琴葉探偵事務所   作:aihorrn

4 / 6
琴葉探偵事務所 ~ゲロマズ料理の照らす先は~

 青空にぷかぷかと白い雲が浮かんでいる。

 太陽はいつにもましてゆっくりに見える。ポカポカとした陽気は浴びている人々のみならず、動物、植物さえも穏やかな気持ちに誘導する効果があるように見えた。

 ならばこの、休日のお日様が陽光を降らせている事象は歓迎すべきなのだろう。

 しかし、この魔道士が集う町、ロイドボイスに構える琴葉探偵事務所の代理運営者、琴葉葵は気だるく恨み節を呟く。

「あーあー、今やる気が出ないのは私が悪いんじゃなーい、休日の太陽とゆかりさんが悪いんだ……」

 事務所の中央奥に席を構える葵は、椅子の背もたれにぐうたらと体重を預け、窓からフワフワと浮いている雲の動きを眺めていた。

 綺麗な青い髪に端正な顔立ちは美少女と呼ぶに相応しい雰囲気を纏うが、今の態度は人生に疲れた中年、もしくは不貞腐れた子供のようだった。

「そやなぁ~、なーんにもやる気でーへんわ……ゆかりさんが何かしたんやろ」

 応接用であるはずのソファに寝転がってこちらもぐうたらしているのは、琴葉葵の双子の姉である、琴葉茜だ。自称、冒険家兼葵のボディーガードである。

 髪色が薄い赤色であること以外、外見は瓜二つ。ここまで似ていると内面まで鏡に写る様かと思われがちだが、知り合いからすればこの二人の性格、思考は全然違うという。

 ただ、今に限れば、せっかくの容姿を台無しにしているという点があまりに一致していた。「何もしてませんよ……全く、姉妹揃って何て体たらくしてるんですか」

 姿勢良く、澄ました表情で葵の淹れたコーヒーを口に運んでいるのは、結月ゆかり──ロイドボイス警察の巡査だ。

 まだ年若いが主に捜査で活用できる魔法に長けており、敏腕の上司から厚い信頼を獲得している。そのおかげで散々振り回されているようだが。

 そしてゆかりもまた、琴葉姉妹に負けず劣らず、スレンダーな美少女であった。

 今日は珍しく仕事着のスーツではなく、明るい色のワンピースに黒いパーカーを羽織った私服姿である。

 寝転ぶ茜は右腕の肘を立て、手の平で顔を支える……まるで風呂上がりのオッサンのような姿勢をとる。不満そうにゆかりと目を合わせ、言う。

「そもそもは仕事しとるウチらの所に遊びに来たゆかりさんが悪いと思いま~す」

「そうだそうだ~、こっちは皆が休日満喫してる中、仕事してたのにぃ~~」

 便乗した葵も、視線を雲からぴくりとも動かさずに声を響かせた。

 要は、せっかくやる気を捻りだしていたのに、自分たちと違って真っ当に休日を過ごしている人がやって来たことで集中の糸が切れたんだぞ、ということらしい。

 それに気づいたゆかりは二人の態度にピクピクと口端を痙攣させながらも、肩をすくめる。

「まあ? 私はお二人と違い、今日までに溜まっていた仕事を全て終わらせたからこうして遊びに来られるわけですけどね?」

「…………」

 茜は無言でクッションをゆかり目がけて投げた。ヴォフッ、と声が漏れる。

「ちょ、何するんですか!?」

「……あぁ、すいません。何か勝手に手が動いた」

「勝手にって何ですか勝手にって! そんなことありえるわけがないでしょう!?」

 葵は視線を前に戻し、元気のない姉と、逆にエネルギーを使っているゆかりをぼう、と眺める。

 ──ああ、なんだろう。とっても休日って感じがするなぁ。

 葵は目を細め、ただこのゆったりとした雰囲気に身を任せ、まるで水面をぷかぷかと漂うかのように脱力する。

 そんな二人に我慢の限界を迎えたゆかりは、そっぽを向いて吐き捨てる。

「ふんだ、もういいです。せっかく葵さんにとって重要な情報を教えにきてあげたのに。もう教えてあげませーん」

「えー、ウチにはないんかいな」

 葵はどうぞどうぞ、と口から洩れかけるが、さすがに遊びに来てくれたゆかりに対して悪気を抱く。

「そんなこと言わずに教えて下さいよ~」

「それならシャキっとしてくださいシャキっと」

「…………よっと」

 葵はおもむろに立ち上がり、台所へ。淹れてしばらく、冷めきったコーヒーを一口、ぐいっと飲み干した。

「──よし、これでシャキっとしました」

「できるなら最初からやっておいてくださいよ!?」

「やる気って、案外アクセルを踏みこむその瞬間を乗り越えるのだけが難しくないですか?」

「ま、まあそれは分からなくもないですけど……」

 葵は椅子に戻り、言う。

「それで、重要な情報って何ですか?」

 ゆかりはため息をつき、言う。

「……あかりちゃんに会いに行く用事はありますか?」

「あかりちゃん? いえ、今のところ特にはないですけど」

 あかりちゃん、とは紲星あかりのことだ。

 ロイドボイス魔法学園の学生時代からの友人である。ゆかりから見て、葵と茜は一つ下、あかりは二つ下の後輩だった。

 現在は新聞社で働いている。といってもニュースを追いかけたりしているわけじゃない。あかりが担当しているのは、”食”である。

