やってしまった。
落ちるのは寒い。
いきなりの浮遊感に、またかと空中用に感覚を切り替えて、氷河を見た。自分を支える大地の消失感、そして、否応なしに重力に引かれて落ちる感覚は、何度やってもぞっとするものがある。
少し心配したが、まったく不要だった。
うーん、最初に空中に飛んだ時は、顔色を変えて動揺していたのに慣れたもんだ。ちょっと詰まらない。
しかし、原因は俺だ。慣れるほど空中から落としたくせに、詰まらんなんて考えるのはいかん。
自己反省にひたりながら落ちていると、氷河から声をかけてきた。
「星矢、これは……」
氷河が顔を歪めて、俺のほうに身体を向ける。
落ちている最中なので、もとより風で頬肉が持ち上がって歪んではいるが、そういう問題じゃない。あきらかに眉根を寄せて、問う顔つきだ。
気持ちは分かる。
氷河だってセブンセンシズに目覚めた身だ。感じ取れないはずがない。
満ちる老師の小宇宙を。
穏やかな、けれど、油断なき老虎の息遣いを。
「もう近い。ここまで来れば、目をつぶってたって行けるぜ」
「なら、なんで嫌そうな顔をしてるんだ?」
実際、嫌だからに決まっている。
「大したことじゃない」
「……お前は、六年の間に秘密主義になったな」
うーん、なんで、そうなる。納得いかん。
もしや、暗に話せって言われてるんだろうか。話さないぞ。
落ちていく俺達。吹き上げる風。こんなに近い互いの声でさえ聞き取りにくい。
俺達が今まで居た場所は夜明け前だった。つまり、五老峰はすでに日の出を迎えている。朝日が、優しく俺達を刺した。うーん、眩しい。
「紫龍たちが、お前は変わってしまったと言っていた」
「そりゃ、六年もあれば誰だって変わるだろ。他の奴らだって変わった。俺だけじゃないぞ」
ちらりと氷河を見やる。風で薄い頬肉が持ち上がって、髪が海藻のように上になびき、かなり愉快な顔だ。正面顔が見られない。すまん。さっきから思ってたけど、ちょっと笑いそう。
それと、その話題がまだ続くなら、後にしないか。
もうすぐ、地面に激突するからさ。ちゃんと着地しないと、クレーターができるぞ。自然破壊は良くないし、怪我なんてしたくないだろ。
両足に力をこめ、頭を持ち上げ、空中という支えるものがない中でも、全体のバランスを制御して体勢を整える。
そら、地面はすぐそこだ。老師のいる滝には、十分程度も歩けば着くだろう。
姿勢を微修正しながら、俺は着地に備えた。
■■■■■■
轟音と、冷たい飛沫が絶え間なく飛んでくる滝前の崖。
そこに静坐する小柄な老師の姿は、一幅の絵画のようだ。
タイミングから考えて、やりあっている最中かと思ったが、意外とデスマスクは行動が遅いらしい。
「そこは、用心深いと言ってやるべきじゃな」
「老師、心を読むのはやめてくれ。あと、気づいてたなら声をかけてくれ」
「ホッ、あの地響きで気づけないほど
ものすごく面白そうに笑われた。言われてみればその通りなので、赤面せざるを得ない。静かに着地できない俺が悪いのだ。いや、俺達か。
老師は、あごひげをしごいて、きらきらと光る目を俺達に向けた。
「さりとて、それほど時も置かんよ。長引かせれば長引かせるほど遺恨を残すからの。孫子に曰く兵は拙速を尊ぶと言う。内紛は消耗するばかりで何も生まん。ましてや、状況が悪化する兆しがあれば、なおのことじゃな」
どうしよう。これ講義する魔鈴さんと同じだ。長くなる。帰りたい。
ここに来た目的を忘れかける俺を、氷河が小突いた。分かってるって。大丈夫だって。どうやって遮るか考えてるだけだって。
屁でも鳴らそうかと悩み始めた俺に首をふり、氷河が口を開いた。
