アフロディーテは、言うべきことは言ったと口を閉じ、目を伏せた。
ダイダロスは、瞑目し、眉根を寄せた。
瞬は、拳を握って、下を向く。
紫龍は、何事かを言い募ろうと口を開き、出てくる言葉がなかったのか、そのまま黙り込んだ。
一定のリズムで寄せ来る波。その音さえかき消すような、存在感のある沈黙を誰も破れない。
しかし。
絶対、だと?
いいや、そんなもの、あるもんか。
本当に絶対というものが存在するなら、間違いなく、俺は三回以上死んでるぜ。
俺は一度だけ強くまぶたを閉じた。暗闇を見つめ、過去を見つめ、そして現在に意識を引き戻す。開いた眼に映るのは絶望じゃない。
そうだ、いつだって諦めない。これまで、乗り越えてこれた事実を信じる。乗り越えられる可能性を信じている。今も。
強い意志を込めてジュネさんを見つめた。
必ず助けてみせる。その方法はある。
「抗体はない。作れないってんなら、なぜ俺は死んでないんだ」
ジュネさんより、よほど多くの毒を俺は受けている。呼吸はもとより、傷もそれなりに負った。身を持ってアフロディーテから瞬達をかばっていたのだから、当然だろう。直撃しても、ほとんどがかすり傷にしかならなかったから、もう完治してるが。
「……星矢?」
「それは、……言われてみれば、そう、かもしれないが」
瞬と紫龍が懐疑的に反応する。
ひとまず聞け。おかしいだろうが。
アフロディーテの言が真実ならば、俺が生きて動いて話せるはずがない。お前らもダイダロスもだ。ブラッディローズを受けたのは確かにジュネさんだけだが、その前のロイヤルデモンローズの影響はどこに行ったんだ。なんでジュネさんだけ弱ってるんだよ。
ピラニアンローズは知らんが、ロイヤルデモンローズは毒の薔薇だ。花粉も棘も決して触れてはならぬ劇毒、だよな。
いや、そもそも、なんだって、アフロディーテは自分の毒薔薇で自家中毒を起こさないんだ。あいつが最も毒に近いのに。
それはただの直感だった。
なぜ、アフロディーテが己の毒に冒されないのか。なぜ、俺が死んでないのか。
この答が見つかれば。
抗体がなくても、解毒薬など作れなくても、ジュネさんを救う方法はある。きっと。
アフロディーテへの殺気を強めて問う。
「あの薔薇の毒を、吸い込んでるのはジュネさんだけじゃない。俺達もだ。だいたい、なんでお前には効かないんだよ。お前だって吸ってるだろうが」
「俺達、か。君と同列に扱うのは、かえって気の毒な気もするがな」
意味ありげな視線が、すっと紫龍達に流れる。
余計なお世話だ。やかましい。
「それに、自己への毒性などあるわけなかろう。毒蜘蛛が、己の毒で死ぬものか。毒蛇は、己の毒で屍にはなるまい」
冷たくうそぶいた言葉に、偽りはなさそうだった。
ありか。そんなの。
そうなると、市の毒も市には効かないわけか。
しかし、俺の記憶では、あの毒薔薇は双魚宮から
「フッ、納得行かぬという顔だな。良かろう。着眼点の良さに免じて教えてやろう。黄金聖闘士たる私の聖衣と、君達の聖衣では、性能に大いに差があるのだよ」
黄金聖衣には、解毒作用でもあるってのか。
俺は不審を顔いっぱいに刷いた。
アフロディーテには気に留めず続ける。
「ましてや、聖衣を身につけておらぬとあれば、雲泥の差というのも生ぬるい」
ああ、なるほど、ジュネさんは生身だった。
ダイダロスの小屋への急襲時、彼女が聖衣をまとっていなかったからだ。元から着ていた俺達はともかく、彼女に聖衣を着る余裕などなかった。防御力の差は確かにあっただろう。
だが、納得出来ない。
「それは、俺やお前が倒れない理由にはならないぜ」
そう言うと、なぜかアフロディーテは不快そうな顔、と言うより、矜恃を傷つけられた顔をした。深い溜息は、比類ない美女が、磨かれざる原石に情けを掛けられた恥辱を吐き出すように重い。何事だ。
「結局のところは実力の差と言ってよかろう。理解できておらぬだろう君のために分かりやすく言えば、肉体の身体機能が、違いすぎるのだ」
今度は、俺が不快な顔を返す番だった。
おい、馬鹿にされているのが分からないほど、馬鹿じゃないぞ。俺は。
だが、こんな小さなことで、アフロディーテに苛立っている暇はない。
吐かぬなら、吐かせてみせるまでだ。
あからさまに不機嫌な顔の俺に、アフロディーテは言葉を続けた。
「毒は効いているさ。君の言うとおりだ。だが、それ以上の早さで、回復している」
「なに……?」
「この世のすべてに、多かれ少なかれ毒は含まれているのだよ。ありふれた塩や砂糖でさえ、大量摂取には死の危険がある。我々は、毒を含みながら生きている。大気のおよそ五分の一を占める酸素は、人間にとって必須だが、ありすぎれば有毒ガスだ」
アフロディーテは噛んで含めるように、淡々と説明した。
