正義のために振るわれるからこそ、力は正義になる。
正義なき力は、地上を支配しようとする暴威と同じだ。
全身から発される熱が上昇気流を作る。
気流に従い逆巻く髪が、音を立ててはためいた。
抑えどもなお漏れ出ていた小宇宙を、全身に巡らせ、腰を落とした。
「良かろう。君が正義だと言うのなら、私を倒し、それを証明してみせるがいい。十二宮最奥を守る黄金聖闘士の名は飾りではないぞ」
アフロディーテは薔薇を構え、片足を踏み出した。
凛然とした立ち姿には、誇りさえも感じる。
それでも。
それでもだ、お前の理屈に従ってさえ、お前は間違っている。
なぜなら、俺がアフロディーテより、サガより、他の黄金聖闘士の誰よりも、強いからだ。
力が正義であるならば、誰よりも強い俺は誰よりも正義で、その俺がアフロディーテを否定するのだから、アフロディーテは間違っている。
かと言って、本当に俺が正しいかと言われれば、実のところそうじゃないんだな。なぜって「力が正義なら、俺が正義だ」という理屈は、俺が否定するアフロディーテの理屈でしかないからだ。
この場合、勝って俺の正当性を証明すれば、それは逆にアフロディーテを肯定することにつながってしまうんだよ。なにせ、「アフロディーテの理屈で正しい俺」というやつは、前提にあるアフロディーテの理屈を否定したら、否定されてしまうだろ。
ただし、もちろん負けも許されない。
ではどうすべきか、と言うと、アフロディーテの理屈の根本を破壊せねばならない。つまり、力が正義ではないということを力以外の物で証明しろということになるんだと思う。
ああ、頭をかきむしりたい。ごちゃごちゃしてきた。ついでにイライラもしてきたぞ。脳髄が怒りに支配されている時に、こんなこと考えるもんじゃないな。
だいたい、それを説くにしたって、アフロディーテがアフロディーテの理屈にそって動く限り聞いてもらえない。だから、まずは、それを打ち砕かなきゃならない。
右手を握りこんだ。聞いてもらえない。悔しい。今は敵だ。分かっている。怒りの底から、なおもこみ上げてくるもどかしさを握りこんで、押しつぶした。今は怒り以外は必要ない。
強烈な熱線と化した陽光よりも、さらに熱く鋭く、怒りを研ぐ。
弱者の痛みを知らぬというならば、まずは思い知るがいい。知っていてなおも力を正義だと言うのなら、それはもう踏みにじられてもしょうがない。自らそれを肯定しているのだから。
それでも、こらえられない。
けどさ、なあ、それって本当に正しいか? 正しいと心から思ってるのか? それなら、なぜ余計な血を見たくないなんて言うんだ。
もはや、怒りと一体化している問い。
仮にアフロディーテの命を奪うことになったとしても。
この拳を持って、この怒りを持って、俺は問う。
アフロディーテは聖闘士として、正しくない。
雑念や理屈を抜きにして、これが、今の俺を突き動かしている怒りの源だ。
ただし、俺も間違えた。最初っから間違えた。
残念ながら、俺達聖闘士にとって、言葉よりも拳のほうが説得力を持つ。これを、俺はもう学んでいたはずだ。
シャカを見ろ。一輝を見ろ。他の兄弟達を見ろ。
俺がいったいいつ、奴らを言葉で説得できたというのだろう。全部が全部、力任せの説得だった。
思えば、情けなさに涙がにじんできそうだ。ただ、だからこそ、無意識にもアフロディーテは言葉でどうにかならないかと思っていたのかもしれない。
甘かった、と心から思うぜ。
俺の中で燃えている怒りには、自身への怒りも多少ある。俺がちゃんとわきまえていれば、ジュネさんは……くそ、やりきれない。分かっている。アフロディーテにしてみりゃ理不尽かもしれない。
それでも、今、俺の内にある怒りと殺意は本物だ。
けれども、その上で願う。
頼むから、死んでくれるなよと。
