ジャミールの冷たく薄い空気に、不純物はほとんどない。はるか彼方まで見通せる高みは、神の座所にも似ている。
人が生きるには厳しい場所だ。痛いほどに荒い岩肌、耳を切り裂く烈風、肌に突き刺さる陽光。ムウの館の最上階は、影を貫き焦がす光にあふれている。
頭上、やや東の太陽に背を向けて、ムウは聖衣をまとった俺達を差し招いた。
人差し指が行くべき方―――南西を指し示す。
「……許せとは言いません。ですが」
「やめてくれよ」
肩をすくめて、ムウを遮る。
許さなくちゃいけないことなんて、どこにある。ここは俺達が礼を言うべきところだろうに。
前回は助けられなかった。犠牲があった事実ですら、後で知ったんだ。
同じ思いだったのか、瞬も同調した。
「あなたのご助言に感謝こそすれ、何を詫びてもらう必要があるでしょう」
「瞬の言うとおりだぜ」
「そうですか。では、せめて武運を祈ります」
「うん。行ってくる」
ムウの後ろに隠れていた貴鬼が、おずおずと顔だけのぞかせて口を開けた。何か言いたいのかもしれないが、視線が合うときゅっと眉をしかめて泣きそうな表情になる。
言うまで待っててやってもいいんだけどな。
どうせ、すぐに戻ってくる。
短い別れだ、と笑いかけて、俺はムウに送ってくれと合図を送った。
■■■■■■
暁光を受けるアンドロメダ島。
海の波に照り返された光が眩しい。海際にそそり立つ大岩に立って、俺はアンドロメダ島の情報を思い返していた。
辰巳の口を借りるなら「昼間は容赦なく太陽がてりつづけ50度を越す灼熱地獄! 夜は一転して零下にまでさがり すべての生き物をふるえつかせる寒波地獄!」とやらだったな。後は生きて帰ってきた奴がどうとかこうとか、あんまり覚えてないんだが、物騒なことを言っていた記憶がある。
だが、仮にも瞬の生き延びた場所だ。心地よいとは言えないだろうが、生きられない環境じゃないだろうよ。
……と、思っていたんだが甘かった。本当に甘かった。とにかく何がだめって、熱のこもる息苦しさがだめの一言に尽きる。ジャミールの涼しさと澄んだ空気が恋しくて仕方ない。
俺は口を開けて、あえぐように呼吸した。吸い込む空気まで暑くて死にそうだ。
環境が違いすぎる所から、いきなり飛ぶもんじゃないな。少しずつ身体を慣らせる陸路には陸路のよさがあると思い知ったぜ。
「あ、暑い……」
「これでも涼しいほうなんだよ。星矢。まだ朝だもの」
「星矢の気持ちも分かる暑さだ。ここがアンドロメダ島か? 瞬」
「そうだよ。僕の修行したところだ……。岩と砂しかなくて、ずいぶんと荒れた不毛の地だけど、ダイダロス先生とジュネさんがいて、救われていた」
しみじみと言う瞬。
長い睫毛が揺れて、細められた目は明らかに過去を写している。懐かしいと言葉に出さずとも、修業の日々を愛おしんでいるのが分かった。
同意のうなずきを紫龍が返しながら、五老峰の方角と思しき北東へ目線を投げた。いかにも望郷の念にかられていますといった体だ。
ううむ、理解できない。
魔鈴さんとの日々は地獄だったからなあ。
二人とはまた違った意味で、遠い目になる俺。哀しい温度差だ。いや、いい思い出が皆無とは言わない。何か一つくらいあったはずだ。思い出せないけど、絶対に何かあったんだ。
心の中で繰り返せば繰り返すほどに虚しい気分になって、俺は昇りつつある太陽を切なさのにじんだ目で睨みつけた。
目に見えぬ、けれど、越えられぬ線のこちらとあちらで、それぞれ物思う俺達。
いったい何しに来たんだっけ。ああ、暑さで思考が飛びそうになるぜ。
「おい、大丈夫か。星矢」
「目が、五老峰に登る前と同じになってるよ。気分でも悪いの?」
うるさい。お前達のせい……でもないか。別に。
俺はくったりとうなだれて、周囲の空気を探った。
こんな疲れるために、アンドロメダ島に来たわけじゃない。俺は俺のなすべきことをしに、ここへ来たんだ。
「なんでもない。それより、アフロディーテはいないみたいだし、さっさと動こうぜ」
「うん、ん? いや、ちょっと待って星矢。ジュネさんが来る」
「……どこ?」
争いの気配はしない。だからアフロディーテはまだ来ていないと判断した俺を、瞬は片手をあげて止めた。
ジュネさんて、お前の姉弟子だっけ。
どこにいるんだよ。
