において、二人の意見は一致していたが、取るべき対応については真逆だった。
平然と冷却された空気。余りの違和感に高まる気まずさ。ツッコミたいとうずく裏手。
肝心のカミュは、その台詞回しに一片の疑問も抱いていないようであるのが拍車をかけた。
「何か問題でもあるか」
「……そんな真っ直ぐな目でこっちを見るなよカミュ」
「師よ……! そんなあなたに俺が何を言えるとおっしゃるのですか」
おいこら、弟子が言わずしてどうすると無言のまま氷河のわき腹をつねる星矢。
弟子だからこそ、何も言えないのだと、つねる手に手刀を落とす氷河。
静かなる戦いは今始まったばかりである。
※このシベリア師弟はフィクションです。