ムウの辛抱強い口調を思い出すが、より無機質で、教え導くというより、テキストを読み上げる素っ気なさがある。
「しかし、人間の身体はどのような状態に置かれても、元の状態に戻ろうとする働きがある。あるいは、必要な時にだけ変えて、すぐに元に戻す仕組みがある」
知っている。生体恒常性というやつだな。
俺は記憶をほじくり返した。優等生というわけじゃないが、魔鈴さんの講義を寝ていたわけじゃない。寝てた時もあるけどさ。
でも、なんだって、こんな時に、こんな場面で、勉強の続きなんかやらなくちゃならないんだ。
俺の表情を読んだらしいアフロディーテは、わずかに苦笑した。
「簡単に言えば、君は毒を受けてもすぐさま回復しているから、影響がないように見えるということだ。その娘との差はそれだけだ。私の毒が私に効かないのは、その毒をマスクするための機構を私が体内に作り上げているからだが、君の場合は―――」
アフロディーテは、一度言葉を切り、ひどく嫌そうな顔をした。
よほど言いたくないらしい。
「確信はないが、私の毒では、君の肉体の合成と分解のメカニズム、すなわち生体恒常性を崩せないから、君には効かないんだろう。ああ、そんな顔をするな。噛み砕いて言えば、あっという間に分解され、排出され、無害化されているということだ。つまり……小宇宙によりもたらされる肉体強化が、私の毒を、上回る」
―――私の毒を、上回る。
この表情をどう言い表せばいいだろう。
嫉妬に似た歪みと、賛嘆を表す笑みと、屈辱を押しつぶした眼の光。すべてが渾然とした凄絶さを、一瞬だけひらめかせ消える。
「その娘が、未だ死んでおらぬのは、分け与えられているからだ。小宇宙を」
「……ダイダロス?」
少し考え、心当たりを呼べば、ダイダロスは頷いた。
悠然たる動作に見えた。
アフロディーテが鼻で笑わなければ、気づかなかっただろう。
「いつまで持つかな。その爪からするに、もうあまり余裕はなさそうだが」
「私の小宇宙が持つ限り、私が弟子を見捨てることはない」
「共倒れが望みか。お前自身に今もなお毒は回り続けているというのに。お前の小宇宙をお前だけのために使えば、多少は生き長らえるだろうにな」
指摘されたダイダロスの爪を見ると、暗赤色に染まっていた。
これは一体、どうなっている。
慌てて、紫龍と瞬を見れば、若干ましだが同じような状態だ。よくよく探れば呼吸も乱しているし、土や埃で汚れていて見えにくいが顔色も悪い。特に唇は青紫になりつつあった。
まさか―――チアノーゼを起こしかかっている、のか。
なんてこった。さっきまで平気で話していたと思ったのに、そう見えていただけだったのか。
「ごほッ、ゴボッ」
「アフロディーテ?」
咳き込む音に、目を戻せば、アフロディーテが鮮紅色の血を吐いていた。
こいつもか。
それもそうだ。俺が叩きのめしたのだ。死んでもかまわないとまで思い切って。
内臓の一つや二つ、潰れていてもおかしくはない。
アフロディーテの言葉から考えるなら、聖衣の有無、そして、小宇宙の大きさで毒への抵抗力が変わるということだろう。
要するに、完全に毒を無効化できたのは俺だけ。瞬達は抵抗力が強いから動けるだけで、ジュネさんと同じく治療が必要だ。
ところが、頼みのアフロディーテも死にかけている。
俺は、あまりのことに立ちすくんだ。
手に余る事態だった。
「うろたえるな。君は勝者だ。その見苦しさは敗者のもの。若き
射すくめるための、鋭い視線だった。それ以上に厳しい言葉だった。アフロディーテの言うことは正しい。
何があろうとも、俺だけはうろたえるべきじゃない。迷えば何が起こるか、俺はすでに学んだはずだ。
考えろ、アフロディーテの言葉から得られたものを。
思いだせ、正確に。得られなかったものでさえ、判断材料にはなる。
まだ、終わってない。
「……お前は、助けられないとは言わなかったぜ。アフロディーテ」
「まだ、半分だな。それでは不足だ」
アフロディーテは薄く笑った。
正解を引き当てたようだった。
不可能ではない。ならば、何か手段があるということだ。残り半分を引き寄せれば、いや、違う。とうにアフロディーテは、それを差し出している。だから、もう何も言わない。俺が応ずる番なのだ。
まだ、何が足りない。
何が。
「俺の、小宇宙か」
十二宮最奥を守る聖闘士の毒さえ無効化するだけの。
無傷に近い俺の小宇宙ならば、ダイダロスと違い余裕はある。
「足りるまい。私の毒を侮ってもらっては困る。人間の小宇宙は無限には続かぬ。君とて限界はあるだろう。恐らく」
なんだ、その懐疑的な目。
地味に傷つきながら、さらに頭を回転させた。
なら、何が必要だ。
人間の小宇宙には、限界がある―――人間には。それなら。
「
「そう、君らの奉ずる
アフロディーテの長い睫毛から落ちる影。
