波が、足元に打ち寄せる。
太陽は、いまだ天頂にとどまり、地上を容赦なく焼いている。
それでも、待った。
汗が、頬を流れて顎に伝わり、ぼとりと落ちていく。
髪が張り付いて気持ちが悪い。聖衣が熱い。
それでも、待った。
どっちに転ぶか、もうほとんど確信しているようなもんだが、それでも緊張は解けない。
けれど、待った甲斐はあった。
アフロディーテの口元がわずかにゆるんだ。見惚れるほどの笑み。待ち望んでいたものだ。
「フッ、言うものだ」
言うだけの自信があるからな。
沙織さんが本物だと知っている。推測じゃなく、希望でもなく、真実として知っている。
にやりと笑みを返した。
さて。
俺としては、これで一件落着。
全員で日本に向かえば、後は沙織さんが何とかしてくれるだろう、と肩の荷を下ろした気分だった。
まかせたぞ、沙織さん。
と、ここで話が俺の手から離れればありがたかった。ぜひともそうなってほしかった。
ところが、そうは問屋がおろさなかった。
残念ながら、というべきか、あるいはさすが、と評すべきか。
もしくは、気付かなかった俺を、鈍いと思うべきなのかもしれない。
紫龍が、アフロディーテの矛盾を突いたのだ。
矛盾というより、疑念だな。
―――なぜ、アフロディーテは、俺達が、本物の
■■■■■■
紫龍が、いつから気づいていたのかは分からない。
ただ、追求するタイミングを狙っていたのは間違いないだろう。
もっと早く言ってくれりゃ良かったのに。
俺は、沙織さんに今後の対応を放り投げる気満々だったんだぜ。
まあ、ぼやいてもしょうがないんだがな。
弱々しい声ながらも、しっかりと紫龍が割って入ったのは、アフロディーテの友好的な態度に、俺が安堵しかけた、まさにその時だった。
「待て、星矢」
血の気のない顔に、恐ろしく真剣な表情を浮かべていた。
俺はまだ、何も気にしちゃいなかった。ダイダロスがなぜ死ななくてはいけなかったのか。どうして、今だったのか。何も分かってはいなかった。
愚かだったと、後から気づいた。
「先程から、気になっていたんだが、なぜ、アフロディーテが沙織さんのことを知っている」
うん?
どういう意味だ。分からない。何を言いたいんだ。
眉根が寄った。
ダイダロスが、短く息を吸い込んだ。そうか、と小さくつぶやく。厳しい顔つきだった。
「そうか。確かに、そのとおりだ。どこからいた。アフロディーテよ。なぜ、知っている。まさか盗み聞きしていたのではあるまいな」
「エ? そんな気配は感じませんでしたが……」
青銅聖闘士である瞬に気配を悟られたら、アフロディーテも苦しいだろうな。と思うものの、瞬なら分かるだろうとも思う。
聖衣を身につけ、戦いの覚悟を固めた瞬の感覚をごまかせる奴なんて、いるんだろうか。
ましてや、わざわざ盗み聞きなんかする理由はないだろうに。アフロディーテなら、何か知りたければ、むしろ、堂々と吐けと正面から要求してくるだろう。盗み聞きなんてのは、結局のところ、力のないやつがやることだ。
眉根を寄せたまま、口を曲げる。
瞬も、紫龍に対して、疑問を差し挟まない。あれで、何が言いたいのか、分かったんだろうか。それとも、単に察するものがあって遮らないだけなのか。
まずい。分からない。
焦っている間にも、会話が進む。
俺が理解していないことを分かっていたのか、性分なのか、紫龍は省略をせずに問うた。
「星矢が、沙織さんのことを言い出す前に、お前は俺達が、沙織さんを……
「た、確かに」
ここで、瞬が息をのむ。
俺も、そこまで言われて、ようやっと分かった。
確かにその通りだった。
この地で、沙織さんや十三年前の悲劇について知っているのは、俺達以外には、ダイダロスとジュネさんだけのはずだ。アフロディーテに説明した覚えはない。