「老師、初めてお目にかかります。俺は氷河。
「ふむ、今年の青銅聖闘士はなかなか豊作と見える」
あれ、お前、そんな丁寧語使うやつだったっけ。 氷河の意外な側面に、まばたきながら隣の姿を見なおした。いやでも、俺だって魔鈴さんから礼儀は言われてたな。前回の記憶が先に立つせいで、気軽に声を掛けてしまうが、俺だって本来なら言葉を改めて話す、はずだ。多分。
「お前さんらは歓迎しよう。じゃが」
老師は言葉を切った。ちらり、と目線が滝を見る。滝の中か。
妙な違和感はあったんだ。俺達が上空に出現したその瞬間、誰かの小宇宙が揺らいだ。ほんの一瞬で、気のせいかと思うほどかすかなものだったが。
あれは、お前か。
―――
「そっちは駄目じゃな。見逃すのはもうやめじゃ。こそこそせずに出てこい」
「……フッ、さすがは
「あいにくと敏感肌でな。二、三日もずっと見られ続けると気になってならん」
その
滝の中から現れたデスマスクより、そっちの発言のほうが気になる。好奇心に身を乗り出す俺。
氷河が、驚きの声を発した。
「二、三日だと……!」
「うむ、隙を狙っておったのじゃろう。おかげで、こっちは寝不足気味じゃ」
「フッ、安心めされよ。眠らせてさしあげよう。永遠にな」
ああ、用心深いって、これを踏まえての言葉だったんだな。で、長引かせないというのはもしかして誘いか。俺達と話しながらも、同時にデスマスクへの言葉でもあったと。うわ、面倒くさいやりとり。寝不足にはとても思えん。
適当に解釈しながら、俺は溜息をついた。
さて、割り込むか。
「あいにくだが、眠るのはお前だぜ」
俺達が来る前に仕掛けるべきだったな。
無言で、氷河が腰を落とし、膝を曲げ、前傾姿勢を取った。戦闘態勢だ。いいね。その察しの良さ。好きだぜ。
にやりと笑って、俺はファイティングポーズをといた。
―――先手は氷河に譲ろう。
「くらえ、ダイヤモンドダストッ!」
「青銅の小僧ごときが生意気な!」
ただの青銅と思ってもらっちゃ困るぜ。
敵を撃ちつらぬく氷の
加えて、微塵たりとも油断のない氷河と、青銅と
ああ、いや、間違ってはいないんだぜ。普通なら隙だらけだろうが何だろうが、黄金聖闘士と青銅聖闘士じゃ差がありすぎる。だが、自慢して言うが、俺の兄弟はただの青銅聖闘士じゃない。
目の前で、氷河とデスマスクの互いの小宇宙が圧しあっている。デスマスクの眉根が寄せられ、小さなうめき声がもれた。
思わず、口元が笑んだ。
「ぐっ、そんな、馬鹿なあぁぁぁぁっ!」
押し負けたのは、さもあらん、デスマスクだった。
身にまとっていた小宇宙が吹き散らされ、代わりに氷河の凍気が襲いかかる。驚愕の表情さえそのままに、見る間に凍りついていく。
黄金に輝く
「よしっ!」
氷河が勝どきを上げる。
まあ待て。早いぞ。ここで終わってくれるなら、苦労はねえんだから。
見守る俺の目の前で、凍りついていたデスマスクの身体から、巨大な小宇宙が立ち昇った。同時に、デスマスクが振り払った氷片が飛んできたので叩き落とす。やっぱりか。まあ、がっかりはしない。老師だって落ち着き払っているしな。分かっていたことだ。
黄金聖闘士には、恐るべき点がいくつかある。
「舐めるな、小僧ォォォッ! 貴様の凍気なぞ、このデスマスクの薄皮一枚も凍らせておらんわッ! 黄金聖衣の防御力に、たかだか青銅聖闘士の凍気が通じるかッ!」
まず、基本的に、一発じゃ沈んでくれない。
すさまじく耐久性が高い上に、一発食らうと、次の攻撃に怒りを上乗せしてくる。本気じゃなかった場合、なぜか余計に怒り狂う。最初から本気であればそうでもないのに、だ。自分が油断していたくせに、なぜか激怒するのだ。不思議だ。
