突然ドアの鍵を開ける音がして静寂が破られた。
誰だろう?
合い鍵を持っているということは親だろうかそれとも八一の師匠だろうか。
八一の方を見るとあいちゃんの暴露話のせいで元々顔色が悪かったのにだがなぜかさらに顔面が蒼白になっている。
ドアを開けて入ってきたのは八一の親や師匠の年齢よりも10歳以上若いと思われる2人の女性だった。
その内の1人はなんと俺も知っていた。
というか将棋指しなら誰でも知っている、『浪速の白雪姫』こと空銀子である。
「どうもこんにちは。」
「え!?何で角井先生がこんなところにいるんですか?」
「まぁ、色々あって。」
このコミュ力皆無の俺がなぜ将棋界のアイドル的存在の空銀子と話せているのかというと理由がある。
俺は時々空銀子と2人きりで会う仲なのだ。
……まぁ会うって言っても研究会もどきでなんだけどね。
俺と銀子ちゃんの出会いはもう一年以上前になる。
1年前のある日、俺は自分の対局の記録係が銀子ちゃんである頻度が高いことに気付いた。
気になってその事を聞いてみたところ、俺の棋譜から色々と学びたいことが多くあったらしい。
棋士としてそう言ってもらえるのは素直に嬉しかった。
それから時々、お互いに暇な時に研究会をするようになった。
プロ棋士との研究会だと敵に情報を与えかねないことにもなるが、銀子ちゃん相手ならその心配はなかったし、お互いに必要の以上の会話はしなかったしとにかく俺にとって都合が良かったのだ。
「あの人が空銀子先生……。」
綾乃はいつも何故か空銀子という名前に過剰に反応する。
確かにいずれは超えなければならない強大な壁だが、綾乃の反応からはそれ以上の何かを感じるような気がする。
まぁ棋士にとって闘争心があることは決して悪いことじゃないしむしろ厳しい局面を乗り切るにはそういった闘争心は不可欠だからいいんだけど……。
「銀子ちゃんこそどうしたの?」
そう問われると突然、空銀子は対局の時と同じく……それ以上に厳しい表情で俺を睨みつけてきた。
なんか地雷踏み抜いちゃった!?
あまりの鋭さに軽く恐怖を覚える。
呼吸を整えて落ち着いてから銀子ちゃんを見ると、その視線の先は俺ではなくさらにその後ろに注がれていることに気が付いた。
「まだいたの小童。」
「おばさんこそなんで来たんですか?」
銀子ちゃんの視線の先にいる9歳の幼女は泣きだすことなどなく、太々しい顔で真っ向から迎え撃った。
2人の間で激しい火花が散っている。
「あなたは早く石川に帰りなさいよ。」
「いやですぅ。師匠とずーっと一緒に過ごすんですぅ。」
あいちゃんはそう言うと八一の腕に抱きついて挑発的な笑みを浮かべる。
あの空銀子相手にこの立ち振る舞い、末恐ろしい子……。
八一を取られて負のオーラ全開の銀子ちゃん。
一方の八一は顔面蒼白で震えている。
中々離れない2人を見て銀子ちゃんのイライラは最高潮に達しそうだ。
相矢倉のような泥沼の戦いが始まるとその場にいる誰もが思った。
しかし泥沼の戦争は始まらなかった。
もう1人の銀子ちゃんよりも大人な美人が2人の間に割って入ったのだ。
「ま、まぁ2人とも落ち着いて。お客さんの前だし……ね?」
「「……フンッ。」」
取り敢えずは収まったらしい。
そろりそろりと、八一の隣に行き耳打ちをする。俺はプロ棋士の先輩としてこれからの将棋界を背負って立つ後輩に忠告しておかなければならない。
「二股だけは絶対にするなよ。」
「何の話してるんですか!?」
ダメだこいつ……。
八一のあまりの鈍感さに頭を抱えているとあいちゃんと銀子ちゃんの喧嘩を止めたその美人は八一と俺に近づいてきた。
「助かりました桂香さん。」
「たまたま銀子ちゃんと一緒に近くを通りかかったから寄ったのよ。」
