ミカの過去を聞いたことを、俺はじわじわと後悔し始めていた。
いつものような韜晦した言い回しが一切出てこない。彼女の口にする一言一句がまるで血を吐くようだった。心が締めつけられるように息苦しい。
ミカはどれだけの悲しみと苦しみを胸の奥に埋めさせたまま、今日まで生きてきたというのだろう。誰にも癒せない傷を抱えたまま 、誰にもそれを明かさずに。
ミカの話を聞くのに何の覚悟もなかったわけじゃない。彼女が千代さんと過去に何かあって、大変な思いをしたんだということは容易に予想がついたし、もしそうだとしたら受け止めてやりたいとも思った。元気づけてやれたらいいと思った。
だがミカの語った内容は想像以上に凄絶で、俺は自分の甚だしい思い上がりを自覚させられた。親子関係で計り知れないトラウマを抱えた彼女に、俺の言葉や存在は意味を持ちうるのだろうか。俺の淹れるコーヒーなんか何の慰めになるのだろうか。
「……誰も助けてくれなかった。その場にいた大人達は、誰も。門下生も使用人もみんなあの女の操り人形にすぎなかったし、政治家も大企業の重役も戦車道協会のお偉いさんも、戦車道の大家が自分の子どもを見捨てたっていうのにそれを咎めもしない。怖かった。当時の私には、戦車道という競技に関わるすべての大人達が、まるで人間の姿をした怪物みたいに見えたよ」
その大人達を人間の姿をした怪物と呼ぶなら、俺もきっとそうだ。
ミカにこんな悲しい顔をさせてしまった罪はあまりにも重い。この世からピロシキした程度では到底足りない。
「それからは……元々居場所のなかった実家だけど、そこにも居させるわけにはいかないってことで分家に預けられることになったんだ。でも、私は島田の臭いが染み付いた場所にはもう一秒だっていたくなかった。島田家に媚びへつらう連中は私を捨てたあの女を思い出させるし、愛里寿とも距離を置かなきゃって思ったからね。愛里寿は可愛い妹だけど、恨まずにいられる自信はなかったから……お母さんの愛情を独り占めして私の居場所を奪った張本人だって考えてしまうことも、一度や二度じゃなかったしね」
自嘲するようにミカは言う。5歳年下の妹へまでも猜疑心を向けること、12歳の子どもにそれをさせる環境。何もかも歪んでいる。胃がねじれるような不快感を惹起され、俺の顔面の筋肉も強張ってしまう。
何より不快なのは、そんな境遇に身を置き傷ついてきたミカに何かしてやれると思っていた、傲慢な自分自身だった。
天翔エミ、お前って奴は一体全体何様のつもりだ? たかが一山いくらの転生者が、年上ぶって、物分りのいい頼れる大人にでもなったつもりか? ミカの抱えていた孤独を今日になって初めて知ったくせに、力になってやりたいなんて、何を勘違いしていやがる。俺に何がしてやれるっていうんだ。この馬鹿野郎が。
「それで、小学校を卒業してすぐこの学園艦に乗艦したよ。西住流とも島田流とも特に関わりのない学校だったからね。そういう学校ならどこでもよかったんだけど、分家の人達はもちろん、あの女だって私の進路について一言も言って来やしかったなぁ。……それからね、ここの中学にも戦車道はあったんだけど、これが笑っちゃうくらいレベルが低くてさ。それこそ戦車をまっすぐ走らせることすらできてないくらい。……でもみんな、本当に楽しそうに戦車に乗ってたんだよ。島田の家じゃ見れなかった光景だった。そんな戦車道があるなんて初めて知ったし、本当に島田流から離れて自由になれたんだって、そう思うと嬉しかった。でも、私の帰る家は本当にもうないんだって、そんな風にも思えた」
島田家に生まれ、12歳で事実上の追放を言い渡されるまで、ミカの世界は徹底的に閉じていただろう。子どもの世界なんてのは自身の行動範囲内がすべてで、家と学校が世界の全部だという感覚は珍しいものじゃない。
辿り着いた先の継続の学園艦で、戦車道が楽しいものだという認識を得たのはミカにとって幸いだったと信じたい。負わされた義務ではなく、みんなが自由に行使できる権利としての戦車道にミカは出会えた。戦車道を楽しむ仲間ができた。ミカの世界が大きく広がった。そうでなければあまりに救いがない。
「……戦車道には、人生に大事なすべてのことが詰まってる。いつか、エミに言ったことがあったよね。戦車道は私から家族との繋がりを奪ったけれど、戦車道を続けたからこそアキやミッコやエミに出会えた。広い世界に出て、私の知らない戦車道がいくつもあるのを知ることができた。戦車道は辛いことも悲しいことも嬉しいことも楽しいことも、全部を私に与えてくれた。戦車道がなかったら今の私はないって、そう言い切れる。……だから、時々わからなくなるんだ。私は戦車道を愛しているのか、憎んでいるのか。戦車道と人生を共にしようとしているのか、何もかもぶち壊してやりたいと願っているのか……?」