顔で疑問を訴えかけると、瞬はまっすぐ海の中を指した。言われて注意していると、確かに誰かの小宇宙を感じる。けど、朝っぱらから海って。
「……なんで?」
「さあ、そこまでは」
言いながらも、瞬は可愛らしく小首をかしげた。
いつものことというわけでもないらしい。とすると、海なんて、よく気付いたな。俺が鈍いのかもしれないが……。
ほどなくして上ってきた人影は、確かに女性のシルエットだった。その背に負ったものは、あれは、パンドラボックスか。俺は目を凝らした。見える距離だが、確信を持つには少しばかり遠い。意匠からするにカメレオン星座のようだが、やっぱり確信は持てなかった。
だが、それを見て、瞬は目を見開き、口元に手をやった。
「ジュネさん! もしやそれは」
「瞬!? そうさ。私は聖闘士になったんだ」
挨拶もすっ飛ばして、瞬は興奮に満ちた声をかける。
いきなり声をかけた瞬にぱっと振り向くも、瞬の姿を見たとたんに警戒の姿勢がゆるんだ。返答の声も明るく、喜びがこぼれんばかりだ。
その答えに、瞬も笑み崩れて駆け寄ろうとしたんだが、そうは行くか。動き出す一歩前に襟首をひっつかんでやった。勢いづいた身体の勢いが手に掛かるが離さない。おいこら瞬、何しに来たのか忘れてないよな。気持ちは分かるが、先にやることがあるだろ。
瞬は、苦しげにうめいて咳き込んだ。
「グッ、ゴホゴホッ、星矢、ひどくないかい」
「うーん、俺、言われるほどひどいか。紫龍」
「かなりひどい。だが、理由は分かる……」
沈痛な目で俺達を見ながら、紫龍は溜息を付いた。
そうか。ひどいのか。
紫龍が間髪入れず言い切るならそうかもしれない、と俺は素直に手を離した。前につんのめってたたらを踏んだ瞬が恨みがましげに振り返る。そこまで力をこめたつもりじゃじゃなかったんだが、とっさだったから少しばかり加減をしそこねたのかもしれない。
照れ笑いをしつつ目をそらせば、ジュネさんがあっけにとられた顔で、こちらを見ていた。
さて、どこからどこまで、何を説明しようか。全部、は大量だしな。ここは厳選すべきだろう。
「俺達はダイダロスを救いに来た。どこにいるのか教えてくれ」
「星矢、それじゃ分からないだろう」
簡潔明瞭がいいだろうと、これ以上ない説明をしたつもりだったが、何がいけないんだ。紫龍を見やれば、やれやれと苦笑いされた。
しかし、説明というのは存外難しい。俺のように隠し事があればなおさらだ。
一輝は味方になってくれなかったし、お嬢さんはあえてごまかされてくれただけだし、兄弟達は力づくで黙ってもらったし、カミュは納得してくれなかったし、ああ、考えてみれば誰一人ろくに説得できた試しがないな。
うわ、つまり全戦全敗か。見たくない現実を思い知らされ、俺は遠い目になった。
そんな俺を放置して、瞬がジュネさんに話しかける。
「ジュネさん、話したいことは多くありますが、すみません、今は少し急ぎますので、先にダイダロス先生がどこにいらっしゃるか教えてくださいませんか」
「あ、ああ。先生なら、家で瞑想していらっしゃると思う。どこへ行かれるとも聞いていない。何かあったのか?」
「今からあるかもしれないんです。説明は先生と一緒でいいですか」
「構わない。最近、先生は少し沈んでいらしたから、お前が来たと知ったら喜ばれるだろう」
「エッ? 沈んでいたって、なぜです?」
「分からない。これは私の事情になるけれど……」
言葉を切ったジュネさんの語尾が揺れていた。
表情が仮面で見えない分、わずかな声音の変化にも感情が表れる。
「お前が旅立ってすぐに、私は聖闘士の資格を得たんだ。けれど聖衣を得てはいなかった。先生は急ぐ必要はないと、必要な時に手にあればいいとおっしゃってくださっていたんだが、ここのところ、すぐにも取りに行くようにと……ずっと急かされていて、ようやく今行ってきたところなんだ」
必要な時にあればいい、か。意味深長だ。
もしかしたらダイダロスは知っているのか。もうすぐ殺されると。
彼女がそれを知っているようには見えないが、何かを察しているのかもしれない。声には硬質さがあり、緊張の糸が張っていた。
瞬も急がされた意味を考えたのか、硬い声で「そう、ですか」と呟いた。
「……瞬、お前が帰ってきてくれてよかった」
ジュネさんは静かに言い、俺達の方に歩いてきた。