鼠だって、進退
「青銅ごときが、バカめ、俺を本気にさせおって……。後悔しろ。死の間際でなっ!」
「うっ、な、なんだ……この、不気味な小宇宙は……!」
あ、まずい、かも。
デスマスクの全身から、これまでとはまったく違う異質な小宇宙が立ち昇った。
氷河の動きが止まる。こめかみをつぅっとつたいおちた冷や汗は、本能的にそれが何なのか察知している証拠だ。
「いかんのう。積尸気を使うとは……」
老師が小さく呟いた。白髯に包まれた顔が分かりにくくしかめっ面だ。
勢いを増すデスマスクの小宇宙は、留まるところを知らない。冷たい燐光を集めた星雲の幻像。奥でゆらりとうごめくのは、死者の魂か怨念か。
―――
積尸気とは積み重ねた死体から立ち昇る鬼火の燐気のこと。
そうつまりプレセペは地上の霊魂が、天へ上がる穴なのだ。
そろそろ行くか。
そう、俺が動く寸前、絶妙なタイミングで童虎が声を上げて笑った。声音に嘲りはないが、温もりもない。ただ寂とした哀れみをたたえている。
「ホッホッホ、大人げない奴じゃのお。デスマスクよ。たかが青銅と言いながらも、そのたかが青銅相手にむきになって本気を出すとは」
「フッ、獅子は兎を狩るにも全力を尽くすものでしょう」
「ならば、最初から全力を尽くすべきじゃったな」
「私にとて慈悲はあります。聖域に十三年間、歯向かい続けた反逆者たるあなたならともかく、未来ある若き聖闘士を最初から摘み取るつもりはありませんな。私がこちらに来たのは、教皇の勅命なのですから」
どこまでも傲岸な口調だった。相手の生死を左右するのは、あくまでも己の指先だと疑わぬ者の言葉だ。
―――気に食わない。
「フッ、何が勅命じゃ。その命令を発した教皇こそ、
「それがどうかしましたか。クッククク」
デスマスクはせせら笑った。自信と力に満ち溢れる姿は、地上最強と謳われる黄金聖闘士の名に違わぬもの。
―――気に食わない。
「ホッ、なるほど、聖闘士のすべてが教皇の悪事を知らずに忠誠を誓っているかと思っとったが、お前のように教皇が悪と知りながら、敢えて仕えている者もいるのじゃな」
「正義と悪の定義など、時の流れによってまるで変わってしまうものなのだ。それは過去の幾多の歴史が証明している……」
言葉を交わしている合間にも、デスマスクの背後の小宇宙は膨れ上がり続けている。さすがは黄金聖闘士。未だ力の上限が見えない。
―――気に食わない。
「分かりますか、老師。教皇の行いも、今は悪と見えても未来においては正義とされる」
「バカ者め。真の正義はどんなに時が流れようと不変のものじゃ!」
「これ以上の問答は無用! そこの青銅聖闘士とともに……ウッ、なんだこれは!」
デスマスクの言葉が途切れた。その鼻筋を流れ落ちるのは、額からの汗だ。驚愕の表情とあいまって、ひどく滑稽だった。
何を驚く。こらえていた小宇宙を、一気に開放したくらいで。
黄金聖闘士であるお前なら、周りに何人も同レベルがいるだろう。驚く理由などないぞ。
あたりの水煙が、びゅうと音を立てて、上昇気流に従い流れていく。滝の飛沫は、落ちる前に蒸発して姿を消した。湧き上がる俺の小宇宙よ、いいぞ、もう、抑えるつもりはない。もう、抑える必要もない。
俺は怒りをこめて口の端を吊り上げた。ああ、全身からエネルギーがあふれる。満ちていたものが、
「熱い、だとぉ。この距離で。小宇宙が可視化されるばかりでなく、これだけの熱を! 貴様、本当に青銅か!?」