それはちょうど、ミカが千代さんや愛里寿に向ける感情と同じであるかのようにも見えた。敢えて無責任に論評するなら、自分を蔑ろにされた怨念と、家族への想いがない交ぜになって、ミカ自身もその気持ちに名前をつけられないでいるんだろう。
それは悲劇だと俺は思った。ミカは自分で作った檻に自分を閉じ込めてしまっている。鉄格子を開ける鍵はどこにも見つからないまま、ミカの心は囚われている。どうやってそこからミカを連れ出せばいいのか、誰にもわからない。
俺の心に湧き上がってきたのは怒りではなかった。怒る資格など俺にはない。
それでも、悔しかった。何もしてやれない自分が情けなくて、苦しくて。強いて怒りの矛先があるとすればそれは自分自身に向かう他ない。
どうあがいても過去は変えられない。だけどよりよい現在と未来を導き出す方法もわからない。何も変えられない。俺なんかにはミカを救えない。そんなこと、少し考えれば最初からわかりきってることだったはずなのに。
目じりからこぼれ落ちた雫が、テーブルに落ちて弾ける。これは何のための涙だ? ミカを哀れむだけの涙なんて今一番不要なものだ。俺は込み上げる嗚咽に全身を震わせながら、胸の内に伝えるべき言葉を探した。けれど、俺が何を言っても気休めの嘘にしかならないような気がした。
「ごめん」と言いかけて、俺は寸でのところでその三文字を飲み込んだ。謝罪なんて何の意味もない。それを口にするのは最低の裏切りだ。
赦しを請うようにミカに向かって差し伸ばした手を、ミカの手がそっと受け止めた。手と手が重なり合い、握り合わされる。
「――ありがとう、エミ。私の話を聞いてくれて。こんなに自分のことを喋ったのは初めて……」
涙で滲んだ視界の大半を、同じように目に涙を溜めたミカが占めた。
今度こそ限界だった。重ね合わせた手にすがりつくように顔を伏せ、俺は祈るように涙を流した。
わかってる。俺が何リットル涙を流そうと、どんなに言葉を並べてミカを慰めてやろうと、物事は解決しない。解決できるだけの力など俺にはない。
だけど、後悔にうずくまって自分を責め続けていても、前には進めない。
俺は俺にできることをやる。それが何かはまだわからないけれど、それでも、俺はミカの友達だから。
――月――日
今日は店を休みにした。
今は、考えをまとめる時間が欲しい。
――月――日
ミカの過去を聞いてから――いや、聞き出してから、俺はずっとミカのことを考えている。
取り返しのつかないことだったかもしれない。
けど、人生ってのは取り返しのつかないことや後戻りできないことだらけだ。それでも時間は進むし人生は続く。
悔やむよりも前に進まなければならないと、あの日決めた。
だが実際問題、島田家の親子関係を修復することなど俺には不可能だ。そもそも千代さんのほうにそんな気がない。修復以前にまともな親子だったかどうかさえ怪しい。
じゃあ俺にできることは何だ? いや、俺はどうしたいと思ってる? 俺はミカに何を伝えたいんだろう? それさえ言葉にできたら、あとは行動に移すだけなのに。
今日も答えを出せないまま、無為に時間だけが過ぎていった。
……そういえば、今週いっぱいで選択必修科目の希望を出さないと。
――月――日
珍しくみぽりんから電話が来た。それも授業が終わってすぐくらいの時間にだ。普通なら戦車道の練習を始めているだろうに。
……いや、大体想像はつく。最近隊長のまほパイセンと折り合いが悪くなっているし、何かしら理由をつけて休んだんだろう。隊長と副隊長の不仲なんて部隊の士気に関わる。
みぽりんから話を聞いてみれば大方の予想通りと言うべきか。
この土日で実家に戻ったみぽりんは、しほさんにかねてから聞こうと思っていたことを聞いたそうだ。
すなわち、「もしも、決勝戦のとき味方を助けに行ったのがエミさんでなく私だったら、お母さんはどうしてた?」と。
原作を知っている俺としては、それを聞くのはあまりにも危ない賭けだと思った。
あのしほさんのことだ、副隊長のみぽりんが現場を放棄した挙句十連覇を逃したとなれば、西住流師範の立場から叱責せざるを得まい。親としての内心がどうであれ、まずは私情を押し殺し公の立場を優先させる、しほさんはそういう人だ。
そして、しほさんの答えは俺の予想した通りのものだったそうだ。
想像してみる。
そのときのみぽりんの内心は、期待を裏切られた失望か、期待を裏切った相手への軽蔑か、無駄な期待をしたことへの自嘲か、それともすべてなるようにしかならないと悟った諦念か。
いずれであったにせよ、自分の身に起こったことのように胸が痛くなる。だが、立場ある大人がそのように振舞ってしまうことも理解はできてしまう。
俺が飛び込もうがみぽりんが飛び込もうが、それは黒森峰戦車道チームという組織を動かす歯車であることを辞めたということに他ならない。人命尊重も理のある言い分だが、壊れた歯車の詭弁と言ってしまうこともできる。結果として黒森峰は負けたのだから言い訳の余地はない。壊れた歯車ならすぐに交換するのが道理だ。
