雪が降り積もり、枯れた林を白く染めあげる。
屋根の端からぶら下がるように垂れる氷柱が日に日に大きくなり、質の悪い黄ばんだ硝子は室内との温度差でヒビが増えていく。
レレは自分の息で白くなる硝子を何度もふきとり、ひたすらに外を眺めていた。
だが、それは景色を眺める人間の瞳ではない。心配や不安と言った感情がありありと映し出された瞳だ。
食事を運んできたケナードがそんなレレを見て溜息をつく。
「気になるのなら見にいってやればいいだろう?」
すでにレレがここに来て半月ほど、凍傷はほとんど治っていた。完治は時間の問題になり、安静にして置いてほうがいいとはいえ、この程度の雪ならば靴さえ履いていれば外に出ても大丈夫のはずだ。
ケナードの言葉にレレはビクっと体を震わすが、すぐにムッとした表情を作る。
「……見にいくって何を」
「そこまで言わすな。あの竜のことだろうが。もちろん、先に飯を食ってからだがな」
「な……なんで、レレが」
「心配なんだろ?」
「そんなこと……ない」
図星をつかれて驚いた表情を見せるレレ、ケナードは我関せずと、スープを皿に移し食膳を並べ始める。
レレは顔には出していないつもりなのだろう、苦し紛れの憎まれ口で逃げようとするが、彼女が"にぃ"と呼ぶ竜のことで悩んでいるのはケナードにはバレバレだった。
二人で食卓につき、干し肉にかぶりつくレレを見ながらケナードは思いを巡らす。
彼の長い人生経験の中でもこれほど中途半端に育った子供を見たことはない。この位の年の子ならばと考えたこともあるが、それとは全くベクトルが違った。
それもそのはず、レレは今まで言語を学ぶことはあっても実際にそれを使用する機会はなかった。
本来であれば人が言葉を覚えようとするのなら、他人とのコミュニケーションを通じて覚えるものだ。けれどレレは他人と他人のコミュニケーションを見て言葉を覚えた。
そこには一から他人との関係を作るプロセスが足りていないのだ。
"かー"と話したいと言う強いな思いだけでレレは言葉を覚えてしまった。それは、子供特有の柔らかい脳と尋常ではない集中力を持ち、年単位で行われたレレの努力と忍耐力によって成し遂げられたもの。
けれどそれが今は裏目に出てしまっていた。圧倒的なコミュニケーション不足。
それ故に、レレは初めてした"口喧嘩"の収拾する方法をしらなかった。
いつもならば、人見知りや内気と言ったものとは無縁のレレだが、それは、言葉を知らないからこそ意見のすれ違いや衝突もおきなかった状況に慣れきってしまったからにすぎない。言ってしまえば全てがうやむやになっていた。
けれど今回は違う。
相手に自分の考えていることがはっきりと言葉で伝わる。そして、伝えなければならない。
かつてレレの言った「死ね」と言う言葉は決して軽はずみに出した言葉じゃない。それだけに重みがある、だがそれ以外にも色々と悪口をいった。
レレはその事がずっと気に掛かっていた。
もしかしたら"にぃ"を傷つけたのかも知れない。謝ったけれど許してくれないかも知れない。
けれど、なによりも、
"にぃ"と話してしまえば、また口喧嘩になるかも知れない。
それが怖くて、どうしてもレレは"にぃ"と会う踏ん切りがつかなかった。
結局、レレは初めて手にした言葉と言うコミュニケーションツールを完全に持て余していたのだ。
ケナードはそのことについて理解していた。だが、あまり話そうとしない。
先程のようにレレがぼーとしていれば軽く声を掛けるが、積極的に彼らの仲を取り持つつもりはなかった。
レレが外に出れば竜は反応する、だが、竜が近づこうとするとレレの方が逃げてしまう。結局のところレレが本気で"にぃ"と仲直りをしたいのならば彼女から動くしか無い。
これも一つの勉強だろうと、ケナードはレレと竜の諍いに口を挟まないことにしていた。
老齢に差し掛かったケナードは元より寡黙な性格をしており、基本的に傍観主義者だった。誰かを強く拒む事はないが受け入れる事も、また、ない。
