このバカ!
バカ、という言葉が今の俺以上に当てはまる人間がいたらお目にかかりたいもんだと激しく落ち込みながら、俺は無言で間合いを取った。ひしひしと嫌な予感がする。
「それとも、横槍を入れる無作法者には名乗れる名がないか。よかろう。何者でもかまわぬ。己の行いに相当する報いを受けた後で、懺悔はするがよい」
「その言葉はそのまま返すぜ。最初に邪魔したのはどっちだよ」
反射的に言い返しながら一輝のほうへ目をやる。
シャカから放たれる当初とは比較にならぬ重圧に、片膝を地についてようやく持ちこたえている……俺が来なかったらどうなってたんだ? それともこれは俺が来たせいか?
「一輝、増長慢もいい加減にしとけよ。黄金聖闘士を舐めすぎだ」
「くっ!」
悔しげに歪んだ顔で、それでも俺の言葉を否定はしない。
首しか上げられず、ただ耐えるしかない中では無駄な強がりを張る余裕もないのだろう。
だが、心意気は折れちゃいない。
「ならば、お前なら届くか!」
激情に震える声が悔しいと、屈辱に燃える目が無念だと告げている。
何とも答えにくかった。嘘は得意じゃないからだ。
俺が酢を飲んだような渋い気分で沈黙すると、シャカの獄熱の視線が激しさを増す。おい、俺はまだ何も言ってないぞ。
「フッ、分に余る自惚れは自らを滅ぼすのみと私手ずから教えてやろう。私に盾突いた愚をその身をもって知るがよい。祈れ。神仏の加護あらば生き永らえることも叶うやもしれぬぞ」
長ったらしい。ああと、今から力いっぱい殺すつもりでぶん殴るから生き残れるかどうかは運次第と思え、ということか?
「よく言うぜ。その自惚れ者にヘッドマスク落とされたのは誰だよ」
分かりにくい物言いの言わんとするところを訳出しながら、売り言葉に買い言葉で言い返す。どいつもこいつも人の話を聞かない奴らだ。
聞かないどころか、話させようともしないあたり、お前らそっくりだぜ。特に、俺が何をしても怒り狂うところとか、気に食わない物事は力ずくで解決しようとするところとか。
げんなりする俺にかまわずシャカの双眸がすっと細くなった。高まる小宇宙。しぶしぶ俺も構える。
そして、
目線が合った。
「覚悟せよ!」
「ったく!」
大きく高まった小宇宙が引き絞られる。強大な力が
海面そのものが低くなった錯覚すら起こさせる、と言われる津波直前の引き波―――大海に満ちる海水がはるか沖へと退く桁外れな光景にも似た力の流れ。
そして湧きあがる、それは始原の力。本来ならばすべての生物が、否、すべての物質が普遍的に持つ力。生命エネルギー。ビッグバンの
両の手に収縮する。放たれる。
拳に集められる。速度に変わる。
「天魔降伏!!」
「ペガサス流星拳!!」
逆巻く大気。わななく大地。
俺の頬を小石がかすめて飛んでいく。シャカの黄金の髪が、激しくたなびいた。
ううむ、どうして聖闘士には髪を伸ばす奴が多いのだろう。
古代の戦士は、敵の剣より首を守るために髪を伸ばしたと言うが、聖闘士の闘いは小宇宙によって原子を砕く闘法だ。
カミュや氷河に代表される氷の聖闘士のように、原子を凍らせる闘法もあるし、精神攻撃に至っては肉体すら使わない。
よって、髪を伸ばしても無意味だし、そもそも首を守るだけならあんなに長い必要はないと思うのだが、黄金聖闘士のほとんどが腰にも届くような長髪だ。
今、目の前にいる男ほどの長さは珍しいが。
聖闘士としての位が高くなればなるほどその傾向が強い気がする。
まさかとは思うが、代々の
「むうっ!! 互角……いや、
互いの小宇宙が見えぬ火花を散らすようにせめぎあう。
聖闘士と聖闘士の技がぶつかり合ったなら、勝敗を分けるのは小宇宙の差。
眉根を寄せているシャカの髪の一房が耐えかねたようにちぎれ飛んだ。
それも、髪の長さによって、変人度が増している気がする。
そりゃ、アイオリアだって理屈にならん理屈を堂々と押し付けるタイプだが、あれは力持てる者の傲慢さってやつだろう。
それにアイオリアは強者の寛容さと逞しさ、度量を持ち合わせてるからいいんだ。
シュラだって、紫龍から聞いた話じゃ、偽教皇に加担していたとは言えまともだったし。ああ、デスマスクはまごうことなく悪趣味野郎だが。
俺の思考がだんだんずれていくにつれて、シャカの形相も険しくなる。これはもう、大人しく帰ってくれる希望は捨てたほうがよさそうだ。
俺は遠い目になった。……何だってこんなことに。……こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかったんだ!