畢竟、しほさんも自分を西住流を動かす歯車と規定し、大きな仕組みの中に嵌め込んでしまっているのだろう。それはきっとまほパイセンも、エリカも、誰も彼も同じだ。誰もが何かを動かすためのシステムに嵌め込まれている。自覚があるとないとに関わらず。そして、磨り減って動かなくなるまで回り続けるのだ。
だが、みぽりんはそんな理屈なんて求めていなかった。ただ信じさせて欲しかっただけだ。西住流とかそんなものは関係なしに、自分が正しいと信じた行いを肯定し助けてくれると。それが正しい家族の形だと。
そして、自分と同じ志を持った友達に対しても同様に救いの手を差し伸べてくれると、みぽりんは娘として期待していた。
その期待が裏切られ、みぽりんとしほさんの対立はかなり深刻なものになりつつあるようだ。
みぽりんが一旦ヘソを曲げると相当に頑固だ。あるいは西住家の女性というのはみんなそうなんだろうか? 原作知識で語らせてもらえば、もうビックリするくらい不器用な親子だ。拗れると長いのは嫌ってほどよくわかってる。
まったく、だから「家族でよく話し合え」って言ったんだ。
母親や姉が相手だからって、勝手に期待して勝手に失望してるんじゃないよ。そういうところがみぽりんの妹らしい甘えん坊な部分なんだ。可愛いから許すけど。
しほさんも、難しく考えることなんか何もない。単にみぽりんが甘えて構って欲しがってるだけくらいに捉えられないのか。ホントにもう。
……さて。これでまたひとつ、放っておけない案件が増えてしまった。考えてみるとこの継続高校でも遠く離れた古巣の黒森峰でも、友達の家庭の問題に首を突っ込もうとしている。どういう巡り合わせがあればこんな状況が生まれるのやら。
いい加減
――月――日
特に何事もなく店を閉めた後、部屋にミカがやってきた。相変わらず窓からのエントリーだ。
何をしに来たかなんて今更問うまでもない。
俺とミカが一緒に4人分の夕飯を作っていると、アキとミッコも遅れてやってきた。まったく予想通りだ。たまにはデザートのひとつも持参してきて欲しいもんだが、それほど期待はしてない。俺の部屋に来ればタダ飯にありつけると考えていることは先刻承知だ。
というわけで、何の打ち合わせもなしに俺達は集まって、今夜のささやかなディナーを楽しんだ。今日はザリガニ料理に挑戦してみた。塩茹でしたりビスクを作ったり、丸ごと揚げてみたり。
ザリガニ料理に舌鼓を打つアキ、「可食部分少なくない?」と文句を言うミッコ、黙々と誰よりもたくさん食べるミカ。彼女達を見ながらこの世界に生まれたことを感謝する俺。そして食後には濃いめのコーヒーを一杯。
俺達4人が集まったときはいつもこうだ。色気より食い気の継続高校チームは今日も平常運転。ミカも、この間のことなんかまるで表に出さない。こうしていると、あの日のことが悪い夢だったみたいに思える。
ここまでならまあいつものことだったんだが、今日に限って普段と違うことがひとつだけあった。
それはミカもアキもミッコもお泊り用の荷物を持参していたことだった。
つまり今夜は俺の部屋でお泊り会である……いや、ちょっと待って? 俺そんなん全然聞いてないんだけど。これはまたピロシキ案件ですね……たまげたなぁ……。
やむをえない、ここはさっさと寝てしまおう。でなければ死ぬ。俺が。なんか爆発して死ぬ。
それでは諸君おやすピロシキ。
――月――日
昨日の夜、何があったかはまったく覚えていない。そういうことにしておこう。
俺の
だが、覚悟は決まった。
どこかの誰かが言っていた。俺にしかできないこと、それが俺のやるべきことだと。
なら俺も俺にしかできないことをやる。
それはたとえば、千代さんに電話をかけるとか。
あの日、千代さんがカウンターに置いていった千円札の下に、携帯の番号が書かれたメモが残されていたことに気づいたのは、ミカが店を出た後のことだった。
決心がついたら連絡してこい、ということだろう。俺にとっては渡りに船の話だ。
俺は元より千代さんちの子どもになるつもりはなかった。そりゃあ島田家の養子になれば奨学金の返済の心配はしなくていいし、バイトも一切必要なくなるだろう。最高の環境で戦車道ができるってのも嘘じゃないと思う。愛里寿と義姉妹になるのも完全なピロシキ案件ながら、興味を惹かれないと言えば嘘になる。
だけど、それは今の俺には必要のないものばかりだ。俺が欲しいのはカネでも可愛い妹でもなく、まして娘におねだりされたら潰れかけのテーマパークのスポンサーにもなってあげるような優しい母親でもない。
俺の大事な友達に、親子の絆とか、家族の愛情とか、そんなありふれた当たり前のものを信じさせてやりたい。
何の憂いも迷いもなく、戦車道が好きだと言えるようになって欲しい。
ただそれだけだ。
俺は千代さんに電話して、ふたつのことを伝えた。
ひとつは、今年から継続高校で戦車道をやることに決めたから、今回の誘いはお断りさせていただくということ。