もし、レレがただ行き倒れていたとしたら。そこに恩人がいなければ、きっと見捨てていただろう。そんな事を考えながらスープを口に含んだ。
二人とも食事を済ませ、ケナードは皿を洗い始める。レレはそれにひょこひょこと付いて行き、後ろからその様子を伺う。
レレは目線で何かを手伝わせろと問いかける。
ケナードはそれを黙殺して水の入った樽から水を取り出し、食器を水につけてたわしでこすっていく。
彼がレレを無視するのには理由がある。
それは、当初仕事を手伝いたいと言ってきたレレに、少しくらいと言う気持ちで皿洗いをやらせてみたところ。
小気味の良い音と共にレレの両手に皿が半分ずつ持たれていた。
教え方が悪かったと反省を生かしたケナードは、割れにくい鍋を洗わしたところ。
いつの間にか、鍋を覗いてレレが底を探していた。
三度目の正直。きっと鍋も皿も古かったのだろうと、レレに念入りにやり方を教え、一番小さく、手間の掛からない木製のスプーンを洗わしたところ。
ケナードの目の前でスプーンはスティックに早変わりした。
その後も何度か再戦を試みたが、レレの左腕は彼女が少し力を入れだけで、かなりの握力を発揮する。さらに、レレの大雑把な性格も影響して細かい作業に向いていないのだ。
「……そんなに暇か?」
「うん」
「なら──」
そして、ケナードが出した答えは、レレが手伝いたいと言ってきたときは、家事より力仕事を頼むことに落ち着いた。と言ってもそこまでの重労働を病人兼、居候の少女にやらせる気はなかった。
ケナードに薪割りを頼まれ、レレは一度嬉しそうな顔を作るが、すぐに何度か目線を泳がせ渋々と出て行った。
薪割りについてはレレだけでも何度かこなせており、ケナードが心配する必要はない。
だが、レレの表情が優れないのは手伝いが嫌なのではない、むしろ、やりたかった。しかし、レレの気乗りしない理由はその薪が置いてある場所の近くにはいつも"にぃ"がいるからだ。
ケナードは台所の隅に隠していた薪の束をごっそりと取り出しほどいてから一つ一つ暖炉に入れていく。
その上に小さな湯を沸かすための器を置いて熱し、彼女が帰ってきた時のために温かいものでも用意しておく。
暖炉の火はゆらゆらと揺れ、辺りを赤く照らしだした。
「結局は自分で解決するしかない……」
明るい炎とは対照的な黒く大きな影が一つ、ケナードの後ろで踊る。
漏らすような吐息が小屋に小さく響いた。
レレが来てすでに半月ほどたつ、すでに一番ひどかった凍傷は改善に向かい。もはや、ケナードが直接治療しなければいけないような怪我はなかった。
最初は酷かった礼儀作法もレレは意外なことに面白半分で吸収してしまい、一市民として暮らすのなら何も問題はないレベルには至っている。
それでも、ケナードはレレに出て行けとは言えなかった。
ずるずるとレレと一緒にいることを好んでいる自分がいることに気づき、薄く笑って首を振る。
レレは素直で真っ直ぐだ。そして、なにより力がある。
この家から出ても充分に一人で生きていける。
一人ならばだ。
市政で暮らすならばあの竜はレレの足を引っ張ることになる、左腕もそうだ。
ケナードはレレに聞いた話から水守が何を思ってレレに左腕を与えたのかは理解した、けれど結局のところそれは異質な暴力でしかない。
不要な力は争いの種になる。
この戦乱の世、レレの力を戦争に利用しようとする人間はごまんといるだろう。知れば戦争の道具として戦場に駆り出される。
それを拒む事の難しさをケナードは身に沁みて知っていた。
けれどもし、それとは別にあの竜と共に暮らすならば、そんな荒事とは無縁でいられる。
だが、それは同時に人との交わりを断つと言うことだ。
異性を愛することも、同じ悩みを抱く友達を作ることもなく、自然の中で生きて死ぬ。
人間にとって、それは孤独だ。
たとえあの竜が共にいようと、レレが暮らしてきた今までのように、種族という壁が変わることはない。
きっとその事を胸に抱えたまま、命尽きるその時まで考えているのかもしれない。