殺意も真実だが、こちらも本当だ。矛盾は百も承知だが、死んでくれるなよ。俺の怒りでなど、死んでくれるな。
お前を裁く権利は
最初から、俺はお前を拳で打ち砕くべきだった。戦いに勝って下した上で、お前を
俺の役目は
逆に言えば、それができないのなら。
それならば、もう。
―――アフロディーテには生きる資格がない。
熱く激しく燃え立つ小宇宙の中心に、固く冷たくそびえ立つ殺意がある。
思い知らせてやろう。アフロディーテ。
お前の正義を、お前の正義に乗っ取って否定してやろう。
まずは、そこからだ。
■■■■■■
「ペガサス流星拳ッ!」
フフと含み笑いを残し、アフロディーテの姿が花霞の中に溶け消える。
俺の拳は、虚空を貫き、無駄にアンドロメダ島の大地にクレーターを作って終わった。
紫龍の声が、消えた姿を探すかのように漏れる。
「どこへ……」
「隠れてるだけだろ」
「若き
どこからとも知れぬ声。花弁に反射しているかのように、八方から響く。
言われずとも、断じて、侮っているつもりはない。先程までならともかく、今となって、その油断はない。恐れてはいないというだけだ。
「左だ、星矢!」
瞬の声が飛んできた。 とっさに後ろへと飛び退けば、先程まで俺が立っていた空間が貫かれる。斜めに空間を切り裂いた黒薔薇が、俺の拳と同じように大地を削ってクレーターを作った。
追って、赤薔薇も矢のように向かってくる。あまり照準は気にしてないようだ。俺の周辺に、まさに雲霞のごとく着弾しては、香気をまき散らす。
ええい、面倒な!
何が面倒くさいかと言うとだな。
地味に少しずつ削られるというのが一つ。自覚はないが、時間を置けば毒の回らぬはずもなく、どこから飛んでくるか分からない黒薔薇にも神経を使わざるを得ない。
また、有効な反撃もできないというのが一つ。だって、アフロディーテの居場所が分からねえんだもん。薔薇の飛んでくる方向に攻撃したっていいが、十中八九踊らされるだけだ。俺さえすぐ考えつくような対策に、手を打ってないなんてこたないだろう。
つまり、攻撃も防御も、あっちが今のところ有利な立場にあるわけだ。いや、島の被害を気にしないならいいんだけどさ。効率は悪いが、全方位攻撃すれば、いくら何でも当たるだろう。だが、この島を更地にする気は、今のところ、ない。というか、できない。
俺は、敵は選ばないが、場所は選ぶ。
ここは瞬の第二の故郷で、大事な場所だ。壊したくはない。守るために、来たんだ。
アフロディーテの居場所が分かりさえすれば、全部解決するはずだ……分からないから困ってるんだけどな。
なんで、瞬には分かったんだろう。感知能力の差か?
言っておくが、俺だって、本来なら分かる。周辺に撒き散らされている薔薇が、ただの薔薇ならな。
この薔薇、色によって役割は異なっても、小宇宙をまとっている。そこが厄介なのだ。
俺は、怒りと焦りを溜息で吐き出して、気を落ち着かせた。冷静に考えろ。
アフロディーテは、厄介だ。
けど、怪我を負っている以上、長くは続かない。短期決戦を狙ってくるはず。次にあの白薔薇を撃ってくる時が勝負になるだろう。誰を狙うか。俺か。元々の標的であるダイダロスか。
頭の一部だけでつらつらと考えつつも、絶え間なく飛んでくる薔薇を移動しながら叩き落とす。頭の他の大部分は、アフロディーテからの攻撃対応でフル回転中だ。
受けてると分かるんだが、奴の攻撃は、ある程度の規則性がある。どこをどう移動しているか、仕組みも何となく分かってきた。大概のやつが、おそらく分かる前に死ぬのだろう。
俺は、短くうなった。
「なんてこった」
パターンを読めてきたというのに、攻撃に回れない。
回れないだけの態勢を整えられてしまった。
現在、動かない瞬達を中心に、俺とアフロディーテは位置取り合戦している。
