王様の耳はロバの耳。
むぐむぐと、喉の奥から何かが湧き上がってきた。
慌てて、口を手で押さえた。言ったらダメだ。分かっているが、言いたくてたまらない。
王様の耳はロバの耳。
言ってはならない物事ほど、言いたくてたまらない。
駄馬とはよくもほざいたもんだ。老師はなあ、実は十八歳の肉体年齢なんだぞ。老皮さえなければ、ぴちぴちだ。若さを謳歌しているんだ。
言わないけどな!
つまり、誰に襲われても絶対に心配ないと思うが……ちらりと紫龍を見た。眉間の縦皺によって、年齢以上の顔つきになっている。おい、紫龍、そんな苦労性だと早く老けるぞ。
余計なお世話だと言われそうだが、俺は真剣に心配している。
ただでさえ、今から苦労を掛ける予定なのに、今からそんなに苦悩顔になってどうするんだろう。
罪悪感の重さで、俺の額にも縦皺が寄りそうだ。
しかし、いつまでも心配していてもしょうがない。
今は、この場を何とかしなければ。
「分かった。俺が行く」
「星矢……!」
紫龍が、何やらよく分からない感動した顔つきで俺を見る。
やっぱり何やらよく分からない罪悪感の重みが増すから、やめてほしい。
「でも、その前に、城戸家に行くぞ。沙織さんだったら、ジュネさんもきっと何とかしてくれる」
「分かったよ。星矢、でも、どうやって帰ればいいんだい?」
瞬の疑問ももっともだ。
来る時はムウに送ってもらったが、ここにムウはいない。
だが、問題ない。
「俺だって、テレポーテーションくらいできる」
ちょっとコントロールが怪しいけど。
都合の悪い部分を口に出さず、胸を張った。
「僕達全員なんて、大丈夫かい」
「もちろんだ」
多分な。
これまで一発で飛べたことはないが、何とかなるさ。
それに、よくよく考えてみろ。これまでの経験を。
初めて使ったのに、デスクイーン島になんか行ったこともなかったのに、ちゃんと到着できたんだ。六年も会ってない一輝の小宇宙だなんて、大して当てにならない目印で目指したにもかかわらず、何回か海に落ちた程度で済んだんだぞ。付け加えると、六年前は小宇宙なんぞ何も分かってなかったんだから、六年前に覚えた小宇宙なんて、ただの気のせいだ。適当に飛んだも同然だ。
今回は、初めてじゃない。しかも、城戸家は、ついこの間までいた場所だ。
失敗するはずがない。うん、完璧な理論だ。
自信たっぷりの表情を浮かべてみせると、なぜか、紫龍も瞬も心配そうな顔になった。失礼な。
全幅の信頼を寄せてくれていいんだぜ。
「行くぜ!」
■■■■■■
視界が切り替わった。
とたんに、目を開けられないほどの風と、落下感。浮遊感じゃないぞ、落下感だ。腹をえぐられて内臓を持ち上げられる感覚だ。どっかで味わったなと思ったら、よく修行中に、魔鈴さんに宙に打ち上げられて落とされてたからだった。泣けてくる。
蘇った思い出に落涙する心持ちを切り替えて、周りを観察する。
ごうごうと冷たい空気が渦巻いて、落下する俺達を攻め立てた。
上空およそ四百メートルといったところか。
眼下には、真上から見ても広大な城戸邸の敷地。
海に落ちた時は、盛大な水柱で済んだが、これはこのまま落ちたらクレーターができるだろうな。沙織さんに謝らないと。ううむ、人間が豆のようだ。とは言え、城戸家敷地内だから失敗はしてない。反論は認めない。でも冷や汗が出るのは止められない。
冷や汗をかきながらも、目に入ったのは、態勢を崩したらしいダイダロスと、その腕からこぼれそうなジュネさんだった。
手を伸ばして引き寄せたジュネさんを片手で抱きかかえ、ついでにダイダロスも捕まえる。抵抗されたが離さない。
風に流されて、妙なところに落ちてもいけない。ちょっとした親切心だ。
アフロディーテは呆れた目つきで、こちらを見やると、ぱっと姿を消した。その小宇宙はすでに地上にある。上空から、真下へ短距離テレポーテーションを行ったようだった。効率的だ。でも、せめて自分の周りにいる奴らくらい連れてけよ。なぜ、残す。余力がないのか。
瞬は、まず鎖を叩きつけるように、荒く地上に突き刺した。反動を活かして態勢を整えるとほぼ同時に上向きのストリームを起こし、落下速度をゆるめている。流されぬように地上につないだ鎖を手繰りながら、ストリームを制御して降りるつもりらしい。
相当なバランス能力と制御力が必要なはずだが、器用な男だ。
紫龍は、地につながった鎖の側で自由落下している。上にたなびく髪が、竜のたてがみのようだ。