「くッ、ありえんっ! 聖衣もまとっておらぬというのにっ!!」
神に一番近い男にしては諦めの悪い奴だ。それを言うのは二度目だぞ。
しかもどうやら本気で怒っている。仏陀の生まれ変わりと言う割に短気だな。掌底を入れてしまったのはわざとじゃないってのに。
だが、考えてみれば
神のような男と称えられたサガだって……。神って一体……いや、考えるのはよそう。古来より諦めは心の養生と言うしな。俺はさらに遠い目になった。考えても仕方のないことがこの世には多すぎる。この場に俺がいる事実も含めて。
「ペガサス流星拳ということは、そうか……先日授位されたという例の!?」
拮抗している小宇宙。
だが、このまま行けば俺がシャカをじりじりと押し切るだろう。
このまま大人しく帰ってくれればそれに越したことはないんだが、多分、と言うか絶対に、無理だろうな。
さてはて、どうしたもんか。
俺は途方にくれて、シャカの顔をじっと見つめた。
感情の読みにくい君子然と整った顔。憮然とした表情がよく似合っている。
思い浮かぶのは最後と知りつつ涙をこらえて見送った別れの時。
神話の時代からともに戦ってきた兄弟のような視線で、惜別の情を微笑にこめ、愛と正義を俺達に託して逝った気高き姿。
嘆きの壁の前、俺の命を惜しみ、代わりに己が命を賭して嘆きの壁にその小宇宙をぶつけ傷ついた姿。
ありありと脳裏に去来する輝かしき思い出―――ここで終わっとけば良かったんだが。終われればセピア色の美しい思い出で済んだはずだったんだが。
俺は眉根をよせた。生憎と、悪い経験のほうが、どうしても鮮明に記憶に残るものらしい―――。
『―――青銅聖闘士の
俺は思いださなくてもいい余計なものまで思いだしてしまったのだ。
最後に思いだしたせいか、この記憶から湧きあがる感情が一番強い。単純で明快、だからこそ強い―――すなわち怒りだ。
あの時の借りをちょうどいいから今返すか?