どちらの道もレレには正しく、間違っている。
そもそもが水守に育てられた人の子だ。故郷を失った今、辛くない道など、どこにもない。
ここ何日かで数年分のため息を吐き出した、ケナードの表情は何かを決心していた。
*
レレが外に出ると、今までの温かさが消えて底冷えする感触が全身に襲いかかる。雪はほとんど止んでいたが空の青さは濃い雲で埋め尽くされていた。
大きめの古いコートにマフラー、手袋、長靴の完全防備でも寒い事には変わりはない。
ケナードから貰った手袋を外して口に咥え、両手を頬に付けてみる。
右手は温かさを残していて、冷たくなっている頬を温めてくれた。
左手はひんやりとして、冷えた頬と同じくらいの温度。温めてはくれないけれど、ここに"かー"がいると思うとレレの心は安らいだ。
レレはケナードの人柄を好いている。勿論、恋愛感情などとは程遠い目上の人に対する憧れのようなものだ。
自分よりたくさんの物事を知り、それを教えてくれる相手。それはとても新鮮なことだった。
「もう少し街に出れば皆やっていることだ」とケナードは言うが、レレにとっては食事一つとっても画期的で斬新な食べ方だ。
そんな些細な事一つ一つにレレは目を回した。
だから、人が嫌がるような面倒なことでも自分でしたがる。
皿洗いも面白そう、薪割りも面白そう、どれもこれも勉強ですらレレの目には輝いてみえた。
息を大きく吸うと、白い息を吐いて心を落ち着かせる。まず、レレは"にぃ"を探す。
"にぃ"の背丈は背の高い針葉樹の2倍ほどもあるので、レレはすぐに見つけることができる。
後ろの蔵から、こそこそと斧を取り出して"にぃ"に見つからないように薪を置いてある場所に向かう。足音を立てないようにしても、ザクザクと雪が潰れる鈍い音が地面に響いた。
どうせ薪を割る音でバレてしまうのだが、レレはできるだけ"にぃ"と顔を合わせたくなかったのだ。
薪を用意し終えて、いざ振りかぶろうとしたところで、レレは何かに視線を向けられているのに気づいた。
半ば予想していながら、ゆっくりと振り返ると、やはり"にぃ"がこちらを見ていた。
互いに何もいえず固まってしまう。
先に切り出したのはレレの方だった。動じていないと言うようにそっけなく口を開く。
「何か……用?」
「いや、……特にない」
ここにきてからレレが"にぃ"と話したのはほんの数回、その過半数がこの応答で始まり、終わっている。進展はしないが、後退もしない。
現状維持を確認するための会話。
振り下ろした斧が薪に当たり、小気味の良い音だけが雪に沈んでいく。
気まずさを誤魔化すためにレレはできるだけ手早く作業を繰り返す。
無事、最後の一本を叩き割る。
「そ……それじゃ!」
レレは何か声をかけられる前に飛んだ薪を拾い集め、走って逃げてしまう。
竜はまた声をかけれず、レレを見逃してしまう。
結局、その日も仲直りするどころではなかった。
けれど、思わぬところから切っ掛けが出てくる。それは、夕食を先に食べ終えたケナードがパンとホワイトシチューを頬張るレレに向かって言い出した。
「明日は来客がくる。あの竜がいると相手が驚くだろう、悪いが昼から夕日が沈みだす頃まで連れ出してくれ」
あまりの不意打ちにレレは思わずが吹き出すほどの驚いてしまう。
ケナードの怒りに触れ、説教をくらいながらもレレは何度も抵抗を試みる。
「に……"にぃ"だけ身を隠していればいいんじゃないの!?」
「ダメだ。今回の相手はそれなりに身分の高い人間が直接来るらしい。何を考えているのかわからんが、お前にはその左腕のこともある。会わない方が賢明だろう」
その後も僅かな抗議をしてみたが、レレは自分のためだと言われるとしぶしぶと引き下がる他なかった。
結局その日、レレは夕食が済んでからもぼーとして、眠ることができなかった。色々なことがレレの頭の中で回って、どうしたらいいかわからないのだ。
徹夜で屋根を支える柱を見ていると、山から朝日が登るのを見届けてしまい。レレは深い溜息をついてしまう。