 ゆかりはこれからの葵の反応を想像して、少し笑みを零し、言う。

「今、あかりちゃんの職場に会いに行くと……なんと、まだ発売していないチョコミントアイスが無料で実質食べ放題らしいですよ」

「────」

 葵は真顔で立ち上がり、再び席を外した。

 洗面所に向かって、ささっと鏡を見て身だしなみを整える。そもそもが仕事中、お客さんが来る場合に備えてはいたので、すぐに準備は終わった。

 ばん、と勢いよく扉が開いて事務室に戻ってきた。

「それでは行ってきます!」

「なぁゆかりさん、チョコミント味以外もあるかな?」

「あるらしいですよ。何でも新シリーズの試作品らしいので、バニラやストロベリーといった王道は無難に揃っているそうです」

「ならウチも行こうっと! ゆかりさんも行くやろ?」

「そうですね、仕事中のあかりちゃんを冷やかしに行きましょうか」

 葵はその場で足踏み、二人を急かす。

「ほら何やってるの、早く行こうよ!」

 相変わらず、チョコミントアイスのことになると人が変わった様になる。

 二人は顔を合わせ、苦笑した。

 

 

 午前、新聞社。

 三人はあかりの所属するグルメ・飲食部門へと足を運び、ぼけー、と天井を眺めてデスクに座っているあかりを発見した。

まだ若干幼さの残る可愛い顔立ちに反して、スタイルはとても女性的に成長している。

 長い二本の三つ編みが揺ら揺ら、一貫性がなく動いている。

「──こんにちはあかりちゃん、あなたもこの二人みたいにぐうたらしてますね?」

 ゆかりが声をかけると、わずかな遅延を発生させながら、あかりは顔を向ける。

「はい? て、ゆかりさんに……葵さんに茜さんじゃないですか。どうしたんですか、そんな大勢で」

「あかりちゃん、聞いたよ……チョコミントアイスが食べ放題だって?」

「ああ、その件でしたか……まだまだ残っていて大変なんで助かります」

 あかりに案内され三人は応接室で待っていると、大きなトレーに沢山のアイスクリームを載せてやって来た。

「どうぞ、まだまだあるのでおかわりも可能です、というかして下さい」

「頂きまーす!」

 葵はいの一番にチョコミントアイスを手に取り、ぱかりとフタを開けて食べ始める。

 ゆかりと茜はどの味にしようかとトレーの上を眺める。

「色々あるんやなぁ。それで、どうしてこんなにあるんや?」

「元々は私たちにレビューを書いてほしい、ということで貰ったものなんですけど、送る数を一桁間違えたみたいで……。アイスってそんな一気に食べるものでもないので、中々減らないんですよ。味は美味しいんですけど」

「バニラにストロベリーにチョコにチョコミント、キャラメルにラムネに……うわあ、色々あって悩みますね」

 色とりどりの容器を見て、二人は感嘆する。チョコミント味の割合が高かったのは、葵のためか、それとも残りが多いのか。二人は葵にとって地雷発言になりかねないと聞くのを止めた。

「そうなんです、この商品は豊富な種類を一つの売りにしてるみたいで。どれもレベルは高いですよ? 私のイチ押しはキャラメルですね」

「なら一つ目はそれにしよっと!」

 茜はキャラメル味を手に取った。

 美味しそうに食べている葵をちらりと見て、ゆかりは言う。

「うーん、一つ目から甘みが強いのもあれですし、ここは無難にバニラから行きましょうか」

 あかりもてきとうに一つ、アイスを手に取りながら、呟く。

「初日は酷い状況でしたよ? 大きなトラックで運ばれてきたと思ったら、会社の冷凍庫に入りきらない量のアイスクリームで。社員総出で食べまくり、なんとか収めましたからね」

「これ作ってるメーカーさんに返却とかしなかったんですね?」

「私が入社する前から懇意にして頂いてるところですからね……なかなか文句は言えません。こっちとしても、発売前の商品を独占レビューさせてもらえるのは有り難い話ですし。これで美味しくなかったら会社が地獄になるところでした」

 ため息をつくあかりに、葵はキラキラとした表情で言う。

「あかりちゃん、これとっても美味しいね! まだ食べて良い?」

「はいどうぞ、というか私からお願いします。十個でも二十個でも食べて下さい」

「お腹下さないですか? こんなに一気に食べて」

 葵はキッ、とゆかりを見て、言う。

「ゆかりさん、チョコミントアイスは別腹です。何かこう、普通の食べ物とは違う方法で処理されているんですよ。だから問題ありません」

「不安しかないんですけど」

 茜はキャラメル味を食べながら、あきれ顔のゆかりに言う。

「大丈夫やでゆかりさん、葵はバケツ一杯のチョコミントアイスをバクバク食べてもケロッとしてたし。……お、美味いやんこれ」

 さらりと飛び出た葵のトンデモ伝説に、ゆかりはあんぐりと口を開く。

「えぇ!? バケツ一杯って……よくそんな食べ方して今のスタイル維持してますね……いや、それを言うならあかりちゃんも大概おかしいですけど」

「……?」

 意味が分からず首を傾げるあかりを見て、ゆかりはそういうとこだよとため息をついた。

 