「ならば、まさか……っ!」
考えてもみろ。
あの時、大人しく通してくれていれば、俺達は無駄に消耗せずに済んだ。それ以上に、何であのとき、
聞こえてくる一輝の問い。答えるシャカの声。意識はなんとかあったものの、宝瓶宮の床に倒れ伏し指先の一本も動かせなかった俺。それほどに圧倒的な差が、前回の俺とシャカにはあった。
『―――この宇宙全体の真理は無常ということだ。完全なる悪、完全なる善などこの世には存在し得ないのだよ』
確かにこの世には絶対の正義も悪もないかもしれない。だが、だからこそ俺達聖闘士は
世の無常がどうしたってんだ。そんなものが
考えれば考えるほど小さな怒りが、払っても払ってもまとわりつく虫のように俺を刺す。
「お前は、かつて二百五十年前―――っ!?」
それに、十二宮に一度入ってしまえば、黄金聖闘士達を説得するのは不可能に近い。
教皇の間に正規の手段以外で―――有体に言えば力ずくで通ろうとしている時点で、否応なしに俺達は彼らの敵だ。
逆に考えれば、十二宮に入る前に説得してしまえれば素通りできるだろう。
前回、ムウの白羊宮を通り抜けたように。
アイオリアは幻朧魔皇拳で洗脳されてしまっていたが、それさえなければ通してくれたに違いないしな。
大人しく帰ってもらうのが無理ならば、逆にそれを活かせばいい。ここでシャカを説得してしまえ。
そうとも、禍転じて福となすだ。これはチャンスだ。絶好のチャンスなんだ。
聖闘士にとっては、言葉より拳のほうが説得力を持つ。さっき俺はこれを再認識したばかりじゃなかったか。
段々と希望がわいてきた俺は、シャカの顔を見つめながら、大きく笑みを浮かべた。
何かが俺に告げている。
―――さあ心おきなく
「なっ! 小宇宙がさらに高まって、―――これはっ!?」
「あの時の借りは返させてもらうぜっっ! シャカ!!」
眼も眩む閃光。巻き昇る闘気の渦。大地をえぐる烈風。
「あの時だと―――ッ!?」
危うかった小宇宙の均衡が破れた。否、俺が破ったのだ。
驚愕の表情を張り付かせたまま、シャカは光の矢になった。
遅れて、崖崩れのような迫力ある轟音が耳に届く。
「
あ、間違えた。違う違う。
「そうじゃなくて、ああと……や、やりすぎたか?」
岩石だらけのデスクィーン島の地をえぐる軌跡。シャカの跡だ。先は噴煙の中に続いていて見えない。
数秒、待ってみる。
「……おい?」
シャカ……まさか……いや、黄金聖闘士がこれくらいでどうにかなるわけは……ない。ないったらない!
だ、だって、今のは俺は押し返しただけだし!
吹っ飛んだのはシャカ自身の力だ。俺自身の力は微々たるもんだ。多分。
聖衣も着てるし。聖闘士ってのは概して丈夫なもんだし!
―――そう、聖闘士の肉体が常人と同じであると言うのは、絶対に間違いだと思う。
同じだったら、大地を殴ったら反作用で拳のほうが砕けるはずだし、例えば真冬に東シベリア海に一時間以上ももぐり無事だなんてことありえない。人間の身体は、零度以下では凍るようになっている。これはもちろん例えであって、誰か特定の人間を指して言っているわけじゃないぞ。
聖闘士なんて、半分くらい人間を捨てているような気もするが、物理法則からは逃れられない。
ふと、二百年以上も前の肉体をそのまま維持している黄金聖闘士―――いくら
ちらり、と視線が揺れた。
逃れられない……はずだ、よな?
追及すると、何やら至ってはならない場所に行きそうな思考に頭を振る。疑うな。疑った時点で何かがやばい予感がする!
そもそも、原子を砕くと言っても、原子を砕くのは小宇宙をまとった拳だぞ。攻撃力だけが上がり、防御が変わらないと言うのは理屈に合わない。
攻撃する際には武器たる拳に小宇宙をまとうが、防御する急所にも小宇宙をまとっていないはずはないのだ。
俺が相手の顔を殴るってことは、逆に言えば、俺は相手の顔に拳を殴られている、とも言えるんだからな。我ながらちょっと無茶な例え方だが。
要するに何が言いたいかと言うと、攻撃が強力すぎるので目立たないが、防御だって小宇宙によって強化されていなければおかしいってことだ。
「……シャカ?」
噴煙の奥を見つめながらそんなことを考える俺。一向に姿を見せない吹っ飛んだシャカ。
現実逃避だ。分かっている。
証拠に髪の根元から冷たい汗が垂れてくるのを抑えられない。
……頼むから、生きてろよ!?
「なあ星矢、あれ死んだんじゃないか?」
俺の甘い希望を軽く打ち砕く一輝。
返す俺の声は、これ以上ないほど苦く脱力していた。
「……言うなよ。考えないようにしてたんだぜ」