近づかれるとさすがに分かる。背負っているのはやはりカメレオン星座の聖衣だ。長い髪が濡れて、水滴を滴らせている。顔には女聖闘士の仮面。簡易的な防具を身に着け、指先には包帯が巻かれている。足は紐を編み上げたような靴を履いており、浜辺の足跡に文様を残していた。
視線が、俺と紫龍に向いたのを感じる。
「先生を救いに来たと言ったね。どうか頼む。先生の覚悟の中にきっと私もいる。だから、きっと私ではダメなんだ」
「ジュネさん……」
瞬がちらりと俺を見る。
紫龍が重々しく頷いてみせ、口を開いた。
「瞬の師匠ならば、俺達にとっても無関係じゃない。頭など下げないでくれ」
救難は当然と告げる口調だった。
その言葉に、ジュネさんは顔を上げ、瞬は何かを気付いたように「あ」と声をあげた。
「ああ、ごめん。そうだったね」
「何がだよ、瞬」
「まだ星矢達の紹介をしてなかったと思ったんだよ」
言われてみれば初対面だ。いかん、普通の反応をしてしまった。知り合いでもないのに。これだからムウに怪しまれるんだよな。気をつけないと。
ムウほどの洞察力は他の誰にもないと信じたいが、万が一があったら恐ろしい。もうあんなに肝の冷える時間はまっぴらだ。
俺はぶるりと肩を震わせた。何をされたわけでもない。なのに思い出すだけで精神力を食われるときた。どういうことだよ。
げっそりした俺を、瞬が片手で示した。
「ジュネさん、紹介します。こちらは
紹介を受けてジュネさんが不思議そうに首をかしげ、口を開いたのを、瞬は手を振ってとめた。
にっこりと俺に笑顔を向ける
「星矢、ジュネさんです。僕とは同門の姉弟子なんです。とても良くしてもらいました」
誇らしげに、紹介できるのが嬉しくてしかたないと語る声音。
瞬はきっと、この島でダイダロスとジュネさんと暮らし、幸福だったのだ。親に捨てられ、兄とも引き離され、それでも得た家族との幸福。
少しばかり心が痛んだのを押し殺して、よろしくと俺は笑った。
ジュネさんも微笑んだ。いや、仮面でよく分からないから雰囲気がということだが。
「紹介に預かったカメレオン星座のジュネだ。ところで、瞬、お前の兄弟って確か……」
途中から、瞬の方向に顔を向けて問いかける声音だ。
瞬が言いづらそうな、それでも優しい困り顔になる。遠慮がちな視線が飛んできた。
なんで?
よく分からなかったが、口をはさんでほしいんだろうか。世話のやける奴だな。
「俺達は、腹違いの兄弟だからな。しかも、少し前に判明したばかりなんだ」
「お前、あっさり言えるんだな。そういうこと」
紫龍が物憂げな流し目をくれて、そのまま溜息を落とした。
何が言いたい。
ほぼ反射で、俺は半眼で睨み返した。ああ、分からない。かつての俺だったらあっさりとは言えなかったろうか。もう少し躊躇したろうか。他人に言うのは
分からない。だから、へたに誤魔化さない。
俺達は睨み合った。いや、正確に言えば紫龍は何を言うべきか悩んだような顔でこちらを見ているだけで、俺は仏頂面でそれを見返してるだけだが、もうこうなったら逸らしたほうが負けだという気になるだろ。負けてなるものかと俺はねめつけた。
およそ三秒、俺も紫龍も目を逸らさなかった。 だがしかし、待て俺。よく考えてみろ。
睨み合ってる場合じゃない。この暑いのに、どうしてさらに熱くならなければならんのだ。
正気に戻った俺は、ふっと視線を外して深呼吸した。
このままではこの暑さで照り焼きになってしまう。いやいや、そうじゃなくて、このままでは、ダイダロスはアフロディーテに殺されてしまう。仇討ちを決意せざるを得なかった瞬の悲愴を知っているから、瞬を闘いへと向かわせた悲劇を防ぐためにここに来たんじゃないか。
決意を新たにした俺は、微妙な表情をした紫龍と、笑いをこらえているような瞬と、戸惑ったような雰囲気のジュネさんとともにダイダロスの家へと向かった。
何かに負けた気がして、妙に不愉快だ。
■■■■■■
家に到着した頃には、すっかり明るかった。薄赤さと黄色味を帯びていた雲は真っ白になり、気温はますます上昇する。
つくづくと瞬の言ったことは真実だった。先程はマシなほうだったのだ。
海から吹いてくるべとついた風が、汗でぬめった肌を撫でていくが、ちっとも涼しくない。
強烈な太陽光が、眩しさと熱を同時にもたらしている。くそ。暑い。