 アイスの容器が高く積み上げられている。

 最後までスプーンを握っていた葵が、そっと机に置いた。

「ふぅ……満足した。とっても美味しかったよ、ありがとうあかりちゃん」

「お礼を言いたいのはこっちですよ、チョコミントアイスをここまで消化して頂けるとは思ってなかったので。お二人もありがとうございました……一人いないですけど」

 応接室に居るのは、あかり、葵、茜である。

 ゆかりはと言うと、思いの外美味しかったので調子に乗って食べ過ぎたことでお腹の具合が悪くなり、トイレに行ったきり帰還していない。

 葵はお腹をさすって天井を見上げる。

「いやー食べた食べた! やっぱりチョコミントアイスは美味しいし、奥が深いなぁ……また、自作で試したいことができたよ」

 茜が露骨に顔を引きつらせ、呟く。

「……ウチは食べへんからな」

 あかりはそんな葵を見つめて、

「────良いなぁ」

 そう、ぽつりと言葉を漏らした。 

 しっかりと聞き取っていた葵は、首を傾げる。

「良いって?」

 あかりはカップを両手で包んだまま、一人用ソファの背もたれに身体を預け、後頭部を乗せる。

「最近、どうもスランプ……というか。連載してるコラムに書きたいネタが全然見つかりません。今あるストックが尽きたらどうしようかと悩んでるんですよ」

「へ、へぇ……? そうなんだ」

 あかりが連載しているコラムと言えば、『ロイドボイスを食べ尽くす』のことだろう。

 隔日連載で、そのタイトルの通りロイドボイスの食事情について、鋭い味覚のセンスと舌で文章を綴っている。

 開店したばかりの料理店レビュー、伝統の人気商品、はたまたその前段階である材料、調達、農業についても踏み込んだりと素人からプロまで参考になる素晴らしいコラムである、とは葵談である。

 葵はこのコラムの隠れファンだった。それの継続危機にあると聞き、内心で焦る。

「ちなみに、そのストックってあとどのくらい……?」

 あかりは頬に人差し指を当て、考え込む。

「んーっと、確か、五本くらい? 昨日、先輩にそんなことを言われた気が……」

「てことは、あと十日分か。あかりん、けっこうマズいんちゃう?」

 葵はわずかに声を震わせ、言う。

「えっと、あかりちゃん? もし十日の間に次のコラム書けなかった場合、『ロイドボイスを食べ尽くす』はどうなるの……?」

「恐らくは休載になるでしょうね、ストック溜まるまでは。上司の判断によっては、最悪、最終回になっちゃうかもしれません」

 最終回。その言葉は葵にとってとても恐ろしいものであった。

 ガタンと立ち上がり、身を乗り出して、言う。

「あ、あかりちゃん! 私たちに何か手伝えることはないかな? そのコラムを書くネタ探しで」

 あかりは意外な提案に、目を丸くして言う。

「え? それは嬉しいですけど、今日は休日なのに仕事してたくらいには忙しいんじゃないんですか?」

「うっ……で、でもそれよりも優先すべきなの!」

 茜は葵の言葉に同意する。

「そうやな。友人が悩んでるのに、あんなつまらん事務仕事やってられんで!」

葵は、茜の問題発言をしっかりと咎める。

「あれも大事だから! というか後で手伝ってもらうからね!」

 えぇ~、と渋る茜から、葵は視線をあかりに戻す。

「と、いうわけでこっちは問題ないから。それで、どう? 何かあるかな、私たちにできること」

 あかりは目を閉じて、唸る。

「うーん…………。あっ、そうだ! お二人はお仕事で遠方にも出向くことがありますよね。それで、その地方にある料理店とかで食べたことあるんじゃないですか?」

 茜は首を傾げる。

「そりゃあるけど、あかりのコラムはロイドボイスの話じゃないとダメじゃないんか?」

 あかりは小さく首を振る。

「いえ、そんな決まりはありませんよ。──今は、なんというか、多分私のモチベーションが原因なんだと思います。だから刺激が欲しいな、て。この辺りでは食べられないような料理とか、とんでもないヤツとか、そういうのありませんか?」

 葵は顎に手を当て、記憶を辿る。

「刺激、刺激かぁ。何が良いかな……」

 思い返せば、美味しかった料理、全然合わなかった奇抜な地元料理、そもそも不味かった料理など色々と候補が浮かんでくるが、はたして、こと食に関しては凄まじい知識と経験を有するあかりに対して刺激的な体験をさせてあげられるのか。葵は自信が持てなかった。