咳き込んで、横を向いたアフロディーテの唇から、血の筋がゆっくりと流れていった。
「最強? 黄金聖闘士の中で、お前がもっとも強いと?」
「そうだ。この私、
当然の義務という言い方だった。心の底から、この男はそれを信じていると分かった。
そうか。そうなのか。唐突に理解が生まれた。
ああ、胸が震えるのは、反発からじゃない。逆だ。これは、紛れもない共感だった。俺のどこかが、常に存在する何かが、共鳴りしていた。これなら分かる。同じだ。
いかな敵からも守り通せるほど強く。
咳き込みながら、アフロディーテは続ける。
「私は負けた。ゆえに君の正義を認めよう。しかし、私にも意地というものがある。これまでの正義、これまでの信念、そうそう翻せはしない」
一つの理解が、次の理解を生んだ。
分かってもらえないんじゃない。分かってなかったのは俺だ。アフロディーテの拒絶を、理解できないと拒絶しかえしていたのは俺だ。
鏡に写したように、互いの正義に反発しあっていた。
「これを覆したくば、証を見せよ。
今、アフロディーテの澄んだ双眸に宿るのは、屈辱ではない。怒りでさえない。
ひどく
「証だてられたなら、信じよう。自身の意志で、無力な赤子と軽んじたかつての不明を恥じ、裁きに従おう。
一瞬、大地が揺らいだ。めまいがするほどの既視感だった。
いつか。
誰かに。
同じ言葉を聞いた。
『証明できますか』
俺は倒れ伏していた。
だから、正しく覚えている自信はない。だが、明確に思い出せる。
『今、あなたが話したことを信じるには、あなたが
なあ、アイオリア。
前回、これまで信じていた事実と、新たに知らされた真実と、どちらを信じるか迷ったあんたが求めたものを、今、アフロディーテも求めている。
俺は、信じていいのかな。応えていいのかな。
あの時の沙織さんのように。
『いいでしょう。撃ってみなさい』
沙織さんは即答した。
膨大な記憶の海から、引き出されるまで忘れていた。けれど、確実にあった過去の事実を思い返す。もはや誰もしらない過去だが、それでも俺は覚えているのだ。
口が乾いてしょうがない。緊張している。高揚と言い換えてもいい。怒りや焦り、悔いに濁っていた視界が、晴れるようだった。笑みが自然と形作られる。晴れてようやく濁っていたのだと分かり、見えるのは一つ。
俺のなすべきことは、一つだけだ。
口は勝手に動いた。
「いいぜ。証明してやる。誰も死なせたりしねぇよ。沙織さんは本物の
星命点を突いたくらいで解毒できたら仮にも黄金聖闘士である聖闘士の毒なのにあまりにちょろくない?という個人の所感により、前話にて既に星命点ついても解毒できなかったと前提しております。
IF偽与太次回予告
美しくも過酷な環境のアンドロメダ島は、かつての静けさを取り戻した。
しかし、死の香り色濃く漂う静けさであった。
星矢の驚愕が、その静けさを引き裂く。
「なぜ、そこにいる!」
いるはずのない男であった。
逆立つモヒカン。
かがやく白い歯。
「愚問ザンスね。毒蛇の王者たるヒドラの聖衣をまとうこの俺に」
まごうことなき市であった。
しかし、市にあるまじき獰猛な迫力である。
「こんな毒の対処もできないなんて、そんなことはありえないでザンスよ」
口調は、普段と変わらず軽薄であるにもかかわらず、満ちる自信が風格を生み出していた。
そこは別に聞いてねえと言いかける星矢をさえぎりながら、アフロディーテが傲然と笑って、口を出す。
「君ごときに何ができる。力の差も分からないか。下がれ」
「分かってないのはあんたザンス。俺は毒のスペシャリストだ。畑違いとは言えねえよ」
モヒカンは、言い切った。
キランと、剃り上げられた側頭が光る。
漢の輝きだった。
「俺の修行地は、フィンランド。古代ギリシャ文明が衰退する前に、古いアポセカリーの流れを受け継ぎ、ホルツ湖に移り住んだ錬金術士の住まう地で、修行したザンス」
一息ついたモヒカンは、自嘲を浮かべ続ける。
意地の光る微笑だった。
「俺には星矢ほどの小宇宙はない。実力もない。才能もない。だがしかし、俺にも誇りというものがあるザンス。クレオパトラにナポレオン、名を挙げれば切りのない、あまたの死をもたらした毒を極め尽くしたからこそ、俺にヒドラの聖衣が与えられた。この俺にひれ伏さぬ毒など、この世にない」
そうでなければ、生きている意味がない。
意地と自信と、それから、何者にも劣らぬ誇りだった。
ヒドラの聖衣をまとう、この世にたった一つの誇りだった。
―――アテナにさえ譲れぬ、市の誇りだった。
-----------------------------------------------
次回「毒蛇の王を従える者」
誰もが勇者になれるわけじゃない。悲しい毒、受け止めろ、ペガサス流星拳ーーーーっ!!!