レレが顔を洗いに外の水瓶まで行くと、蓋を取る。中には氷が張っていた。置いていた柄杓で何度も氷をたたき割っていく。
氷が小さくなると水をすくい、ヤケになって一気に飲み干した。底冷えする冷たさがなんとも言えない感じがする。
見上げるとその日は久しぶりに雲の隙間から太陽が覗いている。なのにレレの心は一向に晴れようとしない。
ぼーと見上げているとレレの頭に箒の柄が落ちてくる。
その先にはケナードが立っていた。
「その水は飲むもんじゃない。顔を洗うもんだ」
ケナードに言われて柄杓の中に残っている水を見て、少し考え込む。
「……でも、これはこれで」
「だから飲むな!」
その後、客が到着する前に今日中の仕事を終える必要があるので、ケナードとレレは急ピッチで行動する。
洗濯、掃除、薪の補充、見栄えを気にするケナードは普段しないことまで手を伸ばす。
そして、昼飯を食べ終えるとレレはケナードに引きずられるように"にぃ"の元に連れていかれた。ケナードの後ろに隠れるように立つレレは無理やり目の前に押し出された。
「レレ、お前から説明しておけ、ワシは残った用意をしておく」
「でも、じっちゃ……」
「でもじゃない、丁度いい機会だ。お前たちできちんと話し合うがいい。……これからのこともな」
ケナードは"にぃ"にあまり近づこうとしない。
その距離がケナードと"にぃ"の距離。人と竜の距離。
レレにはその距離がとても遠く、短く感じた。それでも今、レレはケナードが引いた線の内側にいる。人間の側の線だ。
"にぃ"はケナードが去るのと共にレレに真っ直ぐに目を向ける。"にぃ"はケナードの言葉を話すことはできないが聞き取るだけならばできる。どういうことかレレに説明を求めているのだ。
緊張しながらもレレはゆっくりと口を開く。
「……今日、なんか客人が来るからどっか見えないところ行ってろって」
「成程、しばらく身を隠していろと言うことか。ならば……川向こうまで行けば問題ないだろう」
「…………」
「不服か?」
無言で首を横に振り、レレは"にぃ"の方に向く。
「連れて行ってほしい所がある」
竜が黙ってしまう。なぜなら、レレの顔はあたかも初めて出逢ったあの日の死を覚悟した表情に似ていたのだ。
「かーの所に連れていって欲しい!」
真剣な表情で"にぃ"を見据えるレレ。
白い世界にちっぽけな背丈で立つ緑の髪と瞳をした少女、そしてそれを見下ろす神々しい竜。
竜はただ、吼えた。
「貴様はまだ死にたいとぬかすのか!?」
「……違う! レレはただ、もう一度、かーに会いたいだけ!!」
「会ってどうなる! 水守は死んでいるのだぞ!? 第一、あの山を登るのはもはや無理だ
「だから、にぃに頼んでる!」
そこで、"にぃ"はうっと声を鳴らす。
「……我侭って言うのはわかってる。……でも、もう一度だけ、最後に会いたい。……ダメ……かな?」
俯いて泣きそうになるレレ。その姿に思わず葛藤してしまう竜。唸りをあげ竜は考え込む。
あの山は深い雪と雲に閉ざされている。水守が抑えていた力がなんらかの影響を与えているのだろう。
前よりもさらに酷い暴風と、豪雪に襲われるはずだ。
だが、初めて頼られた。妹に。
例え種族が違うとはいえ、引け目も愛着もある。こんな無茶でなかったら二つ返事で答えたはずだ。
できれば危険なところへはやりたくない。だが、この機会を逃したら二度とレレと仲を取り持つことができないかもしれない。
「……にぃ」
涙を浮かべながら見上げる人の子に対して、苦悶する竜。
けれど、結果は変わることはなかった。
「やはり、ダメだ。危険すぎる」
竜がそう言うとレレは少し困ったように無理矢理作り笑いをした。
「そっか……レレが無理いった」
あまりにもあっさり、その違和感を竜は感じ取った。
レレはそのまま走るように竜の隣を過ぎ去ろうとする。
「……待て」
丁度、すぐ羽の下にいたので翼を下ろされてレレは通れなくされてしまう。
「どこに行く気だ?」
「……山」
竜の顔が呆れたように歪む。
「…………そこまでして、行かなくてはいけないのか?」