 そんな逡巡の折、茜が声を上げる。

「あっ。なあなあ葵、あそことかええんちゃうか……?」

 不敵な笑みを浮かべている茜を見て、葵は眉を潜める。

「え、どこのこと?」

「ほら、前行ったやん、南の方に料理に使いたいから狩りをしてほしいって依頼──」

 そこまで聞いて、茜が何を考えているのか把握した。

 葵は慌てて姉の企てを阻止しようと試みる。

「えっ、ちょ、もしかしてあそこのこと? 止めとこうよ、下手すればそれこそあかりちゃんが食そのものに愛想を尽かしちゃうかもしれないじゃない!」

しかし無念、あかりはむしろ葵がそこまでしている様子を見て、逆に興味を抱いてしまう。

「何ですかそのお店、とても面白そうじゃないですか。何があったんですか?」

 葵は天を仰ぎ、茜はふふん、と得意げに話す。

「それがなぁ、ウチらが狩ってきた獲物で肉料理を作ってもらったんやけど、それがもう美味くて美味くて! 今まで食ってきた肉料理の中で一番やったかもしれん」

 葵は説明を付け加える。

「でもその後に出してきた料理が……その、ね。今まで食べたことのない味だったよ」

 あかりはピクリと眉を動かして、言う。

「ぜひ食べに行きたいです! 場所を教えてもらえますか?」

「どうせなら今からウチらと一緒に行かへんか? 車で行くし、すぐに出れば朝になる前に帰って来れるし」

「あ、いいですか? それじゃあお言葉に甘えて」

 葵は言う。

「え、今から行くの? 仕事が……」

「そんなの帰ってからやればええやん! ほら行くで~」

「は~い!」

「あ、ちょっと!」

 葵の制止空しく、二人は元気よく歩いて行ってしまった。

 ────まあ、頑張ればなんとかなるかな……。

 つくづく甘い、とため息をついた。

 それに、もしかすると本当にあのお店であかりが何かを得られるかもしれない、と希望も見えてきた。

 気分は前向き、さて追いかけようと思った時、お腹を擦りながら肩を落とすゆかりが戻ってくる。

「大丈夫ですか、ゆかりさん?」

「全然大丈夫じゃないです……あれ? 茜さんにあかりちゃんは?」

「もう行っちゃいました。今から南のけっこう遠い……車で三時間くらいかかるところにご飯食べに行きます。──ゆかりさん、来れます?」

 何だかゲッソリしているゆかりは、掠れた声で言う。 

「すみませんが、行けそうもありません……三人で楽しんっ!? し、失礼します……!」

 帰ってきたと思ったら、またUターンしていってしまった。

 あーあ、あれはしばらく苦痛が続くだろう。私にお腹を下す心配をしていたのに、全くもってゆかりさんらしいなあ。

 葵はゆかりに別れを告げて、とっくに新聞社を出た二人を追いかけた。

 

  △△△

 

車を降りた三人の前に、ポツリと一軒。

 ここが件のお店、名前を『美味しい食堂』。名付け親はセンスの欠片さえどこかに投げ捨ててしまったのだろう。

「あぁ~! 身体がバッキバキだぁ」

 長旅で凝り固まった全身を、葵は両手を絡めて上に掲げるように伸ばす。

「くおおおおおぉぉ……! ふぅ、疲れた」

「ん~! 久しぶりにこんな遠出しましたよ」

 茜とあかりも車から降りて身体を伸ばしている。

 あかりは店舗の佇まいを眺め、言う。

「外装は至って普通の大衆食堂、という感じですね」

 地方らしい、木造の一軒家である。入り口に暖簾が無ければ民家と区別がつかないだろう。

 普通、普通かあ。葵は苦笑する。

「出てくる料理は全く普通じゃないけどね……。まともに作ってくれたら本当に美味しいはずだから」

 入り口には『営業中』の看板がぶら下がっている。

「よかったよかった、休みじゃなくて。ほな入ろか」

 ──どっちに転ぶかなぁ。

 葵は内心冷や冷やであった。

 茜が引き戸をガラガラと開ける。

「いらっしゃい! ──て、いつぞやの冒険家か!」

 葵とあかりも店内を覗いた。

 中はカウンターにテーブルが並ぶ、ごく普通の食堂である。

 厨房に立つのは、鉢巻を巻いた男だ。長めの髪は好き放題に捻れ、ただ剃っていないだけの無精ひげが生え散らかっている。

 しかし存外に深い掘りのある顔立ちは整っており、体型も細身ながら筋肉質である。

「私たちは探偵ですって……」

「あれ、そうだったっけ? まあいいじゃねえか、そんな些細なことは」

 茜は店内をキョロキョロ見渡しているあかりの肩に手を置き、言う。

「今日はここの料理を食べさせたい人がおってな、連れてきたんや」

 そこであかりは店主に向け、一例する。

「初めまして、紲星あかりと申します」

「おうおう、ご丁寧にどうも、別嬪さん。俺は見ての通り、美味しい食堂の店主だ。まあ、座りな」

 三人はカウンターに並んで座る。茜、あかり、葵の順番だ。

「あ、ご注文決まり次第伺いますんで。……どうだい、最近のロイドボイスは?」

 店主は葵を見て、言った。

「まあ、色々起きてますが……平和だと思いますよ」

「そりゃあよかった」

 あかりと茜はメニューと睨めっこしている。

「なあなあ、この『シマエビフライ』って何や? エビフライと何か違うん?」

「ああ、そりゃロイドボイスには無いだろう。こっちの方で獲れるエビだ。大きくてブリッブリだぞ」

 茜は目をキラリと光らせる。

「ならウチはこれにしよーっと、『シマエビフライ定食』のごはん大盛り!」

「はいよ。そっちの二人は?」

 店主はサラサラとメモを取りながら尋ねた。

「うーん…………」

 葵はメニューをパラパラと眺めているが、これだ、という物が見つからない。そういえば、以前ここを訪れた際もこうして悩んでいたことを思い出す。

 あかりはどうするのだろう、と隣に目を向けると、メニューと睨めっこしていた。

「……あかりちゃんはどうするの?」

 葵の声に、はっとして顔を向ける。

「──あっ、ごめんなさい、ちょっと仕事の癖でメニューの評価をしてました」

 店主はその発言を聞き逃さず、言う。

「へぇ? メニューの評価か」

「仕事でよく料理店のレビューをしているもので──このお店は素晴らしいですね」

「珍しいヤツがあるってこと?」

 茜の言葉に、あかりは首を振る。

「いいえ、そういうことじゃありません。このお店はいわゆる大衆食堂、例えばラーメン屋のラーメン、揚げ物専門店の天ぷらやフライといった『代表作』がありませんよね。少なくとも初めてくるお客さんは、それら専門店に行く場合と違い、明確な一品を食べたくて来る場合は少ないです」