合わせて考えれば、アフロディーテにとって、俺達は未知の敵であるはずなのだ。
仮に、教皇の入れ替わりや、その悪事を知っていても、
なのに、なぜ、
紫龍は、そこを問うているのだった。
「盗み聞きなど、するものか。そのような下賎な真似……」
アフロディーテは、血の気の抜けた生き人形のような顔をしかめた。不快だったようだ。
ダイダロスも、本当にそうとは思っていなかったようで、追求しない。
でも、そういう問題じゃないだろう。
たまらず、口を挟んだ。
「ならば、なぜ、俺達の話を聞いても居ないのに、
アフロディーテは、光を放つような双眸を俺に向けて、じっと見つめてきた。
不気味なまでに深く、内蔵をえぐるように鋭く、魂まで刺し貫く目線だった。
青白い顔の中で、瞳の色だけが生気を帯びて鮮烈だ。
「逆に、私も一つ問いたいな。
「は……?」
ゆっくりと、単語単語を強調してくる声。
いやみったらしいと感じる前に、警戒心が先に立った。
あまり良くない予感がするぞ。
「勘違いかとも思ったのだが、どう思い返しても、君達に名乗った覚えがない。ああ、ダイダロスが私の顔と立場を知っているのは分かるとも。最も黄金聖闘士に近い白銀聖闘士と呼ばれる男だからこそ、わざわざ私が来たのだから。しかし、なぜ、君達、青銅聖闘士ごときが私の顔と立場を知っているのだろうな」
言葉を切った。
蝋人形の白い顔を裏切る苛烈な眼光。
警鐘が、頭の中で打ち鳴らされる。
俺は、もしかして、何か間違えたのではないか。もう少しムウや老師の言っていたこと、成したことを考えるべきだったのではないか。
アフロディーテは、よりいっそう強調して、ゆっくりと言った。
「いや、そもそも、なぜ、ここにいる?」
どういう、意味だ。
顔がこわばる。
何が言いたいのか分からない。しかし、それが恐ろしいものであろう予感がする。
そもそも、それは、俺がアフロディーテに訊かなくてはならないものだ。
なぜ、アフロディーテが今ここにいるのか。ダイダロスは、なぜ、今死ななくてはいけなかったのか。教皇にまつろわぬという理由ならば、これまでに処刑されていてもおかしくはない。およそ十三年、ここまで殺されなかったものが、なぜ、今となって。
警鐘が、高く鳴り響く。
ええい、俺は頭脳担当じゃないんだよ。匂わせるな、はっきり言え!
俺は、開き直った。
「俺がお前の名前を知ってようが、どうやってダイダロスを助けに来ようが、そんなことは重要じゃない。俺にとってもお前にとってもだ」
「フッ、腹芸は不得意と見えるな。師から教わらなかったか」
「余計なお世話だ。必要なことは全部教わったぜ。聖闘士が
「言ってくれる。フフ、―――ムウの薫陶か?」
思わず、目を見開いた。
ごくりと喉が鳴った音も、聞こえただろう。
しまった。
やってくれたな。この野郎。ぎりりと歯を食いしばった。
「図星か。正直で好ましいことだ。その素直さは美点だぞ」
うるさい。お前と違って若いだけだ。
悔し紛れのうなり声が出る。ううう、今度、魔鈴さんに会ったら、表情筋を鍛えるにはどうしたらいいか、相談してみるか。仮面を付けろの一言で終わるかもしれないが。
慰めにもならん皮肉を言いながら、アフロディーテの長いまつげが上下に動いて、頬に影を落とした。まるで本当に好ましいと思っているような柔らかさで、目線がゆるむ。
「俺の師匠はムウじゃないぜ」
「分かっているさ。ムウならば、弟子に、このような真似はさせん。己の身代わりなどさせるくらいならば、自ら出向くか見捨てるだろうよ。だが、弟子ではなくとも、ムウの差金だろう。それ以外に考えられんからな」
なんだって?