そしてもうひとつは、今年の全国大会で継続高校の戦いぶりを見届けて欲しいということ。俺達がどこまで行けるか見届けた上でまだ俺が欲しいと思ってくれるのなら、もう一度誘って欲しいと頼んで、通話を終えた。
とりあえず言っておかなければならないことは言った。
千代さんが俺の……継続高校の戦いを見ていてくれるなら、きっとミカのことも見ていると信じる。
今更ミカを娘として見ることはないかもしれないが、それでも一人の選手として、俺の知る中でも特に優れた戦車道家としてミカを見つめ直してくれるなら。そんな願いを込めた、短い通話だった。
……それじゃあ千代さん、ご縁があったらまたお会いしましょう。
――月――日
私、戦車道やります。
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第63回戦車道全国高校生大会、二回戦――黒森峰女学園vs継続高校。
空は厚い雲に覆われ、空気はどんよりと湿っていて寒々しい。会場の空を群れ成して飛ぶ鳥達も心なしか居心地が悪そうで、そんなどこか息苦しささえ感じるような天気の下でその試合は執り行われた。
その日の戦場に設定されたのは
森や寒冷地の戦いを得意とし、“名無しの死神”を擁する継続高校は戦車道ファンの間では今大会のダークホースとして注目を集めていたが、しかし相手は王者黒森峰。昨年の事故で十連覇を逃したとはいえ、西住姉妹が揃っている黒森峰はまさに無敵であり、試合開始の合図を待たずとも勝負の行方はすでに見えたと思われた。
いかに“死神”といえど、すぐさま黒い森の狩人達に狩り立てられその心臓に砲弾を撃ち込まれるだろう。誰もがそう思っていた。
実際、継続高校の保有戦車は黒森峰に比べればお粗末の一言であった。フラッグ車のBT-42からして戦時急造品のような代物であり、他の戦車もⅣ号戦車やⅢ突、出所の怪しいT-34やKV-1――継続高校側はプラウダ高校との鹵獲ルール戦で入手したと言い張っているが、プラウダ高校側は盗まれたものであるとして抗議を繰り返している――の混成部隊である。
隊員の練度もバラつきが大きく、いかにフラッグ車に乗るミカ・アキ・ミッコの3人の技量がずば抜けているとしても、さすがに黒森峰に対して明確な有利を主張できるほどのものではない。
事実、試合開始から二十分も経たないうちに黒森峰のお手本のような電撃戦により継続高校側の車輌の大半が撃破され、もはや戦いの趨勢は決したと思われた。
だが、黒森峰戦車隊は乱戦の中で
黒森峰に戦術上の落ち度はなかった。緒戦の余勢を駆って一気にフラッグ車を仕留めることに失敗したことも責められるほどのものではない。今逃げられたとしてもゆっくりと時間をかけて追い詰めていけばいいだけの話だった。
――相手が“名無しの死神”でなければ。そして、継続高校に天翔エミがいなければ、その戦術は最大の価値を有しえたであろう。
何か異常なことが起きている。西住まほがその事実に肌を粟立たせていたとき、BT-42を見失ってからすでに一時間が経過していた。
決して油断があったわけではない。継続高校を、“名無しの死神”を侮ったつもりは毛頭ない。緒戦からの一時間の間で残敵掃討は完了し、すでに継続高校の車輌はフラッグ車一輌を残すのみだ。
だが、十分ほど前から、行動不能となり脱落する車輌が出始めた。
森のような遮蔽物が多い環境はミカの最も得意とする戦場である。各個分散しフラッグ車を捜索している隙を狙ってやったのかとまほは考えていたが、行動不能となった車輌からの報告を聞いてその考えを改めなければならなかった。
曰く、
『
『車内に煙玉を何個も放り込まれて色とりどりの煙で視界が奪われた』
『車長が車外に引きずり出されたかと思ったら、サルミアッキを口いっぱいに詰め込まれた無残な姿で戻ってきた』
などなど、何者かによる乗員への直接攻撃によって車内がパニックに陥った隙を突かれ、次々と撃破されているというのだ。さらに、木を切り倒して道に転がしたり橋を爆破したりされて戦車の通行を妨げられているとの報告も届いている。
『何者か』とは誰のことか。まほの脳裏にまず浮かんだのは、天翔エミの顔であった。
継続高校で戦車道を再開していることを、まほは今日初めて知った。みほは普段からエミと連絡を取り合っているが、教えてくれなかったのだ。黒森峰において西住姉妹の不仲、というよりみほの強情っ張りは部隊戦術への悪影響を与えうる。
(工兵による単独偵察……敵戦車の妨害……乗員への攻撃……確かに戦車道のルールで禁止されているわけではない。いや、実行できるわけがないから禁止するまでもなかっただけだ。だがエミのデタラメな身体能力を考えればあるいは……)
みほ・エリカ・エミが中等部三年生の頃、聖グロリアーナとの練習試合でみほ達がこの策を用いたことをまほが知らなかったことも、継続高校にとって大きなアドバンテージとなった。いや、それを覚えているエリカとて、森を縦横無尽に駆け回るエミを捉える方法を思いつかなかった。
