九条さんと何をどう言い争っていたのか。それを確かめる間もないまま、七瀬さんは自室に篭ってしまった。
私は心配だった。あんなに上気した顔で、悲しさの方が強く垣間見えた剣幕。そして喘鳴を起こす程に昂ぶった情緒。普通に動揺するくらいでは起こるものではない。……彼の過去は知っているつもりだった。でも、その気持ちまでは……私は…………
ふと……気がつけば、私は七瀬さんの部屋の扉の前で立ち尽くしていた。
何かアイデアがあるというわけでもないのに。消灯時間まであと僅かしかないというのに。ただ、彼を慰めたいという気持ちで部屋の前にいた。なにより七瀬さんのための自分でいたくて。多分、べつに悪い気持ちじゃないはずだ。理に適うことなら、それが単なるエゴイズムから来る情動でも許される。七瀬さんのコンディションを客観的に見極め、その能力を最大限に発揮させるのが私の仕事。その大義に結びつく気持ちであるのなら、どんなにおこがましくても、嫌われても……。
そう、少し前までは傲慢にも考えていたはずなのに。今の私はきっと、私のためにこの扉の前に立っている。なのに、この扉を叩くことを恐れている。
こんな気持ちは初めてだ。私が私を理解できなくなっていく……和泉一織という人間を自分で定義できなくなる、そんなもどかしい気持ちは。
頭の上で、枯れかけた蛍光灯が懸命に瞬く音がした。
こじつけて、私はそれが終わってしまう前に彼の部屋に入るべきだと自分に言い聞かせ、戸を叩いた。力加減が効かず廊下に打撃音が反響する。
「七瀬さん、七瀬さん、起きていますか」
返事はない。
もう一度叩くが、やはり何もない。
「…………っ」
七瀬さんならやりかねないから。そう思いドアノブを回すと案の定、鍵をかけ忘れている。どれだけ無防備なのかあの人は。寮の外で果たして生きていけるのだろうか。心配になる。
「……注意書きだけ置いて戻りますか」
狭い廊下を抜けて彼の部屋に入る。豆電球の温かな灯りだけが視界の頼りだった。布団を被って、こちらに背を向けて寝ている七瀬さんの姿があった。慣れてきた目で部屋を一望すると、珍しく、その日の片付けを怠ったようだった。テーブルの上には、食べかけのビスケットの箱、開きっぱなしの日記、鉛筆。それに、ダグラス・ルートバンクのライヴDVD。………気持ちは分かる。私が七瀬さんでもきっと、片付ける気力なんて起きっこない。
鉛筆を持って、日記の空欄に書こうとして目が止まった。そのページの日記に自分の名前を見つけてしまったからだ。ついつい、気になるあまり手にとって目を通してしまった。
"マネージャーと一織が俺のこと必要だって、天にぃの前でそう言ってくれた。みんなも言ってくれた。俺は一人じゃない。もう、天にぃの後ろを追いかける泣き虫なんかじゃない。でも今日はちょっと疲れた。片付けはまた明日でいいよね"
ギュッと、文面から伝わる真っ直ぐな気持ちが温かくて、胸が痛い。
心のままに、後ろめたさを覚える前に、私は日記のページを遡った。後できっと罪悪感に駆られるだろう。でも、手が止まらない。私の知らない七瀬さんを知りたくて。本音といえるものを探りたくて。
"一織は相変わらずうるさい。チョコ食べすぎると肌が荒れるからって取られちゃった。俺の親でもないくせにでしゃばりやがって。あれが歳上に対する態度か!"
"一織とマネージャー、コソコソ二人で何してるんだろ。怪しいな。一織ってマネージャーと仲良いのかな。二人だけ楽しそうでズルいよね。でも、俺も混ぜてくれたらいいのに、一織のやつ、すぐに俺を締め出すもん。絶対に怪しい。一織ってマネージャーのこと好きなの?"
"一織がウザい!!なんであんな可愛くないの!?三月はすっごく優しいのに!でも、優しい一織はなんか嫌だな"
"一織って絶対に俺のこと嫌いかも。俺って頼りないし、だらしないし、いつも一織に迷惑かけてばっかり。小言も多いし。………俺、一織っていつもウザいけど、いっぱい助けてくれるし、たまに可愛いし、そんなに嫌いじゃないんだ。いつもありがとうって思ってる、一織のこと。でも、直接お礼言ったらまたナメられるから言わない方がいいよね!"