己の身代わり?
見捨てるって、なんだ、それは。
「なんだ、ムウは言わなかったのか」
「何をだ」
「そこまで言うほどでもなかったか。あるいは教えたくなかったか。さて、どちらだろうな」
アフロディーテは目を細めて楽しげな表情を浮かべた。嘲る表情にもよく似ている。奇妙なことに憐れむ表情にも見えた。
嫌な予感だ。
さっきから打ち鳴らされている警鐘が、鳴り止まない。恐ろしい何かが来る、そんな予感はまだ続いている。
己の愚かさを心底悔いるような、思い切り自分を罵ってしまうような、そんな予感が。
それでも、さえぎらない。
俺は、いったい、何を知らない。
アフロディーテは、感情の乗らない声で続けた。
「この程度の討伐であれば、情報はそこまで機密ではない。わざと流すこともあるほどだ。あぶり出すためにな」
「なん、だと」
「ここまで老師はもちろん、ムウも動きを見せなかった。あるいはダイダロスであれば……惜しむかと思ったのだがな」
何を、惜しませ、何を、あぶり出すのか、言うまでもない。
反乱者を、だ。
そして、この情報がわざと流されているとするなら、それならムウの動けない理由は……ああ、なんてこった。
理解した瞬間、全身が強ばり震えが走った。己の愚かさへの怒りだった。恥ずかしさだった。過ちへの悔いだった。なぜ詰った。あんな風に言うべきではなかった。そうとも、あのムウが好んで見捨てるはずなどない。分かっていたのに。
目の前が真っ赤になり、ちりりと脳味噌に直接電流を流されたような痛みが走る。こめかみにもう一つの心臓ができたかのようにドクンと脈打った。
本当に、疑ったわけでは、なかった。
それでも、怒りを持ったのは確かだった。
あの痛みを含んだ気配は他に何も含んでいなかったか。憂いをまとった目は何を思っていたのか尋ねもしなかった。何を苦痛に思っていたのか追求もしなかった。手を出せない現状を嘆いているだけなのかと疑いもしなかった。馬鹿だ。ぎりりと奥歯を噛む。俺は馬鹿だ。なんて愚かな不満だったことだろうか。なんて子供のような泣き言だったろうか。ムウはよくぞ見捨てなかった。
ああ。
馬鹿だ。
俺達がアンドロメダ島にやってきたのは、ムウから情報をもらったからだ。ダイダロスが殺されると。
だけど、それは聖域がわざと流したものだった。ムウ、あるいは老師を釣り出すために。
ムウも老師も動けるはずがなかった。相手の手で転がると分かっていて動くほど、愚かにはなれなかった。だから、これまで黄金聖闘士同士のぶつかり合いが起こらなかった。
言葉通り、俺達に伝えるだけがムウにできるすべてだったのだ。俺達の実力が足らなければ殺されるだろう。それを承知で伝えた。許せとは言えないと告げたムウの心境たるや、いかなものだったか。もう、想像さえできない。
息を吐いて、軽く目を閉じた。先を読めるってのは、いや、賢いってのは、なんて損なんだろう。
俺は、賢くない。
「だから、今なのか」
「そうだ。もはや白銀聖闘士で、教皇に手向かい続ける者は残っておらん。ダイダロス以外は」
ダイダロスを殺すのが今なのか。主語をはぶいた言葉に、的確な返事が返ってくる。多分、こいつも、賢い者の一人なのだろう。だから、教皇を選んだ。
でも、俺は、賢くなくて、いい。
だって、俺の選ぶものは、もう決まっている。
「それだけか」
「フッ、聖域において、教皇への不信感は高まってきている。今は従順でも、放っておけば、第二、第三のダイダロスが出るやもしれぬ。そうならぬよう見せしめに潰しておくというお考えもあったろう。現にお前達という実例があるではないか。後は、デスクイーン島からシャカの急な帰還で、教皇も焦ったのか……推測にすぎんがな」