俺も、同じく自由落下中である。ジュネさんは意識がないからいいが、ダイダロスは何やら覚悟を決めた顔だ。失敬な。ちゃんと着地してみせるぞ。
「星矢! 紫龍!」
呼びかけてくる瞬に親指を立ててやり、心配ないと示した。
瞬の起こした気流によって、俺達の落下スピードもかなりゆるやかになっている。この分なら小クレーターで済むだろう。
「違う!」
何が違うんだ、と思ったのもわずか。
真下に異変が生じた。
強大な小宇宙が、迫ってきている。
上空の寒気とはまったく違う冷気―――具体的に言うと、でかい氷柱がせり上がってきている。地中の水分を芝生ごと巻き込み、空気中の水分を集めながら、めきめきと音を立てて成長する氷は、サイズだけでも十分な脅威だ。
円形の、直径二十メートルくらいの俺達全員が着地できる大きさの床が、猛スピードで上空に伸びてきているところを想像してほしい。
正面衝突したら、ミンチになるな。俺達が一般人なら、だけど。
でも、殺す気がないのは分かってる。殺す気なら槍として、先端を尖らせてくるだろうし、何よりこの小宇宙には覚えがあった。
「カミュ!」
氷柱の根本に立つ二人の人影。
こちらを見上げる峻厳な眼差しと、無造作に伸ばされた赤い長髪。見間違えようもない小宇宙。
その傍らには、怪我のかけらも見当たらない氷河が立っている。完治したのか。良かった。でも、目つきが恐い。前回の
あいつに何があったんだろう。
俺が心から心配している間にも、落ちる俺達に氷面が近づいてきた。近づけば近づくほど、氷の成長速度は遅くなっている。そろそろ停止するだろう。それでも、俺達が落ちている分、かなりの勢いでぶつかるが。
「瞬、紫龍、着地しろ!」
それでも、あのまま激突するよりは、マシな結果だろう。地面にとっては。
カミュなりのやり方で、俺達に手を差し伸べてくれたのだ。テレポートさせてくれればいいじゃないかと思わなくもないが、第三者をテレポートさせるってのは難しいのかもしれない。
アフロディーテもしてくれなかったもんな。単に余力がなかっただけかもしれないけどさ。
「着地って、氷だよっ!?」
「無理がないか、星矢!」
ごちゃごちゃ言うな。
後四十メートルもないんだから、覚悟決めて落ちろ!
大丈夫だ。お前らならすっころぶくらいで済むから!
後二十メートル。
後十メートル。
後五メートル。
そろそろ着地。いや、着氷か。
人間を二人も抱えてるんだから転べない。気合を入れて小宇宙を全身に回し、体温を上げながら両腕に力をこめる。最悪、俺は転んでもいいが、二人に衝撃を与えないようにしないとな。ちょっとした気遣いだ。
鈍い衝撃、そして、氷が砕け散った。
そして、さらに落ちる。薄いパイ皮のように、何枚も重ねられた薄氷を突き抜けて落っこちた。
今の俺達を客観的に眺めるならば、氷の柱の中に閉じ込められているように見えるだろう。
予想外だ。
「冷てぇ!」
カミュのやつ、何のためにこんなにもろい氷にしてるんだ。砕けた氷の欠片はあっという間に溶けて、俺を濡らし、そして蒸発していく。
下に落ちるほど強度が高く、溶けにくい氷床。
もしかして、クッション代わりにしようとしたのか。
さすが黄金聖闘士。発想がどうかしている。味方でなけりゃ、氷の筒に閉じ込めたところで、外側から凍らせる気かと疑うところだ。
ようやく止まったところで、まだ燃やしたままの小宇宙を足にこめた。無造作に横の壁を蹴りつける。音を立てて壁が割れ、人間が出るには十分な大きさの穴が空いた。
下を見下ろせば、地上まで、残り七十メートルちょい。問題ない。
一気に行こうか。
「先に行くぜ」
一応、紫龍と瞬にも一声かける。
この氷柱、瞬が地面に突き刺した鎖を中核としている。なので、横の氷壁を割って、氷柱に刺さりこんだ鎖を起点に、紫龍を下ろすなり、自分も降りるなりすればいいのだ。
降りてから、鎖が刺さりこんだままの氷柱をどうするかだって? 知らん。カミュに砕いてもらえばいいだろ。
「星矢、そこまで簡単に割れるほど、この氷は壊れやすくないんだが……」
「いや、星矢が蹴り割ったところから出よう。紫龍。それが一番早いんじゃないかな」
背後の会話を気にせず、ダイダロスとジュネさんを持ち直す。やっぱりダイダロスは抵抗した。なぜだろう。負担なんかじゃないから、怪我人は遠慮しなくていいんだぜ。ねじ伏せる手間もかかるからな。
何かを諦めた目つきになったダイダロスを背負いなおし、ジュネさんを片腕に抱きしめて、とんっと宙に飛び出す。