どいつもこいつも、青銅だの何だのとやかましい。
俺の眉毛がきりきりと逆立った。
俺は俺だ。そして、
ああ、腹は立つが、土産に持って帰るって約束したからな。なるべく平和的に行こう。念のため言っておくと、聖闘士の平和的というのは、サシの勝負で一発ぶん殴って力づくという意味だ。うん間違いない。
手加減は必要ないだろう。だって黄金聖闘士だぜ。ちょっと本気でぶん殴るくらいでは死なないさ。
それにしても、よく我慢した。氷河に先手を譲るなんて、俺も大人になったもんだ。
でも、もういいよな。
「よくもまあ、そんな不確かなもののために戦えるな」
「なんだと」
「未来において今の悪が正義になるというなら、更なる未来ではまた悪になりかねない。よくもそんな不確かなもののために命をかけて戦うものだと言ってるんだよ」
だって、そうだろう。今、悪と呼んでいるものが正義と呼ばれるようになるのなら、今一度悪と呼ばれないなんて誰に言える。
老師の仰るとおりだ。正義とは不変のもの。絶対に変わらないもの。そうでなくてはならない。そうでないもののために、命をかけて戦うほど―――安く、ないんだ。
確かであると信じられもせぬ脆さでは、正義の名を冠するに足らぬ。悪にせよ正義にせよ、真にその名で呼ばれるものは、もっと圧倒的に人を呑み込んで塵も残さず焼きつくす。
今は悪でも未来においては正義、だと?
ちゃんちゃらおかしい。笑っちまうぜ。
「過去や未来で、名前が変わっちまうような粗悪品を正義と呼んじゃあ、正義が泣くぜ」
「言わせておけば……!」
「何を怒る。自ら悪だと認めているものを」
「そうとも。だが、貴様ごとき
ギリギリと噛み締めた歯の間からこぼれた言葉に、俺はまばたいた。
ほう、安くない、と言ったか。この男。へえ。
いいだろう。お前の値段を見せてもらおうじゃねえか。
ああ、ついでに、聞いてみたいことがある。時代の流れで、正義も悪も変わる、と。善も悪も価値観の変化によるものに過ぎないと言うならば、なぜ。
「なあ、なぜ、苦しみはいつの時代もあるんだ。正義や悪は移ろうものだと言うのなら。ならば、なぜ、奪われる苦しみが、殺される痛みが、傷つけられる悲しみだけが変わらない。痛みや苦しみを、救うためでないのなら、正義は何のためにある」
なあ、俺はさ、たとえどんな大義名分があっても、慈悲のない正義ってやつは、クソだと思うんだよ。それは悪と同じ罪を負っている。本当の意味で、誰かを温めたり、幸せにしたりはできない。
虐げられる者になったことがないだろう。
奪われる側になったことなどないだろう。
泣き喚き、もがき苦しみ、それをさらに踏みにじられる苦痛が、分からないだろう。
強者の無理解は、不寛容となり、やがては、理想の強圧に変わる。
―――慈悲をともなわぬ正義は、悪と同じように人を
たとえばだけど、前回、沙織さんが、光政のジジイを、嫌わないでくれと請わなかったら、果たして俺はギリシャまで本当に付いていっただろうか。
たとえばだけど、沙織さんが、財産も名声も安楽な暮らしも命も、何もかも捨てて、運命に殉じようとする姿を見なかったら―――きっと、俺は、ギリシャへ行かなかった。
俺を動かしたのは、沙織さんの“命令”じゃない。
ただ、そこに、自己犠牲の慈悲を見たからだ。それを正義だと思ったからだ。それを守ると決めたからだ。
「お前の、正義は、何のためにある。安くないというのなら、その価値はどこにある。誰のための力だ。答えろ、デスマスク!」
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