「実際私も今悩んでるし、確かにそうかも……」

 あかりは小さく頷き、続ける。

「ですから、食堂としてのメニューとして大切なのは、幅広いカテゴリーを揃えているか否か、です。多種多様な欲求を満たせることを求められるので。それを踏まえてこのメニューを見ると……肉、魚、野菜はもちろん、揚げ物や焼き、煮物と大抵の需要に答えられるようになっています。店主さんお一人で切り盛りされているんですか? 凄いですね」

 店主はからりと笑う。

「確かにこの店の料理は俺だけで作ってるが、一人でやっているわけじゃねえさ。注文もらってるシマエビだってそうだし、コメや野菜だって、皆ここらに住んでる人たちに相当助けてもらってる。良い人たちばかりだぜ? 少なくともここでやっているから、この店は成り立ってるんだ」

「なるほど、地域に根付いているのですね。ますます、評価を上げなければなりません」

 微笑を浮かべるあかりに、店主はメモを指ではじく。

「店の評価は料理を食べてからにしてくれよな。ほら、どうするんだ?」

 葵は注文を迫られ、慌てて視線を落とす。

「──では、〇〇をお願いします」

 あかりがスラスラと注文を行った。

 葵は急かされている気分になり、慌ててメニュー表から焦点の合った文字を読み上げる。

「えと、じゃあ〇〇で」

「ほいほい了解。じゃ、しばらくお待ちくださいませ」

 奥に引っ込もうとする店主をみて、葵は低い声で釘を差す。

「そうだ、この前出してきたような料理はやめて下さいよ」

「へいへーい」

店主はひらひらと手を振るだけだった。

あかりは言う。

「ところで茜さん、今のところこのお店に尖った特徴が見当たらないのですが……」

茜は得意気にうんうんと頷き、言う。

「せやろ? うちらも最初来た時はそうやってん。でも、なぁ?」

 ニヤリと葵に目配せをする。

 葵は正面を向き、両肘を立てて手を重ね、その上に顎を置く。

「前も、ここまでは良かったんだよ。普通に注文した料理は美味しかった。でもね……」

 何かを噛みしめるような間を置いて、気持ちを絞り出す。

「──オマケといって出てきたヤツは本当に不味かった……!」

 思い出したくもない。おぞましい外見とそれに相応しい、いや、それを超える程の不味さ。

「あんな不味い料理は今まで食ったことなかったなあ。何て言うんやろ、何で不味いんか説明できんくらい不味かった」

 葵はその言葉を否定しなかった。

「うーん、そこまで言われると逆に気になりますけどね」

 そうは言われても、二人にあの味を説明する言葉は思いつかなかったし、またアレを食べたいなどとは思わなかった。それに、なら食べてみたらどうだ、などと悪魔の如き発言は優しい二人には到底できないことだった。

 

 しばらく。三人の注文した料理が一斉に出てくる。

「はいよお待ち!」

 目の前に注文の品が並んでゆく。どれもこれも美味しそうで、葵は二人の注文した料理にも目移りしている。

「調理のスピードも文句なしです、相当に早いですね」

「ではごゆっくりどうぞ」

 明らかに作ったセリフを終えて、店主は片づけに奥へと入っていった。

 三人は料理を堪能した。

 茜と葵は美味しいことを分かっていたので、何度もあかりに味の感想を尋ねていた。

 その度にあかりは、この店の料理に感心を示し、分かりやすい生レビューを聞かせた。それを楽しんでいた二人は自分の頼んだ料理をあかりに分けて、またその感想を聞き出していた。

「ふぅ、食った食った!」

 茜は満足そうにお腹を擦る。

「うん、やっぱり普通に出してくる料理は美味しいよね。あかりちゃん、どうだった?」

 葵は尋ねた。

 あかりは微笑を浮かべ、言う。

「はい、とても美味しかったです! 遠出したかいがありました」

「そう言ってもらえるとこっちとしても嬉しいねえ」

 その時。

 ふと、あかりの表情に哀愁を含んだ自嘲的な笑みが浮かんだ。

 葵と店主がそれに気づいて────先に動いたのは店主だった。

「おう嬢ちゃん、何だか納得いかねえってツラしてるな」

 あかりはハッと顔を上げる。

 ブンブンと突き出した左右の手の平を横に振る。

「いえいえ! とても美味しかったので満足しています」

「そりゃ分かってるよ、俺の作った品だからな」

 自信に満ち溢れた発言は、実際に彼の料理を食した三人にとっては鼻につくこともなく、すなりと頭の中を通っていく。

 店主は続ける。

「だから聞いてるんだ……話してみな?」

 あかりは顔を伏せる。

 事情を知っている茜と葵は口を噤んだ。

 やがて、ポツリと呟き始める。

 何かと思えば、どうやら調理の工程らしかった。出てくる材料からして、先程あかりが食べた料理だろうか。

 しかし当然ながら、あかりは調理工程を見学したわけではなく、ただ食べただけである────。

 茜と葵はポカンとしていると、あかりが締めの言葉を紡ぐ。

「──で完成です。どうでしょう、合ってますか?」

 店主も驚きを隠せず、目を丸くしてした。

 少しの間を置いて、言う。

「ああ、正解だ。完璧だよ、嬢ちゃん相手だとレシピの秘匿なんて全く機能しないな」

 参った、と肩をすくめた。

 あかりは静かに、心の内を語り始める。

「私は今、主にお店のレビューを行ったり、食に関してのニュースを取り扱う仕事をしています。小さな頃から食べることが大好きでした。美味しい物を何度食べても、また違う美味しさと出会える……そんな発見が楽しくて、学園を卒業後、仕事として食べること、伝えることを選びました」