俺達を驚いた顔で出迎えたダイダロスは、俺達の話を聞いても想像以上に冷静だった。サガの裏切りから、
信じないと否定もせず、さりとて動揺してうろたえるでもなく「そうか」と相槌を打った。
何もかもを承知していたような重い一言だった。
「知って、いたのか?」
「五老峰の老師から、忠告は頂いていたが、思ったより早かったな。十三年前にそのような悲劇があったとは、不覚にも知らなかったが」
俺の問いかけによどみなく答える。
そっか。知っていたのか。ムウと同じく老師も。
そして、忠告はしても、助けようと動くことはしないのか。
いや違う。やめろ。
俺はぐっと目をつぶり、こみ上げる衝動をこらえた。
分かっている。動きたくても動けない。老師には老師のやるべきことがある。それに怒りを覚えるのは間違っている。ぎゅっと拳を握った。辛かった。誰のためか、何のためか、分かっているから責められない。そうだ。腹の底に溜まった熱さこそが間違っているのだ。それでもやりきれない。
ダイダロスの声音は低く落ち着き払っていた。
「怒っているようだな」
「え……? いや、別にそんなんじゃないぜ」
「そうだな。俺に対して怒っているわけではあるまい。お前はそのような理不尽とは無縁に見える。なればこそ、その怒りが何のためか分かる」
ダイダロスは笑みさえ浮かべて断言すると、「ありがとう」と続けた。人から道を譲ってもらった時のような軽くさりげない感謝だった。
思うところはあるだろう。死にたいわけでもないだろう。それでも、その反応か。これが瞬の師匠か。
怒りを穏やかになだめられているのが分かる。受け入れている当人を前に、俺の怒りにいったい何の意味があるというのか。いや、ない。それでも怒らずにはいられない。
死ぬべきではない人間が、不当に殺される、その現実にどうして怒らずにいられよう。なぜ助けられるのに助けない。なぜ助けてはいけない。
だが、世の中がこんな簡単な理屈で回っているわけでもないと分かっている。多くのしがらみと因縁と宿命とめぐり合わせ、義務と誇りと信頼と大義、価値観、理想、多くの歯車によって運命は決される。俺の怒りは、その歯車を無視した単純で幼いものだ。
だから、ダイダロスの感謝を、俺は恐らく本当の意味では理解できていない。理解されたという事実でもって慰められているだけなのだ。
しかし、それでも―――この怒りが間違っているとは思わない。暴虐が、理不尽が、不義が、誰かの幸福を踏み潰すなんて許されていいはずがない。ジュネさんを紹介した時の瞬の笑顔を踏みにじっていいはずがない。絶対に、だ。
ダイダロスは言葉を続ける。
「だが、俺は―――」
言い終わる前に、強烈な悪寒が背筋を走り抜けた。
鼻の先を、どこかで嗅いだ甘ったるい香しさが逃げていく。一度嗅いだ者でなければ分かるまい。だが、間違いない。
なんってタイミングだ。黄金聖闘士って、どいつもこいつも狙ったように来やがるな!
心中愚痴りながらも、口を開けた。緊急事態だった。予測の範囲内ってだけが幸いだぜ。
「来たぞ!」
IF偽与太予告
過酷なる地、アンドロメダ島。
師匠のもとに、血の絆と覚悟をたずさえ、少年は戻ってきた。
「先生!」
「おお、瞬! 我が弟子よ!」
だが、再会の幸福は長くは続かない。
美しき薔薇の戦士、アフロディーテの魔の手が迫る……。
「フッ、苦しませずに死なせてやろう。この薔薇の葬列を送られて逝くがいい」
「お断りしよう。今生のアテナにお目通りも叶わぬうちにハーデスに会いに行く気はないのでな」
きっぱりと撥ね付けるダイダロス。
だが、黄金と白銀の差は、いかんせん埋まらない。ましてや彼の聖衣はほぼ死んでいる。万に一つあった勝機さえも消えていた。
だがしかし、恐れることはない。
明日に向かって呼べ。我らがブロンジャーズを!
「みんな、行くぜ! 出動だ!」
「分かってるよ、例の必殺技だね」
「うむ、とうとうアレを使う時が来たか……!」
からくも難局を切り抜けた星矢たちだったが、新たなる刺客が忍び寄る。
しかし、その時、瞬が真の姿を見せた。
「……なあ星矢、あべしって言って倒れる奴、本当にいるんだな」
「現実逃避はやめようぜ。紫龍。ムキムキマッチョになった瞬を見たくないのは分かるけど」
「見たくないというより、認めたくない」
「うん。俺も……なんで、こうなったんだろうな」
連載するかもよ!