「うん、できればにぃと一緒に行ければ良かったけど、仕方がないからレレひとりで行く」
竜は天に向かって吠える。それは、苛立による咆哮ではなく、心の中に潜むもやもやしたものを吹っ切るような叫びだった。
「わかった。連れていってやる!」
「本当!?」
「竜は嘘はつかん!」
ヤケが回ったかのように叫ぶ"にぃ"に、レレは嬉しそうに抱きついてしまう。
「乗れ! 飛ばして行く」
「うん!」
レレは嬉しそうに体をよじ登り、頭のところにちょこんと座る。
「高い! かーの方が高かったけど、にぃも高い!」
「まったく……我の頭の上に乗るとは、いい度胸をしている」
嬉しそうにはしゃぐレレに今日、何度目かの諦めの言葉を吐いて、竜は翼を大きく広げる。
二度、三度と風を舞起こし、一気に空へと飛び上がった。雲の切れ間から除く光が飛びゆく竜を照らしだしていた。
その様子をケナードはずっと木の陰から見守っていた。
老いを感じさせないしっかりとした物腰で小さくなる影を見送る。
「……行ったか」
ケナードは誰に伝えるわけではないが、そう呟いていた。
今にして思えばケナードの選択は間違っていたのかもしれない。
レレが手伝いたいと言ってきたときは、いつも竜との接触が空振りになった時。レレはケナードを手伝うことで、竜を避けていた。
それを会って直ぐのケナードが察すると言うのには無理があった。
だから、こんなに遠回りになってしまったのだ。
ケナードはレレたちを見て少し安心したが、彼自身いつまでも他人の心配してられる立場では無かった。
今日来る客人。
「白の国、姫を支持する無敗の宰相……か」
その噂はこんな山奥に隠居したケナードの耳にまで届いていた。
神算鬼謀にして、冷徹無比の英雄。
元は極少数の軍しか持たない白の国の姫、クリスティーナ・ドライグを補佐し、わずか数年で一国に勝とも劣らない派閥を作り上げたその功績と手腕は白の国内部だけでなく、赤、青、黄、など力の強い純色の国にまで高く評価されている。
けれど、その容姿や出自に関する噂は様々で、美しいエルフの少女から一際大きな巨人族の男まで、まるで煙におおわれたように特定ができない。
だが、戦場に宰相が現れると同時に立てられる赤に染まった十字の旗は、勝利の宣言と同義と叫ばれるほどの功績をあげていた。
常に自軍より数倍も多い大軍と戦いながら未だに敗北を知らない。
「そんな、英雄がわざわざ何のようだと言うんだ」
今、白の国の姫が率いる王族派は黄の国との交渉をするために忙しいだろう。
黄の国が王族派を支持しだした現在、この宰相が目をつけないはずがない。素人目にも公爵家を倒す絶好の機会だ。一秒でも多くの時間が欲しい頃合いだろう。
だというのにその希少な時間を割いてまで、わざわざこんな僻地まで足を運んでいるというのだ。
その行動にはそれだけの理由があると判断したのならば、物見遊山という事はないはずだ。
「まぁいい……会えばわかる……か」
薄くなった頭をかきながら、小屋へと戻る。
ケナードは面倒事を予感しながらも回避する手立てを持ち合わせていなかった。
「……年を取ると独り言が多くなってかなわんな」
*
突き刺さるような豪雨に抗いながら空へと駆け登る竜。
視界は雲に覆われ、凄まじい雷があたり一面に立ち込めている。上空へと登るほど雨は雪へと、雪は氷へと変化していく。
レレは目など開ける余裕もなく、必死に竜にしがみついていた。
「もう少しで雲の上に出る! そうすれば、かなりマシになるはずだ!! 大丈夫か!?」
「だぁ! い! ……じょ! ……ぶっ!!」
レレは途切れ途切れでも答えるため、必死に口を開くがそのたびに雨粒が喉の奥に突き刺さっていく。
帽子もマフラーもすでに飛ばされ、かじかんだ右手はすでに感覚を失って久しい。だが、左腕だけはこんな悪状況でも力強く竜のたてがみにしがみついていた。
竜はレレの限界を感じていた。
けれど、それはレレだけに言えたことではない、むしろ、実際に飛んでいる竜の方が疲労していた。