桂香さんと呼ばれたその女性はチラリとこちらを見る。
エメラルド色の綺麗な瞳に見つめられてまるで金縛りにあったように目が離せなくなった。
何か会話しなければと口を動かそうとするが上手く言葉を発せられない。
「始めまして、清滝鋼介の娘で八一くんの妹弟子の清滝桂香です。」
「あ、えっと、角井秀人です。」
しどろもどろになりながら挨拶をした俺を驚いたように見ると突然笑い出した。
「ウフフ、同い年のトップ棋士の名前くらい知ってますよ。」
桂香さんは俺と同い年らしい。
同い年でこの余裕の差は我ながら情けなくなる。
「角井さんの話は銀子ちゃんからよく聞いてるわ。口下手な私を気遣って将棋に専念さしてくれる優しい人だって。」
すいません、それは単にコミュ障で話しかけられないだけです。
……とは言えないないので適当に相槌を打ちながら誤魔化す。
「それにしても八一くんが小学生以外を家に上げるなんて珍しいね。」
「桂香さんまで……。」
「アハハッ。ゴメンね。八一くんにも同世代の棋士仲間ができて安心したのよ。」
「俺ってそんなに友達少なそうに見えてました……?」
八一と談笑する桂香さんはとても楽しそうでそして……とても綺麗だ。
「お兄様っ!!」
桂香さんに見惚れている俺の服の裾が強く引っ張られる。
見下ろしてみると綾乃が不機嫌そうに口を尖らせて見上げてきた。
怒っているのはわかるのだが服の裾を掴むために背伸びしているのを見るとどうしてもニヤけてしまう。
「帰りますよ。」
「え?もう帰るの。」
「帰るって言ったら帰るんですっ!」
綾乃に強引に引っ張られる。
何をそんなに怒ってるんだ?
「な、何かよく分からないけど今日はありがとう。帰らしてもらうね。」
「ありがとうございます。またいつでも来てください。」
「そうか!桂香さんと角井さんをくっつければ……。」
あいちゃんが何やらブツブツと言ってるけどよく聞き取れない。
綾乃に無理やり引っ張られて八一の家を出て行った。
マンションを降りる途中、俺たちを追うように上から桂香さんが走ってきた。
「あの、角井さん。対局もあるから難しいとは思うけど、時々は八一くんと話してあげてくれませんか?あの子、あんまり棋士仲間が多くないようにみえるから。」
優しい顔で歳下の兄弟子の心配をする桂香さんはまるで慈愛に満ちた女神のように見えた。
「機会があれば仲良くしたいと思ってます。」
「それでは失礼します。桂香おばさん。」
桂香さんの言い方おかしく聞こえたけど気のせいだよね……。
✳︎
マンションを出ると陽は傾いていてすっかりと夕方になっていた。
綾乃は俺の手をガッチリと握ってブンブンと振りながら上機嫌に歩いている。
さっきは怒ってたのに……女の子の機嫌は終盤戦の優位みたいに変わりやすいようだ。
「何でさっき怒ってたんだ?」
「はい?怒ってなんかないですよ。」
満面の笑顔の綾乃を見ているとさっきの事なんてどうでも良いように思えてくる。
「さっ!早く鶴橋に行きたいです。お肉~お肉~。」
あぁ成る程、焼肉が早く食べたかったのか。
「あいちゃんって子とは仲良くできそう?」
「はいっ。でもとっても強いから私も頑張らないと……。」
さっきまでの幸せそうな顔とは打って変わって険しい勝負師の顔に変わる。
綾乃は幼くても立派な将棋指しの1人なんだと改めて実感して嬉しくなった。
「そっか、じゃあもっと一杯将棋指さないとダメだね。」
手を繋いでいない方の手で綾乃の頭を優しく撫でてあげる。
綾乃は恥ずかしいのか伏し目がちにはにかんでいる。
「私もお兄様の家に住もうかな……。」
綾乃の最後の言葉は隣を通り過ぎたトラックの音でかき消された。
桂香さんファンよ、増えろ!!