沙織さんは、ゆっくりと振り返った。
背後にいる俺達など、とうに承知だったのだろう動きだ。
「おかえりなさい。星矢。待ちかねましたよ」
悪かったな。文句は受け付けるぜ。
俺のせいじゃないような気もするけど。
「さっそくで悪いんだが」
「分かっています」
お嬢さんは、手を上げ、続けようとした言葉を押しとどめた。
同時に、あふれ出る小宇宙がダイダロスとジュネさんに向かってそそがれた。
先ほどまでアフロディーテに向けていたような威圧的なものではない。包み込むように大きく、それでいて柔らかい、
数分、小宇宙に包まれていただけで、土気色をしていたジュネさんに血の気が戻ってきた。膝をついて頭を垂れたダイダロスが絞り出す感謝の声にも張りが戻っている。
「念のため、診察も受けなさい。辰巳、準備していますね」
「用意は終わっております。お嬢様」
いつの間にか、背後には辰巳。
距離が離れているのは用心のためだろう。あいつも学習するんだな。前回は、お前の剣道三段じゃ絶対に無理だってのをいつまでたっても理解しない石頭だったんだが。
「アフロディーテ、あなたにも必要でしょう。彼らとともに行きなさい」
「いえ、私はそれほどでも」
固辞するアフロディーテに、思わず口を挟んだ。
「あるだろ。俺の本気がそれほどでもないなんて、自信なくすぜ」
「よくも言える。あれで本気などと。まだまだ上があるだろうに」
「あー……」
なんだろう。別に間違ってやしないんだけど、だからといって、片手間にあしらったわけでもないので、アフロディーテの言いようはちょっと不本意だ。
妙な誤解をされてる気がする。
黙って三人を見送ったのは、ここで誤解だと言ったら、ますます誤解を深めると思ったからだ。俺だって学習するのである。
■■■■■■
お嬢さんの部屋は、相変わらず高そうなものだらけだ。
出してもらった紅茶も、澄み通った赤に、良い香り。美味そう、もしくは高そう、という感想しか出ない。
俺に出すなんて茶葉が泣くだとかなんだとかと辰巳がぶつぶつ言いながら置いていった。
あそこまでぶつぶつ言うなら、雑巾の絞り汁は入ってないだろうと判断して、遠慮なく飲む俺。雑巾の絞り汁が入ってても飲むけどな。だって毒じゃないなら、害はないだろ。
向い合ってソファに座った沙織さんは、気遣わしげに息を吐いた。
簡単ではあるが、すでに事情は説明した。
「ひとまず、
「それは間違いない」
敵対者じゃない。だからと言って、絶対的な味方かといえば、それも違う。
なんといっても、傍観すると宣言されたからな。サガをどうにかするまでは、中立といったところだろう。
それで、いい。
前回だってそうだったんだ。それでも、聖衣の修復や、セブンセンシズに至る教えをくれた。
「だから、もう一度、五老峰に行ってくるぜ」
「
「ああ。童虎の心配なんかいらないとは思うけど、ついでにそこでデスマスクをひっ捕まえてくるから、土産を楽しみに待っててくれよ」
「まあ……星矢が言うと、とても簡単そうに聞こえますね」
そうか?
そうする、と決めたから、その通り口に出しただけなんだが。
だって決めたからには実行するだけだ。簡単だろうが、難しかろうが、関係がない。
首を傾げた俺にかまわず、お嬢さんは物憂げに眉根を寄せた。
「それで、私が動くのはまだ待ったほうがいいと思う理由は?」
「俺がお嬢さんのそばにいないから」
お嬢さんの頬が桜色に染まった。元々が陶磁器のように白いので、動揺が分かりやすいな。でも、なんで、そんなにうろたえてるんだ。あんたは狙われてるんだから最大戦力は手元に置いて動けよ。当然だろ。
他意はないのですねって、それこそ当たり前だ。他にどう意があるっていうんだ。
困惑顔の俺。
疲労顔の沙織さん。
噛み合わない俺達は、そのまましばらく無言でお茶を飲んでいた。なんだか気まずい。
■■■■■■
おかわりの紅茶をそそいでくれたのは、なんとお嬢さん手ずからだ。人払いしたからしょうがないんだけどな。俺がやれって? うっかり持ち手をちぎっても文句言わないでくれるならやってもいいぜ。
「氷河達が来るのは分かってたけど、穏便に済んだか?」
「ええ、意識の戻った那智がまた集中治療室行きになりましたが、その程度です」
おい待て、お嬢さん、それ、その程度で済ませてほしくない!