おそらく乗っていた戦車が撃破された直後からエミは戦車を降り、以降は森に潜んで罠を仕掛けつつ、我が方の戦車を襲い始めたのだろう。BT-42を見つけられないはずだ。戦車よりはるかに身軽なエミが逐一こちらの動向をミカに伝え、ミカはその情報を基にこちらの死角へ回り込んでいるのだ。
エミはミカのフラッグ車の目となり、時にはフラッグ車を囮にしつつ己の任務を着々と遂行している。黒森峰戦車隊は“死神”を狩り立てているつもりが、黒い森に潜むもう一匹の魔物の跳梁を許してしまったのだ。
一輌、また一輌と、味方の戦車が“死神”に誘われ死の世界へ連れていかれていく。その合間には“死神”の尖兵たる小さな“悪魔”が狩人達を嘲笑うかのように蠢動し、こちらの気勢を削いでくる。
そして、数の上で勝るはずの黒森峰の決定的な劣勢を知らしめる通信がまほの乗るティーガーⅠに飛び込んできた。
『こちら副隊長車、敵フラッグ車の攻撃を受け行動不能! ……隊長、緊急事態です! 副隊長が敵に拉致されました!』
「――!!」
無線を介して響き渡った声を聞いて、まほは驚愕に目を見開いた。何重にも折り重なった衝撃が、まほの全身を貫いた。
まほが最も信頼を寄せる副隊長であるみほが指揮するパンターが撃破されたこと。“死神”と“悪魔”の言い知れぬ魔力のような強さ。黒森峰戦車道チームが二回戦で残りわずか三輌にまで追い詰められている。そして何よりも、最愛の妹が敵の手に落ちたということ。考えうる限りの悪条件が列を成し、まほを追い詰める。
だが、まほは西住流の体現者たる黒森峰の隊長である。将器とは順境ではなく逆境にこそ試されるものであり、肩書きに恥じぬ大器をまほは備えていた。
わずかな時を置いて動揺を呑み込み、努めて冷静に味方の二輌との合流を急がせつつ、「みほを捕らえる」というエミの行動の意図をまほは正確に理解していた。
エミが敢えてみほをさらうなど、こちらの動揺を誘い冷静さを失わせるための挑発行為であるのは明白。人質作戦など彼女らしくもないが、黒森峰と継続の戦力差を考えれば形振り構って勝てるわけもない。
しかし今行われているのが戦車道の試合である以上、まほは揺るがない。ミカやエミはみほを使ってまほをいいように操ろうとでも思ったのかもしれないが、ゲリラやテロリストと交渉するような愚を犯す西住流ではない。
目的のためなら非情に徹する冷徹さがみほの反発を招いたことは承知しているが、それでもなお、まほは黒森峰を動かす歯車であることを選ぶことができた。
あるいは、殊更に己を歯車と規定することで、みほの分の重荷まで背負ってやろうとでも考えているのか。束の間、頭の片隅に湧き出た愚かな考えを無視し、まほは生き残りの車両から得られた情報を基に地図上に進軍ルートを構築していく。
そんなとき、無線の発するノイズの底から、聞き覚えのあるソプラノが立ち上ってきた。
『――黒森峰の西住まほ隊長。聞こえますか』
時間は少し遡る。
全身を緑色のコケのようなものに覆われ、口は頭足類の漏斗管を思わせる筒状の形をしている。ぎょろりと大きな目を剥いて獲物の顔を窺うその様を見てみほが叫び声を上げずに済んだのは、それが実家で行ってきた訓練の賜物なのも確かだが、叫ぶ間もなくみほが連れ去られたからというのが最大の理由であろう。
車体後部の点検ハッチの上に降り立った何かは素早くキューポラに駆け寄ると、みほの腋の下に手を突っ込んでその身体をキューポラから勢いよく引っこ抜き、勢いのまま腋の下に首を差し入れてファイヤーマンズキャリーの要領でみほを肩の上に担ぎ上げた。
異形の襲撃者はパンターの車上から飛び降りざま、突然の事態に騒然とする車内に向け、開いたままのハッチから火のついた煙玉を数個投げ込んだ。
数秒と経たず車内に赤や白や黄色の煙が充満し、視界を奪われた乗員達は咳き込みながら操縦室上面ハッチやクラッペなど、開けられる扉を片っ端から開け放って煙を逃がそうと大騒ぎしていた。
にわかに起こった混乱に乗じて、襲撃者はみほを担いだまま森の中へ走り去る。このときになって初めて、みほは精神的動揺から立ち直り、自分を連れ去った者の正体に気づく余裕を得ていた。
怪物の全身を覆う植物のように見えたものは草木や緑色のボロ布をいくつも縫い付けたギリースーツで、タコの化け物のような面貌は濃緑色のガスマスクであった。天候も相俟って薄暗く視界の悪い森の中で、戦車の上にこんな風体の人間が乗り込んできたら得体の知れぬ化け物と誤認しても無理はないだろう。
そして、そのマスクの下の顔も、みほには見なくともわかった。高校生の女子を一人担ぎ上げたまま、足場も視界も悪い森を走り抜けられる人間の心当たりなどそう多くない。
「エミさん……? エミさんなの!?」
「喋るな。舌を噛む」
みほが満身の声を上げて呼びかけ、エミはガスマスク越しに短く応じる。