店主、茜、葵は静かに耳を傾けている。

 あかりは続ける。

「でも何だか最近……このままでいいのかな、って不安になってきたんです。料理の世界にはトレンド、ブームといった流れがありますが、それでちょっとした変化が起こるだけで、結局は既存の調理法に多少のアレンジを加えたものに過ぎません。調理法を聞けば味は予想できますし、食べればレシピが分かります。もちろんアレンジだって未知の発想が含まれますけど、なんだか、この料理という世界が打ち止めに到達してしまっているんじゃないかな、と……」

 それは不安の吐露だった。

 料理の世界を見る、楽しむ立場にいるあかりだが、常人には持ちえない舌の感度という才能があるからか、食べるという立場から瞬く間に料理の世界を紐解いていった。

 それ故に、直ぐにあかりは最前線へと到達した。すると、これまで見えなかった先の光景が見えた。見えてしまった。

 これまでは、ただぼんやりと光を放つ『未知』へと歩いていた。しかしそれは先人が既に歩んだ道であり、『既知の未知』である。だからあかりは迷うことなく真っすぐに歩いてこれた。 しかし──最前線のその先は、本当に誰も何処であるか分からない。何も見えない真っ暗であるということは、もしかすると、この先に道が存在しないかもしれない。

 あかりはずっと独り、真っ暗な空間の、真っ暗な道を歩いていた。

 独りぼっちを自覚したその時。

 

「────なーんだ、そんなことで悩んでいたのか」

 

 暗い暗い──真っ暗で独りだった空間。自分より前に、一人の男が立っていた。

 あかりは顔を上げる。心細いのか、今にも叩き折られそうで。

「そんなことって……!」

 葵は怒りを含んだ声を上げた。

 しかし、店主のいたって真面目な表情を見て、身体の力みを解す。

「ちょっと待ってな」

 そう言い残して、奥へと引っ込む。

「何のつもりや?」「……さあ?」

 姉妹が短く言葉を交わす間に、店主が帰ってきた。

 手には一枚の皿が握られている。

「ほらよ、これを食ってみな」

 茜と葵は、あかりの前に置かれた皿に載せられている料理を見て飛び跳ねる。

「ちょ、ちょっとこれって……!」

「いいんだよ。今の嬢ちゃんにきっと必要な料理だ、これは」

 葵は黙り込む。

 その料理は、視覚的情報では一体何であるかが一切分からない。

 二人の知っている料理のどれにも該当しない、意味不明な外見。

 直感で分かった。これは、オマケのゲロマズ料理だ──!

「……これは?」

 あかりは小さな声で尋ねる。

 店主はニヤリと意地悪な笑みを浮かべ、言う。

「それは渾身の創作料理……失敗作千二十号だ。そのレシピを当てられるか?」

 あかりはそっとスプーンを手に取る。そして、理解不能な料理を掬う。

 あわわ、と茜はどうすることもできず両手を忙しなく動かし、葵はこれからの惨状を想像して、顔を両手で覆った。

 ──はむ、とあかりが口をつける。

 刹那の空白。

 指の隙間から覗く葵にとって、その一瞬は長く。

 静かだった店内。

 そして……店の外ののどかな田舎風景に魂がこだまする。

「まっずううううううぅぅううう!!!???」

 あかりが天を仰いで叫んだ。姉妹二人がびくりと身体を震わせる。

「なにこれ、不味すぎませんか!? こんなの今まで食べたことないんですけど!!!」

 がたりと立ち上がって、涙目になり文句を叫ぶあかり。

 それに対し、店主は腹を抱えて大笑いしている。

「はははははは! そうだろう、めちゃくちゃ不味いだろ? どうしてここまで不味くなっちゃったんだろうなぁ? わかるか嬢ちゃん、俺にもわからねぇんだよ」

「へっ?」

 あかりは訊かれ、動きを止める。

「えっと……あれ、ウソ……」

 店主はしてやったり、と口元を歪める。

「全然、分かりません……! 凄い──!」

 あかりは着席して、再び料理を口に運んだ。

「凄い、まずっ、全然分からない! どうしたらこんなに不味い料理が作れるんですか、こんなの久しぶりだっ、うっ、はは……!」

 涙を零しながら不可解な料理をかきこむ姿を見て、茜は葵に言う。

「ちょ、ちょっと大丈夫か、あれ? 変な料理食ってあかりも変になったんじゃ……」

 葵は微笑を浮かべている。

「……ううん、大丈夫だよお姉ちゃん。このお店に連れてきたのは大正解だったみたいだよ。見て、あの顔。学園に居た頃によく見てた、楽しそうに食べてる時を思い出さない?」

「……ああ、確かにそうやな」

 そして、あかりは綺麗に完食した。

 潤んだ瞳で店主を見て、晴れやかな笑顔で感想を述べる。

「ごちそうさまでした、とっても不味かったです!」

 店主は苦笑する。

「そんな笑顔で罵倒されると複雑だな……」

そう言って再びニヤリとして、続ける。

「まあとにかく、これで分かったろ? 料理の世界を全て知り尽くしたなんて思ってたか? 傲慢だよ傲慢。この俺が失敗作を千個以上重ねてもまだ分からないことだらけなんだ、心配することはねえさ、料理の世界はまだまだ人間、全然分かっていないことばかりだぜ。少なくとも嬢ちゃんが一生をかけても、きっと最奥を見ることすら難しいだろうな」