何かやらかしただろうとは、カミュの態度から察してたけどさ。
淡々と言うお嬢さん。目をつぶって深呼吸する俺。
「ちょっと待っ」
「さらに、激は両腕凍結、邪武が片足凍結、しかも城戸家の誇るメディカルスタッフの技術を持ってしても治療ができません」
おい待て、お嬢さん、まだ、聞く覚悟が決まってない!
なんとも容赦無い追い打ちだった。心中こっそりうなだれた俺は悪くない。
前に那智が集中治療室行きになったのは、俺のせいだが、あいつもつくづく運のない。お祓いでもしてもらったほうがいいんじゃないのか。いや、俺達の信ずる神はここにいたな。可哀想に、救いのないやつだ。
目線を窓の外にそらして、俺は遠くを見た。涙が浮かびそうだった。
そんな俺を見て、お嬢さんは、安心させるように言葉を重ねた。
「安心なさい。カミュが責任を取って、カノン島で治療してくれるそうです」
「脅かさないでくれよ、お嬢さん」
その後も報告と相談を重ねた結果。
カミュは、激と邪武をともなってカノン島へ。
氷河は、城戸家に残り沙織さんの警護と修行をさせる。
ダイダロスとジュネさんは、
一番の問題は、アフロディーテだ。
「俺がいる間はいいとして。黄金聖衣を脱がせておいても無駄だろうな。テレキネシスやテレポートへの対抗措置が、この屋敷にはないだろ」
「ええ、機械で聖闘士の能力を模倣できないかというプロジェクトはあったようですが、まだまだ研究段階です。おそらく実用に至っても、青銅聖闘士ほどの能力も発揮できないでしょう。ましてや、黄金聖闘士への備えにはなりません」
お嬢さんは、一息の間を置いた。
しとやかに目が伏せられて、頬に落ちる睫毛の影まで見惚れるほど優美だ。
「ですが、私は、彼はもう教皇のもとに戻ることはないと思っています」
俺もそう思う。
アフロディーテは約束を違えるような男じゃない。ダイダロスとジュネさんが助かるなら、心配はないはずだ。沙織さんの生命を狙ったり、聖域に報告したりしない、と俺だって信じている。
だが、信じて、信じさせるのがお嬢さんの務めならば、疑い、試すのは俺の役目だ。多分、本当は教皇の役目なんだと思うがな。
「星矢の心配も分かりますが……だからこそ、氷河を残すように言ったのでしょう?」
「まあ、そうだ。警護は多いほうがいい。本当はカミュを残したいところなんだけどな。氷河にだって、皆と馴染む時間はいるだろ」
「本人は、あまり馴染む気はなさそうですけれど」
さもあらん。前回の
氷河は城戸家を好きじゃないし、信じてもいない。
お嬢さんが城戸沙織として振る舞うつもりならば、十分に予想し得た内だ。まだ氷河にとって、ここにいるのは師に従う義務でしかないんだろう。
さっき城戸家に着地する前に見た目付きの悪さは、それでだろうか。気持ちは分からんでもないが、その気持を
「……分かった。出立前に、氷河とは一度話をする」
まっすぐに目を見て伝えたのだが、不承不承というのは伝わってしまったようだ。お嬢さんの柔らかな手が、投げ出されていた俺の左手に重なった。灰とも青ともつかない色の瞳が、俺の奥深くを照らすように覗きこむ。
言葉は何もない。だが、詫びと感謝を伝えてきている。
ずるいよなあ。本当にずるい。
俺は、下を向いた。卓上の紅茶に顔が映り、ゆらっと揺れた。
なあ、お嬢さん、口に出さず伝わるものが、どれほどのものだというんだ。俺はまだ、忘れちゃいない。
忘れられない記憶だ。二度と繰り返させない未来だ。
怒っちゃいない。責める気もない。ああ、お嬢さん。あんたは未来で俺が死んだと聞いたら、どんな顔をするんだろう。嘆くだろうか。
だが、泣かせたくはない。きっと、お嬢さんも、そう、同じことを考えて、置いていったのだ。
俺にはもうお嬢さんの無言をとやかく言う資格なんかない。
「星矢、いつ、出立するのですか」
「氷河と話したら、すぐだ。なるべく今日中に行きたい」
デスマスクは、アフロディーテと同時期に聖域を出ていると見るべきだ。
今すぐ出たって間に合わないくらいだが、うーん、童虎だからな。片手間にあしらって終わりだとしか思えん。
■■■■■■
結論から言えば、だな。やらかした。
お嬢さんがついてきたいと言うから一緒に来たけど、失敗だった。置いてくるべきだった。
せめて、眉をしかめた氷河を見た時に、やっぱり遠慮してくれとなぜ言わなかった。俺よ。
考えてみれば、紫龍逹を最初に叩きのめした時だって、同席させなかっただろ。俺だってかなり説得だの説教だのには向いてないけど、お嬢さんは輪を掛けてひどい。知ってたけど。城戸沙織としてのお嬢さんは、こうなんだって知ってたけどな!