親友とこんな形で再会することになろうとは想定外もいいところだったし、戸惑う気持ちも大いにあったが、それでもみほは聞き慣れたその声に深い安堵を覚えた。たとえ敵兵に拉致されたという状況であっても、それが天翔エミであるならば、と。
エミは走りながら、腰に巻いたベルトポーチから無線機を取り出し、短く発した。
「こちら
『こちら
「了解、見つかるなよ」
無線越しに聞こえた声にみほは聞き覚えがあった。確か、継続高校のチームの隊長。去年の練習試合で黒森峰の戦車道チーム全員を指して「天翔エミを見捨ててかばいもしなかった連中」と、冷然と吐き捨てた女。
エミを守れなかった罪を改めて突きつけられ、言いようのない失望と罪悪感が押し寄せてきたのを今でもハッキリと覚えている。
エミは自分の代わりに味方を助けに行った結果、黒森峰を追われた。エミは自分のスケープゴートになったようなものだと、みほの頭の片隅には常に自分を責める考えがあった。エミを守ろうとしなかった者達は皆、のうのうと戦車道を続けているというのに。
今、母や姉との仲が冷え切っているのも、エミのことを後悔し続けているからこそだった。エミ本人は自分が望んでやったことだと言って、決してみほを責めないが、あの時ああしていれば、あれをやれていればと、詮無きことと知りつつも『もしも』を考えずにはいられない。
「もしもお母さんが事態の収拾に協力してくれていれば、エミさんの名誉は守られてたんじゃないのか。もしあのときのエミさんが私だったら、お母さんは私を守ってくれたのか」
胸に燻り続けたその問い――あるいは希望は、他ならぬ母によって打ち砕かれた。
どんなときでも万難を排して我が子を守ると答えられない親に、今更何を期待しろというのか。そんな人が私の一番大事な友達を救ってくれたかもしれないなんて、どうして信じられるのか。こんなこと、確かめなければよかった。
まほにしたところで、長姉として、西住流の後継者として育てられた身。歯車の子は所詮歯車にしかなれまい。磨り減って動かなくなるまで母の言いなりに回り続けるに違いないと、みほは内心で軽蔑した。
やがてみほは罪の意識から、してもし尽くせない後悔の檻に自分を閉じ込めてしまった。その檻の鍵はどこにあってどんな形をしているのか、みほにはわからなくなっていた。
だが今、他ならぬ天翔エミその人が、みほをさらいに来た。
敵の捕虜となって連れ去られているという現実の状況は理解している。しかし、それでもみほは、エミこそが“鍵”であると思えた。自分で作り出した檻の中に閉じこもり何もせずにうずくまり続けるみほを、外に連れ出す“鍵”なのだと。
エミの肩に担がれながらではあったけれど、みほは何故だか胸のつかえが下りたような気持ちになり、無心でガスマスクに覆われたエミの横顔を見つめていた。
キャンプ場の案内看板に従って比較的整った道を駆けていくと、受付棟として使われているらしいトレーラーハウスの陰にBT-42が停車されているのが遠目からでも確認できた。抵抗らしい抵抗もせず担がれるままになっていたみほだったが、キャンプ場の敷地に入った辺りで降ろされ、そこからはエミに手を引かれて一緒に受付棟へ入っていった。
入り口からすぐ見える受付カウンターの上にはかなり型式の古そうな無線機が置かれており、ミッコがセッティングをしている最中だった。
カウンター横、丸テーブルが置かれた待ち合い用のスペースでカンテレを奏でていたミカは、エミに手を引かれて連れて来られたみほを認めると、涼しげな微笑を浮かべた。
「やあ、西住みほ」
みほは正直、ミカの佇まいに面食らっていた。練習試合のときに見せた憎しみの権化のような昏く苛烈な表情と、“名無しの死神”という二つ名。それらと目の前のミカの落ち着いた姿がまったく一致しなかったからだ。
目をぱちくりと瞬かせるみほを疲れていると思ったのか、アキが「じゃあ西住さん、座って座って」と人懐っこい表情で椅子を勧め、みほも促されるまま木製の椅子に腰掛ける。一方、エミはカウンターで作業するミッコに声をかけていた。
「ミッコ、持ち込んだ無線機は使える?」
「ちょい待ち……よしオッケー、大丈夫。いつでも行けるよ」
「ありがと。みほ、黒森峰で使ってる無線周波数は変わってないよね?」
「え? うん、そのままだけど」
「だったら設定は……これでよし。あ、それと携帯持ってる? ちょっと貸してもらえないかな」
「いいよ。何に使うの?」
「まあ見てなって」
スマートフォンを渡してから、みほは「しまった」と思った。いくら相手がエミだとはいえ、一応は敵に捕らえられた虜囚の身である。こうも易々と情報を渡してしまっては完全な利敵行為ではないか。
試合中だというのに
「エミならきっと悪いようにはしないさ。君の知っている天翔エミはそういう人間なんだろう?」
何の気負いもなく自然に口にしたエミへの信頼の言葉に、アキも「そうだね。エミってそういう子だもん」と付け加えた。