そこであかりは、胸に手を当てる。

 ──ああ、そうだったんだ……。

胸中で、ずっと分からなかった感情の詰まり、モヤモヤとした煙の正体。漠然とした不安の座標が見えた気がした。

 「失敗作千うんたら号って、本当にその数の失敗作を作ってたんだ……」

 葵はその熱意にバカらしさと敬意を抱いて呟いた。

 あかりも同じくニヤリと笑い、言う。

「それは悔しいので、寿命の最終盤にちらりと真理を覗いてから死にますよ」

「そうそう。一歩、常識の世界から踏み出してみろ。すると案外、知らない、分からないことだらけだ。常識に囚われるなよ、青臭い若人」

「────はい、胸に刻んでおきます」

 店主との出会い、言葉。これらはあかりにとって非常に貴重な体験となり、これからの人生に大きく影響を及ぼしていくだろう。

 

 

 三人は会計を済ませ、いよいよ店を出る時が来た。

 葵は言う。

「美味しかったです、あと、あかりに良いきっかけを与えてくださり、ありがとうございました」

「俺はただ、処分に困った失敗作を食べてもらっただけだし、感謝されるようなことしてねーよ」

「素直じゃないな~店主さん」

「うっせ、本当のこと言ってるだけだ」

 二人が言葉を交わし、続いてあかりが店主と目を合わせる。

「店主さん、本当にありがとうございました」

 深々と一礼する。三つ編みが揺れた。

 店主は肩をすくめる。

「ふん、俺と志を同じくする若人が潰れるのを防いだだけだ。あ、でも恩返ししてくれるなら、さっさと俺の先を行ってくれよ? そうすれば俺も続いて前にさっさと進めるようになるからな。そしてすぐに追い越してやる」

「プライド無いんですね?」

「そんなもの、そこらの犬に食わせちまった。俺はただ、料理という世界の深奥を見たいだけだからな。道徳に反しない限りは色んな手を使ってやるさ」

「ふふっ、その熱意、流石ですね」

 葵と茜は首を傾げる。

 ──流石ですね、て何だか旧知の仲みたいな言い回しだなぁ。

 あかりはくるりと背を向けながら、一言、残す。

「それではまた来ます! 今度はまた、あの美味しい親子丼食べさせてくださいね!」

「なっ……!」

 店主が驚愕に口をあんぐりと開ける様を唖然と見ている茜と葵を両手で引っ張り、言う。

「ほら、行きましょう!」

「わわっ、あかりちゃん?」

 あかりはぴしゃりと扉を閉める。

 茜が言う。

「もしかして知り合いやったんか?」

 笑みを隠し切れないあかりは、頷く。

「ええ、そうですよ。私がまだ学園に居た頃に食べたお店の店主があの方でした。名前も今思い出すと、『満足食堂』とかでした。鉢巻巻いてる姿と最初に食べた料理の味で思い出しましたが、美味しい食堂なんて名前を見た時に気づくべきでしたね」

「ロイドボイスに居た頃のお店で食べたことがあったんだ? それにしても満足食堂って……」

 葵は呆れたように口を歪める。

 三人は車に乗る。

「さあてここからまた数時間のドライブや……めんどっちいなぁ」

「そこをなんとかお願いしますよ茜さん、最近できた美味しいエビフライあるお店教えてあげますから」

「ホントか!? よーし飛ばしていくで!」

 目を輝かせる茜に、助手席に座る葵は言う。

「やめてよ、せっかくあかりちゃんが元気取り戻したのにすぐ事故でも起こしたら笑えないし」

「はぁ、葵ちゃんは真面目やなぁ」

「ホントですよ、茜さんが事故るわけないじゃないですか」

「あかりちゃん、テンション高いね!?」

 姦しい車内はいつまでも楽しそうに、ロイドボイスまでの道を走っていった。

 

   △△△

 

