たとえそれが、深い水の中だろうが、燃えている山の中だろうが、切り立った断崖の途中で岩山にしがみついていようが、ありとあらゆる生物を前にしようと、私はそこらへんに対して苦手意識や脅威意識だとかを持ったことはこれまで一度もなかった。
むしろそれを脅威だと感じている人物は、僕の向かいで焚火から鍋をどかしている一般的な兵士よりも多く火器を装備している構えが左利きの兵士であろう。
彼は虫が嫌いというわけではないが、進化の過程で毒を取得した虫が怖いらしく、それゆえに毒を持っていないが毒を持っている様な外見をした虫が大の苦手らしく、そのような虫を見るたびに班員が笑いをこらえるのに苦労する様な叫び声を上げる。
もちろん作戦行動中は気を引き締めているためか、そのような叫び声を上げる事はまったく無いが、作戦行動以外の時に毒を持っていそうな虫を見るたびに声を上げるのだから見ていて面白い。
話しがそれてしまったが、そう。私が怖いと感じるものは今まさに、焚火を挟んだ向かい側にいる兵士にたいして恐怖を感じている。
詳しくいうなればそれは兵士に直接恐怖を感じているわけではなく、兵士が熱心に様子を見ている鍋の中に入っている液体に恐怖を感じている。
「よし」
そういうと彼は元の形は到底想像もできない、ステンレス製の器を取り出し、鍋の中に入った黒い液体を注ぐぎ私に手渡してきた。
私がそれを受け取り一口湿らせる程度に口に含むと、彼は満足した様に同じく穴は開いていないが、ベコベコに凹んだ器に液体を入れる。
彼と私が持っている器はかつてはきれいなコップであったが、度重なる移動や戦闘によってバックパックに入れていたコップは見るも無残なすがたに変わってしまった品である。
「うぇ......」
ボコボコになったステンレス製のコップを見ながら今度は一口液体......もといコーヒーを口に含むが目の前の兵士が入れたコーヒーはコーヒーと呼ぶにはあまりにもまず過ぎる飲み物であった。
彼が作ったコーヒーはカウボーイコーヒーと呼ばれ、豆を直接煮て成分を抽出しているため、味がものすごく濃い飲み物ではあるが、これはひどすぎる。
「おっ? 例の作戦か?」
そう言い近寄ってきた日本人の兵士が煙草に火をつけながら近づき、彼の隣に腰を落とす。
「なんだ『バキバキコーヒー』飲むくらいなら、支給されるカフェイン剤飲んだ方が百倍マシだと思うんだがな」
そう言うと兵士は火をつけたばかりの煙草を彼に渡し、それと交換するようにコーヒーを持ち口に含んだ瞬間に吹き出す。
「あぁ......、うん。こいつはカフェイン材よりもよっぽど効くやつだな」
そういった兵士は、喋りながらペッペと口に残ったコーヒーを吹き出し、時より調子の悪いバイクの様に体を震わせる。
私が恐怖を感じる理由はここにある。
彼が作ったコーヒーを飲むと決まって本能が拒絶するように寒気が走り止まらない脂汗、胸やけの様な気持ち悪さが続き、内臓が重く感じ、身体全体が重力に屈するような感覚に陥る。
何か毒物や薬物が混ざっているのかを疑うレベルであるが、彼の手元を監視する限りそれはない。
「これさ、敵にプレゼントすればそこそこ効果あるんじゃね?」
「そんなのは漫画の世界だけだわな」
そう呟く兵士の隣で受け取った煙草を1吸いした彼が白紫色の煙を吐きながら言う。
しかし......、と私は考える。
実際に漫画の様な話ではあるが、彼の入れたコーヒーはそれほどまでにひどい出来である。
兵士にとっての食事は指揮にかかわるくらい大事なことは言うまでも無く、食事が満足できるものでなければ兵士の戦闘意欲やそれ以外の事にも大きな効率の低下は避けて通れないだろう。
兵士にとって重要な食事後のコーヒーとしてこのコーヒーを飲ませる事ができたなら、少なくともその直後の戦闘は我々が有利に事を進められるのでは無いだろうか?
無理だなぁ......、とそこまで考えたが、そもそも敵の食事に手を加えることなど無理に決まっているし、そんなことができるなら直接食事に毒を入れるだろう。
「にしても」
私はボソッと誰にも聞こえない声でつぶやく。
「この憂鬱な時間が早く終わってくれればいいんだけどなぁ……。」
その言葉の向き先は、これから始まる作戦についてなのか、彼がコーヒーを振る舞う時間なのかは、私自身も良くわからない。
架空図書「英雄の友達」より引用
まだ日が出て間もなく、息を吐けば白色の息が見えるのではないかと錯覚する様な外気温に少し肩を竦めながら田中は目的地に向かって歩く。
「もし生きて帰ることができたら......。」と最後の作戦の前に戦後同じ部隊に再配置される事となった、初戦闘から様々な事が重なった中でも殆同じ戦いに参加した中の良い戦友たちと共に目に焼き付けた地図の記憶を頼りに足を進める。
「それにしても昨日の襲撃は......やはり予想よりも早かったな」
この町に来てから1日立たずに敵が姿を見せるということは、先の決戦で敵側の戦力を削り取り切れなかったと言うことであろう。
「1度の決戦で勝敗が決まる事はない」とは本で読んだことがあったが、これは確かにその通りだな。
フと目線を上げるといつの間にか目的地である、昨日戦闘を繰り広げた広場についていた。
田中が広場を見渡すと、戦闘後の補修がおおよそ完了しており、立ち入り制限もなく昨日の事が嘘の様に感じられるが、噴水の近くに行くと、幾つもの弾痕や弾痕周りに若干残っている金属片が昨日の出来事が嘘では無いことを生々しく語っている。
もし、もしもであるが、終戦前の停戦期間中に我々の行動を知られず......いや、強引にでも目的を達成する事ができていたのなら、昨日の様な事は起こらなかったのでは無いだろうか?