みほはなんとなく、ミカに対するあらゆる偏見が氷解したような気がした。彼女もまたエミに支えられて、あるいはエミと支え合ったことでここにいる人間なのだと理解できたから。同時に、彼女達がエミの転校以来の数ヶ月を共に過ごしていることへのわずかな嫉妬が首をもたげた。
そんなみほとミカをよそに、エミはみほのスマートフォンの電話帳から目当ての名前を見つけていた。
「お母さん」の名で登録された番号を呼び出し、スピーカーをONにして通話ボタンをタップする。数回のコール音の後、底堅い声音が呼び出しに応じた。
『――みほ? 何の用ですか。今は試合中のはずです』
「もしもし、西住師範ですか? お久しぶりです、天翔エミです」
『……? 何故貴女がみほの電話で……いえ、一体何用です? 貴女と話すべきことなどもうないと思っていましたが』
「いきなりで不躾なのは承知してますけど、このまま電話を切らないでいてくれませんか? お願いします、すぐに済みますから」
しほとの通話に並行して、エミはヘッドセットをつけて無線機のスイッチを押した。
ここからが、天翔エミの臨む最大の挑戦だった。
一か八か、伸るか反るか。
すべてを賭けて、エミは通信マイクを通して黒森峰戦車隊に――彼女らを指揮するまほのフラッグ車へと呼びかけた。
そしてそれは、電話口に引き留められているしほへの呼びかけでもあった。
「――黒森峰の西住まほ隊長。聞こえますか。こちらは継続高校戦車道チーム所属の天翔エミです」
緊張が五分、引け目が五分の複雑な気分を押し隠し、エミは可能な限り堂々とした口調で言う。何しろ嘘をつくことになら慣れたものだ。天翔エミという人間の何割かは嘘と誤魔化しで構成されている。
「今、我々は貴女の妹の西住みほを捕虜にしています。みほを返して欲しかったら、こちらの指定する場所でフラッグ車同士の一騎打ちといきませんか。この勝負でそちらが勝てば、みほの身柄はお返しします」
エミは敢えて副隊長と呼ばず、妹であることを強調する。みほは壊れた歯車ではなく、一人の女の子なのだと訴えるかのように。
ティーガーⅠの車中にて神妙な面持ちでこの無線を聞いているのだろう西住まほは、低い声音でこう返した。
『その要求には応じられない。人質を盾に我々から譲歩を引き出そうとしているのなら無駄なことだ』
「……まあ、そうでしょうね。でもまほさん、知ってますか? 高校戦車道総合規則、『大会期間中における捕虜等の取り扱いに関する規則』にはこうあります。大会期間中に他校の生徒を捕虜にした場合、捕虜の生命・身体・健康・名誉及び学業に影響の出ない範囲でその行動を制限し抑留することができる、と。……ところで、西住流には拷問に耐える訓練もあるらしいですね?」
『何が言いたい』
「この規則には拡大解釈の余地が大いにあるということです。健康や学業に影響がなければいいんでしょう? なら、相応の訓練を受けているみほに対してなら、他の生徒よりも
『そのような脅しに屈する黒森峰ではない。答えは
さすがは黒森峰の隊長と言うべきだろう。身内が捕まっているにも関わらず、こうも気丈に振舞えるのだ。
ならば、やはり力押しで行くしかないか。あまり取りたくない手段ではあったが、このまま終わったのでは電話の向こうのしほにも何も伝えられない。
「……わかりました。要するに、貴女は……貴女方はこう言いたいんでしょう。みほに人質の価値なんかないと」
一呼吸置いて、ちらと横目でみほを見る。みほはエミのしようとしていることを察しているようで、こちらを固唾を呑んで見守っていた。
「確かに貴女方のおっしゃりたいこともよくわかりますよ。全国大会の二回戦、相手は貧乏で弱小の継続高校。例年であれば問題にもならない相手に、貴女方はここまで追い詰められている。その上、副隊長が捕虜になったときたもんだ。師範のお歴々も西住流宗家の子が恥の上塗りもいいところだと、さぞ笑止な思いをされていることでしょうね。この上みほの無事を優先してわざわざ不利な条件で戦って、万が一にも負けたりすれば、王者黒森峰の栄光も地に堕ちる。OG会にもスポンサーにも示しがつかないし、もはやみほを見捨てて勝ちを拾いに行く以外に仕方がないと? 実にご立派なお考えです。みほにも聞かせてあげたいくらいですね。
……隊長だろうと副隊長だろうと、所詮は歯車だ。一人や二人切り捨てたところで、すぐに後釜を据えて同じことをやらせるだけだ。実に空虚じゃありませんか? それとも、敵の捕虜になるような弱い娘は、西住流には要らないってことですかね? あんた達はみほのことなんか何とも思ってないんだ。だったら、私達がみほをどう扱おうが構わないってことでいいんですよね!?」
つい長広舌に熱が入り、最後には怒鳴るような声を発していた。エミの丸みのある頬から滴った雫が床に小さな染みを作り、頭の奥がじんと痺れていた。