痛恨のミスだ。
目の前の修羅場に、俺はひっそり頭を抱えた。おいおい、お嬢さん、どうやったら、そんなに氷河の気を逆撫でできるんだ。機嫌を取れなんて土台無理なことは言わんが、せめて、こう、もっと氷河の気持ちを思いやってくれないか。頼むから。
「氷河、本当に偶然だと思っているのですか」
「なんだと?」
「あなたが、母の眠るシベリアに飛ばされる確率がどれほどのものだったとおもっているのです」
「なにっ、ではまさか!」
「そうです。お祖父様の作為のもとです。お祖父様なりに詫びの気持ちもあったのでしょう」
「あの男がまさか……!」
「お祖父様の罪は、すべて私のためです。私を救うため、お祖父様は他の全てを捨てて罪を背負いました。そう、人類すべての原罪を背負って処刑された聖者のように」
氷河の目が見開かれる。
見返す沙織さんの目は澄んでいる。声は朗々と響いた。己の正しさを信じて疑わない声だ。
噛み合わない。どうやっても。
お嬢さんと氷河の間にある棘の鋭さよ。正確に言えば氷山のごとく尖っているのは氷河だけで、お嬢さんは岸壁のように超然としている。だから、余計に氷河が攻撃的になるんだが。
ええい、どっちが悪いと考えるのも面倒だ。二人ともひっつかんで放り投げたい。わいてくる攻撃的衝動を押さえつけるために唇を噛んだ。氷河はともかく、お嬢さんは放り投げたらだめだ。うう、自分の衝動を殺すことに慣れてない分、イライラするぜ。
心情的には、氷河に肩入れしたいが、それでは話が進まない。それに、何も迷わず氷河に肩入れできるほど、お嬢さんを知らないわけでもない。
もう、一回目の俺とは違うのだ。
「だが、あの男は幼かった俺にも父親としての温かい言葉など一欠片も……!」
「今から過酷な試練に送り出さねばならぬ息子に何を言えます。
「路上の捨て子を見るようなあの目が誠実だと……!」
「屋敷に集められた百人はすべて同じくお祖父様の血を引く子供ですよ。平等にせねばなりません。直前に母を亡くしたお前にでさえその態度をつらぬいたのもそのためです」
そのへんでストップ。無駄だ。
俺は氷河の肩をつかんだ。無意識だろうが、前に出ようとしていた。
同時にお嬢さんにもやめろと目配せを送る。
何を言おうとも、あの男が最低だって事実は変わらないさ。俺達からするとな。
少しだけ哀しい。
かつての俺だったら怒っていただろう。
だけど、今の俺には分かっている。お嬢さんには分からないのだということが。
沙織さんは、どうしたって俺達と同じ場所には立てない。どれだけ誠実で正しく寛大であろうとしても、意識の差はどうしようもなく自我に溶け込んでいる。選別意識がどうしたってある。
俺達が一般人に対して、庇護するべき生物だとどうしようもなく感じるように。
対等、では、ないのだ。
それが、
お嬢さんは許せという。
口には出さないがそう要求している。無意識に―――許して欲しいと願う。それはつまり許さなくてはならないことなのだ―――思うよりも先にそれが当然になっている。許されなくてはならないのだと、許さないなどありえないと。私が望んでいるのに叶わないなど、許されてはならない、と。
ああ、だからこそ許せないのだ、とお嬢さんには理解ができないのだろう。
俺達はその許されて当然だという傲慢さを、つまり、あの男を絶対に許せない。
でも、それは、
ああ、だから、なあ、そんなギスギスしないでくれよ。
うんざりしている俺を置いて、お嬢さんと氷河は見つめ合う、というか、にらみ合う。一人仲間はずれの俺はだんだん飽きてきた。それを読み取ったのか、なぜか二人とも俺を見てきた。
なんだ、その眼は。やめろ。離婚する両親が子供に「ママとパパ、どっちがいい?」なんてせまるような目つきはやめろ。味方を強要する眼で見てくるんじゃない。どっちの味方にもならんぞ。俺には関係ないだろ。二人だけでどうにか……ならないか。無理かもしれん。これは。
俺は軽く息を吐いた。
やれやれ、面倒だけど、しかたない。
頭を抱えた俺が決意した時だった。
第三者の声が割って入った。この落ち着いた低音と、場の空気を微塵も気にしない無機質な物言いは……ああ、誰か分かった。
「
「なあ、カミュ、このタイミングってわざとかよ。すがすがしいほど空気を読ま……いや、まあいいか。今行く」