「………本当に、可愛い人だな」
胸の奥から感じる愛くるしさに、私は思わず左胸を抑えてニヤついてしまう。ああ、疑いようも無い。これが七瀬陸の日記だった。普段どれだけ純粋で単細胞で表裏が無いかが、この一冊に凝縮されている。本音とか嘘とか、この人にはそんな駆け引きはできっこないのだ。なんというか、文庫にして欲しい。買って金庫に入れて守りたい。なんなら尊すぎて地中に金庫ごと埋めて未来に伝えたさすらある。
その時
「う……うん」
背後で七瀬さんが呻いた。
しまった、起こしたか。そう思って恐る恐る振り返るが……どうやら、浅い眠りで寝返りをうっただけのようだった。まるで子供の様に穢れのない、安らかな寝顔が見え、私もほっとして微笑む。しかし。
すぐにその寝顔は、悲しい表情に変わっていった。
「あ、天……にぃ………嫌だ………」
「……?」
「行か……ないで………よ……!」
「………七瀬さん」
その苦しそうな様子が見ていられなかった。そんな顔、見るだけで私の心もなぜか、針金で締め付けられる様に苦しくなるから。
私は慌てて、布団を無惨に引っかいている彼の空っぽの右手を、片手で握ってしまった。過去に失ってしまった家族の温もり。それを象徴するかの様に冷たい指先。か細く九条さんの名を呼び続ける七瀬さんの時間はもしかして、九条さんが家族を捨てた時から止まってしまっているのだろうか。一息ついてから、私はその弱々しい白い手を両手で包み込んで、そっと語りかけた。
「大丈夫だよ、陸。もうどこへも行かないよ」
「………天……にぃ」
「これからは兄さんが側にいる。ずっと、ずっと」
「………………」
浅い睡眠で見る夢は、五感で得た情報を夢の中に還元する時がある。
だから私は九条さんを演じて七瀬さんの悪夢を払おうとした。結果から言えば大成功だった。七瀬さんの寝顔はもとのあどけないものに戻り、寝息は穏やかになり、天使の様にすら思えるものになった。
だけど嫌な気分だ。七瀬さんを助けた私は、七瀬さんには必要とされていない様だった。でも、七瀬さんが九条さんのことを、捨てられてもなお想ってやまないこと…………きっと、当の九条さんより私の方が知っている。病というハンデを抱えながら、それでも独りで過去を抱え込んで戦ってきた七瀬さん。その姿を一番近くで見てきたのは、今は、他ならない私だ。
スッと、ベッドから離れて、私はテーブルの上の鉛筆を持つ。そして日記に三行ほどのメッセージを考えて書いておいた。それからまた、七瀬さんのベッドの横に行く。今度は屈んで、七瀬さんの顔を見て……何を思ったか私はごちゃごちゃに散らかった感情のままで、密やかに語りかけたくなった。
「……七瀬さん。辛かったでしょう、可哀想に」
乱れた前髪をサラッと人差し指で直してあげた。傷やシミひとつない綺麗な額が露わになる。そこに、病弱で外に出ることが少なかった、彼の過去が垣間見えている。
「あなたの家族を捨てて、夢にまで現れて、辛い想いばかりさせて………そんな人のことばかりもう、見ないで」
頭を撫でると、まるで猫の様に頭を擦り寄せてくる。私は素直に彼の甘えに応じながら、言葉を紡ぐ。一言一言を大切に、細やかな絹の旗を折る様に。どこかが破れて、寒風が吹き込んで凍えてる、そんな心の穴を柔らかく塞ぎたくて。
「七瀬さん。これからはずっと、私があなたを見ていますから。あなたの隣で、あなたを世界一のアイドルにしますから。あなたの過去の様に、あなたの兄さんの様に途中で終わらせたりしない…………終わってしまうなんて、私が許しません…………あなたの歌も、あなた自身も、私は愛していますから」
それは愛らしい弟を見るような親愛なのか。
男らしい結びつきが強すぎた友愛なのか。
……はたまた、もっと違う感情なのか。
確かめようもないまま、私は七瀬さんの額にそっと口づけを施した。
これで言えることは全て言い切った。なのに……
そのはずなのに私の心臓は高鳴り、体温は上がっていく。
改めて彼の顔を見ると、ドキリとして……愛らしくて、優しく抱きしめて、側にずっといてあげたくなる……いや、側にいたくなる。不意にハッとして、私は自分の唇に触れた。私の口づけは一体、何のためのもので、どういう意味を持っていたのか。何かとんでもないことをした様な気がして、狼狽した。
「もう………私には、分からない」
これ以上ここにとどまってはいけない気がして、私は七瀬さんの部屋を後にする決意をした。ドアを閉める力加減ができずに、また、廊下に鈍い打撃音が響いてしまった。
そういえば、おやすみを言い忘れた……。そんなことを一瞬考えたが、もう、戻ろうとは思えなかった。