 数日後、ロイドボイス、琴葉探偵事務所。

 お昼ごろの事務所は調理中の香りが漂っている。

 そんな中、葵は新聞を読んでいた。

「……いやー、やっぱり良いコラムだよね、『ロイドボイスを食べ尽くす』。それにしても、この内容は何も文句言われなかったの? 新聞社内からは」

 事務所で調理に励んでいるのは、あかりである。

「そうですねー、でも一番お偉いさんが感銘を受けた! とゴリ押してくれたみたいです」

 気の抜けた声で返した。

 内容は、今のロイドボイス料理界隈についての提案だった。

 とにかく売れたいからと、既存の人気料理店の模倣となっている店が多くなっている事。

 本来目指すべき料理とはそんなものだろうか、という投げかけ。

 あかりの気持ちを存分にぶつけた文章だった。葵はそれを今、読んでいたのだ。

「な、なぁ……葵、大丈夫かな……あかりんの料理、すっごい不安なんやけど」

 茜は鼻歌を口ずさみながら菜箸を振るあかりの背を見て、言った。

「え、何で? 味覚に関しては心配するまでもないじゃない」

「あかりん、あのヘンテコ料理だす店主を尊敬してるやん? 同じようなことしてゲロマズ料理出されへんかと」

「あ、あ~……」

 葵も途端に不安になってくる。

 あかりは帰りの車内で、料理に挑戦したいと言ったのだ。食べるだけじゃなく、自分の手でも新しい味、料理を模索してみたい──ということらしい。

 それで料理の味見を頼まれたのが琴葉姉妹というわけだ。

「出来ました!」

 あかりが達成感に満たされた朗らかな表情で二枚の皿を持ってくる。

 中央のテーブルに置かれた。

 一枚はクリームシチューのように見える。具がゴロゴロと浮かんでいて、一見、変哲は見当たらない。

 もう一枚は透明感のあるスープに刻まれた玉ねぎらしき具が泳いでいる。オニオンスープのように見える。

 向かい合わせのソファに座る葵と茜はじぃ、と二つの皿を注視する。

「一つは自信作、もう一つは失敗作です」

「いやなんで失敗作を普通に出してくるねん!?」

 茜が異論を唱えると、あかりはヒラリと避ける。

「私は失敗したと思っていますが、他の方が食べると美味しいかもしれませんし、新たな知見が生まれるかもしれないので、ぜひ食べて下さいね?」

 茜が冷や汗を垂らす。

 ──助けて葵! あかりんの圧力が怖い!

 葵に必死に視線を送る。当の葵は気づいたがどうにもできないので、言う。

「じゃあお姉ちゃん、どちらか片方ずつ食べようよ。好きな方選んでいいから」

 茜は諦めたように視線を落とし、二枚の皿を何度も見比べて、

「──こっちや!」

 と透明感あるスープの方を選択した。

「じゃあ、私はこっちで」

 葵はクリームシチューのような方の皿を手に取る。

 先に動いたのは茜だった。

「じゃあ、い、いくで……!」

 ごくり、と唾を飲み込み、スプーンを口に運ぶ。

 心臓の鼓動でスプーンが揺れる。

「────っ!」

 必死に嫌がる心を押し殺し、スープを口に含んだ。

 そして、

「辛ぁあああぁぁぁああああああ!!??」

 スプーンを放り投げ、茜が事務所を走り回る。

「ちょ、からっ、辛すぎるって!!! 水みずみず!」

 茜は台所の蛇口をひねり、直で口に水を流し込み始める。

 その様子を眺めていたあかりは、肩を落とした。

「はぁ、やっぱり辛すぎですよねぇ。玉ねぎの甘みと組み合わせたら美味しくなると思ったんですけど」

 そう言って、あかりも激辛スープを飲み始める。

 ──なんであかりちゃんは平気なの!?

 葵は愕然と、あかりがゴクゴクと飲み干す様を眺めた。

 ふぅ、と皿を置いて、あかりは視線を葵に向けた。

「……葵さん、ほら、食べてみて下さい」

「うっ、うん……」

 片方がこれでは、例え成功でも失敗でもヤバイのではないか、と葵の胸中で警報が鳴り響く。しかし、あかりに見られている以上、逃げるという一手は存在しなかった。

 ──ええい、お願い、せめて不味い程度で!

 葵は目を強く瞑って、スープを飲んだ。

 すると口に広がるのは、まろやかさ。

 触覚から楽しいこのスープに、葵はいたく満足した。

「いや、凄いよあかりちゃん。とっても美味しい!」

「本当ですか!?」

 あかりは嬉しそうに身を乗り出し、自身も口をつける。

「うん、やっぱりこっちは上手く行ったと思います」

「お姉ちゃんも食べなよ、こっちは凄く美味しいよー?」

「……」

 台所でうつ伏せに倒れている茜はピクリとも動かなかった。

「だめだ、完全にやられてる……」

 葵は茜を意識外に放り投げ、尋ねる。

「クリームシチューみたいだけど、何が違うの?」

「見た目はそうですけど、実際の材料は全然違いますよ? えーっと」

「いや、言わなくても良いよ、うん。いやーおいしいなぁ!」

 葵は怖くなって聞くのを止めた。知らない方が、単なる美味しいスープのままでいられるからだ。あかりのことだ、とんでもない材料を使っているかもしれないし。

 そうして美味しかったスープもなくなった。

 あかりは無事な葵に感謝を伝える。

「ありがとうございました、葵さん。ご意見、とても参考になります」

「素人な私がどれだけ役に立てたか分からないけど……どういたしまして」

「また、味見をして頂いてもいいですか……?」

 小さな勇気を出して、あかりは言った。

 葵は目をそらし、しばらく逡巡の末、言う。

「あー……。まあ、良いよ? でもなるべ──」

「ありがとうございます! じゃあ私、片付けしますね!」

 なるべくお姉ちゃんがあんなことにならない料理にしてね、という言葉を遮って、あかりは嬉しそうに皿を回収し、台所へと向かった。

 皿を置き、茜の肩を揺するあかりを眺めながら、葵は新聞を再び手に取る。そういえば、読んでいた『ロイドボイスを食べ尽くす』が途中だった。

「まったく、もう……うん?」

 葵はじっ、と目を寄せて文字を読む。

 コラムの最後に書かれているのは──「この記事を作成するにあたり、二名の冒険家の方にご協力を頂きました。深く感謝致します」。

 葵は叫ぶ。

「あかりちゃん! だから私は探偵だって!」

 

 こうして。

 ロイドボイスの食事情は一人の少女によって大きく変わっていき、やがては国一番の食が集う町にもなるのだが、それはまだ未来の話である。

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。