俺は、瞬達を背に、アフロディーテに正面を向けておきたい。守るにたやすく、迎撃もしやすいからだ。つまり、一直線上に、瞬達、俺、アフロディーテの順番にしておきたいわけだな。
一方、アフロディーテは自分と俺と瞬達で三角形を作ろうとしている。俺の、アフロディーテへの攻撃と瞬達の護りを、同時に行えない形にしようとしていて、悔しいことに、それはほぼ成功していた。
どんなに攻撃をしたくても、俺は瞬達を庇えない位置には絶対に動かない。彼らから、一定以上の距離を取らない。それを利用されている。
破壊の黒薔薇も、毒の赤薔薇も、瞬達のところまで一本たりとも届かせてはならない。どんな位置から、どのように放たれようとも、必ずすべて叩き落とす。
よって、アフロディーテへの攻撃まで手が回らないのだ。
とは言え、代償もある。アフロディーテは有利な位置を保つためには動き続けるしかない。けど、あの怪我じゃ、いつまでもこんな位置取り合戦はしていられない、だろう。多分。うん。
次に姿を見せた時が勝負だ。
「星矢! 僕も」
「要らん」
呼びかけてきたのは瞬だ。
気持ちは分かる。師のダイダロス、姉弟子であるジュネさんを思うお前に、黙って見ていろなんて酷だろうよ。
だけど、ダイダロスを失っていないお前が、アフロディーテに本気で挑めるとは、思えないんだよな。前回を覚えている俺としてはさ。
そして、本気でもないお前がアフロディーテに勝つなんて、太陽が西から登ってもあり得ない。アフロディーテは、そんなに甘い男じゃない。
一言で切って返した俺に、瞬はさらに言葉を紡ぐ。
「聞いてくれ、星矢、僕は決めたんだ。もう逃げないって。以前、君が言ったね。何を守りたいのかと。覚悟がないと。足手まといになるくらいなら、聖衣を、戦いを捨てろと」
そこまで、言ったっけ。
でも、その話はもう終わってるだろ。
だって、お前は、聖衣を捨てなかった。
「あの時、君に求められた答えを返せなかった。それをずっと後悔していたよ。言葉ばかりどれほど流し出しても、語り尽くせなどしないけれど、それでも僕は、あの時、君に返すべきだったんだ。同じ道を歩むと。すべてを語り尽くせないなら、語れるだけ惜しまずに返さなければいけなかった。これからも迷うかもしれないけれど、それでも、もう、守られるだけは嫌なんだ。僕は」
そこから先の言葉を待たずに、聞くのをやめた。
うん。分かってるよ。
いや、分かってないのか?
前回を覚えている分、俺は、もしかしたら臆しているのかもしれない。前は迷いなく預けていた背中を、今は空けたままにしている。
これは逃げか。拒絶か。
ならば、何から? 兄弟達の死と流血か。目の前で失う恐怖か。あるいは―――。
いや、そんなものは、今はどうでもいいんだ。今、アフロディーテを倒すのに、適任なのは俺だ。俺がいる以上、他の誰かに戦わせる理由なんかないってだけだ。
むせ返る薔薇の香りが、いっそう深くなった気がした。吸い込む熱が、喉を焼いて、肺を埋める。
冷ややかな声が咎めた。
「なぜ、無駄に死にたがるのか。守ってもらっておいて、それでもなお、生死を分かつ戦場に出ようと言う。虫も殺さぬ手弱女のごとき顔で、勝てもせぬ戦いに、命を捨てる傲慢さを口にする。アンドロメダよ、それは強者のみが口にしていい言葉だぞ」
「僕は弱者じゃない。
「青銅聖闘士の君が、黄金聖闘士の私にそれを言うのか。まったくもって誰も彼もが愚かしい。そうして、己の力を測り違えるから無駄な血が流れるのだ。おとなしく守られておれば良いものを」
「踏みにじる側が強いる沈黙は、強者の傲慢ではないとでも。戦う力があるのに血を流せもしない怯懦こそ、愚かしいものだと僕は思う」
明らかな嘲弄があるのに、なぜか、不可思議な怒気をも含んだ氷のような刃の言葉だった。気のせいかもしれないが、どうにも内容にすれ違いを感じる。瞬ではなく、いや、この場のことでさえなく、もっと前から溜め込んだ感情を毒づいたような。
