それは、驚嘆に値する光景だった。
どこまでも広がる蒼天。
遮るものを知らず暴れる風。
人を寄せ付けぬ荒さを呈する岩場。
いずれも比類なき雄大さを誇る。
だが、ムウのかざした手から生み出される力の前に、全ては手弱女に等しい。
一歩退き警戒した紫龍と瞬の後方、幽谷の崩れ落ちた岩や石が、ゆっくりと見えない巨人に持ちあげられていった。
なめらかな動きは余裕さえ漂わせて、ほぼ元の形の岩橋を形成する。と言っても、元の形なんか正確には知らないけどな。とにかく橋だ。
最後に浮かび上がった平たい岩が底面にくっつくと、かざされていた手は空気を撫でるように下ろされた。同時に、放出されていたテレキネシスも消え失せる。
「な、なんという強大無比なテレキネシスだ」
感に堪えないという風情で、紫龍がつぶやきを漏らした。目を見開いた瞬も、それに同調する。
慣れているのか、それを平然と聞き過ごし、ムウは
続いて、足を踏み出しかけて、ふと橋を振り返る。いいのか? あれ。
「どうしました。おいでなさい」
そうは言うがさ、ムウ、あんた、岩を持ち上げて形を整えただけだろ。
あの橋、どういう脅威のバランスか知らないが、渡るどころじゃない。あんなの、放っといたら雨風だけでも崩れそうだぜ。
「あのまんまにしとくのか?」
親指で指しつつ肩をすくめた。言葉は足りんが、意図は伝わってるだろう。
ムウは一瞬目を向けて、納得したように表情をゆるめた。
「ああ、構いませんよ。とりあえず形作っておけば、後は、亡者どもが支えます」
「へ?」
「途中で襲われたでしょう。あの橋がなくば、彼らの獲物もやってこれませんからね」
平然とした顔に見合わぬえげつない物言いだ。
確かに、それなら適当に持ち上げくっつけた以上のことはしてないように見えるのに、なぜか安定している理由にはなるんだが、それはそれとしてだな。
いいのか、それは?
「そもそも、こんなところへやってくるのは聖闘士か、さもなくば敵ですよ。頑丈にしてどうします。あのようなもろい道、これまでに幾度となく崩れています」
さらりと言ってのけたが、そりゃどういう意味だ。
敵に対してなら分かる。崩れやすいほうがいい。渡り難ければ渡り難いほど、防御として強いってことだ。亡者どもを仕込んであるのもそのためか? あまりほめられた趣味のもんじゃなかったぞ。あんな仕掛けを最初に作ったのは誰だよ。考案しただけでも正直引く。
大体だな、あいつらが元聖闘士だとしたら、見苦しいにも程がある。いや、元から見苦しい奴らだったからこそ、死後もあのように見苦しいのか。
そもそも聖闘士と敵しか来ないって根拠はどこにあるんだ。確かに不便すぎるから一般人はめったに来ないだろうが、地元住民は来なくても、好奇心旺盛な金持ちや迷惑冒険家はどこにでもいるさ。いや、そういう奴らはあれに引っかかっても自業自得ってことか?
思考が少しずつ逸れていく。
そんな俺を見て取ったのか、
「防衛線の役目を果たすべき場所なんですよ。敵に対しても聖闘士に対しても」
と、ムウが補足を加えた。
そう、そこだ。聖闘士に対して防衛線なんているのかよ。まさかジャミールが聖闘士に襲われるなんて事態、あるわけないだろうし、試練ということか。いやでも。待てよ。
「あの程度で?」
ムウが一瞬動作をとめ、それのみならず、完全に振り返った。
……怒らせたか?