俺達は、ダイダロスとは関係ないけどな。
ともかく、これで、なぜ今ダイダロスなのかは理解した。ムウ達が動けなかった理由も分かった。
アフロディーテの名を知っていた理由も勝手に納得してくれたようだ。ムウ、すまんが隠れ蓑に使わせてもらうぜ。
だが、
それから、シャカの急な帰還って、なんだそれ。
疑問が増えてしまった。どうしよう。
俺は、頭を整理しようと、懸命に考え始めた。
デスクイーン島ならば、俺もいたんだから、何か思い当たるかもしれない。
そうだ、だいたい、あの程度の討伐にシャカがでばること自体がおかしくないか。シャカも「暗黒聖闘士も噂ほどではなかった」と言った。その噂とやらはどこから出た。もしや、最初からシャカを遠ざけるための奸計だったか。いや待て、発言から考えるに、ガンジス川から来たらしいから、帰還したのが聖域とは限らない。けど、シャカにいられて困る場所なんて、聖域以外にあるんだろうか。ああ、分からん。
とにかく、何をしようとしていたのか知らないが、教皇にとって、シャカにいられては都合の悪いものだったのだろう。シャカは相手の本質を見抜く。教皇の本質を善と見ているシャカを、遠ざけている間でなければできないこと、か。ダイダロス討伐につながる何か。ううむ、うん。
分からん!
俺はすべての思考を放り投げた。
無駄だ無駄だ。そもそも真実にたどりつくためのヒントが少なすぎるんだから、分かるはずがない。後回しだ。優先事項はそれじゃない。
考えてみれば、分かる必要性もない。殺そうとするなら守る。壊そうとするなら防ぐ。それだけだ。
しかし、瞬は気づくものがあったらしい。顔に苦悩が浮かんだ。
「それは、聖域内部に教皇に対する不審があるなら……外部の反教皇派がそれを利用しないはずがない。そこを逆利用して、一気に潰そうと?」
「反教皇派を一気に……そ、れは……まさか、瞬、お前は何を考えている」
「きっと、同じことを考えてるよ。紫龍」
瞬の言葉に、紫龍の唇がわなないた。
つまり、獅子身中の虫を利用して、外の敵を潰そうってことか。聖域内での
外の顕在敵と内の潜在敵を同時に処理するってわけだ。
いっそ感心している俺を置いて、真剣な顔をした、瞬と紫龍が眼を見交わす。
ぴたりと声がそろった。
「童虎老師!」
かははっとアフロディーテが笑い声を上げた。
うわ、優雅な微笑み以上は許されないような顔しといて、意外と男くさい笑い声だな!
俺は、正直、引いた。
「たったこれだけで、得るべきものを得るか。油断ならぬは、お前だけではないようだ。星矢よ」
当然だろ。俺の兄弟達だぜ。
反射的に胸を張った。
瞬達が何を言っているかというと、簡単だ。反教皇派を一気に潰す気なら、童虎もその対象ってことだ。ムウも対象に入るはずだが、ムウは聖衣修復に必要だから、処刑対象かと言われると迷うところだ。せいぜいが首輪をつけておきたい相手ってところだろうか。
まあ、あの童虎だぜ。大丈夫だと思うが、悪い顔色が、さらに悪化しそうな紫龍達をなだめるか。
「心配するなよ。童虎は、黄金聖闘士だぜ。そうそう殺られるもんか」
「星矢、お前が言うならそうかもしれないが」
「だいたい。正当な理由なしで童虎討伐なんて、ますます教皇への不審を高めるだけだろ。まっとうな黄金聖闘士には命令は出せない」
だろ? とアフロディーテに目をやる。
フッとアフロディーテが、咲き誇る毒薔薇のように微笑んだ。
あ、悪い顔。
「そうでもないさ。そろそろデスマスクが動く。虎も老いれば駄馬にも劣るというものだ。ましてや同格の黄金聖闘士相手に、二百年前ならともかく、今、勝機があるとは思えぬな」