酷使しすぎた翼は幾つも小さな傷がつき、背中には雪が積もり始めている。
風が吹き荒れているせいで、真っ直ぐに飛ぶことが難しい。
「……今なら、まだ引き返すこともできるぞ!?」
それが一番楽で安全な方法。
けれど、レレがその道を選ばないであろうことは予想がついていた。
「いぃぃぃ……やぁぁッ ダッ!」
もはや、レレの意地。
それだけでこの地獄のような寒さを耐えている。
「おぉ……ねがっ、い! あ、と。……少し」
レレの瞳は格好とは裏腹に強い思いを宿していた。
それに後押しされるように竜は空へと登っていく。そして厚い雲を突き破り、雲の上に飛び出した。
今まで押さえつけていた深い雲が反射して光り輝き、雲海が地平線まで連なっていた。
その光景にレレは思わず息を飲んでしまう。
「……綺麗」
自分があまりにもちっぽけに感じる瞬間。
圧倒的な光景に目を奪われ、自信を見失いそうになるほど自然に吸い込まれそうになる。
竜は何も言わないがレレの呟きに無言で首を縦に振った。
だが、あまり長くはこの高度を維持することはできない。竜は風の流れからできるだけ山の状態を確認し、ある程度の目処をつけると、レレに用意はいいかと聞く。レレは無言で頷いた。
そして、雲を羽で掻き分けるようにゆっくりと降りて行く。
速すぎれば山肌にぶつかるかも知れないからだ。
暗雲を越え、豪雪を越え、暴風を越え、空を越えていく。
やがて、レレは薄目を開けている中、雪で埋れたそこを見つけた。
間違いない自分の家。
「にぃ!!」
自分から声を出したレレの声に反応して、すぐに竜も気づき、風に乗りそこへ近づいていく。途中で何度も体制を崩しそうになりながらもなんとか体制を整える。
レレは振り落とされないようにしっかりと左腕で掴んでいた。
山肌に大きく開いた横穴、埋れた雪を突き破るように竜はそこに降り立った。
空気が澄み、まるで今までの喧騒が嘘のように小さくなる。
その中は、雪で覆われていた。水竜の結界が弱まり、前に見た時よりも雪が積もっている。
白く降り積もった雪、枯れきった草木。
そして、その隅、そこに"かー"が凍ったように眠っていた。
死んだ時と変わらない美しさを未だに保って。
レレは竜が足を着けると同時に飛び降りた。
下に積もった雪にズボっとはまってしまう。腰を落として後転するように引き抜いて起き上がる。
そして、真っ直ぐに"かー"の元へ向かって歩きだす。レレは"かー"の目の前につくと、その冷たい顔に優しく手を触れた。
「かー……。ただいま」
目を瞑って数秒。自分のおでこをその大きな鱗に押し付ける。
そして、大きく深呼吸してレレは竜に向き直った。
「にぃ」
その瞳は決心していた。
断られることも、受け入れることも覚悟を持って竜を見据える。
「……なんだ?」
竜はレレの只ならぬ雰囲気を感じ、真剣な表情をつくる。
外から響く吹雪の音がレレと竜の間を通り過ぎる。その距離は歩いてたった20歩にも満たない。
けれど、その距離はあまりにも遠く長い。
遠いのは当たり前、互いにすれ違い、触れ合わないようにしてきたのだ。
その距離は一朝一夕で補えるものではない。それでも、その距離を埋めたいと願うのなら──。
震えるレレの唇から白い息と共にその言葉が吐き出された。
雪が降り積もる中、母が眠る目の前。
「にぃ……、レレの"にぃ"になってください!」
少女は一歩だけ前へと踏み出さなくてはいけない。
少女は精一杯の勇気を振り絞った。他人から見れば本当に小さな決意かもしれない、けれど少女にとってとても大きな決意だった。
竜は驚いたように目を見開いたが、考え込むように目を閉じる。
その数秒は少女が生まれてから一番長く感じ数秒だった。
緊張で心臓が破裂しそうになり、唇は口の中へと逃げようと必死になっている。手は必死で服を掴み、足は震えていた。
やがて落ちてきた小さな雪に後押しされるように、
竜は首を上から下へとに動かした。
雪に混じり嬉しそうに笑う少女の瞳から、水滴が二つ溢れ落ちた。