言い返す瞬に、腹立たしいと言わんばかりに、アフロディーテがこれまで薔薇霞の中に隠れていた姿を現した。
その手にあったのは、一本の白薔薇。ジュネさんの背にあるものと同じ薔薇だった。
一気に俺の緊張が高まる。
あれは、やばい。
撃たせてはならない。
瞬やダイダロスに向かわせてはならない。
「下がってろ、瞬。後で聞く」
「星矢……!」
ダイダロスの動く気配を感じた。どうやら、瞬を引き止めてくれたらしい。
助かるぜ。
相対する俺とアフロディーテ。先程までの攻防と違い、今度はお互いのほんの一瞬の隙を見計らう戦いになった。
姿を表したからには、もう、確実に仕留める気で来る。そうでなけりゃアフロディーテに勝機はない。
予想に違わず、アフロディーテの小宇宙が、負傷を感じさせぬほどに強大に膨れ上がり、たった一本の薔薇へ収束していった。
かつて、神代の昔、白薔薇が赤く染まったのは、お気に入りの美少年アドニスの死に駆けつけた美の女神の流した血ゆえと言う。
女神と同じ名を冠するこの男の白薔薇を染めるのも、血か。白薔薇を染めるのは、いつの世も血であるらしい。
ブラッディローズを構えるアフロディーテを見ながら、密かな符合に密かに感嘆する。
「この薔薇は避けることかなわぬ。必ずや君の心臓に突き刺さる。君を庇える者など居はしない」
よく通る冷徹な声だ。
高まった小宇宙に、全身に圧が掛かりでもしたか、ふさがりかけていたアフロディーテの全身の傷から、再び血があふれだしていた。パックリと割れた額から流れる血が、鼻梁を伝い、顔に筋を描く。そんな姿でさえ、いや、そんな姿だからこそ、悲愴に美しく、人の心に訴える力があるってのは反則技だな。
だが、俺の心臓は高いぜ。
そう簡単にはやれねえよ。
気合を入れて、こっちも小宇宙を高めて、挑発する。
「いつでも来い。できるもんならな」
アフロディーテは、少しだけ笑った。こちらを皮肉る嘲笑ではなく、もっと測りがたい、うっすらと貴公子じみた微笑だ。なんでだ。どこに笑うポイントがあったんだろうか。
真珠貝の艶をもった歯が、濡れた花弁のような薄い朱唇から少しだけ覗き、何とも言いがたく……この男に、どこか隙はないのか。戦闘的な意味じゃなくて。
「フ、君の正義を、少し知りたかった気もするな。だが、もはや……、いや、いまさら詮なきことか。私は、私の道を進むまでだ」
そういうなよ。問題ない。すぐにでも答えてやれる。
俺の正義は、
だけど、俺が今どれだけ訴えても、それに応える気はないんだよな。お前はさ。
アフロディーテの顔から笑みが消え、小宇宙がぴんと張り詰めた。
―――来るか。
「ゆけ! ブラッディローズッ!」
IF偽与太予告。本編の空気を壊す可能性があります。
南海の孤島に、いたずらな運命のめぐり合わせで対峙する聖闘士達。
高まる小宇宙。
響きあう闘志。
今ここに、二人の決着が付く―――!
「瞬、大丈夫か?」
「すっこんでろって言われた……。星矢に、すっこんでろって」
「い、いや、そこまで言われてないぞ。少し落ち着け。ひどい顔色だ」
「僕は落ち着いているよ。大丈夫。……むしろ、動く気力もないくらいなんだ」
「ただでさえ土気色だった顔が、灰色になってきてるぞ!? まったく大丈夫に見えないんだが」
ショックを受ける瞬。
なだめる紫龍。
ダイダロスは、愛弟子の新しい一面を心のログに書き込んでいる。彼の愛弟子日記に、新たな1ページが付け加えられる日も近いであろう。―――ブラコン(兄のみにあらず)と。
「緊張感のないことだな」
「……うん」
何も悪くない(と思っている)星矢は、謝らないが、目線はそぞろにさまよった。さすがに言う言葉に迷ったらしかった。
南海の孤島にて、戦う二人の運命は―――。
以下、次回!