むろん、そのまま落っこちる気はない。空いているほうの指を、すかさず氷柱にめり込ませた。このまま落下速度を殺して、地面へと滑り降りるつもりだ。
この氷柱は、下に行けば行くほど固く締まっているので、少しずつ右手に集める小宇宙を増やす。増やしすぎると、氷柱を二つに割いてしまう。だが、増やさなかったら途中で止まってしまう。まどろっこしいまでに慎重に。
俺一人なら飛び降りればいいが、怪我人を担いでいる身だからな。うん、丁寧にしないと。
そっと、を心がけながら降りなきゃならん。
五十、四十、三十……、五十メートルを切ったあたりから、口に出さず高度を数える。そのままストンッと落ちて、ドスンと着地してしまいたい衝動をこらえるためだ。怪我人、怪我人。忘れちゃいけない。
努力の甲斐あって、一番下までたどり着いたとき、足先に感じたのはトンと軽い衝撃だけだった。
ちょっとゆっくり降り過ぎただろうか。紫龍と瞬に追いつかれかけている。
まあ、いいや。
俺は、ダイダロスとジュネさんを背中から下ろした。ダイダロスは息を吐いて座り込んだ。抵抗したからか、疲れたらしい。意識のないジュネさんは、丁寧に芝生に横たえる。
大丈夫かな。顔が土気色になりはじめてるぞ。
■■■■■■
地上で、待っていたのは、上空から見えたカミュと氷河。
そして、お嬢さんだった。上品な薄紫のワンピースに淡い金色のサッシュを巻いて、白い日傘を差している。冷厳な眼差しが貫いているのは、その前に跪くアフロディーテだ。
豊かな髪をそよがせ立ち昇る小宇宙が、湖面に広がる波紋のように押し寄せてくる。何の反論も許さぬ重み。
―――神としての威だ。
人を従わせるのは、力であれ権であれ欲であれ財であれ、限度がある。だが、これは圧倒的な、神にのみ許される無限の威圧だった。
女神アテナだけではなく、海王ポセイドンや冥王ハーデス、それぞれ異なる、けれど、同じだけ強大な威。
取るに足らぬ人の身で、神との相対を、どうして畏れずにいられよう。
アフロディーテ、力がすべてだと言い切ったお前は、ある意味間違ってない。ただし、人と神を比べること自体が間違いなんだけどな。
溜飲が下がるような、同情を禁じ得ないような、複雑な気分で見やりながら、内心は大混乱だ。
なぜ、本気なんだ。お嬢さん。
あれ、もしかして、俺達が降りてくる前に一悶着あった、とか……?
頭を抱え込みたくなる。
おいおい、地上から気をそらしてたのは事実だが、なんで目を離している間に、起こってほしくないことばかり起こるんだろう。
嘆く間にも、後ろの氷柱から、瞬と紫龍が降りてくる。
どうしたもんか。
「久しいな、星矢」
対応を迷っている間に、カミュが声をかけてきた。
第一声がそれってどうなんだ。友好的なのは嬉しいけど、もっと言うべき事柄があるんじゃないか。
目の前の光景に、何か思わないのか。
「ああ、案ずるな。私も通った道だ」
俺の目線に気がついて、カミュは補足した。
ありがとう。でも足りてない。肝心なところが足りてない。
何をやったんだ、カミュ!
私も通った道だ、なんて、すました顔をするんじゃない。それってつまり……何かやらかしたのか。ああ、聞きたくない。でも、聞いといたほうがいいよな。
俺は遠い目になった。
なんで、こうなるんだろう。
「どうしよう、紫龍。星矢が、なんだか随分とよどんだ目つきになってるよ」
「腐っているという事か?」
「すべての希望が、渦巻く水底に消えてしまったら、こんな目つきになるんじゃないかな」
「そうか。長距離の転移だ。疲れたんだろう。俺達だけでもいたわってやろうか」
「そうだね。屋敷の皆にも、星矢を甘やかすように言わなくちゃ」
背後の会話で、なおいっそうの疲労感を味わっているので、やめてくれ。頼むから。
膝が崩れ落ちそうなのを、こらえてるんだよ。これでも。
二人にまったく悪意がなさそうなのも、いい具合に倦怠感が増す。善意だけの言葉だってのに、この破壊力。
でも、一言だけ言っとくぜ。
いつだって、丸聞こえなんだからな!
二重の意味で、もはや泣きそうな俺の目に、横たわったジュネさんが映った。
いかん、倒れたり崩れたりしそうになってる場合じゃない。
これは、緊急事態だ。なぜ、こんなにも緊張感に欠けているのか、疑問でならん。俺がしっかりしなければ。
お嬢さん、あんたの目の前で跪いているのも一応怪我人だからな。そのへんで勘弁してやってくれ。
曲がりかけていた背をしゃっと伸ばし、まず、呼びかけた。
「沙織さん。―――ただいま」