ううむ、思ったことがすぐに口に出る癖は改めるべきかもしれない。馬鹿にしたわけじゃねえけど、悪意がなければいいってもんでもないだろ。やべっと感じた瞬間、目を自然と伏せてしまった。口から出た後だったので無意味だけど。
つくづく俺は何もかもが行動に出るな。日本で兄弟達を挑発している時も、思えば特に努力しなくても勝手に怒ったっけ。怒りっぽい奴らだと思ってたが、俺が正直すぎるせいだったのかもしれない。反省すべきか。いやでも、正直は美徳だ。虚飾と偽善の空々しさをよしとするような悪徳に染まるのは堕落でしかないだろう。そうだよな、魔鈴さん。
胸の内で小さな反論を無理やり作ってみたが、どうにもそれこそ空々しい。きっと魔鈴さんがいたら鼻先で笑われるに違いない。
ままよ。
そろり、と俺は覚悟を決めてムウを見上げた。
思わぬことに、微笑を含んだ眼差しが、柔らかく俺を捉えていた。
「いいのですよ。戦闘力を見ているわけではありません。それを言っていたら黄金聖闘士以外はたどり着けなくなります」
たしなめる声も穏やかで、先ほどまではなかった親しみさえ心持ち感じられる。不本意なたとえだが、生意気な子供をなだめてあやすような口調だ。無性に誰かを思い出すのはなぜだろう。それ以前に、そっか、俺は怒るまでもない相手なのか。どうりで橋を壊しても何も言われないわけだ。子供のいたずらと同レベルか。よくても貴鬼扱いか。
たどりついた真実のやるせなさに、目頭を抑えそうになった。
そんな俺をかまわずに、ムウは言葉を続ける。
「敵ならばともかく、聖闘士であれば、師より、ジャミールに至るには下がらず避けず真っ直ぐ歩めと助言があるはずです。判断力と勇気を試すのですよ。砕けた聖衣を再びまとう資格があるかどうか」
なるほど。
って、老師からンなこと言われたっけ。覚えてないんだが。
振り返れば、瞬と紫龍も記憶をたどる顔つきだ。
過日、老師と紫龍の心温まるんだか悲しくなるんだか判らん師弟交流に脱力した俺達は、春麗さんの用意してくれたお茶を飲み、一泊してから旅立った。
もちろん出発の挨拶もしたが、その時も忠告なんか受けた覚えがない。
首をひねる俺達を見て「ふむ」とムウも目を瞬かせた。
「では、老師はあなた方をよほど信頼したと見えますね。忠告なしでもジャミールに至れると考えたのでしょう」
買いかぶりってもんだと思うぜ。老師にも俺達にも。
俺は懐疑的に、肩をすくめた。
どうにも老師には邪推をしてしまう。前々からそうだった。
黄金聖闘士に対して、前々から奇妙な不信感があるのは分かっていた。いや正確に言うなら、信じては、いる。けれど頼ることはできない。一輝に会いに行った大きな理由の一つだ。とにかく、気が進まない。それが、どうしたことか、老師に対してはひときわ強く、反発と言ってもいい強さで俺を動かす。
なぜかなんて、考えても仕方ないことは考えないけどな。老師を信用してないってわけじゃないんだ。
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ムウの先だつままに歩いていけば、すぐに六角形の塔が見えてきた。遠目の印象だと高楼に見えたが、近づけば重厚な石造りの塔であると分かる。
具体的に言うと、まず背丈の低い大きな六角柱を一つ置く。その上に同型の小さい六角柱を置く。さらに小さい六角柱をまた上に置く。そうして出来上がる五層ほどの塔を想像すれば、分かりやすいかも知れない。彩色された外壁はひび割れ、元は壮麗であっただろう飾り瓦もはげちょろけだ。それでも痛々しさがないのは、年経た風格の力強さが勝るからだろう。
入り口らしいものは見当たらない。二階に大きな窓はあるが、まさか、あれじゃないよな。一層一層が高いから、二階とは言っても、地上から三メートルはあるんだぜ。登れるけど。でも、登らなきゃいけないってところからして、入り口としちゃ間違ってるだろ。
首をひねる俺の前で、ムウは塔を見上げて、口を開いた。
「貴鬼、お客人ですよ。悪さはやめなさい」
「ちぇっ、ムウ様がそう仰られるんだったら」
声と同時に塔の天辺から見慣れた小さな姿が現れた。背後でがらがらと石の崩れる音がする。
何をしようとしていたのか見当はつくな。
無謀だ。
岩を砕いた返しの一手で、俺は言うに及ばず、瞬でも紫龍でもお前を粉砕できるぞ。貴鬼。やるかどうかは別としても。
呆れる俺の前に、貴鬼は身軽に飛び降りてきた。
「おいらはアッペンデックスの貴鬼! ムウ様の一番弟子さ!」
得意げに鼻をこすりながら、自己紹介をする。
濃いカーキ色の貫頭衣に、ムウと違って足にぴったりとしたズボン。袖なしの上着からのぞく腕は、零下に達する気温にも鳥肌さえ立ってない。さすが地元民。
かくいう俺達だって、人のことは言えないが、仮にも聖闘士と聖闘士候補を一緒にはできないしな。
「俺は紫龍、
「僕はアンドロメダの瞬。はじめまして、貴鬼」