それどころか、停戦期間後から終戦に至るまでの間の事すらも起こらず、あんな地獄の様な事柄のすべてが無かった事になって自分達の帰還はもっと早く帰って来ることができたのでは無いだろうか?
「......。そんなことが出来たとして、結果は変わらなかったのかもしれないし、変わったかもしれないし......。」
もしかしたら、自分達が経験した事より更に悲惨な結果を迎えていたかもしれない。どのみち、ほかの可能性は起こらなかったし、今後も起こりえない事か。
そう思いながら、田中は広場を見回し、灰皿とベンチがある場所に足を運ぶと、そこに深く腰をかけた後に胸元からソフトパッケージの煙草を取り出し火をつける。
煙草を1吸し、左腕につけている腕時計に目をやると、集合時間まで後20分程であった。
この煙草を吸い終わった後に少しの時間ボーっとしていれば、すぐに消費できる時間であるが、煙草を吸っている時間に何もしないのはどうも少し落ち着かない様子の田中は、腰に巻いている弾薬盒の中に入っている残りの新品の弾薬を思い出した。
自身の背にある弾薬盒の蓋を開け、油紙を見ずに手元の感覚のみで開封しようとしたところで誰かが近づいてくる気配がしたため、顔を上げて気配の主を確認する。
「あらぁ? 先客の方がいらっしゃったのですね? おはようございます~。」
声の主の見た目は20代前半の女性で雲一つないピーカンの様な空を見上げており、田中の視線で気が付き、初めて彼の存在を認識したようで、少し抜けた様な声色で挨拶をしてきた。
「え、あ、おはようございます」
すこしペースを乱されながらも、田中は少し抜けた女性に挨拶を返す。
「あら? もしかして、田中准尉さんですか? お久しぶりです」
田中は、昨日までの自分の階級を言われて、改めて声を掛けてきた女性の顔を確認する。
「あなたは......、えっと......、青山さん?」
「はい。覚えていてくださったんですね?」
「えぇ......、まぁ」
青山と呼ばれた女性は花が開いたかのような笑顔を田中に向けた。
「それにしても、かなり早い時間から起きてるんですね? こんな早い時間じゃ何処もやってないでしょう?」
「何処もやってない方がいいんです。」
田中の言葉に青山は首を二度振った後に彼の目を見て、さらに続ける。
「何もないからこそ、自分が自分であることを感じられますし、これから動いていく町を見るて実際に動き出すと、私は世の中の一員だと感じる事ができて、その境目を感じる事ができるこの時間が、たまに好きに感じられるんです」
そう言いながら空を見上げ、山々の頂点から顔を出した太陽に目を細めながら青山はフゥっと息を吐く。
「......。」
「ふぁぁ......。朝早くから起きてたので眠くなってきました。私は帰って寝ますね。」
「今日は耳栓をして寝た方がいいですよ。事前に知らせがあったかもしれませんが、ある意味どんちゃん騒ぎになると思うので」
「そうですね。......いえ、耳栓は止めておきます。帰ってきた人たちをみ目の中でお迎えしますので」
そういうと青山は別れの挨拶を言い歩き出す。
田中は、彼女の姿が見えなくなった所で胸ポケットから煙草を取り出し火をつけ1吸いする。
「君とは随分違うタイプだけれど、ちゃんと話すことが出来るんだ」
青山が出て行った公園の出入り口を見ていた田中の背後から、澄んだ女性のからかった様な声が聞こえる。
「でも、嫌にならないの? 君は自分の思想と離れた人とはあまり喋らないのに?」
「......。」
「君の狭い思考じゃ、あの人の言葉は理解できないんじゃない?」
「......。」
田中は彼女の声が聞こえないように、煙草を吸い続ける。
「あら? 無視は酷いんじゃない? それとも私と話したくないのかしら? まぁいいや、私は先で待ってるから」
女性が言葉を喋りきる直前で、ドコドコドコと単気筒エンジンの独特な音が薄っすらと聞こえてくる。
「おーい! ここにいたのか早くいくぞ」
バイクに乗った男が田中の姿を見ると乗ってきたバイクのタンデムシート部分を2回ほど叩いて合図する。
男の恰好は、田中と同じ軍服を着用し、胸元に縫い付けれられている階級章からも田中と同じ少尉であることがわかる。
この男がいつもと違うところを上げるとすると、あれほど運転したくないと言っていたバイクにまたがり、いつもは背中にAKを背負ってるが本日は田中と同じ......とは言わないが、ボルトアクション式のライフルを背負っている事であった。
「まだ他の奴らが来てないじゃないか」
「だけれども、集合時間ギリギリだぞ? 今いないのであれば、俺達とは集合場所が違うか、そもそも配属された場所がここじゃないんじゃないか?」
バイクに乗った男が話し終わる前に、田中が腕時計を確認すると、集合時間まで残り15分ほど前になっていることに気が付く。
「あー、確かにお前の言うことが正しいかもな」
言いながら田中は、バイクの後ろ側に乗り、運転している男の肩に手を乗せる。
「同じ部隊の奴らが全員同じ場所に配置されるとも限らんしな」
田中の声と同時に男は集合場所に行くためバイクを走らせる......。
「運転、交代しようか?」
「問題ない。15分あれば気合でたどり着くから」
そういうと運転している男はセルスイッチを押し、小気味よい音を立てながら呟いた。
「時間ギリギリになった理由ってこれが原因かぁ」
「うるさい」
田中は運転している男とのツーリングが15分で終わらないことを今ここで確信した。
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