エミは祈るような気持ちでまほの返答を待った。頭の中で、あの日見たミカの悲しみに濡れた顔がちらと見え隠れして、たまらずに視線を床に落とした。
『――言いたいことはそれだけか?』
『――言いたいことはそれだけですか』
瞬間、無線機越しに届いたまほの声と、電話越しに聞こえたしほの声が重なり合った。
まほもしほも、すぅっ、と小さく息を吸うのがかすかに聞こえた。
『『みほに指一本触れてみろ小娘ッ!! その首を引っこ抜いてやるからなッ!!!』』
二人分の凄まじい大音声が、一言一句違わぬ
それを間近で受けたエミは目を瞬かせながら、自分が賭けに勝ったことを悟った。
『エミ、お前の挑発に乗ってやる。ミカ、聞こえているなら覚悟しておけ。私はどんな手段を使ってでもお前を倒して、みほを助け出す。必ずだ』
静かな、しかし明確な怒りを滲ませながらまほが言う。しほはというと、すでに通話は切れていた。だがあの剣幕だ。エミの希望的観測だが、仕事など放り出してすぐにでもこの会場に乗り込んでくるのではないかと思わされた。
そうだ、それなんだ。それでいいんだ。だってあんた達は、みほの家族なんだから。
苦笑交じりに、エミは万感の思いでみほを見た。みほも、エミに向けて花の咲くような笑顔を見せた。出たとこ勝負の博打だったとはいえ、望む結果は得られたと言ってよかった。
あとは、戦うだけだ。
「言質は取りましたよ、まほさん。では指定座標は……」
決戦場としてあらかじめ決めておいた場所を地図で確認してまほに伝え、無線を終える。
エミはみほに借りていたスマートフォンを返すと、ミカ達に向き直って言った。
「さあ、フラッグ車同士の一騎打ちだ。あと一輌倒せば私達の勝ち、わかりやすくなっただろ?」
あっけらかんと言うエミに、ミカもアキもミッコも笑って応じた。
「そうだね、あと一輌で私達の勝ちだもんね! よーし、やるぞー!」
「よっしゃー! 最後までかっ飛ばすぞー!」
「……どうやら風は私達のほうに吹き始めた。そうだね、エミ?」
「当然。みんな、この試合、勝とう!」
ミカ達は気炎を吐きながら受付棟を出て、BT-42へ乗り込んでいく。エミは外していたギリースーツとガスマスクを付け直し、森への単独行を再び行う構えだ。継続高校戦車道チームはそれぞれに覚悟の眼差しを輝かせながら、決戦に臨む。
準備を終えたエミは椅子にちょこんと座ったままのみほに声をかけた。
「ごめんみほ、もうちょっとだけ待ってて。終わったら久しぶりに、とっておきの豆でコーヒー淹れてあげるからさ」
「……うん。待ってるね、エミさん」
エミの言葉にみほは笑顔で応じた。今の二人にはそれで十分だった。
「エミ」
エミが受付棟の入口を出たところで、ミカの声がした。見ると、テラスの端っこにミカが座ってカンテレを弾いていた。どうやらエミの出てくるのを待っていたようだった。
カンテレを爪弾きながら、ミカはエミに問いかける。
「さっきの茶番劇に、何か意味はあったのかな」
「……わかってるくせに」
「君の口から言ってくれないとわからないね」
意地悪く言うミカに、エミは苦笑する。
いや、言うべきなのかもしれない。思っているだけの想いなど伝わらないし、言葉を尽くさねば誤解だって生まれると、西住家の親子を見てよくよく思い知ったではないか。
「ミカに見せたかった。戦車道の名門で、色んなしがらみがあって、少しギクシャクしてるけど、それでもお互いを想っている家族をさ」
「だから彼女の家族を利用したわけかい?」
「……私には、ミカと千代さんをまともな親子にすることなんてできない。ミカの悲しい思い出をなかったことにはしてやれない」
でも、それでも見せたかった。知って欲しかった。
家族とか、親子とか……そういうのも捨てたもんじゃないって。
その形は決してひとつじゃない。たとえ歪でも、たくさんの形がある。ミカだって、いつか誰かとそんな幸せを築けるかもしれない。
ただ、希望を持ち続けて欲しかった。世の中に醜いものや汚いものが溢れているとしても、そこには確かに美しく輝くものも存在するのだと。
いつかミカが見つけたようなものが、この世界には数え切れないくらい転がってるんだと。
「それに、みほのことも放っておけないしさ。だから……これは私のエゴだよ」
ミカがまた、カンテレを爪弾く。曇天の空の下に優しげな音色が溶けていく。
そう、この目に見えるものだけじゃない。たとえ曇り空の夜でも、ここよりもずっと遠く、高く、はるか空の彼方には青空が広がっているように。恐怖や抑圧だけが世界のすべてじゃない。エミが言いたかったのは、そんな当たり前のこと。
ひょっとしたら、ミカやみほが見失いかけていたかもしれないこと。
「……ありがとう、エミ」
胸の奥から感じた試しのない歓喜が湧き上がり、ミカは笑みを浮かべて空を見上げた。
天を覆う分厚い雲は消えることはない。けれど雲の隙間から、一筋の陽光が差し込んでいるのが見えた。
目に沁みる真白い光が、いつまでも視界の底に焼きついていた。