何でもない自己紹介に、かすかな違和感を感じた。
頭の芯に、どうもしっくり来ない。
首をひねっていたら、瞬に肘でつつかれて、慌てて口を開いた。
「
つい「よう、久しぶりだな」と口にだしかけたが、何とかこらえた。
危ない危ない。
「ふーん」
胡乱気な目つきの貴鬼が、鼻をならした。警戒心というほどではないが、相手を見定めようとする態度だ。
対して、紫龍と瞬も、目下の者に対する寛容な親しみある態度だが、胸襟を開いた気安さはない。
違和感の正体が分かったぞ。
こいつらの他人行儀さだ。
ううむ、無理もないか。初対面だもんなあ。俺にとっては、違うんだけど。
俺は小さく嘆息した。
このささやかな痛みに、いい加減、慣れたほうがいいとは分かってるんだが、慣れられない。
慣れきってしまったら、それはそれで恐ろしい気もするのだ。
「ところで、お前ら、何のためにジャミールまで来たのさ。背負ってる聖衣のことなら、さっさとムウ様に見せなよ」
「貴鬼」
ムウがたしなめるように呼ぶが、もっともだ。
俺は荷物を降ろそうと背に手をやった。紫龍と瞬も俺にならう。
さて、パンドラボックスには、持ち運ぶための革の肩紐がもともと付いている。今回運ぶに当たって、その上に更に函を積み重ね、安定するよう太めの革バンドを巻いて固定していた。
さすがにそうでなきゃ、俺達だって飛んだり跳ねたりはもっと自重せざるをえない。いや、自重どころか、ろくな動きがとれやしねえ。
革バンドは、バックルである程度の長さを調節できる。最大固定数は長さから考えて五函ってとこか。調節できないと、それぞれ途中で持つ数の配分なんて変えられないから当然だな。
ただ、紫龍の革バンドは、亡者共との一戦で切れたか何かして落ちたんだろう。今は固定せずに、単に函の上に函をのせているだけだ。そうそう切れるものじゃなかったはずだが、負担をかけすぎたか。あるいは、俺には見えなかったが、亡者共の指先が引きちぎったか。
当然ながら、固定していない分、最も聖衣函をおろしやすい。紫龍はトンと肩を上下に揺らし、己の聖衣函の上に乗せていた那智の聖衣函を、腕の中に上手いこと反動で落とした。それを地面におろし、今度は、背負っている聖衣函から腕を抜いて、龍座ドラゴンの聖衣を、先に下ろした狼座ウルフの聖衣の隣に置く。
瞬はバックルを後ろ手で器用に調整している。背負っているのは自分の聖衣たるアンドロメダ、市の聖衣の海蛇座ヒドラだ。
革バンドを外すのが面倒な俺は、まず背負っていた荷物を丸ごと背中から降ろして、バンドと聖衣函の隙間に無理やり手をつっこんで取り外した。一体を取ってしまえば、伸縮自在といえども、ただの革帯だ。
ブチリと嫌な音がしたが、見た目はどこも切れてない、と思う。外した革バンドを目の前にぶらさげて、少しばかり焦りながら観察してみた。
……多分、切れてない、と思うが……万が一の時は、ムウに貴鬼を借りて、日本に送ってもらおう。どうせ紫龍はそうせざるを得ないんだから、な。うん。
地面に一直線に並んだ総数八のパンドラボックスは、さすがに壮観だ。
表面に描かれた意匠も、それぞれの寓意にふさわしい威厳を放っている。
ずらりと列したさまを見て、貴鬼はほうっとため息を付いた。
「すごいや、ムウ様。こんなに数が多いのは、初めてだし、おいら圧倒されそう」
「そうですね。確かに圧倒されそうです。よくもまあ、これだけ無残な姿にできたものだ」
「え?」
「ご覧なさい」
ムウが手を軽く叩く。
とたん、一気に全てのパンドラボックスの全面が開いた。
中に鎮座するオブジェ形態の聖衣を見て、「……うわあ」と貴鬼がうなった。
表情が渋い。
「ヒビだらけだね」
見たまんまの感想だった。
だが、修復が必要な状態だからこそここに来ているのだ。万全であれば、来ないぞ。何が問題だ。
首をかしげた俺に聞こえてきたのは、相変わらず穏やかなムウの声だった。
俺達を見つめる瞳も凪の海のようだ、が、内容は実に冷酷だった。
「お引き取りください。聖衣の修復は不可能です。残念ですが、諦めていただきたい」
なんだって?
あぜんとしたのは俺ばかりじゃなかった。
しかし、他の二人は俺ほどの衝撃は受けなかったらしい。
立ち直り早く、まずは紫龍が問う。それに瞬が続いた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。ムウよ。それはどういうことなんだ?」
「そうです。なぜ、不可能なんでしょうか」
俺が口をポカンと開けている間に、瞬と紫龍が必要なことを代弁してくれる。おかげで、俺は何も言う必要がない。
貴鬼も少しばかり驚いた顔で、ムウと聖衣を何回も見比べている。
ムウは顔色も変えずに、「では」と言葉を続けた。
「どうしても、ということであれば、あなた方三人のうち一人の命を頂けますか?」
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